一章 1
モデスティー伯の執務室へ来たのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
軽く握った手の甲を二度、ドアにトントンとぶつける。
「ウルスラか、入ってこい」
「失礼しますねー」
相変わらず、ノックの仕方で訪問者を聞き分けているようだ。その点だけは、素直に感心してしまう。
ガチャッとドアノブを動かして、ウルスラは室内へスルリと入り込む。
真っ先に、室内をぐるりと見回してしまった。けれど、探していた人は見当たらない。
「オーソンなら、どこぞかの令嬢につかまって引っ張り回されているぞ」
「そうなんですか? なるべく急いでもらったんですけど、ちょっと遅かったみたいですね」
この部屋の窓から、偶然、その様が見られないだろうか。
ふとそんなことを思いつき、ウルスラは窓へ近寄る。けれど、見える範囲は静かなものだ。
いくら令嬢に気圧されたとしても、あえてモデスティー伯の執務室に近づく者はいない。そういうことだろう。
そもそも、手紙が届いた時点で、すでに始まってから日数が経過していたのだ。そこから急いだところで、時間が止まってくれるわけでも、戻ってくれるわけでもない。
「振り回されているところが見られるかと思ったんですが……まあ、そのうち見られるでしょうし、今は報告だけ済ませますね」
あっさりと窓から離れたウルスラは、ソファにさっさと腰かける。
「団長は、リュールングでもフィエリテでも戦いましたけど、軽く勝利しています。数ではなく質での勝負ですね。どちらの国にしても、我が国では中堅よりやや上といった腕でした」
「……以前より、ずいぶん質が落ちているようだな」
いつもの皮肉かと思い、フッと顔を向ける。けれど、モデスティー伯の表情には、あからさまな苦々しさが浮かんでいた。
かの国の過去にいた者たちには、敬意を払う価値があったのだろう。
(伯が認める腕前の方と、ぜひとも手合わせしたかったですね)
フロース王国内でも、その願いは叶えられる。けれど、元は傭兵を生業にしていた者でない限り、剣の型は似てしまう。手の内がわかっている者と戦っても、何の新鮮味もない。
そういう意味では、異国の者と手合わせすること自体は面白かったと言える。
「それから、リュールングでは、セイヘキ国出身の養子と思われましたよ。言う気はありませんでしたけど、閣下の子息が騒いだものですから。フィエリテでは、使用人に、やはりセイヘキ国の者と思われ、野蛮人の謗りを受けました。その件に関しては、みっちり脅した上で、フィエリテ国王から正式な謝罪を受けています」
淡々と、出来事を簡潔に説明していく。そんなウルスラの話を聞きながら、モデスティー伯は小さく吹き出した。
「あのフィエリテ国王に、正式な謝罪をさせた方法が聞きたいところだな」
そうくると踏んでいたのか。ウルスラはニヤリと笑って、モデスティー伯の方へグッと身を乗り出す。
「私もかなり言いましたけど、正式な謝罪を要求したのは団長ですよ。帰国の時までにそれがなかったら、伯に早馬で全部ぶちまけると、最後のダメ押しをしたんです。あれは誰に似たんでしょうねー?」
クスクス笑いながら、ウルスラはモデスティー伯をじっと見上げる。その視線は、真剣そのものだ。
「……それから、あのお話の返事は、もう少し待ってもらえますか?」
想定外だったのか。モデスティー伯は、珍しく驚きを全身で表していた。
「嫌いなことには変わりないんですが……片方は許せるかもしれない気がしてきたので。もう少し、私自身の気持ちを見つめてみたいんですよ」
忙しく瞬きをした後、モデスティー伯は大きく息を吐き出す。
ウルスラの心境の変化を、つぶさに感じ取ったようだ。
「俺は最初から、お前が納得して後悔しない選択をしろと言っているが?」
今度はウルスラが目を丸くする。数回、立て続けに瞬いて、それからフッと微笑む。
