一章 3
「実技合格おめでとう。ここでは、君の内面を見せてもらいたいだけだから、ぜひとも中に入って、もっともーっとリラックスしてね」
笑顔で説明して、窓を思い切り引く。体の動きでさりげなく誘導してくれるが、ベアトリスには触れようとしない。
恐る恐る中に入ると、ガザニア騎士団長が素早く窓を閉めた。そのまま立ちふさがった彼に、逃げ道を完璧に封じられる。
「まずは君の名前を教えてくれる?」
「お初にお目にかかります、騎士様方。あたしはベアトリスといいます」
無意識に、兄から教えられていた貴人への挨拶が口を突く。言いながら、体はドレスを着た時のお辞儀の動きを取っていた。
「……君ってもしかして、どこかの貴族のご令嬢だったりする?」
ハッとして息を呑んだベアトリスは、頭の中で必死に考えを巡らせる。その様子を凝視している団長たちには、まったくもって気づかない。
(まだ、家名は出しちゃダメだよね。でも、兄様の名前を出してもわかっちゃうと思うから、それもダメで……じ、じゃあ、客観的な事実だけなら、大丈夫かな?)
「えっと……兄が、爵位を持っています」
彼らは一様に首を傾げる。階段の向こうで確認しづらいアマリリス騎士団長でさえ、不思議そうに首を動かしたのがわかった。
「ちょっと待って。君のおおよその年齢を考慮して、その上で、爵位を持っている兄に相応しい年齢の人物となると、存在していないんだけど」
ガザニアの団長が食い下がった。そこに、美女が追い討ちをかける。
「わたくしも、社交界であなたに一度もお目にかかったことがありませんわ。貴族にとって、あなたのような年頃の妹は、たとえ庶子であろうと立派な手駒。身内でよほど余っていない限りは、使わない理由がわかりませんもの。それとも、まだ出られる年齢ではないのかしら?」
ここでようやく、この事実も言ってはいけないことだったと、ベアトリスは気づいた。かといって、すでに口から出てしまった言葉は取り返せない。
すべて残らす話してしまうべきなのか。はたまた、押し黙ってごまかすべきか。
悩んでいたベアトリスの背を押したのは、部屋の隅で顔さえ見えなかったアマリリス騎士団長が放ったひと言だった。
「あなたには何か事情がおありのようですし、私たちはここで見聞きしたものは決して口外しません」
彼は顔どころか、姿さえ真っ当に見せていない。声は明らかに震えている。視線は、どこを見ているかわかったものではない。
(口外しないって、本当かな?)
こんなことでウジウジと悩んでいる。そのこと自体が、社会に適合できているのか不安な彼を見ていたら、バカらしく思えてきた。
どうせいつかはわかってしまうこと。それに、彼らは団長だ。兄の言う、明かしてもいい相手なのだから。
覚悟を決めたベアトリスは、静かに口を開く。
「あたしが社交界に出なかったのは、兄の意向です。兄には、道具にできる年頃の娘が何人かいるので。それに、かなり特訓させられたんですけど、ドレスを着てお淑やかにしてるのってどうも苦手で……」
「え? ちょっと待ってよ。社交界に出せる年齢の娘が何人かいるって、ずいぶん年の離れたお兄さんじゃない?」
首を傾げたまま、ベロニカの団長が口を挟む。
「あ、はい。あたしは兄様の長子より、二歳年上っていうだけですし」
「それってさ、兄妹っていうよりは、まるで親子だよね」
ガザニア騎士団長が突っ込む。まったく同じ心持ちだったのか、他の団長たちも思い思いに頷く。
ふと、リナリア騎士団長が口角を持ち上げた。紅の引かれた形のよい唇のすぐ下に、つっと人差し指を当てる。
「ではあなた、モデスティー伯爵の妹御ですのね?」
顔に出さない。それができない性格だと、ベアトリスは自覚している。だから、彼らにはわかってしまっただろう。
「前モデスティー伯爵は、子供心にも聞くに耐えない醜聞ばかりの方でしたわ。かつて一番街にあった邸宅が四番街へ移ったのも、元を正せば彼のせいですもの」
