第三章
「え、ええと。どうも」
思い切り声を上げる実弥を前に、ちょっとうろたえた様子で少女はぺこり、と頭を軽く下げた。実弥ほどではないが、一応驚いてはいるようだ。
「いらっしゃい。……知り合い?」
「は、いや、ええと。一応は」
なぜかぴしりと直立して答える実弥。少女のほうに目をやると、ちらりと目を合わせた後で晃に軽く頭を下げた。
「春岡、鈴といいます」
もう一度ぺこりと頭を下げて少女は自己紹介した。実弥には心なしか、その声が上ずっているように聞こえた。
もっとも彼女自身の心境はそれどころではなかったが。
「あ、わわわ、私、桐沢実弥っていいます。よ、よよよろしく」
「あれ、知り合いじゃなかったの?」
思わず自己紹介を返してしまった実弥に、店長が首をかしげる。
「あ、え、あ、その。まだ名前知らなかったっていうか」
春岡鈴と名乗った少女がこくりと頷く。晃はにこりと笑って彼女に向き直った。
「ああ、僕は藤原晃。ここの店長で、実弥ちゃんを使ってる立場だよ」
「その自己紹介はどうかと思うよ……」
じろりと店長を睨む。
「それで、実弥ちゃんに用事なの?」
店長の言葉に、実弥ははっとする。なにか自分に用がある、ということは、さっきの一件に関わりがあるに決まっている。勘弁して欲しい。
びくびくしながら鈴の言葉を待っていたが、予想していたような言葉は来なかった。
「……いや、あの。……コーヒーを、飲みたいな、と思って」
「へ」
うつむき加減、小さな声。思わず実弥は肩を落としてしまった。
「ああ、お客さんなんじゃない。こっちどうぞ」
実弥の脇をすり抜けて、鈴は晃に促されるままカウンターに腰掛けた。疑問符だらけの頭でその背中を見やる。ひょっとしたら晃がいるから、自分には何も言わないのかもしれない。
「何飲む?」
「じゃあ……。ええと」
受け取ったメニューをじっくり眺めながら鈴は頬に手をやる。実弥は油断なく彼女の一挙手一投足を観察していた。
『カフェ・更級』は藤原晃の趣味もあってコーヒー関係のメニューが異様に充実している。豆の種類から煎り具合、入れ方に至るまでおたくと言っていいほど晃は熟知していた。
しかしそのぶん、夜に出すカクテルはシンプルなものしか置いていない。
もっとも一番の売れ筋は昼はブレンド、夜は生中。どこの喫茶店でもどこの居酒屋でも当てはまるこの公式は、この店においても有効なのだった。
「うーん……」
鈴はしばらくの間、メニューに没頭していた。どうにも注文が決めかねるようだ。コーヒーだけで十種類以上あるのだから仕方のないことかもしれない。
悩む少女。それを真横からじっと見つめるウェイトレス。
「実弥ちゃん、どうした?」
晃に声をかけられて、彼女ははっとした。
「へ?あ、いや。なんでもない」
「そう?あ、ちょっと、発注の確認してきたいんだけど。オーダー聞いてもらっていい?」
「え!」
「じゃあ、頼むね」
そう言い残し、店長はさっさと奥のほうに引っ込んでしまう。ちなみにここの厨房は普通の喫茶店よりも幾分か立派だ。バーを真似るぶん、一品料理にもこだわる必要があるのだ、とは晃の談。
「あ、ああ。ちょっと」
なんだかよく分からない心細さを感じた実弥。晃の背中を頼りない目で追う。
「あの」
「は、はい!」
さっそく来た。
いきなり直立不動になったウェイトレスに、むしろ鈴のほうが驚いていた。
「ここのコーヒーって、どういうブレンドなんですか?」
「は……?」
思いがけない言葉に、またもやすとんと肩が落ちる。
「ええと、な、何?」
「ブレンド。どういう豆を使ってるんですか?」
「豆……」
予想外のところから来た質問にうろたえる。ちなみに実弥には豆のことなどさっぱり分からない。そもそも彼女自身、コーヒーが飲めなかった。苦いからだ。
でも何とか間を持たせなければ、と実弥はとりあえず口を開く。
「え、ええとー、ですね。当店では、キリマンジャロとか、コロンビアとか、ブラジルとか、アフリカとか、なんか、そういったお豆を取り扱ってございます。たぶん」
「……そうですか」
変な敬語。説明になっていないが、実弥がそっち方面の知識に乏しいことは理解したのか、彼女はひとつ息をついてもう一度手元のメニューに視線を落とす。
しばらくして、こう実弥に告げた。
「じゃあ、ブレンドコーヒーお願いします」
随分悩んだ割にはシンプルな注文だ。これなら自分にも作れる。
「じゃ、じゃあ、少々お待ちください」
ぎこちないながら、どうにか動きを取り戻した実弥はカウンターの向こうに立った。
カップから取り出した豆をいじりながら、実弥はなおも鈴に注意深い視線を送る。
それに気づいた鈴は眉をひそめて尋ねてきた。
「なんですか?」
「……あの、さっきの」
「……なんのことですか」
表情を変えず、何事もなかったような答えが返ってきた。