「今までで後悔したのは、夫人の手料理を口にしたことだけですよ」
声音にも笑みを混ぜて、ウルスラはきっぱりと言い放つ。
まさか、料理に見える毒を盛られるとは、さすがに思ってもいなかったのだ。それでも、頭のどこかで警鐘が鳴っていたため、とりあえずスプーンをちょっと舐めることから始めた。
それは正解だったと、今ならわかる。
忘れもしない、十四歳の誕生日──つまり、ホートン候夫妻に拾われた日が近づいた頃だった。もう、五年近く前のことだ。
あの頃はすでに体を存分に鍛えていて、剣を振るうようになっていた。侍女の仕事だけでなく、諜報活動にも参加していた頃だ。病気もケガもしたことがなく、頑丈さには特に自信があった。
それでも二日ほど寝込んだ辺り、かなり強烈なものを食べさせてくれたのだろう。
あの後しばらく、どんな食事にも警戒してしまって、なかなか素直に食べられなくなったのだ。おかげで、自作の料理以外は、誰かが口にしてから食べる癖がついてしまった。
「ところで、誰の差し金かわかりましたか?」
「いや。騎士たちにも探らせているが、わかったのは、令嬢たちも誰かに城で騎士たちと交流を持つように頼まれたらしいことだけだ。まあ、全員が全員そうではないだろうから、そういうことにして泳がせているところだな」
「とりあえずは自衛するしかないわけですね……それと、ガザニアの団長は、あれで大丈夫なんですか?」
集まってきた令嬢から逃げようとして、派手にすっ転んでいた。当然逃げられるはずがなく、また取り囲まれているところを、つい先ほど目撃してきたところだ。
彼は、望んでああなっているわけではなさそうだった。
「転ぶのはいつものことだ、放っておけ。嫌なら宿舎に引きこもるだろう」
「宿舎の立ち入りは禁じてあるんですよね?」
「ああ。本来の勤務時間は敷地内へ立ち入れるが、城を含めたすべての施設内に入るのは禁じてある。ただし、外から呼びかけたりすることまでは禁じていない。職人からうるさいと苦情がきていたから、ヴァーノンは外に出ているのだろうな」
その光景がありありと想像できて、ウルスラは左の指先で額をギュッと強く押す。
「……本当に、困ったことですね」
自由に動けなくなる前に、少しでも情報が欲しい。そう思ったウルスラは、スッと立ち上がる。
どのみち、今からオーソンを探すのは時間の無駄だ。夕方から夜になれば、さすがに宿舎には戻るだろう。そこをつかまえればいい。
それまでに、懇意の令嬢や使用人たちから、話をいろいろと聞き出しておきたかった。
「もし、オーソンがここに来たら、少し留まるように言っておくか?」
「いえ、宿舎に戻るよう伝えてください。私からうかがいますから」
「……無事に、そこまで戻れるといいんだがな」
苦笑いを浮かべるモデスティー伯に、ウルスラもつられて笑みを浮かべる。
どうやら、彼についた令嬢は、相当強かで大物らしい。まさしく、腕が鳴るというものだ。
‡
「……どうして、このようなことになっているのでしょうね」
「……そうですよね、何で……」
呆然とした声で呟くオリオンに、ベアトリスは思わず同意する。
誰の差し金で、城にこんなにも貴族令嬢があふれることになったのか。
きっと、父に聞けば少しはわかるのだろう。けれど、今すぐ会いに行く気にはなれなかった。
留守にしていた間、急にこんなことになったエリカ騎士たちは、相当不安だったはずだ。まずは、彼女たちの様子を知っておきたい。
「あたしは、エリカ騎士のみんなに会ってこようと思うんですけど、オリオンさんはどうしますか?」
エリカ騎士とは、一部を除けばほとんど会ったことがない。そんなオリオンが一緒に来ても、つらいだけだろう。
「ご一緒します。というより、させてください……」
令嬢たちは、チラチラとオリオンに視線を投げている。近寄ってこないのは、ベアトリスがいるからだろう。制服が鋭く睨まれているのは、すでにエリカ騎士と一戦交えたからなのか。
