二章 1
船は非常にゆっくりと動き出した。ベアトリスは甲板の柵にもたれながら、ぼんやりと景色を眺めている。
じれったいほどのんびり進んでいく船は、歩いている速度とそれほど変わりなかった。もし、水の上を歩けるのなら、徒歩の方が早いかもしれない。
「ずいぶんのんきな進みですよね」
声をかけてきたウルスラに、ベアトリスは頷いて同意を示す。
地図で確認した位置からすると、右手にうっすら見えている大きな島がフィエリテ王国だ。この速度では、フィエリテ王国に向かっても、半日がかりになりそうだ。
先に立ち寄るというリュールング共和国は、さらに遠い。いったい、どれだけかかるのか。不安に襲われる進み具合だ。
「まあ、この大きさだといきなり速くは動けないらしいんで、しょうがないですよね。手こぎなら、やる気と体力が持てば頑張れるでしょうけど」
どこか投げやりに言い放つウルスラを、ベアトリスは思わずジッと見上げてしまう。
常に冷静で、私的な時間でなければ感情を表に出さない。見慣れたウルスラらしくない様子に、かえって興味をそそられる。かといって、無邪気に理由を問うことはできなかった。
「……私がオーソン様に膝蹴りをお見舞いしたのは、ケンカをしたとか、そういうわけじゃないですよ? 非常にくだらない冗談じみた本音をこぼしたので、気合いを入れる意味でお見舞いして差し上げただけです」
「そうだったんですか……そういえば、ウルスラさんとオーソンさんって、激しいケンカはしなさそうですよね。最初から最後まで、淡々と静かに争っていそうな気がします。だから、タデウス殿下から膝蹴りって聞いて、ちょっとびっくりしたんですけど……あれ?」
まだ、何も言っていない。
そのことに気づいたベアトリスは、こてんと首を傾ける。そんなベアトリスに、ウルスラは小さな笑い声を漏らした。
「ここだけの話ですけど」
ウルスラはグッと声を潜める。
「あのおしゃべり王子は、モデスティー伯の情報源のひとつなんです。あの王子ほど、噂話に詳しい人間は、そうそういないでしょう。同じことができたとして、ただの暇人だと公言するようなものですから。ただ、あの王子のすごいところは、公務の合間にそれをやっている点なんです。そこだけは、私も評価していますよ」
呆れたように鼻で笑い、ウルスラはちょいと肩をすくめた。
父寄りの人間と新しく知り合うと、どこかでウルスラとつながっている。そんな気がしてしまう。
「よくも悪くも、伯とつき合い続けられる人間は、どこかおかしいんですよ。そういう意味では、団長は割と普通で、逆に珍しく思えますね」
心の底から楽しげに笑うウルスラに、ベアトリスはパチパチと瞬きを繰り返す。
数日ぶりに顔を合わせたからか、今までと違って映る。少し新鮮で、ひどく不安だ。
「……ウルスラさんは、普通じゃないんですか?」
「侍女でも針子でも騎士でも、伯の書類仕事の手伝いでも、手当たり次第何でもこなせる私が、普通の人間だと思いますか?」
声音に自虐を感じた。だからこそ、ベアトリスはとっさに何も言えず、しばし押し黙る。
何をもって『普通』とするのか。
その判断基準は同時に、『普通でない』とする基準も示している。そこから少しでも外れたら、それだけでいけないのか。
(だったら、外れてもいい)
『普通』の枠にこだわる理由は、どこにもない。
「……あたしにとって、ウルスラさんはウルスラさんで、普通かどうかは関係ないんですけど……やっぱり、気になりますか?」
前を見つめていたウルスラが、体ごと向きを変える。その顔は驚愕に染まっていた。
「……どう、して……」
続く言葉がうまく出てこないのか。ウルスラは数回、口をパクパクと開け閉めする。
「……どうして団長は、いつもいつも、ホートン候と同じことを、言うんですか?」
「おじい様と、同じこと?」
多少は距離が縮まったものの、祖父とは血縁者としての関わりは薄い。エリカ騎士たちの方が、よほど親しくつき合っている。
