表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/15

第一章


 海が見える。

 海しか見えない。

 スポーツカーから降りた彼女を出迎えたのはそんな風景と、むんとした熱気。

 初夏、じきに夕方に差し掛かろうという時間帯だが、気温は依然として不快なレベルを保っている。

 「……あついです」

 「我慢しろ。若いんだろ」

 軽薄そうな声が返ってきた。突き刺さる日光に容赦はない。海の青も崖の下にあってはなんの気休めにはなりそうもなかった。

 「じゃあな」

 重厚な排気音と共に、白のスポーツカーが走り去っていく。後には一人の少女と一台の自転車。暑い。

 海沿いの道。片側には絶壁。ガードレールの下には波の打ち寄せる岩場。

 そういうところにぽつんとある駐車場に、彼女は取り残された。

 「……あつい」

 帰り道は緩やかな上り坂だ。やる気が出ない。押していこう。

 彼女――春岡鈴は、セミの声の中をのたくたと歩き出した。

  

 豪風。 

 びゅんびゅんと風を裂いて一台のバイクが国道を疾走していた。

 二五〇cc四気筒のエンジンを持つスポーティなスタイルのネイキッドバイク。黒光りするタンクには駿馬のエンブレム、どのパーツもピカピカに磨き上げられて傾きかけた陽光を照り返している。左のミラーには中身の詰まったスーパーの袋が引っ掛けられ、風にバタバタとはためいていた。

 そのマシンを操るのは一人の少女だ。名を桐沢実弥、という。

 黒のショートヘアのすっきりした顔をフルフェイスで、すらっとした長身を薄手のジャケットとジーンズで武装した、これでも十七歳、女子高生。

 彼女は今、悦に浸っていた。

 「うわあ……わあっ……!」

 メットの中で頬が上下している。目がきらきら輝いて、欲しかったおもちゃを手にした子供のようだった。

 ぐんぐん前に進んでいく。

 このバイクは実弥がバイトでこつこつ貯金した努力の結晶なのだ。免許の分の費用と併せて、丸々一年もかけただろうか。とにかく乗りたかったものに乗れた嬉しさは、それはもう半端ではない。テンションは絶頂に達していた。

 片側二車線の広い国道、車の姿はあまりない。実弥はますます調子に乗る。

 「おおおっ……!うおお!」

 とにかく楽しい。呼べば応えるスロットル、シフト操作は慣れないながら充足感を与えてくれるし、初夏とはいえ体に当たる風もこの時期はまだ涼やかで、気持ちのいいことずくめなのだった。

 カーブに差し掛かる。体を傾けてやると車体が素直に切れ込んでいく。買い物袋がばさりと揺れた。

 実を言えばというかなんというか、彼女はバイト先から買い物を頼まれているのだった。

本当は店長が行こうとしていたのだが、バイクに乗って走りたいがために、文字通り買出しを買って出たのだ。

 でも降りるのがもったいなくて、何度も何度も同じところをぐるぐる回っている。

 市街を走り抜けて少し傾斜のある道に入る。しばらく走ると行く手に海が見えた。

 「わあっ!」

 気分がいいせいか、何もかもがすばらしく見える。海がきれいだ。天気もいい。夏って最高な季節なのかもしれない。今まで悪口ばかり言って、本当にごめんなさい。

 内心でそんな問答をしながらカーブを曲がる。そこは海岸沿いの道で、すぐ右横手に広大な海洋と波飛沫が見えた。

 車通りはあまりない。人の気配も割と少なめだ。海までが絶壁になっていて、砂浜なんかはどこにも見当たらないからだろうか。左にはコンクリートで補強された絶壁、右には波がぶち当たっては返す絶壁。一般の遊び場としては最低クラスの評価になるかもしれないが、ツーリングのコースと考えれば最高かもしれない。

 きらきら光る海沿いを走り抜けていく。ミラーのビニール袋がいささか邪魔くさいが、彼女は始めてのマイオートバイを心から満喫していた。

 そんな彼女を、実に不幸な出来事が待っていた。


 海岸沿いは車線が一つ減って片側一車線になる。前にも後ろにも車の姿はなく、実弥はますます調子に乗ってアクセルをひねった。

 角度のあるカーブに差し掛かる。実弥は唇をぺろりと舐めた。

 バイク乗りの本能というやつだろうか。こういうカーブを見ると、かっこよく立ち上がらせてやりたいと自然に思うのだ。バイクレースを見てみれば、レーサー達は皆ひざが路面に接触せんばかりに車体をバンクさせている。あんなふうになりたい。

 ブレーキレバーを引くと同時にギアを二速ぶん落とし、スピードを調節する。

 「……ここだ!」

 思い切って重心を左に。同時にアクセルをひねると心地いいバランスを保って鉄馬がカーブに沿って滑り出す。

 気持ちいい。

 そう思ったのもつかの間、スピードを殺すタイミングが遅れたか、大きく外側にふくらんだ。反対車線にはみ出してしまう。

 「!」

 そしてカーブを曲がって開けた視界の先、一台の軽トラがこちらに向かっていた。

 「やっ……!」

 クラクション。運転手の驚いた顔が見えた。

 やばい。

 焦って実弥はブレーキをかけた。後輪がロックし、車体が滑る。

 軽トラのほうもブレーキを踏んだ。

 ――間に合わない!

