第十章
「じゃあ、ここまでがテスト範囲な。お前ら全員、百点取れよ。採点が楽だから」
パンク系の身なりをした数学教師の自分勝手な発言と共に、その日の授業は終了した。
実弥は机に突っ伏した。あとは家に帰るだけだ。
今日はバイトもない。水曜日、本来なら五時から更級にいなければならないのだが、ガラス張りのついでに店舗を全面的に整理整頓するそうで、今日は臨時の休業。
実弥は休みをもらっていた。
テストもあるし、と晃は笑ったが、実弥の心中は複雑なものだった。
「……テストなんか、どうだっていいっての」
個人的にはテストで百点を取るより時給が十円上がるほうが嬉しい。
「……なんか言ったか?」
まだ教室に残っていた数学教諭、大田にはその独り言が聞こえていた。まあ、実弥の席は教卓の正面にあるのだから当然のことなのだが。
慌てて実弥は顔を上げ、首をぶんぶんと振る。
「いいえ!実に楽しみです」
非の打ち所のないいい笑顔。でも先生はその反応にも渋い顔をした。
「……何が楽しみだよ。問題作るのとか、採点とか、大変なんだぞ。めんどくせーよ」
「そうですか」
教卓でうまそうに紫煙を吐き出す大田。毎度のことなので誰も気にしないが、それでもパンク系の人間の言動はいまいち掴みづらい。
ちなみに、どこの学校でも教卓は禁煙だ。教室も、ひいては校内も全部禁煙だ。
「お前もな、いっぺんやってみたら分かるぞ。残業手当も出ないのに家で机に向かってペン握り締める苦労。いっそのこと全部百点か全部〇点にしてやろうかと思うし」
およそ教育者にふさわしくない言葉を黙って聞いていると、横から制服の袖を引っ張られた。そちらを向くと香織が立っている。
「何してんの?帰ろうよ」
「え、ああ、うん」
「あー、新井」
実弥が席を立とうとしたところで、大田は香織のほうを呼び止めた。
「なんですか」
くしゃりとゆがめた顔を隠そうともせず、香織が振り向く。どうも彼女はこの教師があまり好きではないようだ。
「お前さあ、成績よかったよな?」
「……はあ、まあ」
なかなか正直にイエスと言いづらい質問に、あっさりと答える。
香織は学年で十位以内に入ったこともある。予習復習を欠かさない、優等生タイプだ。
「じゃあさあ、ちょっとプリント作るの手伝ってくんない?テスト予想問題とかいって、間を持たせるやつ」
この教師はテスト前になると何もしない。プリントを配ってあとは音楽を聴いたりギターをかき鳴らしたり歌ったり、たまにギターを振り回してぶっ壊したりしている。
「なんであたしが!」
香織は激昂した。あたりまえだが。マイペースでパンクな先生はそんな彼女の肩に手を置いて、にこりと微笑みかける。
「新井、お前ががんばってくれればみんなが幸せになるんだ。問題作るのだって割と勉強になるし、みんなはお前の作ったプリントで勉強ができるし、俺はその分働かなくてもいいし。一石二鳥どころか三鳥だ。すごいじゃないか」
「……そうかなあ」
無理やりで自分勝手なへりくつに小首をかしげる香織。納得しかけている様子を見ると、成績はいいが頭がいいとは言えないのかもしれない。
「そうだよ!」
強引に一押し。香織は後ろ頭をかきながら大田を見上げた。
「じゃあまあ、そういことなら……」
「ありがとう!お前最高だ!ロックだよ!」
香織に抱きつかんばかりに大田は喜んだ。横で見ていた実弥は何一つ口を挟まなかった。突っ込む気も止める気も毛頭ない。めんどくさいからだ。
「じゃあちょっと職員室来てくれ。資料渡すから」
「はあ……」
なんやかんやで香織は職員室に連行されることになった。後ろについて実弥も教室を出る。
「なんか、だまされてる気がする」
