一章 4
モデスティー伯の仕事部屋を辞した後。ベアトリスは、また周りをがっちり囲まれて、元来た道を戻っていた。
途中でふと思い出したらしく。またしても転びそうになったついでに足を止めたヴァーノンが、ぽつりと呟く。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったよね?」
「あ、はい。聞いていません」
名前くらいは教えて欲しい。そう思いながらも聞けずにいたベアトリスにとっては、まさに渡りに船だ。
この際、ちょこちょこスラングが混じっていようが、気にはしない。
「言い出しっぺの法則で、まずは僕かな? ガザニア騎士の団長を務めているヴァーノン。家名は必要以外で口にしないのが基本ルールだから、他の騎士にも聞かないでね」
ベアトリスはコクッと頷いた。どのみち、庶民にまで名の知れた家でなければ、聞いたところでさっぱりだ。
「それから、君の右後ろでずっと震えっぱなしの赤服は、アマリリスの団長のオリオン。新人が増えるこの時期が、本気で絶望的に悲惨で、日常生活に思いっきり支障が出る、極度の人見知り。君に慣れたら普段の彼が見られると思うけど、少しでも早く慣れるように、時々かまってやって。その結果、ビクビクオドオドしてたり、悲鳴をあげたりしても気にしないで。ガンガンかまい倒してあげてね」
「は、はぁ……」
人見知りだから、目線すら向けてこなかったのか。
ようやく合点がいったベアトリスが、出し抜けに振り向き仰ぐ。とたんにオリオンは、顔を確認する間も与えず壁に顔を向けてしまう。
動きに合わせてサラッと揺れる、真っ直ぐな長い黒髪。それだけが、唯一わかっている彼の特徴だ。
「オリオンは君の顔を見ないだけで、話しかければそれなりに、普通に答えるはずだから。僕らの中では、多分一番まともで常識的な性格だし、誰にでもすっごく優しいし」
説明を苦にしないらしいヴァーノンが、さらに紹介を続けていく。
「あと、君の左後ろの青服」
視線を向けると、碧色の瞳と視線がぶつかった。癖のない金色の髪と合わせ、物語に出てきそうな、王子様然とした男性だ。ニコッと微笑むと、真顔よりいくらか幼く見える。
「超がつく問題児のコーデルって言うんだけど。君はモデスティー伯の後ろ盾があるから大丈夫だと思うけど、それでもあんまり近づかない方がいいね。何かされたら、容赦なくやり返すもよし、モデスティー伯かメイベルに報告しちゃうもよし、だよ」
「そうですわね。コーデルは女の敵ですもの」
鷹揚に頷く姿も様になっている美女こそ、大丈夫なのだろうか。
ベアトリスが心配げに見上げる。目の合った彼女は「わたくしは平気ですから心配無用ですわ」と妖艶な微笑を浮かべた。
あまりにも濃い、ねっとりした色香に、頭の芯がしびれてクラクラする。
「……何かさ、オリオンと比べて俺の扱いって悪くないか?」
「僕は客観的事実を、淡々と言っているだけだよ。やることなすこといい加減だし。待ち合わせをすれば、一人だけ絶対に遅刻してくるし。そもそも、やる気っていうものを持ち合わせてないし。女性と見れば、既婚未婚老若幼女、ところかまわず口説くし。あれ、マジで迷惑だから。人妻と幼女は、いい加減マジでやめて。その上、寝起きも超がつくほど悪いなんて、問題だらけの最低男以外の何者でもないでしょ」
「……それは、確かに最悪ですね」
ヴァーノンの言葉に、ベアトリスは思わず同意してしまった。その直後、背後から抱きつかれて悲鳴をあげる。
「お、意外と……」
他の人間が手や口を出す前に、ベアトリスの自由な右手が腰の剣に伸びる。耳障りな音を乱雑に鳴らし、剣は一気に引き抜かれる。勢いをつけて、左腰側から彼女自身の背後へ突き刺した。
ためらいのない、流れるような動き。感嘆の声はあがったが、自業自得の人物を気遣う言葉は一切ない。
「あっぶなー……」
体を反らせて逃げた勢いが余って、コーデルは床に寝転がっていた。振り向いたベアトリスは、彼の眼前に、鈍く光を反射する剣を突きつける。
青ざめたコーデルの額から、汗が一筋流れ落ちた。
「痴漢には一切容赦するな。変態はその間違った自尊心を、ひとかけらも残さず思い切りへし折れ。兄様にそう教わりましたが」
「すみませんでした。俺が悪かったです」
ひんやりとした蔑む眼差しを向けられ、コーデルは必死に謝罪を述べる。
「二度目はないですよ」
すんなり剣を引いて収めたベアトリスに、コーデルはホッと安堵の息を吐いた。見聞きしていた四人は、こっそりとひそかな苦笑をこぼす。
ベアトリスは母に習った弓の腕を生かして、近所を定期的に巡回している。それは、モデスティー伯爵家に引き取られて以来、欠かしたことがない。そうするうちに自警団に誘われ、参加するようになった。万一接近された際にと、兄に剣を教わったのは、引き取られた翌年のことだ。
『まずは自分の身の安全を確保すること。次に、相手の動きを素早く、確実に封じること。最後に、二度と同じ真似ができないよう、徹底的に後悔させること。これでも懲りない輩は、騎士見習いを何人か向かわせるから教えなさい』
真っ先に、害になる者には手加減無用と兄に教えられて、律儀に守り続けている。
「で、コーデルとはまた違う意味で問題児なのが、黒服のテレンスね」
直前の出来事はなかったかのように、ヴァーノンは説明を再開した。
