一章 4
国境だというその場所は、まさに水辺だった。広大な湖のほとりと言われても、そう違和感がない。
船着き場には、壁はないが屋根のついた木製の船が浮いている。三十人は乗れそうだ。
「あの船に乗るんですか?」
ベアトリスがタデウスに問う。彼はニッコリ微笑んで、首をゆるゆると横に振った。
「僕たちが乗る船は、もう少しまともだよ。襲われてもいいように、船底に金属を張ってあって、壁に囲まれている船だからね」
人によっては、皮肉と受け取られかねない。真顔でしれっと些細な嘘も言う。そんな彼の物言いは、悪気のない癖のようなものだ。何日もつき合わされてきたためか、さすがにそろそろ慣れてきた。
スタスタと歩き出すタデウスに遅れないよう、ベアトリスは慌ててついていく。
(船に乗ったら、ウルスラさんたちと少しは話ができるかな?)
他の者を久しぶりと感じてしまうほど、馬車での移動中は、タデウスとオリオンの顔しか見ていなかった。おかげで、目に映る何もかもが新鮮だ。
無言で案内をするタデウスについていった先には、ついつい目を見張るほど立派な船が鎮座していた。
いったい何人乗せる気なのか。そう問いたくなる、巨大な船だ。目立つためなのか、船体は真っ白に塗られ、フロース王国の名が入っている。縦に三段、横にいくつも並ぶ窓を、つい数えてみたくなった。
どうやら、甲板もあるようだ。船上で人が動いているのが、地面からでも確認できる。
「……また、無駄にとんでもない船を用意しましたね」
「僕が乗るんだから、このくらいはしてもらわないとね」
思わずといった体でこぼしたウルスラに、タデウスが平然と答えた。オリオンはため息をこぼし、指先をギュッと額に押し当てている。ベアトリスと騎士たちは、ただただ呆気に取られるばかりだ。
「さあ、乗って。全員乗り込んだら、リュールング共和国に出発だよ」
真っ先にオリオンが動く。ベアトリスの手を引っ張り、渡し板を通ってさっさと乗り込む。それにならって、騎士たちも続く。
ベアトリスがふと振り返ると、ウルスラとタデウスがまだ動いていなかった。
(……何か、話をしているのかな?)
どうやら、ベアトリスが知っている以上に、ウルスラは顔が広いらしい。城内でもたまに、貴族からウルスラへの伝言を頼まれることがある。そのほとんどが、屋敷へ遊びに来て欲しい、といった類いのことだ。
ウルスラに伝えてはいるが、どうやら忙しいことを理由に断っているようだ。同じ貴族に数回、似たような伝言を頼まれていることからも、それは明らかだろう。
他人の意見では、決して揺らがないウルスラだ。本人がその気にならなければ、何度頼んでも結果は変わらない。
「この手の船には、休憩用の船室もあると思いますが……見てみますか?」
動かないウルスラが、少しばかり気になった。だが、これだけ立派な船だ。その船室を見ることにも心惹かれてしまう。
逡巡した結果、ベアトリスは船室を見ることにした。
訓練場ほどの広さがある甲板を眺めてから、船内へ入る。薄暗い階段を慎重に下り、絨毯が敷かれている廊下を歩く。ふわふわした絨毯のためか、足音はほとんど響かない。
「……これ、侵入者がそっと歩いたら、多分わかんないですよね」
「ああ、そうですね。でも、侵入は難しいと思いますよ。何しろ、タデウス殿下が用意させた船ですからね……いったい、どんな仕掛けがしてあるのかと、今から戦々恐々としてしまいます」
オリオンが、ひどく遠い目をしながら呟く。
どうやらタデウスは、敵には容赦しない性格のようだ。その辺りは、メイベルに通じるものがある。
今度は途中に踊り場のある階段を下りる。そこが目的地だった。
「……いくつ、あるんでしょうね」
知らず知らず、疑問が声になってこぼれてしまう。
廊下の両端にドアがズラリと並んでいる。奥はぼやけてしまって、はっきりとわからなかった。しかし、見えている範囲だけでも、両手足の指の数ではきかない。
「一人ひと部屋になりそうですね」
呆れて息を吐き出したベアトリスは、手前のドアを開けてみる。中は、団長の私室にある応接間と変わりない広さだ。そこに、無駄に大きなベッドと、着替えを入れるクローゼットが設えられている。
