第一章
海が見える。
海しか見えない。
スポーツカーから降りた彼女を出迎えたのはそんな風景と、むんとした熱気。
初夏、じきに夕方に差し掛かろうという時間帯だが、気温は依然として不快なレベルを保っている。
「……あついです」
「我慢しろ。若いんだろ」
軽薄そうな声が返ってきた。突き刺さる日光に容赦はない。海の青も崖の下にあってはなんの気休めにはなりそうもなかった。
「じゃあな」
重厚な排気音と共に、白のスポーツカーが走り去っていく。後には一人の少女と一台の自転車。暑い。
海沿いの道。片側には絶壁。ガードレールの下には波の打ち寄せる岩場。
そういうところにぽつんとある駐車場に、彼女は取り残された。
「……あつい」
帰り道は緩やかな上り坂だ。やる気が出ない。押していこう。
彼女――春岡鈴は、セミの声の中をのたくたと歩き出した。
豪風。
びゅんびゅんと風を裂いて一台のバイクが国道を疾走していた。
二五〇cc四気筒のエンジンを持つスポーティなスタイルのネイキッドバイク。黒光りするタンクには駿馬のエンブレム、どのパーツもピカピカに磨き上げられて傾きかけた陽光を照り返している。左のミラーには中身の詰まったスーパーの袋が引っ掛けられ、風にバタバタとはためいていた。
そのマシンを操るのは一人の少女だ。名を桐沢実弥、という。
黒のショートヘアのすっきりした顔をフルフェイスで、すらっとした長身を薄手のジャケットとジーンズで武装した、これでも十七歳、女子高生。
彼女は今、悦に浸っていた。
「うわあ……わあっ……!」
メットの中で頬が上下している。目がきらきら輝いて、欲しかったおもちゃを手にした子供のようだった。
ぐんぐん前に進んでいく。
このバイクは実弥がバイトでこつこつ貯金した努力の結晶なのだ。免許の分の費用と併せて、丸々一年もかけただろうか。とにかく乗りたかったものに乗れた嬉しさは、それはもう半端ではない。テンションは絶頂に達していた。
片側二車線の広い国道、車の姿はあまりない。実弥はますます調子に乗る。
「おおおっ……!うおお!」
とにかく楽しい。呼べば応えるスロットル、シフト操作は慣れないながら充足感を与えてくれるし、初夏とはいえ体に当たる風もこの時期はまだ涼やかで、気持ちのいいことずくめなのだった。
カーブに差し掛かる。体を傾けてやると車体が素直に切れ込んでいく。買い物袋がばさりと揺れた。
実を言えばというかなんというか、彼女はバイト先から買い物を頼まれているのだった。
本当は店長が行こうとしていたのだが、バイクに乗って走りたいがために、文字通り買出しを買って出たのだ。
でも降りるのがもったいなくて、何度も何度も同じところをぐるぐる回っている。
市街を走り抜けて少し傾斜のある道に入る。しばらく走ると行く手に海が見えた。
「わあっ!」
気分がいいせいか、何もかもがすばらしく見える。海がきれいだ。天気もいい。夏って最高な季節なのかもしれない。今まで悪口ばかり言って、本当にごめんなさい。
内心でそんな問答をしながらカーブを曲がる。そこは海岸沿いの道で、すぐ右横手に広大な海洋と波飛沫が見えた。
車通りはあまりない。人の気配も割と少なめだ。海までが絶壁になっていて、砂浜なんかはどこにも見当たらないからだろうか。左にはコンクリートで補強された絶壁、右には波がぶち当たっては返す絶壁。一般の遊び場としては最低クラスの評価になるかもしれないが、ツーリングのコースと考えれば最高かもしれない。
きらきら光る海沿いを走り抜けていく。ミラーのビニール袋がいささか邪魔くさいが、彼女は始めてのマイオートバイを心から満喫していた。
そんな彼女を、実に不幸な出来事が待っていた。
海岸沿いは車線が一つ減って片側一車線になる。前にも後ろにも車の姿はなく、実弥はますます調子に乗ってアクセルをひねった。
角度のあるカーブに差し掛かる。実弥は唇をぺろりと舐めた。
バイク乗りの本能というやつだろうか。こういうカーブを見ると、かっこよく立ち上がらせてやりたいと自然に思うのだ。バイクレースを見てみれば、レーサー達は皆ひざが路面に接触せんばかりに車体をバンクさせている。あんなふうになりたい。
ブレーキレバーを引くと同時にギアを二速ぶん落とし、スピードを調節する。
「……ここだ!」
思い切って重心を左に。同時にアクセルをひねると心地いいバランスを保って鉄馬がカーブに沿って滑り出す。
気持ちいい。
そう思ったのもつかの間、スピードを殺すタイミングが遅れたか、大きく外側にふくらんだ。反対車線にはみ出してしまう。
「!」
そしてカーブを曲がって開けた視界の先、一台の軽トラがこちらに向かっていた。
「やっ……!」
クラクション。運転手の驚いた顔が見えた。
やばい。
焦って実弥はブレーキをかけた。後輪がロックし、車体が滑る。
軽トラのほうもブレーキを踏んだ。
――間に合わない!
