四章 1
もう一度、きちんとした形の誓約書を取り直す。その上で、リュールング共和国での滞在を終えるようだ。
明日には、フィエリテ王国に向けて発つ。
「フィエリテ王国では、ヴェラは絶対に一人にならないでくださいね? メルルはまあ、多分、心配はいらないと思いますけど」
ウルスラのとんでもない言い草を、メルルは気にした様子がない。むしろ、うんうん、と頷いている。
「うん、大丈夫。ヤバそうだったら、崩壊の魔法使って逃げるから」
「おいコラ。俺の仕事増やすんじゃねえ!」
「別にたいしたことないじゃん。ちょちょい、と服を戻してあげるだけだもん」
「どこがたいしたことないんだよ! 大ありじゃねーか!」
帰り支度を整えながら、メルルとサージが口ゲンカを始めた。ここ数日で、すっかり聞き慣れた光景だ。
「どうせ脱がすなら、テレシアやウルスラにしてくれよ」
エリカ騎士でも、割と体の線に沿った騎士の服を着ている。そのため、邪魔にならない程度に胸をつぶしてあっても、おおよそ正しく体型を推測できてしまう。
当然、名指しされた二人には、心当たりが大いにあったに違いない。
辺りの温度が、一瞬でガクッと下がる。にわかに襲ってきた寒さに、ベアトリスは思わずブルッと身震いしてしまった。
「サージ様、一度死にます?」
「いっそのこと、一度と言わず、二度でも三度でも」
「すみませんでした……」
テレシアとウルスラに冷たく言い放たれ、サージはボソッと謝る。そのまま黙って作業を再開したようだ。ガサゴソと、布を触る音が聞こえてくる。
ベアトリスも、夜着と明日の服を除いて、着替えはすべて詰め込んでいく。武器の手入れや補給もバッチリ終わらせてある。もうすでに、いつでも出立できる状態だ。
滞在があまりに短かったこともあり、取り立てて心残りはない。
「それにしても、うまく行きすぎて怖いですよね」
ウルスラのそれが、いったい誰に向けて語った言葉なのか。わからなかったベアトリスは、気になりながらも荷物を片づける。
「リュールングは、絶対に横から口を挟んでくる。最初に行って徹底的に叩きのめして、手出しも口出しもさせないようにしておけ、とはよく言ったものです」
それが父の言葉だと、ベアトリスにはわかった。
どうやって、フィエリテ王国に条件を飲ませて帰国するのか。その道筋は、恐らく、父がある程度立てているに決まっている。
横槍を入れられることなく、フィエリテ王国と交渉する。それが、素早い解決への近道であることを、モデスティー伯はよく理解しているのだ。
そうでなければ、わざわざ入れ知恵をしない。
だが、今になってそんなことをウルスラが言い出すのには、何か深い理由があるはずだ。
ふと思い立って、部屋の入り口を眺める。サッと、何かが動いた気がした。かすかだが、不自然な衣擦れも聞こえる。
「あ、団長、ちょっといいですか?」
「え? あ、はい……ですが」
「ああ、そっちは放っておいていいですよ。フィエリテ王国で、団長にお願いしたいことがあるんですけど」
どうやら、あの人影にわざと聞かせたようだ。
そう気づいたベアトリスはあえて確かめずに、大人しくウルスラに従う。
「あの国の魔法は、我が国とそう変わりません。ただ、我が国にない魔法もあるようなので、そこに注意が必要です。それと、腕試しに出てくる者が、恐らくアマリリスの団長級になるかと」
「え……」
オリオンの魔法は、かなり手強い部類に入る。ベアトリスですら、何度も戦いたくはないと思う程度には強い。
そのオリオンに匹敵する者が、フィエリテ王国に、本当に存在するのか。
まだ見ぬ国に対する、じっとりとした恐怖が湧き上がる。
「ああ、アマリリスの団長ほど、絶望的な強さではないですよ? だいたい、あそこまで強い人が、その辺にゴロゴロしててたまるもんですか。そうですね……それでも、ナイジェル様くらいにはなるでしょうが」
ベアトリスには、ナイジェルとの戦闘経験はほとんどない。人となりはよく知っているが、魔法となると話は別だ。かろうじて、炎の魔法が好きで治癒もできる、と知識の上で知っている程度だった。
副官ではないが、本来はそうであってもおかしくない人なのだろうか。
首を傾げるベアトリスに、ウルスラが薄い笑みを浮かべた。
「アマリリスは、副官がねじ込まれた口ですから。実力で見れば、カーティス様はかなり下ですよ」
「一応、問題になるほどではありませんけれどね」
ボソリと答えるオリオンの声に、かすかに苦笑いが含まれている。その苦笑いには、ウルスラの辛辣な評価に対するものもあるのだろう。