「え……でも」
「忘れてください、と言いました」
何の感情も読み取れない表情、冷たい言葉が実弥についさっきの出来事を思い出させる。
それなら。
「あ、あのね。なんで、ここに?私に用があるんでしょ?」
怖いが、聞かないわけにはいかない。聞かないほうがよほど怖い。
鈴はきょとんとしていた。
「なにがですか?」
首をかしげて、実弥を見上げてくる。そのしぐさがさっきの無表情とはうってかわって妙に可愛らしい。
「なんで……って。さっきのことで、なんか話があるとかじゃないの?」
「だから、さっきのは忘れてください。……あたしはただ、コーヒーが飲みたくて」
「本当に……?」
どうにも疑わしい。
「本当です。あたしだって、あなたがここにいたから驚いたんですよ」
「あー、そういえば」
ぽりぽりと頬をかいて、実弥はひそめた眉をちょっと緩めた。
「そういうことで、コーヒーお願いします」
妙に急かす。促されるままに実弥は豆をスプーンでじゃらりとすくい上げた。
ふと、気になったことを聞いてみる。
「ねえ、年いくつなの?」
「十六です」
「へえ」
中学生かと思っていた。それはそれとして伏せておき、続ける。
「この辺に住んでるの?こんな店、地元じゃなきゃ来ないし」
「あ、はい。今度の春から、ここに越してきて」
「じゃあこの辺の高校なの?ひょっとして、明高とか」
「……そうですよ。一年の、春岡です」
「やっぱり……?あ、私は二年。の、桐沢」
改めてぺこりと頭を下げあう二人。妙な縁もあったものだ。
会話はぎこちないものの、鈴の雰囲気はほんの少し穏やかなものになっている。
そう感じた実弥はちょっとだけ調子に乗ってみた。
「一人でコーヒー飲みにくるなんて、変わってるね」
「そうですか」
「うん……」
「……」
会話が途切れてしまった。少し焦る。
手元もろくに見ないまま、ペーパーフィルターをカップにセットする。
「コーヒー、好きなので」
意外なことに、鈴のほうから言葉をかけてきた。
「大人ぶってるね」
実弥としては褒めたつもりの一言だったが、「大人っぽい」と言うのが正解だ。
「そうですか……」
「……」
失敗だ。
微妙に気まずい沈黙またもが訪れた。ミル(豆を挽く機械)の稼動する音がやけに大きく聞こえる。豆をフィルターに移し、お湯を注ぎ入れると鈴の頬がすこし緩んだ。
コーヒー好きというのはどうも本当らしい。
「ちょっと待っててね」
抽出中のコーヒーをはさんで向かい合う二人。
三度、今度はなんだかぼんやりとした沈黙が漂う。
この娘は忘れろ、と言った。
自分だって忘れたい。さっきの出来事は、まあ確かに気になることに違いはないが、だからといってわざわざ掘り返して聞いてみたいようなことでもない。普通に走りたい。
今目の前にいるのだって、ほんの偶然に過ぎないのだ。コーヒーを一杯出して、飲ませて、それでおしまいだ。日常に戻るのだ。
腕を組んでいると、カップに抽出されたコーヒーが溜まっているのに気がついた。
フィルターを外して、カップをソーサーに乗せると、琥珀色の水面がすこし波立つ。
「はい、お待たせ。ミルクいる?」
「ブラックでいいです。このほうが好きだから」
「大人ぶってるねえ」
「……」
気付かないうち、間違った表現を連発している。もう気にしないことにしたのか、鈴は黙ってカップを口元に近づけた。
飲む前に香りを嗅いで、顔をほころばせる。
「いい匂い」
「ふふん。そう?」
ペーパードリップの特徴は、誰が淹れても一定の品質を保てることにある。
「いただきます」
ゆっくりとカップを傾ける。じっくりと味わってから少女は息を吐いた。
「おいしいです……。思ってよりずっと」
「でしょう。任せなさいっての」
実弥は胸を張るが、もちろんこれは店長こと藤原晃の手柄だ。
少しの間、鈴は黙ってコーヒーを楽しんだ。その姿は大人びてどうにも外見にそぐわないが、不思議なかわいらしさがある。
「……でも、ちょっと変わった味がします。なんだろう」
「さあねえ。店長、変なモンでも入れたんじゃない?」
さらりと言ってのけるウェイトレス。
「まあ、いいか。……おいしいなあ」
手足を伸ばして、本当に幸せそうに少女の表情が緩んでいく。縁側の猫のような風情だ。
「……わかんねえ」
コーヒーってそんなにうまいものなのだろうか。大体にして、苦いではないか。
休憩中、控え室で幸せそうにタバコをふかす晃の姿をよく見かけるが、あれに似ているかもしれない。つまりはきっと、中毒になっているのだろう。
「そうですか?いいですよ、コーヒー」
「あー、そうかもねー」
こころなしか幸せそうに緩んだ声に生返事。雰囲気が数時間前と正反対だ。
だからこそ分からない。一体あれはなんだったのだろうか。
ついつい首をひねってしまう実弥だった。