鼻歌交じりに意気揚々と歩く大田の背を見ながら、香織はぼそりとつぶやいた。
「気のせいだよ」
やっぱりなんらフォローすることなく香織の肩を叩く。そのとき、廊下のむこうから歩いてきた少女に実弥の目が止まった。
「あれ……」
ひらひらと手を振るとむこうもこちらに気付いたようだった。
「誰?後輩?」
「うん。ちょっとね。あ、先行っててよ。校門のとこで待ってるから」
わかった、と言って香織は教師の後を追った。
「おーす。なにしてんの?」
二年のクラスが集まっているのは校舎の二階。一年生はその真下に自分達のテリトリーを持っている。用がない限り、あまり一年は二階をふらつかない。
「……ちょっと」
なんとなく気まずそうな顔で、鈴はぼそりと言った。
明豊高校の武道館。一階が剣道場と柔道場、二階が弓道場になっている。
その弓道場に、一人の男子生徒がいた。制服姿のまま、ぼんやりと佇んでいる。
「……雨」
テスト期間中のこの時期、練習はない。
射場から、雨の向こうを見やる。的場の壁といくつも並んだ的。
かつては、あの的がすぐ近くに見えた。どれほどの大舞台でも、射止めてみせるという気概があった。一年前、一年生にして県大会で二位に入賞したときでさえ。
そのすぐ後だった。事故で右手首を骨折したのは。
三ヶ月、弓を引くことが出来なかった。
そして戻ってきたとき、部の友達はみな、以前よりはるかにうまくなっていた。
皮肉にも、彼の入賞が周りの友人を奮起させたのだった。お前みたいになりたい、と言ってくれた友人の言葉が嬉しく、そしてまた、苦痛にもなった。
彼は焦った。何としても、この遅れを取り戻さねばならないと。
弓道は、精神の力に大きく左右される競技だ。焦ればそれは逆にミスにつながり、彼はまた焦る。悪循環に陥り、弓射が苦痛に変わっていった。
それでも、やめられない。
彼は自分の弓を手に取った。まっすぐ雨の向こうの的を見据え、構える。
矢をつがえる。
中学から五年間、毎日のように繰り返した動き。体に染み付いて、離れない感覚。
「……」
弓を引き絞り、離す。雨を裂いて矢が飛んだ。
「……なんでついてくるんですかっ」
思い切り眉をひそめて、後ろを歩く先輩に抗議する。薄暗い廊下をずんずんと進んでいく。授業が終わってからそれほど経っていないので、廊下にはまだそれなりに人がいた。
「なんでよー。ダメなの?」
「ダメです」
きっぱりと切り捨てる。実弥が唇を尖らせて睨んできた。
「なんでよー」
「……なんでついてくるんですか」
足を止めた。振り向いて実弥と向き合う。
「先輩には、関係ないじゃ――」
背筋をぞくりとしたものが走り抜けた。悪寒とは少し違う、危険を感じるような気配。
「……やっぱり」
「なんだ?」
実弥に答える前に鈴は走り出していた。廊下を抜けて一直線に。
「あ、ちょっと!?」
気配の元は。神経を集中する。
確かに、この学校にいる。
廊下の窓からちらりと見える。古ぼけた木造の建物。
昇降口から傘もささずに外へ飛び出す。ばしゃばしゃと水溜りを踏み散らして、鈴は武道館に飛び込んだ。入り口から見て手前が剣道場、奥が柔道場になっている。
テスト前なので部活はない。武道場はしんと静まり返って雨音がはたはたと響くだけだ。
「……二階」
そばにあった階段を駆け上がる。
上がった先、弓道場はがらんとして、誰もいなかった。
ぼんやりと周囲を眺める。あの気配はもうない。雨の向こう側に目をやって、一点に鈴の視線がとどまった。
「……」
「あー、もう。なんだっての」
すこしして、ひいひいと息を切らした実弥が弓道場にたどり着く。
「あちー……って、ちょっと!?」
鈴は濡れるのもかまわず、靴下だけ脱いで雨の中的のほうへ向かっていった。
「……これって」