だからこそ、よくウルスラに言われる「ホートン候と同じ」が、ベアトリスには理解できないのだ。
「あたしは、思ったとおりに言ってるだけなんですけど……おじい様と、同じことを言ってますか?」
母を含めても、三人しの大人か知らなかった幼少の頃。突然現れた兄や姪は、実は父と妹だった。そんなあれこれを経て、今のベアトリスがある。
恐らく、最も身近にいた母の考え方が、その父親であるホートン候に似ていたのだろう。だからベアトリスも、自然と似たような発想をしている可能性は高い。
「……昔はよく、言われたんですよ。何でもあっさりこなしてしまうから、可愛げがないし、あまりに人間離れしていると。どこかでそれを聞いたんでしょうね。ある日ホートン候は、私に言いました。私は私であって、人間かどうかは関係ない、と。それに、私が人間でなければ、夫人はどうなるのか、と笑って……」
ギュッと眉を寄せていたベアトリスが、最後の部分でクスッと笑う。
祖母の料理が殺人兵器になりかねないことは、聞いて知っている。同時に、自分自身の料理も、負けず劣らず危険なものであると、身をもって理解した。
要領がよく、何でも器用にやってのけるウルスラが人間でないのなら。人を殺せるかもしれない料理を作るベアトリスもまた、人とは言えないだろう。
「ウルスラさんを人間離れしてるって言った人の理屈だと、あたしも人間じゃないですよね? 他の人には凶器になる料理を作って、それを普通に食べられるんですから」
「……そういえば、そうですね」
今にも泣き出しそうな顔で、ウルスラが微笑む。ベアトリスは思わず、ウルスラの頬を両手でそっと触れた。
「ねえ、ウルスラさん。泣きたい時は泣いていいんですよ? 我慢してる笑顔は、見た人を笑顔にできません。しっかり泣いて、すっきりしてから、いつもみたいに笑ってください」
これもまた、ベアトリスが母から教わったことだ。
心からの笑顔でなければ、かえって心配させるかもしれない。まったく必要のない不安を抱かせる可能性もある。
わだかまりのない状態で、花が開くようにごく自然に笑うこと。それが大切だと、何度も言われていた。
ベアトリスの記憶にいる母親は、いつもニコニコ笑っている。泣き顔は見た覚えがない。怒られたのは、本当に数える程度だ。
「……団長」
笑いたいのか、泣きたいのか。どちらともつかない表情のウルスラが、ぐにゃりと顔をゆがめる。
「……泣く時は、団長の胸を借りてもいいですか?」
「ええ、いつでもどうぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
胸を貸すはずが、ギュッと抱き締められていた。頭へ定期的に、ふわっと暖かい空気が当たる。
これでは、ベアトリスがウルスラの胸で泣いていると取られかねない。
「あ、あの……ウルスラさん?」
「……団長、私、一時は男に生まれたかったって思ってたんです。そうしたら、アマリリスの団長とも張り合えるじゃないですか。でも」
そこで言葉を切り、ウルスラは一度だけ、大きくゆっくりと深呼吸をする。
吐き出された吐息が髪を揺らし、額がくすぐったい。
「私が男だったら、ガザニアの団長でない限り、団長とここまで近づけなかったんですよね。そう考えたら、やっぱり私は女でよかったと思うんです。団長の一番にはなれなくても、いつまでもそばにいられますからね」
「……ウルスラさんが男の人だったら、きっとおじい様は養子に迎えて、騎士にしていたと思うんです。だから今頃、ガザニアの団長をしていても、おかしくないと思いますよ」
あの祖父が、優秀な者を簡単に手放すとは思えない。どんな手を使ってでも、自分の近くに置いておこうとするはずだ。
そんな思いを込めて、ベアトリスは力強く言い切る。とたんにウルスラが、小さく噴き出して笑い出す。
「団長は、ホートン候の性格をよくご存じですね」
思い切り息を吸い込んでから、ウルスラがひっそりと囁く。