恐らく、ただの騎士ならば、部屋の広さにまず驚かされるだろう。その上、一人で好きに使えるとなれば、かえって落ち着かなくなるに違いない。
「味方にすら打撃を与える点では、非常にタデウス殿下らしいのですけれどね……」
げっそりした様子で、オリオンが吐息とともにほろりとこぼした。
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船に乗り込む他の面々を見送って、ウルスラはタデウスと向き合った。
別段、合図を送ったりしたわけではない。それでも、あちらも何か言われると察していたのだろう。あえてこの場に残ったようだ。
「……余計なことを、うちの団長に言ってないですよね?」
「あー、オーソンに膝蹴り食らわしたって話は、しちゃったかな」
「……そういうのを、余計なことと言うんですけど?」
言ってしまったことを責めるのは、あまりにも意味がない。わかってはいるが、彼に対しては、しつこく言わずにはいられないのだ。
何しろ、前もってきつく言っておいても、しっかりやらかすのだから。
「でも、膝蹴りの理由は言ってないよ? 気にはなるみたいだけど、僕に聞こうとはしなかったから、ウルスラが話すまで待つつもりじゃないかな?」
「団長はそういう人ですからね。ただ、うっかりそんなことを言ってしまった殿下には、正直、何らかの報復をしたい気分です」
元々、オーソンに対して好意はないと、きっぱり言ってある。些末なケンカと思ってくれるだろうか。
それでも、気にしない振りをしつつも、ふと気に病んでしまう。ベアトリスには、そんな部分がある。
知らずに済むなら、知らせたくない。
そう思っていることほど、彼は平然と、うっかり話してしまうのだ。
「というわけで、今回の出来次第で、報復をどうするか考えさせてもらいます」
「……相変わらず、君も性格が悪いよね」
「あなたが逃れるには、ただひとつ。フィエリテ王国にサマラ王妃を引き取らせ、その上で王妃がやらかしたことを認めて謝罪させること。これ以外は、ささやかですが報復行為を追加させていただきますから、あしからず」
タデウスの言葉をサラリと聞き流し、ウルスラははっきり告げる。
そもそも、今言った内容をやり遂げなければ、今回の訪問が成功したとは言えない。場合によっては、大きな失態となるだろう。
特に、相手がフィエリテ王国なのだ。全力で当たっても、そこまで完璧な結果を出すことは、相当難しい。
「ちなみに、報復行為について聞いてもいいかな?」
「そうですね……報告の際、オーソン様の目の前で、あなたの功績をべた褒めしておきましょうか。無駄に大げさに褒めておけば、嫌でも目の敵にされるんじゃないですか? 意外と心が狭い人のようですからね、オーソン様は」
わざわざ当たって砕けにきた騎士を、訓練中に叩きのめしたと聞いている。そんなことが何度も続けば、察しのいい者には気づかれるだろう。
そうなったら面倒だ。それ以外の感想も感情も、一切湧いてこない。
だいたい、こちらがよく知らない騎士など、すっぱり断るに決まっている。いちいち相手にする意味もないのだ。いったい、どこまで狭隘な心の持ち主なのか。
これまで、浮いた話ひとつなかったことを、彼ほどよく知っている人間もいないだろうに。
「ちなみに、伯に関しては、余計なことを言って団長を悩ませたと伝えれば、簡単に怒りを買えますよ?」
「……本当に君は、性格が悪いよね。レーニアといい勝負だよ」
ため息混じりのタデウスに、ウルスラはニッコリ微笑んでみせる。
「それは最大の賛辞ですね」
見た目のたおやかさを裏切らぬよう、上手に生きてきたというメイベル。その彼は、徹底的に利用する側であることを選んでいる。ただひたすら利用されてきたサマラや弟妹とは、明らかに違う生き方だ。
それゆえに、意味もなく反感を買ったこともあったようだ。その辺りは伝聞に過ぎないため、ウルスラも詳しくはない。
「でも、私が思うに、あなたも相当性格が悪いですよね。そろそろ、腹が真っ黒になっているんじゃないですか?」
