二章 3
モデスティー伯の執務室を訪れたベアトリスたちは、快く迎え入れられた。
室内に入ったベアトリスは、無意識に、グルリと見回してしまう。
(……オリオンさんは、ここじゃなかったのね)
あからさまに落胆したくはない。だが、どうしても、ため息がこぼれ落ちてしまった。
「ああ、オリオンには、メイベルを呼びに行かせた。じきに戻るから、ソファにでも座って待っていろ」
頭を優しく、ポンポンとなでるように叩かれて、ベアトリスは父を振り返る。兄と信じていた頃と同じ、慈愛と父性にあふれた笑みだ。
呼び方が変わろうと、関係は何も変わらない。
「じゃあ、私はお茶でも淹れてきますか。カップは六つでいいですね?」
「ああ、頼む」
慣れた様子で、ウルスラはスルリと部屋を出ていく。
残されたベアトリスは、モデスティー伯とオーソンに勧められ、怖ず怖ずとソファに腰かける。
「とりあえず、俺が報告を受けた限りでは、やはりマラキアは改心していなかったようだな」
「そうらしいですね。俺のところにベアトリスが来た理由は、恐らく、リナリアの団長に聞こうとして断られた、といったところでしょうから」
何も言わなくとも、訪れた理由はわかっているようだ。しかし、肝心のことは、何ひとつ明かされなかった。
それが、ひどくもどかしくて。これからはっきりわかるのだとしても、その時がとにかく待ち遠しくて。もやもやしたものは、ちっとも晴れていかない。
それっきり、誰も口を開かず、やや重苦しい沈黙が辺りを支配する。
やけに長い気がしたその時間も、程なく、オリオンとメイベルがやってきて打ち壊された。彼らの直後に、茶を用意したウルスラも戻り、カチャカチャとカップが鳴る音で少し騒がしくなる。
ウルスラが一人一人の前に茶を注いだカップを置き、最後の一個を手に、空いている場所へ座った。
入り口から遠い一人がけにモデスティー伯。彼の右手にベアトリスとオリオンが、左手にはオーソンとウルスラが腰かけた。そして、モデスティー伯の正面に、メイベルが居心地悪そうに座る。
「この中で、過去の遺恨を知らないのはビーだけか?」
「すみません、私もさすがにそこまでは……」
スッと小さく手を挙げて、ウルスラがきっちり主張した。
「では、メイベルが関わった遺恨から、説明するとしよう」
ずいぶん改まった話のようだ。
そう察したベアトリスは、自然と、居住まいを正す。
「まず、軽く人間関係からだが……サマラ王妃がメイベルの姉というのは知っているな?」
ベアトリスが頷いたのを確認し、モデスティー伯はさらに言葉を続ける。彼の視線は、ウルスラには向けられなかった。
「そのサマラ王妃は、嫁いで以来、一度も里帰りしていない。あちらが許さないのではなく、こちらが許さないからだ。その理由は、弟を手にかけようとしたため、と公表されている」
思いがけない言葉に、ベアトリスは大きく目を見開く。
ある程度は予想していたのか、ウルスラにことさら驚いた様子はない。黙って、話に耳を傾けているようだ。
「国同士の訪問も、サマラ王妃の同行はひかえてもらっている状況だ。あれがやってきたところで、国民の反発も相当のものだろうな。取引にしろ何にしろ、まとまるものもまとまらなくなる」
「弟殺しが汚名ではなく、名誉と思っている人間ですもの。しつこく拒否をしているのは伯だと、勝手に思い込んでいるでしょうね。本当に、愚かな人間ですこと」
国政を一手に担うモデスティー伯といえども、嫁いだ王女に里帰りをさせない権利はない。いくら何でもそれは、完全な越権行為になる。