ここにオリオンを一人残す。
鈍いと言われるベアトリスでも、その結果は理解できた。いや、想像できるようになってきていた。
「じゃあ、一緒に行きましょうか。でもその前に、荷物だけ置いていかないと」
荷物で手は埋まっている。はぐれないよう、手をつなぐことすらできない状態だ。
並んで職人棟まで歩き、部屋に荷物を置く。それからすぐ、いつものとおり手を繋ぎ、エリカ騎士たちを探しに出た。
まず見つけたのは、ミランダとフェリックスだった。二人はエリカ騎士の宿舎裏で、建物に背を預けて並んで座っている。
「ミランダさん」
声をかけると、驚いた顔でミランダが振り返った。そして、ベアトリスだと気づくと、ふわっと破顔する。
「団長、お帰りなさい」
フェリックスともども、同じ言葉を発したことで、二人はほぼ同時に真っ赤になった。
「ミランダさんは、大丈夫ですか?」
「うん。私は、とりあえず……最初にガツンとやったから、近寄らなくなったみたい」
「……ガツンと、ですか?」
いったい何をしたのだろうか。
首を傾げたベアトリスに、ミランダの顔はますます赤く染まる。その色は、だんだん下へ向かい、首も赤みを帯びてきていた。
「その……人のもんに手を出してんじゃないよ、こそ泥が! って、フェリックスに寄ってくる子全員に毎回言っちゃった……か、ら……」
語尾はだんだん小さくなり、顔は茹でられたように赤い。
「ああ、なるほど。でも、それで近寄らなくなったなら、いいと思います」
貴族令嬢としては、こそ泥呼ばわりは腹立たしいだろう。わざわざ嫌な思いをしなくとも、騎士は他にもいる、ということか。もしくは、ミランダがランソム候の娘だと、誰かが気づいたか。
言葉に問題はあるとしても、ミランダの取った行動は、大きな間違いではなさそうだ。
「何か言われたら、あたしがそう言うように言ったって答えてください」
「えっ? それじゃ、団長がいろいろ言われちゃうでしょ?」
「あたしは平気です。だいたい、父様が怖くない貴族令嬢なんて、どこを探してもいないと思いますし」
モデスティー伯を敵に回してまで、さらに何かやろうとするだろうか。
今まではすぐに否定できたその思考が、ベッタリと張りついて離れない。
このままでは、エリカ騎士どころか、王国騎士団そのものが崩壊する。そんな危うい状態に、少しずつ近づいている気がした。
「そ、それより、団長は大丈夫ですか? 今帰ってきたばかりなら、アマリリスの団長は狙われると思うんだけど……」
「今のところは、大丈夫そうですね。ウルスラさんにも、オリオンさんを一人にしないよう言われましたから、気をつけますし」
ホッと安堵の息を吐いたミランダは、またすぐに顔を上げた。
「えっと、私は大丈夫なんで、他を元気づけてきてください。特にレオラとかサリナは、だいぶきつそうだったし」
「レオラさんとサリナさんが?」
言われた二人を思い出す。
レオラは肩に触れる長さの髪と、髪と同じ栗色の瞳の、ベアトリスと同い年の少女だ。傭兵をしていた彼女は剣を使うため、ガザニア騎士とは懇意にしているだろう。
サリナは、金茶色の長い髪をふたつにわけて縛っている。両手で短剣を扱う彼女は、リナリア騎士とよく訓練していたはずだ。元は貴族の屋敷で針子をしていたそうで、所作も言葉遣いも比較的綺麗だった。
問題は、彼女たちの意中の相手は誰だったか、だ。
とっさに思い出せず、ベアトリスは思わずギュッと眉を寄せてしまう。
「とにかく、行ってあげて。団長の顔を見たら、サリナたちも安心できると思うし」
「わかりました、そうします」
ミランダは元気そうだった。けれど、不安要素のある団員もいるようだ。
とりあえず、全員の居場所や状況を把握しておきたい。そう考えたベアトリスは、ミランダに別れを告げ、他の団員を探しに出る。
