五章 4
婚約披露というせっかくの場で、話題を持っていかれた。
それを気にする者は、気にするだろう。だが、ベアトリスは気にしない。
モデスティー伯の娘であり、ホートン候の孫であること。オリオンと婚約をしていること。その事実は、開始早々に知らしめている。
オリオンの人見知りを考えても、これ以上目立つ理由などない。
けれど、それが理解できない者も多いのだ。
「……ランソム候は、少々浮かれすぎですわ。ベアトリス様の婚約披露の場で、ご自身の令嬢をお披露目だなんて」
「本当に。羞恥心がないのかしら?」
わざわざベアトリスに近づいて、苦言を呈する振りをする令嬢たち。彼女たちに同意する、つき添う男性たち。
彼らに、ベアトリスは思わずため息をついた。
「別にいいじゃないですか。それに、あたしが許可を出しました。ミランダさんはあたしの団員ですし、また人を集めるくらいなら、今まとめてやっちゃった方が楽ですよね」
悪し様に批難した手前、コロリと意見を翻すことはできなかったようだ。ベアトリスの周囲にいた貴族たちは、一様に押し黙る。
そんな彼らにチラリと視線を投げかけ、ウルスラがニッコリ微笑む。
「団長は、エリカ騎士たちが大好きですもんね」
「当たり前です」
「私もエリカ騎士たちも、団長が大好きですからね」
「知ってます。だからあたしは、みなさんを守ると決めたんですから」
もちろん、守りたいものはエリカ騎士だけではない。
精一杯広げたところで、大して広がらない両腕。それでも、できるだけ多くのものを、包み込んで守りたいのだ。
ひとつでも多く、救いたい。
そのためにできることなら、決して諦めない覚悟はできている。
不意に、ウルスラが窓へ目をやった。ほぼ同時に腰へ手をやり、大きく目を見開く。胸当てがついていて、腰から下を大きく包むエプロンを、慌ててめくっている。
そんなウルスラが見たのは、この大広間から庭へ出られる、唯一の大きな窓だ。
部屋へ入った当初は気づかなかったが、ここは、エリカ騎士の入団試験で面接を行ったあの部屋だった。
最初に下りてきた階段は、オリオンが震えていた場所。あの日あったソファなどは、綺麗さっぱり片づけられている。窓にかかっているカーテンは、恐らくあの日のままだ。
懐かしさは、それほど感じなかった。そこまで、この場所に思い入れはない。
「ウルスラ、忘れ物だぞ」
いつの間に近寄ってきていたのか、オーソンがウルスラに剣を手渡す。ウルスラ愛用の剣だ。
「……さては、さっきやりましたね?」
ちょうど同じくらいの大きさで、重さも調節してあるのか。訓練用に先をつぶした剣を、ウルスラはオーソンの胸にグッと押しつける。
どうやらそれが、愛用の剣の代わりに刺さっていたようだ。
押しつけられた剣を、オーソンは自身の剣の脇にグッと差し込む。
「はて、何のことだか」
飄々とした態度で肩をすくめるオーソンを、ウルスラがキッと睨みつけた。しかしすぐに気を取り直したのか、剣を持って窓へ近寄っていく。
と、ふと足を止めて振り向いた。
「もちろん、オーソン様も手伝ってくれますよね?」
「……仕方ないな」
ガザニアの制服を着ているオーソンは、当然帯剣している。渋々といった体で、やけに楽しそうな顔をして、ウルスラと窓へ向かって歩いていく。
「……いったい、どうしたのでしょうか……」
不安げにギュッと眉を寄せる令嬢たち同様、ベアトリスも嫌な予感を拭えないでいる。
ウルスラなら、事前に襲撃の情報をつかんでいるかもしれない。そして今、その襲撃者たちがやってきたのでは。
何の武器もなく、自分の身すら守れない。頼りない、非力な娘。
そんな自分の存在が、急に、たまらなく嫌なものへと変わる。
「ベアトリスさん……」
無意識に、つかんでいた手に力が入ってしまったのか。心配そうなオリオンの声が降ってきた。
階段そばのこの場所からは、窓は遠くて状況がよくわからない。