里帰りを頑なに拒んでいるのは、王だ。
だからこそ、貴族からも、彼女の帰郷を望む声が上がらない。
サマラがそれをまったく理解していないからこその、メイベルの発言なのだ。
「危険な人間は遠方へ追いやってしまえ、とばかりに、サマラ王女は、ラエティティア王国連邦の中心的な、けれどこの国からはかなり距離のある、フィエリテ王国へ追いやったんだ。体のいい厄介払いだな」
ここで、ベアトリスが軽く首を傾けた。当然、それを見逃すモデスティー伯ではない。
「ビー、どうした?」
「えっと、ラエティティア王国連邦って、どういう国で、どこにあるんですか?」
以前、サマラからの手紙が届けられた時にも、少し気になっていた。しかし、何もかも聞くに聞けない雰囲気だったため、それっきりになっていたのだ。
今を逃せば、じっくり問うこともできないだろう。
だが、ベアトリスの問いかけに、彼女以外の全員がそれぞれ、不思議そうに首を傾ける。
貴族にとって、他の国を知っていることは常識だ。夜会などでの話題にもなる。そちらからの客人と、当たり障りのない話をする上では必要不可欠だ。
ウルスラも、密偵の真似ごとまでこなすうちに、他国の情勢には詳しくなった。中でも、複雑な事情を抱える国は、細かく知っていて当然という状態だ。そうでなければ、関わった際に、自身の身を危険にさらしてしまう。
名前の出たラエティティア王国連邦もまた、込み入った歴史や事情を持て余す国なのだ。
「ああ、そうか。ビーは知らなかったな。ラエティティア王国連邦は、いくつかの国が集まって作られている連合王国だ。海に浮かぶ小さな陸地に、それぞれ国家があり、それらが集まってひとつの国という形態を取っている。中でも、特に大きな陸地を持つフィエリテ王国が、ラエティティア王国連邦の代表を務めているんだ。ただし、他国の承認がなければ何もできない、名ばかりの代表だがな」
フィエリテ王国はそれゆえ、不満をくすぶらせている。表向きは従っている連合国たちも、乗っ取るためにさまざまな好機を虎視眈々と狙っているはずだ。
油断をすれば、連合国同士での争いになる。かといって、完全にまとめあげ、ひとつの国となるには、文化や習慣の相違から難しい。何より、国同士を行き来するのに船が必須だ。交通の便があまりに悪くて、有事の際にもなかなか一丸とはなれないだろう。
表面からうかがえるだけでも、問題はいくつか見えるのだ。いったいどれだけの問題を内包しているのか。それは、下手をすると、ラエティティア王国連邦内でも、はっきりとはわかっていないのかもしれない。
「中心的な国の王妃になりたい、と要望を出した王女の願いを叶えたんだ。理想と現実の少々の違いは、大目に見るべきだろう」
ふん、と鼻で笑いながら、モデスティー伯はサラリと言い放つ。誰もがこっそりと、かすかに首肯する。
「さて、そのサマラ王妃だが、こちらにいた頃、毒やら凶器やらでメイベルの命を狙ったんだ。初めて危害が加えられたのは、騎士になった頃だったか? 手を下したのは、侍女だったり使用人だったり、サマラ王妃本人だったりと、まあ、多種多様だったが」
メイベルは実姉に命を狙われていた。
その事実を、モデスティー伯は至極あっさりと口にする。メイベル自身も、今さら気にはしないようだ。しっとりした優美な手つきで、冷めつつある茶をそっと口に含んでいる。
何があろうと、基本的にはまったく動じない。
そんなメイベルが培われた環境が、ほんの少し、垣間見えた気がした。
