第九章
実弥の予想通り、翌日の明豊町は雨だった。
この季節の雨に擬音を当てるならじめじめ、だろうか。少なくともしとしと、ではないだろう。気温の高さもあいまって気分を不快な方向に導いていくような、そんな雨だ。
嫌な湿気を多分に含んだ空気の中、春岡鈴は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
愛知県立明豊高校、一年五組。彼女が今いる教室の名前だ。
昼休み、教室の中はとにかく騒がしい。携帯をいじりながらおしゃべりに打ち興じる女子の集団、昨日観た野球の試合について熱弁をふるう男子。一週間もすれば期末テストという名の拷問がやってくるので、それに備えて机にむかっている熱心な奴もいる。
鈴は誰と話すでもなく、一人隅っこに座っていた。
こういう空間の中で一人黙っていると、誰が何を話しているのか、一切分からなくなることがよくある。言葉として発された声はただの音になり、それがいくつも重なり合って壮大なオーケストラになる。本物のオーケストラと違うところは、何の感銘も安らぎも与えてはくれない、ということだろうか。
鈴はただただ、雨を見ていた。
彼女のこの時間の過ごし方は、いつもこんな感じだ。自分の席に座ってぼんやりしたり廊下から外を眺めたり、屋上に上がって空を眺めたり。
普段全く人と会話しないという訳でもないが、こういう時間、鈴はいつも一人だった。
学校という場所は、鈴にとってそういう場所だ。
人が嫌いなわけではない。
暗いもやもやが頭の中を支配してきて、鈴は頭をふるふると振った。
そうして再び視線を窓の外に戻したとき、誰かに肩を叩かれた。
「ねえねえ、春岡さん?」
「ん?」
振り向くと、クラスメートの女子がそこにいた。鈴と同じくらいの背丈で、くりくりした目が特徴的な少女だ。高校に入学してまだ三ヶ月。明るい性格の娘だということくらいしか、クラスの人間と付き合いの薄い鈴には分からない。
鈴はちょっと額に汗した。
名前が出てこないのだ。
「どしたの?」
そんな鈴の様子に、少女が尋ねてくる。
「い、いや。なんでもないよ。それより何?」
「あー、あのね。五限の英語の課題って、やってある?」
「ん、うん。一応」
がさごそと鞄からプリントを引っ張り出しながら、彼女の名前を必死に思い出そうとする鈴だった。
大橋……だったろうか。違う気がする。でも、いまさら聞くのも気が引ける。
ぴらりとプリントを示すと、少女はニコニコした目で鈴を見た。
「あのー、ですね。なんというか、それ写させて!」
そんなにまで頼み込むようなことだろうか、と少々身を引きながらも、こくりと頷く。
「ありがとー!じゃあちょっと待って、すぐやっちゃうから」
彼女は鈴の隣の席を勝手に占領して自分の宿題に取り掛かった。
鈴は彼女のプリントの端にある名前の欄にちらりと目をやる。佐久間、とあった。
さくま、か。
一人で安心していると、かりかりと書写を続ける少女が言った。
「雨、強いね」
「ん、うん。そうだね」
そこまでの豪雨、というわけでもないので洪水などの心配はなさそうだが、気分は沈むし洗濯物は乾かない。喜ぶのはダムぐらいものだ。
「早く止まないかな。せっかく部活も楽しくなってきたのに」
「そ、そうなんだ」
普段人とあまりしゃべらないせいか、どこかギクシャクしてしまう。もっとも佐久間はそれを気にしているふうでもない。
「ああ、退屈だあ。……ねえ、そういえば春岡さんってなんか部活入ってたっけ?」
「う、ううん。あの、バイトしてるから」
その言葉はウソではない。一応ではあるがウソではない。働いてはいるのだ。