つい先ほどまで一緒に行動していた三人は、すぐに見つからなかった。問題を抱えているというレオラとサリナも、まだ見つけられずにいる。しかし、他の団員たちは無事に見つかった。話を聞いた限りでは、きっぱりとした拒否もあり、取り立てて問題は起きていないらしい。
既婚者の二人はどうだろうか。そう思っていたら、恋人がいなくて令嬢に近寄られたくない騎士の、虫除け代わりにされていた。
ただ、誰もが口々にサリナとレオラを気遣っていた。そして、帰ってきたばかりのヴェラたちのことも、やはり気にしている。
「困りましたね」
誰かに返事を求めたわけではない。困った、と声に出しても、何の解決にもならないからだ。
単に、自分が今、ひどく困っているのだと確認したかった。
「サリナさんとレオラさんを、探しますか?」
「はい、そうします。それと、ヴェラさんとメルルさんとテレシアさんも」
そこで問題になるのが、彼女たちの意中の相手だ。彼女たちの思い人を、ベアトリスはそもそも知らないのだ。
「確か、ヴェラさんはベロニカ騎士と、メルルさんはコキア騎士と、テレシアさんはテレンスさんとよく話をされていましたね。サリナさんとレオラさんは、申し訳ないのですが、私にはわかりかねます」
「いえ、十分です!」
サリナとレオラに関しては、ヴェラたちを見つけて聞いてもいいのだ。もしかすると、彼女たちを探す間に、運よく見つけられるかもしれない。
闇雲に歩き回ることは、効率を考えるとよくないだろう。とはいえ、どこに誰がいるかはわからない。しらみつぶしに探すしかなかった。
城の敷地内を探し歩くと、青の離宮の外れでヴェラを見つけた。オリオンの言葉どおり、ベロニカ騎士と一緒にいるようだ。
「団長!」
振り向いたヴェラは半泣きだった。そばにいる騎士が、懸命に慰めている。
ヴェラは元々華奢な印象のある少女だ。その近くに、縦も横もがっしりした騎士がいると、ますますはかなげに映る。
「ヴェラさん、大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です! でも、サリナとレオラが……」
ヴェラが必死に訴えてきた。
どうやら、ベアトリスより先に、レオラたちの窮状を聞いたらしい。
「えっと……聞いてもいいですか? サリナさんとレオラさんの恋人さんは、誰でしょう?」
ベアトリスの問いがよほど予想外だったのか。グッと意気込んでいたヴェラは、とたんにぽかんと口を開け、呆気に取られた顔を見せる。
ややあって、ヴェラは我に返ったようだ。
「……団長、知らなかったんですか? ひょっとして、みんなの恋人とか、把握してないんですか?」
「え、あ、はい……実は、さっぱりなんですよね」
はぁ、と呆れた様子でヴェラがため息をつく。けれど、それがベアトリスだと、すぐに納得できたのだろう。キリッとしたいつもの顔で、ピンと背筋を伸ばして口を開く。
「レオラはガザニアのグレアム様で、サリナはリナリアのデズモンド様です」
グレアムはわかる。以前、グレアムの名を出したのは、どうやらレオラだったようだ。
しかし、デズモンドはまったく知らない名前だった。
「それで、その……レオラは、追い払えなくて苦労してるんです。しつこい方がいるみたいで。で、サリナは逆で、デズモンド様が鼻の下を伸ばしてデレデレしてて、見てるのがつらいって……」
話を聞いた瞬間、ベアトリスはわずかに怒りを見せる。
「……わかりました。ちょっと頑張ってきますね。何かあったらあたしに教えてください」
「だ、団長……?」
いくらか不安げにしていたベアトリスが、急に真顔になったのだ。これまでと違う彼女の雰囲気に、知らず知らず圧倒されたのだろう。ヴェラは怯えたように、大きく一歩下がった。
繋いでいる手を、少し強くキュッと握られる。
別に、大それたことをするわけではない。ただ、エリカ騎士たちが嫌な思いをしていることが、どうしても許せないだけだ。