かろうじて見て取れるのは、オーソンやメイベルらしき者たちが、窓際にいる者たちを廊下側へと避難させている。それだけだ。
「……少し、窓側へ行ってみましょうか」
オリオンに尋ねられ、ベアトリスは即座に大きく頷く。
何かできるわけではない。それでも。
ベアトリスはオリオンと二人、人の流れに逆らって進んでいく。
「団長!」
後ろからミランダが追いかけてきたようだ。チラッと振り向くと、フェリックスも一緒だった。
「これ、団長のお父さんから預かってきたんだけど……」
ミランダが差し出したのは、いつも使っている弓と矢筒だ。
「あ……ありがとうございます!」
これで、戦える。守りたいものを、守りたい時に守れる。
一度だけ、弓と矢筒をギュッと抱き締めた。
弓は手に持ったまま、矢筒を腰についていたリボンにしっかりと結びつける。
こんなことを想定していたとは思いたくない。しかし、右腰のリボンだけ、引っ張ればほどけるようになっていた。左腰も試しに引いてみたが、きっちり縫い止めてある。その代わり、剣を差し込めそうな隙間が作ってあった。
(ウルスラさん……)
ドレスは軽く、足の動きを阻害しない。そうなるように、このドレスは作られているのだ。
避難してきた貴族たちと窓の中間。その辺りで、ベアトリスとオリオンは身構える。
オーソンやウルスラ、メイベルといった、見知った者の姿は見つからない。そして、窓が大きく開け放たれていた。
ゆるゆると流れ込んでくる風に、レースのカーテンが頼りなくユラユラと揺れている。
「……外、でしょうか」
警備に当たっているはずの、見当たらない者たち。彼らの行方を推測して、オリオンはボソリとこぼす。
オリオンがいる限り、中の人たちは無事が保証されるだろう。では、今ここに姿のない者たちは、いったいどうなるのか。
「……オリオンさん。あたし、外を見てきます」
「ダメです!」
やけに強い力で、グイッと引っ張られて引き止められる。
顔だけ振り向いた先には、ひどく真剣で、何かに怯えるオリオンがいた。
「……じゃあ、一緒に行きましょう」
夜回り番と同じように。ベアトリスは何の迷いもなく、スッと右手を差し出す。オリオンは数回瞬いて、ゆっくりとぎこちなく微笑んだ。それから、ベアトリスの手をしっかりと握り締める。
互いに顔を見合わせ、一度だけ頷き合って、窓へ向かって歩いていく。
窓へ近づくと、外の音が聞こえてきた。剣戟は聞こえているが、それほど激しさは感じられない。もしくは、よほど遠くでやり合っているか、だ。
音は、左右から聞こえてくる。
どちらへ向かうべきか。判断しかねて逡巡している間に、音は不意に途切れた。
パタパタと駆けてくる足音に、一瞬警戒した。けれどすぐに、敵ではないことに気づく。
「団長!」
「ビビアンさん、いったい何があったんですか? みなさんは無事ですか?」
駆け寄ってきたビビアンに、思わず質問を浴びせてしまう。そんなベアトリスに、ビビアンはわずかに苦笑いを浮かべた後、スッと表情を引き締めた。
「城の西側より、十数人の賊の侵入を許しました。しかし、警らに当たっていた騎士がすぐに気づき、応援を呼び対応。賊は全員、さまざまな形で捕獲してあります。こちらの被害はほとんどありません。数人、かすり傷を負いましたが、治療しておきました」
「そうですか、よかった……」
「……というか団長。まさかと思いますけど、その恰好で戦う気でした?」
「え? 当たり前じゃないですか」
左手に小弓をしっかと握り、右腰には矢筒をつけたベアトリスに、呆れ果てた声音でビビアンが問う。それに対し、ベアトリスは、不思議そうに首を傾げながら平然と答える。
「さすがに、ドレスを着た時くらいは、大人しくしていましょうよ。団長がドレスで敵に突っ込んでくなんて、こっちの寿命が縮みます」
「……えっと、じゃあ、次に同じようなことがあったら、善処します」
「善処する、じゃなくって、やらないでください。団長が外に出てたら説教して欲しいって、ウルスラだけじゃなくて、ガザニアの副官にも言われたんですからね?」