「先ほども言ったとおり、他の使用人から嫌がらせをされたこともあるんです。ですが、最初に手出しされてから半月も経たずに、彼女たちは暇を出されるんですね。私が守られているとわかると、誰も何も言わなくなりました」
いったい、誰に。
そう問いかけてみたいが、できない雰囲気だ。
「私と団長が違うところは、そこでしょうね。団長は自分の力で戦いますけど、私にはその機会すら与えられなかった……囲い込んで守ってもらえて嬉しい。そう思う人間だったら、曲がりくねった好意もありがたくなるんでしょうけどね」
何度目かわからないため息の後、ウルスラはスッと腕をほどいた。
「まあ、多感な時期にゆがんでしまったことは理解できるので、そこは目をつぶりますけど……正直、迷惑なんですよね」
「えっと……?」
ウルスラが『多感な時期』を知っている。そんな人間が、身近にいただろうか。
ベアトリスは真剣に考え込んでいる。
「ああ、オーソン様のことですよ」
サラッと言われた名前に、ベアトリスはぽかんと口を開けてしまう。
「あの人、本気で価値観がゆがんでますからねー。まあ、十四の時に、最愛の姉君が死にかけの老人に、表向きは無理矢理嫁がされた挙げ句、三十前に病で呆気なく亡くなってしまったんですから、ああなるのもしょうがない部分はありますよ」
「……ウルスラさんって、そんな年でしたっけ?」
まるで見てきたように話しているが、ウルスラはベアトリスとひとつしか違わない。リサが結婚した頃、ウルスラは産まれているかどうか、といったところだ。
そもそも、彼女がホートン候の屋敷で働くようになったのは、五、六歳のはず。
「使用人というのは、おしゃべりが大好きなんですよ。で、もれなく、私にも面白おかしく聞かせてくれましたから。まあ、後できっちり、ホートン候夫妻とオーソン様に確認しましたけど」
「……確認しちゃって、大丈夫だったんですか?」
その後に影響はなかったのか。
ベアトリスとしては、そういった意味合いを含めて聞いたつもりだった。しかし、伝わらなかったのか、はたまたサラリと流されたのか。ウルスラは涼しげに、ニッコリ微笑んでいる。
「私は、大丈夫でしたよ?」
それ以上、突っ込んで聞く気にはなれず、ベアトリスは苦笑いでごまかした。
「あ、ウルスラ。ちょっといいか?」
胡乱げにウルスラが振り返った。彼女の視線を追うように、ベアトリスもそちらへ目を向ける。
そこにはサージが立っていた。周囲に他のアマリリス騎士は見当たらない。
何らかの伝言だろうか。
最初はそう考えたベアトリスだったが、即座に否定する。ウルスラ個人への伝言を、タデウスやオリオンが頼むとは思えない。
それならば、個人的な用事だろうか。
「えっと……あたしは、席を外しますね」
「あ、いえ、恐らく、団長がいても大丈夫です。というより、むしろいてください」
「え……でも……」
「別に、かまいませんよね?」
ウルスラは問う恰好で、承諾以外を求めない声音だ。それに、苦笑いのサージが一度だけ、はっきりと頷く。
「なあ、ウルスラ。俺の恋人にならないか?」
「なりません」
何を言われるか、最初からわかっていたのでは。
そう確信を抱いてしまうほど、サージの語尾にかぶせるように、ウルスラは素早く拒否した。しかも、目が冷ややかなまま、表情だけはやけににこやかに。
「サージ様にも言いますけど、私、最低でも自分の身をきっちり、最後まで守れる男でなければ、そばに置く気にもなれないんですよ。私の優先順位は、団長が最上です。団長の安全が確保できた後でなければ、恋人だろうが家族だろうが、見向きはしません。ですから、それまで自力で生き延びられると信じられる男でなければ、ひとかけらの興味すら持てないんですよ」
「……俺じゃ、無理だと?」
「無理ですね」
間髪入れずに、バッサリと切り捨てる。
「理想としては、コキアでもリナリアでもいいですけど、丸々一団を相手にして生き延びるくらいでしょうか」
ベアトリスとサージが、ほぼ同時に絶句する。
彼女の言う真似ができる人間が、いったいどれだけいるというのか。ベアトリスには、オリオン以外はすぐに思いつかない。