とっさに体を左に振った。ハンドルが大きく左に切れ込む。
タイヤの甲高い悲鳴を聞きながら、どうにか正面衝突のコースをそれる。
代わりに実弥のバイクは大きくバランスを崩した。完全にコントロールを失ってしまう。
「うやあっ!」
ほんの刹那の出来事。車体と一緒になって半ば吹き飛ばされるように倒れ込む。
フルフェイスからの視界がシェイクされる。
ほんの一瞬の間、時間の流れが遅くなったかのような感覚。フルフェイス越し、真っ白になった意識がなにかを見た。
それは一人の少女だった。軽トラの後方、バイクの倒れこんでゆく先。立っている。
それ以上のことはわからなかった。
ぶつかる。
そうとだけ思った。目を閉じることすらかなわず、制御を失った鉄馬は少女にむかって突進していく。
一瞬目が合った。心の中、嫌に冷静に実弥は『ごめん』とつぶやいていた。
視界の先、その少女の姿がゆらめいた。
衝突は、予想しえたものとは違っていた。衝撃もない。轟音もない。
地面に接触するかに見えたバイクが、実弥の体が、宙に浮いた。
「――っ!?」
重力が彼女を手放したような感覚。
まさかあの一瞬で死んだのか。
実弥はそう頭の片隅でつぶやいたが、違った。
視界が先ほどよりはるかに大きく、ぐるぐる回る。自分がどこにいるのかさっぱり分からないような感覚に襲われる。バイクがどうなったのか、少女は無事か、そんなことを考える余裕すらない。
ようやっと認識できた風景は、空からのものだった。
飛んでいる。
足元というかなんというか、とにかく自分の下方には道路と、絶壁と、ガードレール。そして先ほどの少女と、少し離れたところには自分と同じように空を飛ぶバイク。
やっぱり死んだのか。
そう思ったのもつかの間、再び重力が彼女を捕らえた。空を飛びながら、実弥は地面に向かって落ちていく。
海に落ちないのは幸か不幸か。
みるみる迫るアスファルト、今度こそ死ぬだろうか、と思う。
かたく目を閉じる。
衝撃はまたもやってこなかった。
乱暴なクッションに叩きつけられるような感触。何かに包み込まれるような感覚。
そして、気付けば実弥はアスファルトに寝転がっていた。
「……うあ」
放心。
あまりのことに頭が働かない。今、いったい何が起こった。自分はいったいどうなった。
そうだ、まずは体をチェックしなければ。
痛いところはなさそうだ。右の手を上げてみれば、ぶるぶると震えながらもちゃんと動く。全身から血の気が引いているが、ちゃんと生きている。
生きている。
実弥はがばっと体を起こした。
あの少女はどうなった。
振り返れば、すこし離れたところに彼女の姿があった。
どうやら無事らしい。
長く伸ばした黒髪が印象的な少女だった。背は低めで、どこか小動物を髣髴とさせる。
そんな可愛らしい少女が、厳しい視線をこちらに送っていた。
「大丈夫ですか」
声をかけながら、それまで乗っていたのだろうか、自転車を押してこちらに向かって歩いてくる。
黒髪が風に揺れた。厳しい目で、どこか冷たい声。
少女が実弥のそばにかがみこむ。呆けていると、同じことを繰り返し訊いてきた。
「大丈夫ですか?」
「あ……は、はい!」
あわててメットを脱ぐ実弥。別に脱ぐ必要もないのだが、気が動転している。
「え、えっと……そちらこそ、大丈夫ですか?」
「はい。あたしの方は」
実弥はほっと胸をなでおろす。良かった。轢いてない。
心底安心の息をついていると、はっと思い出した。バイク。
「新車が!」
きょろきょろと辺りを見回す。少女が黙って、実弥の後ろを指差した。
「大丈夫です」
振り返ると、そこには横倒しになった愛車の姿がある。あわてて駆け寄ってみる。特に壊れた様子はない。地面に接しているところには多少の汚れがあるくらいだろうか。
「はー……」
いまだにアイドリングを続けていたエンジンのスイッチを切って、バイクを前にへたり込む。もう、なにがなんだか。
「……今起きたこと、なかったことにしておいてください。お願いします」
冷たい声。振り返る。少女の後姿が遠ざかっていく。
入れ替わりに、軽トラを運転していたおじさんが駆け寄ってきた。
「大丈夫か!?」
「……買い物」
「は?」
のろのろと立ち上がる。おじさんの顔を覗き込んで、実弥はポツリと言った。
「……バイク起こすの、手伝ってくれませんか」
「い……いいよ」
西日の中、のろのろと動き出す。
崖の下、スーパーの袋が波に揺られて漂っていた。哀れ、中身は海の底だ。