同時に、ウルスラの言葉は事実でもあると、ベアトリスにも何となく察せられた。
「団長はご存じないでしょうが、今は、先代よりはずいぶんまともなんですよ? ホートン候がガザニアの団長を務められていた頃は、副官どころか、他団の団長も、よくて片方が中立派、悲惨なところは両方反発派だったそうですから」
「……おじい様が、団長……?」
恐怖が先に来てしまうから、どうしても避けてしまう。そのため、まともに話をしたこともない。だから、何も知らなかった。
ひょっとしたら団長をしていたかもしれないと、想像したことすらなかった。
このままずっと、何ひとつ知らないままではいけないだろう。
「今の団長の前が、ホートン候ですよ。ああ、候は顔が怖くて、近寄りがたいですからね。その辺りは、伯から情報提供があってもいいとは思うんですけど……団長に、自ら尋ねに行って欲しいんでしょうね。何しろ、伯よりも団長に会いたいとうるさい方ですから」
よく考えれば、祖父母のことも、父のことも、ほとんど知らないのだ。
誰かに聞かれるまま、答えるばかりだった。こちらから問いかけて、何かしら答えをもらおうと思ったことは数える程度しかない。
人から教えられて、そこですっかり満足してしまっていた。
そこで立ち止まらず、その先へ、自ら進まなければいけなかったのだ。
「……戻ったら、少し、頑張ってみます……」
「候が怖かったら、私が一緒に行きますよ。ぜひ声をかけてくださいね」
ニッコリ微笑むウルスラに、ベアトリスは小さく一度だけ頷いた。
‡
翌朝、朝食を食べてから、フィエリテ王国へ発つことになった。
リュールング側の顔触れは、明らかに不満げだ。かといって、署名済みの誓約書がある以上、それを口にすることはできない。
これから、リュールング共和国としては、ベアトリスたちの動向をジッと見守るしかないのだ。
港まで送ってくれる馬車の見送りには、ベルノルトしか出てこなかった。彼がいると気づいた時点で、メルルとテレシアはさっさと馬車に乗り込んでいる。
「……ひとつ、聞きたいことがあります」
「何ですか?」
目の前に立ったベルノルトに、ベアトリスが問い返した。
「あれだけの人数を相手にして、怖くはなかったのですか?」
具体的には、何が聞きたいのだろうか。
疑問は残るが、ベアトリスはそれほど深く考えずに口を開く。
「怖くない、と言えば、多分嘘になります。でも、怖いからと、そこから逃げ出すことはできません。それに、心強い仲間がいますから、あたしが怖がることはないんです」
それがすべてだ。
ウルスラもテレシアも、自分のところに敵を行かせない、と断言した。ならば、それを信じることもまた、ベアトリスに必要なことだ。
もちろん、過去には周りを信じ切れず、不安と混乱で心を激しく乱されたこともある。
だからといって、敵にひどく怯え、なすべきことをできない。それは、団長である以上、決して許されないだろう。
今だって、心配したヴェラがくっついていてくれる。
必死に守ろうとしてくれる人がいるから、力の限り、守りたくなるのだ。
「……僕は、あなたに近づくよう、父に言われました。あなたはセイヘキ国の人間で、モデスティー伯の養女だから、見下したって大丈夫だと言われて……大変失礼なことをしたと、今なら思います」
彼は深々と頭を下げた。
突然の変わりように、ベアトリスはパチパチと忙しく瞬く。それはヴェラも同様で、ぽかんとしてベルノルトを見つめている。
「どうして……」
「あなたの太刀筋は、生粋のセイヘキ国のものではないからです。伝えられたものがさらに伝えられ、基本はあるものの失われつつある状況です」
見ただけで、そこまでわかるのか。
きっぱりと言い切るベルノルトに、警戒していたウルスラも驚きを一切隠さなかった。
「僕たちは時々、セイヘキ国の人と剣を交えます。だから、わかるんです。あなたは、セイヘキ国で生まれ育った養女じゃない。本物なのだ、と」
「ご理解いただければ、十分ですけれど……あなたの意見は、リュールングの総意なのですか?」
そこだけは確認しておきたかったのか、ウルスラが鋭い声で問いかける。それに対し、ベルノルトははっきりと大きく頷く。
「軍の者も、父も、あなたが生粋のセイヘキ国の民ではないと認めました。あなたと敵対した場合の不利益を考慮し、要請がない限り、リュールング共和国としては動きません。誓約書でも記したとおり、それは約束します」