ひょいと肩をすくめて言い放つと、タデウスはにこやかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、見てみる?」
「脱いでもいいですけど、その時は大成功でもしっかり報復しますよ? あと、あなたの奥方にもきちんと報告させていただきますから」
自身の服にスッと手をかけたタデウスに、無表情のウルスラが冷ややかな視線と言葉を向ける。とたんに、タデウスは顔を引きつらせた。
ごく一部にしか知られていないが、タデウスは愛妻家と見せかけた恐妻家だ。
もう十歳若ければ、間違いなくエリカ騎士に勧誘していた。その程度には、タデウスの妻は腕が立つ。ラエティティア王国連邦の小国の王女とは、到底思えない腕前なのだ。
「……ウルスラが知らないことって、あるのかな?」
「ありますよ? 人の心は、私にも理解はできかねますから」
「……それは、君自身の心も含まれているってこと?」
「いいえ。私の気持ちははっきりしていますよ? うちの団長は大好きですけど、あなたとオーソン様は嫌いです」
きっぱり言い切ったウルスラに、タデウスは苦笑いを浮かべる。彼は「嫌い」と言い切られる理由を、すでに知っているのだろう。
「そうだね……君に好かれることは、ないね」
「オーソン様も、早めに理解してくださるといいんですけどねー」
「……それは、無理じゃないかな?」
感情のこもっていないウルスラの言葉に、タデウスがサラリと返す。反射的に目をむいたウルスラは、瞬きにしては少し長めに目を閉じる。
目を開けた時には、少なくとも表面上は、憤りなど感じさせなかった。
「十年くらい前だったかな? オーソンがしょっちゅう自宅に帰っているってことで、当時の団長に注意されたらしいんだよね。で、そこで、これっぽっちも脈のない、好きな女に会いに行って何が悪い、と堂々と言い放ったとか何とか。オーソンと同年代以上だったら、みんなこの話を知ってるよ」
ついうっかり、空気をヒュッと吸い込んでしまった。むせるまではいかなかったものの、吸い込んだ空気を喉に詰まらせそうになる。
十年前とえば、ホートン候に拾われて二年ほど。当時はまだ八歳か、せいぜい九歳だろう。役立つことに必死で、脈があるないの話ではない時期だ。
だいたい、そんな余裕など、今でもまったく持てないのだ。その頃にあるはずがない。
「そういえば、最近は自宅に帰ってないよね、って話になってるから……時間の問題じゃないかな?」
ニッコリ微笑んでいるタデウスに、無性に苛立ちが募ってしまう。
「……そうですか。ではなおさら、帰国後の報告では、あなたをべた褒めしておきますね。この世の地獄を見てきたらいいと思うんですよ。きっと、今よりもっと図太くて、図々しくなれると思いますから」
「……僕は、レーニアみたいになる気はないんだけどね」
サッと顔を青ざめさせて、タデウスが笑顔を引きつらせる。
動揺したり、危険を感じると、彼は普段よりさらに口を滑らせる。それゆえに、先ほどから出ている話はすべて、実話なのだろう。
余裕のない時にサラッと嘘がつけるほど、信用できない者ではない。
「私からすれば、あなたもオーソン様もリナリアの団長も、大差ないんですけどね」
もちろんそこに、ガザニアの団長も含まれている。とはいえ、今この場で、あえて言う必要はない。
一緒くたにされたからか。タデウスはひどく渋い顔だ。
「……レーニアと同類に見られるのは、さすがにショックが大きいね」
「あなたとリナリアの団長は、見た目も中身も、それほど変わりませんけど?」
もう一度、念を押すように言い切ると、今度こそタデウスはがっくりと肩を落とす。
外見の印象は、二人を別々に見ると違ってくる。けれど、そこに並んで立っていれば、誰がどう見ても兄妹にしか見えないのだ。その程度には、放つ雰囲気も程よく似ている。
「とりあえず、うちの団長にこれ以上余計なことは言わないでくださいね? 私、団長にいろい言われるのが一番堪えるので、そうなったら、報告の時に無意味な報復もしちゃいそうなんですよねー」
薄ら笑いを浮かべながら、ウルスラは冷たい声で言い放った。