グッと顔を近づけ、怒っている様子のビビアンにきっぱりと言い切られる。反論できず、ベアトリスはウッと言葉を詰まらせた。
そのベアトリスの隣で、オリオンはフルフルと肩を震わせている。
「アマリリスの団長も、笑ってる場合じゃないですからね。ちゃんと団長を止めてください!」
「……どんなことがあっても、ベアトリスさんは、私がきちんと守ります。守り抜く自信がなければ、少々強引でも安全な場所で引き止めますよ」
「だったらいいですけど」
あっさりとビビアンは引き下がった。
普段の彼女なら、もう少し食い下がるはず。
いつもと違う態度に、ベアトリスは怪訝な色を隠さない。
「あ、そうそう。首謀者らしき男はすでに、口を割ってますよ。ウルスラとガザニアの副官、それと、リナリアの団長が激怒中です」
「……それは、後が恐ろしいですね」
あらぬ方向を眺めながら、ボソリとオリオンが呟く。ベアトリスも、ついついため息を大きく吐き出す。
メイベルまで激怒しているということは、サマラが絡んでいるのだろう。それ以外に、理由が思いつかない。
「……フィエリテ王国は、どうなっちゃうんでしょうね」
何の気なしにこぼしたベアトリスに、オリオンとビビアンがギョッとした顔で身を引く。
「父様と、ウルスラさんとオーソンさんと、メイベルさんですよ? 全員相手にしたら、ちょっと渡り合えませんよね?」
「……その面々とまともにやり合えるのは、多分団長くらいですよ? あと、その人たちに、ホートン候夫妻が加わっているっぽいですね」
完全に呆れきっているようで、ビビアンはやや投げやりに吐き捨てて肩をすくめる。
「それはそうと、団長はこっちで待機しててくださいね? 一応、いないとは思いますけど、まだ潜んでるかもしれないんで、貴族の方々を守っててください。向こうに行ったら、いろんな人からその場でがっつりお説教ですって」
「……わかり、ました」
決して、説教が怖いわけではない。普段は静かに怒る身近な人たちに、これ以上負担をかけるわけにはいかないからだ。
再び駆け戻っていくビビアンを見送って、ベアトリスはオリオンとともに、大広間の中へ戻っていった。
‡
「先に行っててもらえますか? すぐ追いかけますから」
ウルスラが告げると、ベアトリスはほんの一瞬、怪訝そうに首を傾げた。だがすぐに、頷いてくれる。
察しのいい、素直な人だ。
同時に、自身の迂闊さが嫌になる。
ベアトリスの着替えに向かう途中で受け取ったため、連絡用の紙をうっかり落としてしまった。普段ならやらかさない失態は、どこか浮かれていたせいだろう。
──西側から、十人を超える賊が侵入の恐れあり。
そう書かれている紙だ。味方の目に触れるならまだしも、敵に理解されてしまったら。別の手を講じられてしまうと、確実に後手に回らされるだろう。
ウルスラはふと、ベアトリスへ目を向ける。
(……私はいったい、どれだけ、団長のこの姿を待ち望んでいたんでしょうね)
ベアトリスが少し緊張した面持ちで、フワフワしたカフス袖を揺らして、オリオンと並んで歩いていく。そんな、ある意味初々しい二人の後ろ姿を見送って、ウルスラはクルリと振り向いた。
「……オーソン様に、間諜の真似ごとをする趣味がおありとは、さすがに知りませんでしたけど?」
「いや、ずいぶん楽しそうだったから、声をかけづらかっただけだ」
くつくつと笑うオーソンに、ウルスラはひょいと肩をすくめた。
そんなくだらない理由で、コソコソ隠れている人間でないことは、よく知っている。絶対に、他に何か目的があるのだ。
「それで、どんな用ですか?」
「父からお前に、届け物だ」
「……ホートン候から、ですかぁ?」
語尾が妙に上がり、あからさまに嫌そうな顔をするウルスラに、オーソンは再び低く笑う。
ベアトリスは無意識に、本心からの言動であの調子だ。しかし、ホートン候は少し違う。彼は無意識もあれば、わざとやっている時もある。その見極めは、慣れていてもかなり難しいのだ。