「結局、すべてを企んだのが、サマラ王妃の第一侍女だったマラキア、ということになった。主はただ、乗せられただけだと言い張ったからな。ただし、マラキアは罪をかぶっただけというのが、当時も今も、大勢の見方だろうが」
淡々と語るモデスティー伯に同意するように、メイベルが一度だけしっかりと頷く。
「ですからわたくしは、罪を問わない代わりに、マラキアをあれの侍女から外すことと、代わりに針子として働かせるよう、陛下に進言しましたの。王族の第一侍女ですもの、そのくらいはできて当然ですわ。心を入れ替えて真面目に仕事をこなせば、いずれは信用も取り戻せるはずでしょう?」
そこで一旦言葉を切ったメイベルは、ふうっと息を吐き出した。それは、これから告げる言葉を、言いよどんでいるようにも見える。
「マラキアを無条件に許し、信じたわけではありませんの。そこを勘違いしてしまう辺り、よくも悪くも主従ですわ」
辛辣な言葉をきっぱりと言い切って、メイベルは手にしたカップに口をつけた。
「毎度毎度、軽口を受けて差し上げたことも、あくまで、わたくしの純然たる厚意でしたのに。愚かにもほどがありましてよ」
「そうですよね……メイベルさんが何も言わないことが、かえって恐ろしいと、コーデルさんが怯えていましたから」
やはり黙り込んでいたオリオンが、ふと口を挟む。彼の言葉を受け、メイベルはようやく、妖艶な微笑を浮かべる。
決して、真面目な顔が悪いわけではない。こちらの方がよりメイベルらしいと、ベアトリスは思ってしまうのだ。
「というか、リナリアの団長だけでなく、伯も敵に回してますよね、マラキアって。元王女の第一侍女だからって、団長方と親しく口がきけると勘違いするのは、ちょっとどうかと思いますよ? 侍女は侍女、針子は針子。それ以外の何者でもないんですから」
今は騎士であり、時に間諜の真似ごともする。そんなウルスラでも、侍女であった頃の誇りを失っているはずはない。
元々、名のある貴族の屋敷で侍女をしていたからだろう。ウルスラの言葉にも、包み隠すものは何ひとつない。それどころか、吐き捨てた際には、あからさまな侮蔑を混ぜた声音だった。
ウルスラが強い憤りをあらわにしているのは、恐らく、マラキアに下働きの仕事を軽視されたからだろう。
「まあ、私もかなり好き勝手にしてますから、人のことはとやかく言えないですけどね」
そうは言うが、ウルスラはそれほど出しゃばってはいない。
思ったことを正直に言おうとしたベアトリスは、思わぬところからの声に遮られた。
「本分を忘れた者には、厳しい罰が待っていてよ。忘れていないうちは、それほど問題にはならないでしょう?」
「あら、ありがとうございます、リナリアの団長。では、過去のくだらない栄光にすがって、たかが一介の針子であることを忘れてしまったあの女には、ちょっとえげつない仕置きをしちゃってもいいですか? 昔は侍女を生業にしていましたし、私、本分を忘れた下働きがとにかく大嫌いなんですよね」
ちょいと肩をすくめて、わざとらしくおどけたふうを装う。そんなウルスラの口から出てくる言葉は、なかなかに穏やかでない単語も含んでいる。
聞いているはずの面々は、あえてそこに触れないのか。はたまた、彼女の意見に全面的に同意しているのか。取り立てて、異論は出てこない。むしろ、肯定と思しき頷きばかりが、チラチラと視界に入ってくる有様だ。
(でも、ウルスラさんの言う、えげつない仕置きって……いったい、どんなことなの?)