思わず右側にいた男性を見上げたベアトリスは、一歩下がろうと足を動かす。しかし、すぐに厄介な男がいることを思い出して、片足でグッと踏み止まる。
「テレンスは、自分大好きっていうか……自分を愛しすぎてて、他が全然見えてないんだよね。話しかけても、雑談にはほとんど返事しないし。一応話は聞いてるし、大事な話にはちゃんと参加するんだけどね。鏡を見てたら、間違いなく無視されると思って。まあ、君にはある意味安全な男かもしれないけど。でも、コーデルから逃げてる時にも助けてくれないから、それだけは覚えておいて」
つい、まじまじとテレンスを見上げてしまう。
サラサラした朱色の髪と、石榴石のように深く濃い赤色の瞳。精巧な彫像を思わせる、これ以上ないほど整えられた精悍な顔立ち。老若男女問わず、初対面の人間の視線を引きつけることは容易い。そう思わせる美丈夫だ。
ただし、黙って立っていられると、少々近寄りがたい雰囲気はある。
「……こっちに話題を振らないで、勝手に自己完結しててくれると助かりますね」
「そうだよね。それと同じこと、僕らもテレンスの『自分大好き病』を知った時に、マジで思ったから」
一番目線が近い上に、毎回きっちり目線を落としてくれる。加えて、屈託のなさで、ヴァーノンとは何とか会話が成り立ちそうだ。少々背が高いが、同性のよしみで、美女にはもっと話しかけやすいだろう。
「あとは……一応紅一点の、リナリア騎士団長のメイベルかな。接近戦が超得意で、優美で華麗な見た目を裏切る肉弾戦派。接近されたら、ほぼ間違いなくとどめを刺されるよ。ちなみに、さっきからずっと持ってるあの日傘も、武器っていうか……むしろ凶悪な凶器だから」
言われて見れば、メイベルは持ち手の長い、黒い日傘を左腰に下げている。日傘の持ち方としては、かなりおかしい。
他の団長は、ヴァーノンは帯剣しているが、残りは手ぶらだった。もっとも、魔法使いのオリオンに、刃物の武器は必要なさそうだが。
「で、今度は君のことをもうちょこっと詳しく聞きたいんだけど、いいかな?」
「あ、はい」
姿勢を正したベアトリスは、指先をピンと伸ばした左手を額の左側に当てる。
「四番街自警団所属、ベアトリスです。四番街の弓姫の通り名で呼ばれています。得意な武器は弓。剣は身を守る程度に扱えます!」
長らく活動している自警団でも、動く時間の違いでまったく顔を合わせたことのない者がいる。何らかの理由で偶然出会った時には、こんな風に簡単な自己紹介をしてきた。
もっとも、大半が『四番街の弓姫』と聞いただけで「ああ……」と納得してくれる。
「弓……って、すっごく珍しいよね。基本的に遠距離は魔法部隊があるから、弓なんて、リナリアでも二人いるだけだし。剣は接近された時用かな?」
「あたしは母様に教わったんですけど、弓ってそんなに珍しいんですか? 自警団でも、やっぱり珍しがられたんですよ。あ、剣は近づかれた時のためにって、引き取られてから兄様に習いました」
呆然としているヴァーノンから視線を巡らせれば、他も彼と変わりない様子だ。
「……ということは、ベアトリスさんのご母堂は、リサ・ラウィーニアさんですか?」
「え?」
家名までは知らないが、兄が教えてくれた母の名は確かに『リサ』だ。
淡々と呟いたオリオンの背中を見上げて、疑問を投げかける。けれど、はっきりと返事はなかった。代わりに、ヴァーノンとメイベルの絶叫が耳をつんざく。
「ちょっ、オリオン! それ、マジ? マジで!?」
「まさか、二番街の弓姫の技が伝えられているだなんて、思いもしませんでしたわ! あの方は、惜しまれながらも若くして亡くなった、としか聞いていませんでしたもの!」
興奮冷めやらぬ様子の二人から、つっと目を逸らす。その先で、言葉にしていないだけで、やはり沸き立っているコーデルとテレンスが見えた。
この騒ぎを引き起こした張本人は、相変わらず背中しか見えないのでよくわからない。
ベアトリスが覚えている母親は、屋敷の敷地から外へは出ようとしなかった。弓の練習をする時だけは厳しく、容赦がなかった。それ以外は、どこまでも穏やかで優しい人で。
ただ、彼らの言葉でわかったことがある。自警団で、ただの『弓姫』ではなく、わざわざ『四番街の弓姫』と呼びかけてくる人たちは、母を知っているのだ。区別のために、呼び名を変えているのだろう。
(それにしても、母様ってば、いったい何をしてたんだろう?)
ここまで他人を高揚させるなんて。
二十年ほど前の母親を、ちょっと想像してみようか。そう考えたが、ベアトリスが覚えている姿からはできなかった。
「時間のある時で結構ですから、ぜひともあなたの弓を見せてくださいな」
「僕も!」
競うように名乗りを上げたメイベルとヴァーノンに続き、コーデルとテレンスが黙って手を挙げて主張する。
「……あの、できたら私も、もう一度見てみたいのですが」
背中を向けっぱなしで、どうやって見学するつもりなのか。
いろいろと突っ込みたい気持ちを込めて、ため息を吐いた。それからベアトリスは、小さな苦笑いを浮かべて頷く。
「その代わり、いつでもいいので、母様の話を聞かせてくださいね」
「多分オリオンが一番知ってるだろうけど、僕も聞いてることは全部話すよ!」
チョコレート色の瞳を、この上なくキラキラと輝かせて。ヴァーノンは、ギュッと固く握り締めた拳を、ブンブンと激しく上下に振っていた。