むしろ、すべて素でやっているベアトリスの方が、扱いは易い。
「ほら」
手のひらに乗せられた紙に目を落とす。
これは、ホートン候とモデスティー伯、そして彼らの間諜の間で使っている暗号で書かれている。
つまり、他者には知られたくない話……そのはずだ。
読み終わる前から、サッと血の気が引いた。直後に、頭へ一気に血が上っていく感覚が襲う。
激しい衝撃と、苛烈な憤り。それが原因だと、しばらく理解できなかった。
「……ホートン候に、冗談はその性格だけにして欲しいと、伝えてもらえます? 別に、私が直接言ってもいいんですけど」
「そう言うと思ってはいたが、父の中ではとっくの昔に決定事項だったそうだ」
「なっ……! オーソン様も何か言ってやってくださいよ! これはあんまりです! このとおりにするくらいなら、私、結婚なんて死んでもクソ食らえだって、あちこちで叫びますよ!?」
「……一応、うちの侍女だったんだから、言葉は選べ。な?」
受け取ったばかりの紙を、手のひらでギュッと握り締めてクシャリとつぶす。
エリカ騎士でも、身元がきちんと保証された二人は、すでに嫁ぎ先が決まっている。ミランダは驚くことになるだろうが、そこはランソム候の愛にあふれた可愛いいたずらだ。いつものとおり、照れながら素直に受け取ればいい。
だが、この紙切れに書かれていることは、承知できない。これだけは、絶対に、断固拒否しなければ。
そんな決意を新たにして、ウルスラはもう一度オーソンに食ってかかる。
「では、オーソーン様はこのとおりでいいんですか?」
「ああ、俺はかまわないぞ」
「はぁーっ!?」
一緒になって、拒絶してくれる。そのはずだったのに。
「何でですか!」
いっそのこと、我を忘れて口汚く罵ってしまいたかった。けれど、ここに人が来ないわけではない。だから、忠誠心と自尊心が、どうしてもそれを許してくれないのだ。
彼は答えず、ニヤリと笑った。それが、何か企んでいる時の顔だと、嫌と言うほど理解している。
ウルスラは思わず、大きく一歩、後ずさりしてしまう。
「お前にしては珍しいな。これっぽっちも気づかなかったのか?」
声は潜められていたが、辺りはしんと静まり返っている。聞こえなかった、と言い張れば、今度はさらにはっきりわかるよう、動きを封じられた上に、耳元で囁かれるかもしれない。
(いろいろ冗談じゃないですよ!)
瞬間的に、ウルスラは数歩下がった。そのつもりでいたが、どうやら読まれていたらしい。あっさりと左腕の肘近くを取られ、逃走は失敗に終わってしまった。
引っ張られている腕を、できるだけ自身に引き寄せた。足をグッと踏ん張り、引っ張るオーソンの力に、ウルスラは全力で抵抗する。
もう少し接近してくれれば、かえって逃げようがあるというのに。
互いに手の内をよく知っているため、双方が警戒して微妙な距離を取っているのだ。
「お前が来てからエリカ騎士団が発足するまで、十年近くあったな。毎日のように帰っていたのに、今は一切帰らないのは、なぜだと思う?」
「団長がいるからですよね?」
とっさに言い返してみた。
実際は別であることを、薄々察してはいる。
(……ずっと、おかしいとは思っていたんですよ)
記憶にある最初の頃は、週末に少し戻ってくる程度だった。それがいつしか、毎日顔を見るようになったのだ。いくら従騎士でも、普通ではないだろう。それがガザニア騎士になっても、副官になっても、何も変わらなかった。
むしろ、年を追うごとに悪化したと言ってもいい。特に、副官になってからは、うんざりするほど長居することもあったのだ。
問題があれば、ホートン候から注意しているはず。だから、許されてはいるのだろう。そう思っても、相当の異端だと感じていた。
実際に騎士となって、当時の彼がなおさら、理解できない生き物に思えて仕方がない。
「……まさか、ここまで頭のおかしい人だとは、思っていませんでしたよ」