並んだ的のうち、一つに矢が刺さっていた。
ばしゃばしゃと砂利を踏んで実弥が追いかけてくる。
「なにやってんの、あんた……なにこれ?」
指差して小首をかしげる。その的は刺さった矢を中心に、ズタズタに引き裂かれていた。
「……あれはたぶん、あたしみたいな人がやったんだと思います」
「なんで?」
「さあ……」
理由は当人にしかわからない。
柔道場の畳の上で、二人は濡れた髪を拭いていた。武道場にあったタオルは使うのがちょっとためらわれたが、匂いを確認してみてもまあ大丈夫だろうと実弥が判断した。
「実を言えば、この学校にはあたしの他にもう一人いるんです」
「あんたみたいな子が?」
「はい」
問題は、その人物が組織の管理下にない、ということだ。
「ちゃんとした訓練を受けないままだと、まず第一に精神が安定しないんです」
「はあ……」
「情緒が不安定になると、力の制御が出来なくなります。そうなれば暴走したり、最悪、心が壊れちゃったり」
「前のあんたみたいに?」
「……はい」
確かにそうなのだが、原因になった人間に言われると釈然としない。
「だからあたし達は全力をもってそういう人を保護します。保護して、ちゃんと生活できるように訓練を受けさせるんです」
保護した時点である程度精神の安定が見込める場合は、組織に登録されるだけで済む場合もある。といってもそういった例はあまりない。突然わけのわからない力を手に入れて、以前と変わらないままの状態で生きていける人間はそういない。
そもそも、能力の『目覚めた』人間などもとから滅多にいないのだ。
「見ようによっては拘束でもあるんですが……。仕方がない、と思うほかないわけで」
「……よーわからん」
そんなことだろうと思っていた鈴はそれほど落胆の色を見せなかった。
「で、この学校のどこかにいるその人を、あたしは保護しなくちゃいけないんです」
「あー、そう。うん。……っていうか、なんでそんなのが二人もここに?」
実弥の素朴な疑問に、鈴は頬をかいた。
「……実を言うと、あたしがこの町に住んでるのって別に偶然じゃないんです。この辺りに一人能力者がいる、っていう情報があったから、高校通うついでに探しておけって命令が出て」
「命令って。なんか、軍隊みたいだね。物騒」
「……軍隊。そうですね。軍隊みたいな面も、あるにはあると思います」
鈴は、その力を拘束に使用することも許可されているのだから。
「まあ、そうそう見つからんでしょ?そんな変人は」
「変人って……」
自分自身もその変人に含まれるのか、問いただしてみたいところだが。
憮然とした顔をしていると、実弥がタオルを放ってよこした。
「ふきなよ。風邪引くよ?」
「……どうも」
なんだか毒気を抜かれた。
「……さー、帰って寝るかな」
「勉強はいいんですか?」
勉強しなくても誰も怒らない環境の二人ではあるが、一応テストを控えた学生だ。
「バイトもないんだから、寝るしかないじゃん。ああ、ヒマだなあ」
真面目にやってる人間からすればこれ以上ないくらい腹の立つ一言だろう。
「あんたは?勉強ちゃんとしてるの?」
「え、あ、あたしは……ですね」
「やってないんだ」
「……忙しいんです。いろいろ」
「本当かー?」
実際のところ、普段の生活の中で組織の仕事に携わっているのは夜、家で報告書を作成するときぐらいのものだ。特に変わりがなければそれもすぐに終わる。
「……まあちょっと、出歩いたりはしてますけども」
「なにやってんだろうな、普段」
探索という名目でコーヒー屋を巡っている。気に入った店があれば最低でも二時間は入り浸っている。最低でも二回は追加注文をしている。
実弥の疑問には答えず、ただただ沈黙を返した。