佐久間は鈴の言葉に興味を持ったらしく、顔をこちらに向けてきた。
しまった、と鈴は思うが、もう遅い。
「へえ、バイトしてるんだ?何のバイト?」
「え、ええと……」
答えに窮してしまう。そもそもあれが何という種類の業務かわからない。分かったとしても説明できるようなものではないのだが。
何と答えればいいのだろうか。
しばし考えたあげく、鈴の口から出たのはこんな答えだった。
「喫茶店の、ウェイトレス」
ウソをついてしまった。ちょっと心苦しいが、本当のことを言うわけにもいかない。言っても信じてはもらえないだろうから問題はないが、頭のほうを疑われてしまうだろう。
「へえー。こっから近い?」
「駅の……近くだよ。たしか」
「たしか?」
「うん、近く!すごく近い!」
ぶんぶんと大きく手を振って鈴はごまかした。あまり気にしていないのか、佐久間はにこりと笑った。
「すごいな。今度行ってもいい?」
この一言が鈴の心にぐさりと突き刺さる。
「う、うん、いいよ。コーヒーおいしいから」
「じゃあ、テスト終わったら連れてってね」
佐久間はまた視線を手元に戻した。鈴もため息を一つついて、再び窓の外に目をやる。
くだらないようなそうでもないような、微妙な悩みを抱えてしまった。鈴はぼんやりとした目で雨の向こう、グラウンドの端にある体育倉庫を眺めていた。
架空のバイト先。実弥と店長の顔が浮かぶ。
ふう、と鈴はまたため息をついた。本当に、どうしたものか。
「そういえば雨、好きなの?」
「え?」
意外な質問に、鈴は振り返る。
「いや、ずっと雨見てるから」
「ううん、別にそういうわけじゃ」
「そっか。……あたしは嫌いだなあ。さっきも言ったけどさ」
くすりと鈴は笑う。
「……あの、佐久間さんって何部なの?」
目をぱちくりさせる佐久間。笑って、手をひらひらと振った。
「マヤ、でいいよ。弓道部」
佐久間マヤ。鈴は心の中に彼女のフルネームをしっかりと刻んだ。
「そうなんだ?」
意外そうな目をした鈴を、佐久間マヤはじろりと睨んだ。
「今、似合わないって思った?」
「え、あ、いや、うん」
正直なところ、落ち着きのなさそうな雰囲気を持っているマヤだ。陸上とか、動きの激しいスポーツのほうが似合っていると鈴は思う。
「……ぷっ」
ついこくりと頷いてしまうと、マヤは吹き出した。
「そんなにはっきり言うかあ。おもしろいね、春岡さん」
「あ……」
変な笑顔を顔にくっつけて、鈴はちょっと恥ずかしそうにうつむく。
「どしたの?」
突然そんな風になった鈴を、マヤが覗き込んでくる。
「あの、ね」
なぜだか、ひどく勇気のいる一言だった。
「あたしも、鈴、でいいよ」
たったのそれだけで、鈴は真っ赤になってしまった。面白そうにマヤがまた笑う。
もしここに実弥がいたら、もっと大笑いするだろう。それぐらい今の鈴は、実弥と初めて会った時とギャップがある。
「おっけー、鈴ちゃん」
「うん……マヤちゃん」
上目遣いに目をやる。マヤと視線が合って、鈴も笑った。
嬉しい。
だからこそすこし、くるしい。
再び書写に戻ったマヤから視線を外し、鈴は窓の外を見た。雨。
雨にいい思い出はない。少し上ずった気分が、すっと落ち着く。
「……?」
ふと、体の、心のどこかがざわついた。今までに幾度か経験したことのある感覚だった。
「……やっぱり、雨か」
「なんか言った?」
つぶやいた声に反応されて、ちょっと恥ずかしい。
「……なんでもないよ」
「そう?あー、ねえ。これなんて意味?」
プリントにある英語の長文。そのうち一つの単語をマヤはシャーペンで指す。
「……うさぎ」
それぐらいは読めたほうがいいと思う。