急なことで、ベアトリスは呆然としてしまう。
好意的に受け取れば、誓約書の内容を補強しにきたとも考えられる。だが、他にも何か目的があるのではないか。これまでのことを思うと、どうしてもそちらを疑ってしまうのだ。
「僕たちは、この世で最も強い集まりだと信じていました。けれど、上には上がいる。そのことを理解し、精進するべきだと、ようやく目が覚めたんです」
淡々と語られる本音を、残らず正直に受け入れることはできなかった。
ベアトリスですら、そうなのだ。ヴェラやウルスラは、もっと受け入れがたい話だろう。
「……いつか、本当に強くなれたら……その時はぜひとも、フロース王国へ遊びに行きたいと思います」
「いつでも来てください。楽しみにしてますから」
ニッコリ微笑んで告げたベアトリスを、ベルノルトの視線は素通りした。見られていると感じたようで、ヴェラは縮こまってベアトリスに隠れる。
「その際には、婚約者も同行させますね。まあ、その時には、妻になっているかもしれませんが」
「……婚約者が、いらっしゃるんですか?」
恐る恐るといった体で、ベアトリスの陰からヴェラが問いかける。それに、満面の笑みのベルノルトがコクコクと忙しく頷く。
「はい。あなたに似た雰囲気の、世界一可愛い人です」
もしかすると、婚約者のことは黙っているようにと、厳しく言われていたのかもしれない。その制限がなくなり、ようやく本当のことが言えるようになった。
ベルノルトは今、そんな気分なのだろうか。
「あなたに怖がられた時は、彼女に怖がられた気分になりました。遠巻きにされていると、彼女に非難されているようで、非常に落ち込みましたね。あなた方がいらしている間は、彼女と会うこともままなりませんでしたから、これでいつでも好きなだけ会いにいくことができます!」
とろりととろけそうな笑顔を浮かべたまま、ベルノルトは饒舌に語っている。
「ぜひ、お会いしたかったです」
「そちらにお伺いする時を、楽しみにしていてください」
ニコニコしたままのベルノルトを見る限り、相当可愛らしい女性のようだ。
ホッと安堵の息を吐いて、ヴェラが少し体を起こす。無理のない程度に腰をかがめ、それでもやはりベアトリスにくっついている。
「それに、近づいて甘い言葉のひとつでも言え、と言われましたけど……あなたの婚約者を見たら、そんな気は失せますよ。あの人に、見た目でも強さでも、勝てる気がしませんから」
「だって、オリオンさんは、あたしの自慢の婚約者ですから」
ニッコリ微笑んで堂々と言い放つベアトリスに、ベルノルトは呆気に取られたようだ。あんぐりと口を開けて、それから心底楽しそうに笑い出した。
「そうですよね。僕も、あの子が自慢の婚約者です」
きっぱり言い切ったベルノルトは、不意に表情を改める。
にわかに話題が変わったことを察して、ヴェラはしっかりと立った。ベアトリスの隣には、ウルスラがそっと寄り添う。
「これから、フィエリテ王国へ行くんですよね……どうか、気をつけてください。どう猛で、気が強くて、狙った獲物は逃がさない、と豪語する、恐ろしい女がいますから……」
「……王妹のジャンヌ様ですね。把握はしていますし、男性陣には気をつけるよう言ってあります。あちらでは、私たちと行動するように、とも忠告はしていますし」
ウルスラの言い草では、一人で勝手に行動したら容赦なく見捨てる、と聞こえる。
もちろん、本気で見捨てることはないだろう。だが、少しくらい痛い目には遭ってもらう。その上できっちり救済する、といったところか。
確か、フィエリテ王国の現国王が、サマラの夫になる。ただ、サマラとの間には、まだ子はない。けれど、王には側妃もいて、そちらには男児が生まれている。
取り立てて政略結婚の必要性もなく、二人いる王妹は好き勝手に過ごしているようだ。
「ここから、あなた方の無事を祈っていますね」
言い置いて、ベルノルトは会議場へと入っていった。入れ違うように、アマリリス騎士たちを伴ったタデウスが出てくる。
「さあて、気が重いけど、フィエリテに行こうか」
ため息混じりのタデウスの言葉に、それぞれの荷物を馬車に積み込む。
今回は、迎えに来たものよりひと回り大きな馬車だ。その代わり、二台に減っている。男女でわかれて乗り込み、港まで送ってもらうのだ。
(……リュールング共和国は、どうにかなったみたいだけど……)
本来の目的である、フィエリテ王国。そちらはいったいどうなるのか。
まったく先が見えず、ベアトリスはそっとため息をこぼした。