完全にサマラ側の騎士は、ある程度つぶしたところだ。残りの大半はモデスティー伯寄りばかり。そして騎士は、各家のさまざまな思惑は別として、名目上は国に所属している。動く時はあくまで、国の意思が重視されるのだ。
貴族が無茶を強引に通そうとすればするほど、逆に罰する口実をたっぷりと与えることになる。
それがわかっている貴族は、きっと何もしてこない。わからない愚かな者だけが、これから、見せしめという名の尊い犠牲になるのだろう。
「ウルスラでしたわね? あなたの好きになさい。今回の件が片づけば、どうせマラキアは職を追われる予定ですもの。できることならば、二度と城とは関わりたくないと思わせるほど、徹底的に痛めつけてしまいなさい」
「了解しました。お任せください」
嬉しそうに、うふふ、と笑うウルスラに、隣のオーソンが青ざめて思い切り身を引いた。正面にいるベアトリスも、ついつい顔を引きつらせてしまう。
「本物の侍女はどういうものか、真に求められる針子はこういうものなのだと、見せつけてあげましょう! というわけで、団長、しばらくエリカ騎士の任務から離れますね。あ、でも、手が足りない時はちゃんと呼んでください。私はあくまでエリカ騎士ですから」
「……はい、わかりました。できるだけ早く、仕置きを終わらせて戻ってきてくださいね」
どうしても、心許ないから。
ニコニコして、俄然やる気に満ちあふれているウルスラを、そんな理由で引き止めたくはない。たとえ、彼女のやろうとしていることが、エリカ騎士の仕事と大筋では関係のないことだとしても。
そんなベアトリスの不安は、しっかりと顔に出ていたのだろうか。ウルスラがふと、居住まいを正した。
「……ねえ、団長。今だから言っちゃいますけど、私は、帰る場所をホートン候夫妻のところと決めていました。路地裏で死にかけていたボロ布同然の私を躊躇なく拾って、屋敷に置いてくれて、侍女としてだけでなく、剣や、生きていく上であれば強みになることを、余すことなく教えてくださったから」
オーソンやモデスティー伯は知っていたのか、特に驚いた様子は見られない。あまり顔に出ない質のメイベルとオリオンでも、わずかに驚愕の色を宿している。
ベアトリスは、あまりのことに、すっかり言葉をなくしてしまったようだ。かすかに口を開けたまま、ぼんやりと、にこやかなウルスラの顔をジッと見つめるしかできない。
「団長のために、エリカ騎士になれ。そう命令されて、仕方なく入団試験を受けましたけど……今は、あの時命令されてよかったと思ってます。だって、今の私にとって、帰る場所は団長のところですから」
最後はスッと真顔に戻って、ウルスラはきっぱりと言い切る。けれどベアトリスは、どういった言葉をかけていいのか、言いあぐねている表情だ。
「……ベアトリス」
不意にオーソンに呼ばれ、ベアトリスはハッと我に返った。
オーソンはベアトリスに目を向けず、隣のウルスラをまじまじと見つめている。
「こいつはな、父と母には絶対の忠誠を誓っているが、俺にはそうじゃないんだ。何でも器用にこなす反面、自分が認めた人間の言葉しか聞かないと、こいつ自身が決めている。そんなウルスラが、お前のところに帰ると言ったんだ」
「ウルスラは、確かに何でもできる。わきまえることも知っている。そういった人間がどれほど貴重で、重宝されるか。わかっているからこそ、今ここで、胸の内を打ち明けたんだろう」
言葉にされなかった、二人の真意。
それを余すことなく汲み取れたか。そう聞かれると、自信はない。けれど、今、ウルスラにかけるべき言葉は、見つかった気がする。
「……ウルスラさん。待ってますから、絶対に帰ってきてくださいね?」
有能な人間は、誰でも手元に置いておきたくなるだろう。それが侍女であれ、針子であれ、騎士であれ、何も変わらない。
しつこく引き止められたとしても、迷わず帰りたくなる。彼女にとって、そんな居場所でいたい。
ベアトリスはそう、強く願う。
「あんまり遅いと、迎えに行っちゃいますからね」
一瞬、ウルスラは目を大きく見開いた。それからじわじわと、泣きそうな顔から笑みを浮かべる。
すうっとこぼれて頬を伝ったものに、ウルスラ自身が驚いたようだ。
「だから言っただろう? ベアトリスは、お前の大好きな父そっくりだと」
「そうですね……だから私、団長が大好きです」
いくらか首を傾けて、ウルスラはふわりと微笑む。それは、彼女の年齢に似つかわしい、どこか無邪気な笑みだった。