「最初は俺も、父上の気が狂ったかと思ったぞ?」
「だったら、その時点で何か言っておいてくださいよ! ホートン候を止められる人間なんて存在していないことは、私も十分理解していますから、止めろとは言いません。でも、苦言を呈しておくことはできたでしょうに!」
彼の言う『最初』が、いったいいつ頃のことなのか。それはわからない。だが、少なくとも、常に拒否していれば少しは違っていたはずだ。
「目に余るならそうするつもりだったが……まあ、父上の思惑もあるようだし、別段問題はないだろう?」
「ありますよ! 大ありです! 一家そろって私の人生の楽しみを根こそぎ奪って、地獄に叩き落とす気ですか!?」
「俺は、お前なら、死んでも愛せる自信があるぞ?」
「そんなもの、今すぐその辺に全部捨ててきてください!」
ウルスラが叫んだ瞬間、オーソンがフッと力をゆるめた。全力で引いていたため、ウルスラの体勢は一気に崩れる。
踏みとどまることに気を取られた瞬間。完全に油断したところを強引に、思い切り引っ張られた。
引っ張られた腕の勢いで、ウルスラはオーソンの肩に顔面から突っ込む。そのままオーソンは、彼女の自由な腕と腰を、右腕でギュッと強く抱き締める。
今や、ウルスラが自由に動かせるのは、両足しかない。それも、勢いがまったくつけられない状態だ。反撃に出るにしても、明らかに時機ではない。
「知ってるか? 宿舎の部屋には、ベアトリスは一度も入れたことがないんだ。まあ、来る時はたいがい、何かしらもめ事を持ち込む時だけどな」
「……もめ事しか持ち込まない私を入れるんですから、団長も入れてあげればいいじゃないですか」
「……そういえば、お前以外、入れたことがないな」
耳元へ囁いてくる楽しげな声音には、覚えがある。ただし知っているのは、まったくの別人だ。
似ているところなど、何ひとつないと思っていたのに。どうやら、厄介なところばかりが似たらしい。
思い返せば、これまで、女らしい陰湿な意地悪をしてきた侍女や使用人が、ことごとくホートン候から暇を出されているではないか。
もちろん、誰に何をされたかなど、他人に打ち明けたことはない。それでも、始まって半月もすると、手を出してきた相手がいなくなる。そのうち、敵対すれば自分が首を切られるとわかったのか、誰も手出ししてこなくなった。
ろくに屋敷にいないホートン候夫妻には、知るよしもない。あんな真似ができるのは、たった一人だ。
(ああ、そうですよ。この人は昔から、こういう性格でしたね!)
身内は大事にするが、他人はそれほどでもない。その辺りが、モデスティー伯と気の合った理由だろうかと、ずっと思ってきた。
どうやらそれは、それほど間違ってはいなかったようだ。
「……私は、あなたの身内になった覚えはないですけどね」
当然、身内扱いされるいわれもない。
「そうか? 俺はずっと、お前を身内同然と思ってきたぞ?」
「ああ、そうですか。で、この計画が実行された場合、私はどこの養女になるんですか?」
紙には、そこまでは書かれていなかった。
家柄や、持っている権力、立ち位置を加味すると、ランソム候あたりが有力か。
「モデスティー伯だ」
「え……?」
「義理とはいえ、ベアトリスの姉になれるぞ」
予想外の名に、ウルスラは完全に硬直している。
確かに、モデスティー伯は、政務を掌握している人だ。家柄は劣っていても、権力は持っている。決して、見劣りはしないだろう。
だが、仲間内で縁を強めてどうするのか。
「……ああ、そういうことですか」
今となっては、ずいぶん昔のもめ事。それをふと思い出して、ウルスラはようやく合点がいった。
かつて、年がほど近い、当時のモデスティー伯子息へ娘を嫁がせる。そう決めたホートン候の思惑は、周囲からの激しい妨害で、その時は崩壊させられたのだ。ベアトリスがいるとはいえ、今もまだ、完全とは言えない。
正しく、モデスティー伯との縁をつなぎたいのだろう。