 とっさに体を左に振った。ハンドルが大きく左に切れ込む。

 タイヤの甲高い悲鳴を聞きながら、どうにか正面衝突のコースをそれる。

 代わりに実弥のバイクは大きくバランスを崩した。完全にコントロールを失ってしまう。

 「うやあっ!」

 ほんの刹那の出来事。車体と一緒になって半ば吹き飛ばされるように倒れ込む。

 フルフェイスからの視界がシェイクされる。

 ほんの一瞬の間、時間の流れが遅くなったかのような感覚。フルフェイス越し、真っ白になった意識がなにかを見た。

 それは一人の少女だった。軽トラの後方、バイクの倒れこんでゆく先。立っている。

 それ以上のことはわからなかった。

 ぶつかる。

 そうとだけ思った。目を閉じることすらかなわず、制御を失った鉄馬は少女にむかって突進していく。

 一瞬目が合った。心の中、嫌に冷静に実弥は『ごめん』とつぶやいていた。

 視界の先、その少女の姿がゆらめいた。

 衝突は、予想しえたものとは違っていた。衝撃もない。轟音もない。

 地面に接触するかに見えたバイクが、実弥の体が、宙に浮いた。

 「――っ!?」

 重力が彼女を手放したような感覚。

 まさかあの一瞬で死んだのか。

 実弥はそう頭の片隅でつぶやいたが、違った。

 視界が先ほどよりはるかに大きく、ぐるぐる回る。自分がどこにいるのかさっぱり分からないような感覚に襲われる。バイクがどうなったのか、少女は無事か、そんなことを考える余裕すらない。

 ようやっと認識できた風景は、空からのものだった。

 飛んでいる。

 足元というかなんというか、とにかく自分の下方には道路と、絶壁と、ガードレール。そして先ほどの少女と、少し離れたところには自分と同じように空を飛ぶバイク。

 やっぱり死んだのか。

 そう思ったのもつかの間、再び重力が彼女を捕らえた。空を飛びながら、実弥は地面に向かって落ちていく。

 海に落ちないのは幸か不幸か。

 みるみる迫るアスファルト、今度こそ死ぬだろうか、と思う。

 かたく目を閉じる。

 衝撃はまたもやってこなかった。

 乱暴なクッションに叩きつけられるような感触。何かに包み込まれるような感覚。

 そして、気付けば実弥はアスファルトに寝転がっていた。

 「……うあ」

 放心。

 あまりのことに頭が働かない。今、いったい何が起こった。自分はいったいどうなった。

 そうだ、まずは体をチェックしなければ。

 痛いところはなさそうだ。右の手を上げてみれば、ぶるぶると震えながらもちゃんと動く。全身から血の気が引いているが、ちゃんと生きている。

 生きている。

 実弥はがばっと体を起こした。

 あの少女はどうなった。

 振り返れば、すこし離れたところに彼女の姿があった。

 どうやら無事らしい。

 長く伸ばした黒髪が印象的な少女だった。背は低めで、どこか小動物を髣髴とさせる。

 そんな可愛らしい少女が、厳しい視線をこちらに送っていた。

 「大丈夫ですか」

 声をかけながら、それまで乗っていたのだろうか、自転車を押してこちらに向かって歩いてくる。

 黒髪が風に揺れた。厳しい目で、どこか冷たい声。

 少女が実弥のそばにかがみこむ。呆けていると、同じことを繰り返し訊いてきた。

 「大丈夫ですか?」

 「あ……は、はい!」

 あわててメットを脱ぐ実弥。別に脱ぐ必要もないのだが、気が動転している。

 「え、えっと……そちらこそ、大丈夫ですか?」

 「はい。あたしの方は」

 実弥はほっと胸をなでおろす。良かった。轢いてない。

 心底安心の息をついていると、はっと思い出した。バイク。

 「新車が!」

 きょろきょろと辺りを見回す。少女が黙って、実弥の後ろを指差した。

 「大丈夫です」

 振り返ると、そこには横倒しになった愛車の姿がある。あわてて駆け寄ってみる。特に壊れた様子はない。地面に接しているところには多少の汚れがあるくらいだろうか。

 「はー……」

 いまだにアイドリングを続けていたエンジンのスイッチを切って、バイクを前にへたり込む。もう、なにがなんだか。

 「……今起きたこと、なかったことにしておいてください。お願いします」

 冷たい声。振り返る。少女の後姿が遠ざかっていく。

 入れ替わりに、軽トラを運転していたおじさんが駆け寄ってきた。

 「大丈夫か!?」

 「……買い物」

 「は?」

 のろのろと立ち上がる。おじさんの顔を覗き込んで、実弥はポツリと言った。

 「……バイク起こすの、手伝ってくれませんか」

 「い……いいよ」

 西日の中、のろのろと動き出す。

 崖の下、スーパーの袋が波に揺られて漂っていた。哀れ、中身は海の底だ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