「……それって、誰ができるんですか?」
思わず問いかけたベアトリスに、ウルスラは心からの微笑みを向ける。背後でサージが苦虫を噛みつぶしていることなど、まったく意に介していない笑みだ。
「団長がご存じの方に限定しますが、まずはアマリリスの団長ですね。あの防御を打ち破るのは、相当の労力が必要です。しかも、その気になれば、いくらでも築き上げられますからね。次に、ホートン候です。つい最近、ガザニアの団長を余裕で負かしたそうですよ。あとは、モデスティー伯ですね」
婚約者と祖父と父。確かに、身近で比較的知っている者ばかりだ。
「最後に、オーソン様ですか。一応あの人も、そのくらいはできるかと」
「え……オーソンさんも、ですか?」
誰にしても、身近だ。しかし、その強さを目の当たりにしたことのない者が多い。そのため、ベアトリスにはピンと来なかったようだ。
首を傾げているベアトリスに、ウルスラは優しい微笑を見せる。
「騎士団というのは、次期ホートン候というだけで、目をつけられる世界ですからねー。うまく影に隠れて、のんきにやっていくのが妥当なんですよ。特にガザニアは、団長がいい意味でも悪い意味でも目立っていますから」
何もないところで転ぶ。階段をことごとく、滑ったり落ちたりする。そんなヴァーノンを目の当たりにすれば、嫌でもそちらに目が向いてしまう。
以前、ガザニア騎士たちが心配して列挙した失態は、もっと多岐に渡っていた。そういったものを見てきた騎士ならば、ついついヴァーノンを見てしまう可能性もある。
「あれで、ガザニアの団長もお強いですけどね」
「でも、ヴァーノンさんは、メイベルさんには勝てないみたいですね」
「ああ、似た戦い方ですから、苦手なんでしょうね。リナリアの団長は頭が切れる分、敵になればやりにくいでしょうから」
直接、手合わせを見たわけではないはずだ。そんなウルスラが断言するのだから、両方と一度はやり合っているのだろう。その上でなければ、彼女は安易に判断しない。
だからこそ、ウルスラの評価は信頼できるのだ。
「団長! ウルスラ!」
いくつか声がして、振り向く前に突進された。よろめいたところを、さりげなくウルスラが支える。
「客室、見ました? すっごい広いんですよ! それで、一人ひと部屋使ってもいいんですって!」
はしゃいでいるヴェラにやや引きつりながら、ベアトリスは頷く。
「あ、はい。広いですよね。団長の個室は、寝室がある分、あれより広くなりますけど……それでも、寝室として見たら、ずいぶんゆったりしてますよね」
何の気なしにベアトリスがほろりとこぼすと、ウルスラまでが目を見張った。
「……団長の部屋って、あれより広いんですか?」
「え? そうですね。応接間が、あの客室くらいです。あの半分に足りないくらいの寝室もついているので、広いと思いますよ」
「……そうなんだ。やっぱ、団長だと違うんだね」
ヴェラとテレシア、メルルは感心した様子で呟いている。すっかり話が脱線した上に、存在を無視されているサージは、ひょいと軽く肩をすくめた。そんな彼をチラッと見たウルスラは、小さな笑みを口元に浮かべる。
「その客室は、何人までなら一度に寝られそうですか?」
ウルスラの問いは、誰かに向けたものではない。答えられる人間であれば、誰でもいいから答えて欲しい。そんな問いかけだ。
「布団を持ち込んで寝るだけなら、七、八人でも大丈夫だと思いますよ」
「じゃあ、みんなで一緒に寝ましょうか。どうせ、滞在中は基本的に船で寝泊まりすることになるでしょうし」
ベアトリスが答えると、ウルスラから提案された。それに対し、ヴェラたちはワッと声をあげて歓迎する。
もちろん、反対する理由はない。
「団長と一緒に寝るなんて、滅多にないよね」
「うんうん。野営訓練も流れちゃったし、ラッキー!」
楽しそうに話しているヴェラたちを、それからウルスラを眺める。
サージの存在をふと思い出し、ハッとなって確認した時には、彼の姿はすでになかった。