「ところで、その結果、何がついてくるんですか?」
「いずれ、俺が……というか、俺の子が、モデスティー伯の仕事を引き継ぐ予定だ」
「……はぁ? あなた、ホートン候を継ぐんじゃないんですか?」
尋問して悪事を自白させるなど、もってこいの仕事ではないか。
言外にそう告げると、オーソンはニヤリと笑った。
「そっちはベアトリスに任せる。オリオンもいるしな。それに、父と母、二人分の仕事が一人でできる人材だぞ、あれは」
「それは、そうかもしれないですけど……いえ、団長なら余裕で、無意識にできそうな気がしますけど……そもそも、モデスティー伯には子息がいるじゃないですか。その子はどうなるんです?」
「さあな。伯がいいようにするんだろう」
まだ幼い子息だが、噂は聞こえてこない。つまり、目立ってよくもなければ、取り立てて悪くもない。ごくごく普通の子供、ということだ。
幸か不幸か、父親に似なかったらしい。
「……まあ、もう七歳になっているのに、何の話も聞こえない子ですからね。しょうがないと言えばしょうがないんでしょうけど」
「あの人いわく、ベアトリス以外は凡庸らしいな。それでは、あの仕事は引き継げない、ということだ」
「あー、そうですね。オーソン様くらい図太くて渡り合える人間でないと、いろいろ掌握できないですよねぇ……」
政務をほぼ一手に担っている。ただそれだけで、モデスティー伯が、あれほどの権力を所有できるはずがないのだ。
情報を制し、他国の情勢を残らず把握しているから、国王の信頼も厚い。その上、頭の回転がよく、弁が立つ。爵位を継いでから、国内外問わず、さまざまな場面で負け知らずだ。
間諜をしているから、そのことをよく知っている。それゆえに、あの地位を引き継ぐには、相応以上の覚悟と、素質が必要と言うことも。
「……お前は、相変わらず俺にだけ容赦ないな」
当たり前だ、と返そうとした瞬間、左腕がフッと自由になった。好機かと思ったとたん、今度は手首付近を押さえつけられる。ほぼ同時に、顎をつかまれて軽く上を向けさせられた。
抗議や文句を言い放つ暇もなく、強くしっかりと、唇を押しつけられる。
(……さすがにちょっと、おふざけが過ぎてますよ?)
ウルスラは冷静に、頭の中で数を数えていく。一定の数字になったところで、スッと右足を軽く引き、オーソンの脛につま先を思い切り叩きつけた。
こういう時のために、先端を特に頑丈に作った特製の靴だ。どんな屈強な男でも、これで脛を強く蹴れば、絶対に無事では済まない。その自信がある。
かすかにうめいて体を離したオーソンの肩に、両手をかける。みぞおち目がけて、全力で膝蹴りを叩き込む。
侍女の恰好は、騎士の制服と違い、何も仕込んでいない状態だ。それでも、十分な勢いがあり、そこそこの痛手を期待できるだろう。
その証拠に、オーソンは呆気なく床へ崩れ落ちた。突っ伏してはいないが、それもかろうじて、といったところか。
「……私に手を出した代償は高くつくと、覚えておいてくださいね? むしろ、今回はバッチリ割り引いたくらいですけど。そもそも、何のために、あのホートン候が私に、閨ごとに関すること以外はみっちり叩き込んだと思っているんですか?」
返事をする余裕もないらしいオーソンを一瞥し、ウルスラはさっさと踵を返す。
今頃、ベアトリスのドレスに異変が起きている頃だ。着替えをしようと戻ってくるだろう。うっかり、行き違ってはたまらない。
(……殺したいほど不快とは言いませんけど、一応私も年頃ですからね。初めての時くらいは、もうちょっと雰囲気とか、そういうものを重視して欲しいじゃないですか)
そんなことを考えた自身の思考に、まずは呆れてしまう。それほど時を置かず、じわじわと頬が熱くなる。
(……団長と、義理とはいえ姉妹になるというのは、なかなか悪くはありませんけどね)
ひっそりと笑みを浮かべ、ウルスラは少し駆けるように、大広間へ向かっていった。