美しい顔を苦々しげに歪めて、目の覚めるような美女は言い放つ。
貴族であれば、誰でも一番街に住みたがる。一度は一番街に暮らして、他へ移動するとなれば、それは露骨に『没落』を表していた。
「そんな彼が起こした恥ずべき問題の最たるものは、結婚間近だった息子の婚約者を力ずくで奪い取ったことでしょうね。あなたが生まれる以前の話でしょうが、それが四番街への決定打でしてよ」
ベアトリスは今初めて、母と兄が父へ向けていた感情を、ほんの少しだけ理解できたような気がした。
ゆるゆると俯くベアトリスに気づいた美女は、彼女からすればずいぶんと低い位置にある頭をそっとなでる。それから、小さく「ごめんなさいね」と呟いた。
こんな美女に気を遣わせてしまったと、ベアトリスは首を横に振る。
「……父が、兄様の大切な人を奪った話は、兄様の家族から何度も聞かされましたから。あたしも、知っています」
愛した女性の忘れ形見である反面、憎い男の血が流れている。だから、仕事の邪魔をされても、怒って反感を買うようなことはしないのだ。もっともらしい理由をつけて、社交界に出さずに一生飼い殺すつもりなのだ、と。
聞かされるたびに、彼女たちの話は何かが違うと思ってきた。
父に対する憎悪が露骨だった母でさえ、自分を不快な存在と罵ることはなかった。母が永遠の眠りについてしまうまで。これでもかというくらいとことん大切にされ、いつでもどこでも愛された記憶しか残っていない。
母の死を知った兄は、時を置かずに引き取ってくれた。そんな兄から感じるものは慈愛、もしくは独占欲に似た父性愛だ。
どちらからも、憎まれていると感じたことは一度もない。
だからこそ、ベアトリスは兄を父とも慕っている。反面、顔も知らない父親を「父様」と呼ぶことに、強い抵抗を覚えるのだ。
「でも、母様はあたしにたくさんの愛情を注いでくれました。兄様も、ちょっと甘やかしすぎで困ってるくらいで、不満なんてないですし。自分が二人から憎まれているかどうかぐらいは、わかるつもりです」
グッと顔を上げたベアトリスは、美女にぎこちなく微笑みかける。
甘やかす、と聞いた面々は、怪訝な表情を見せた。
モデスティー伯爵といえば、朝は時間ギリギリに出勤してくる。昼食を食べるための短い休憩時間以外は、山積みの仕事を退出するまで黙々とこなす。仕事中に他人が室内に入ることをとにかく嫌う。だから、彼への書類はすべて廊下に並べ、重しを乗せておくのが暗黙のルールとなっていた。
片づかなかった書類の山を、自宅へ持ち帰る馬車の列。処理済みの書類を運んでくる、翌朝の馬車の列。これはもはや名物だ。
「ところで、モデスティー伯爵の甘やかし具合なんて聞いていいのかな?」
(何だか気味悪い人……)
質問を重ねるガザニア騎士団長の向こうから、ベロニカ騎士団長が流し目を送ってくる。あまりの不快感で、ベアトリスはあからさまに目を逸らした。
そのまま、兄の日常を思い出しつつ、言葉をつむいでいく。
「えっと、仕事中に部屋に行っても、怒られたことはないですね。サブリナ──兄様の長女なんですけど、彼女は同じことをして、三日の自室謹慎を命じられたそうです。食事などの許可されている用事以外で部屋から出たら、出るごとに謹慎が一日追加されるらしいですよ。それから、手が空いている時は膝の上に乗せてくれたり、おいしいお菓子が手に入ったからって手ずから食べさせてくれたり……」
彼らの想像をはるかに上回る、それはそれは見事な甘やかしぶりだったらしい。
死ぬほどまずい食べ物を、うっかり口にしてしまった。誰もがそんな顔で、せっかくの美形ぶりを台無しにしている。
「うっわ……それってマジでただのバカップルじゃん」
一瞬、誰の口から出てきた言葉か、把握しきれなかった。
「ヴァーノン、言葉遣いには気をつけなさいな」
「えー? だって、他にぴったりな言葉ってある?」
「少々違っていようと、まともな言い方をなさい。せめて、初々しい新婚夫婦、程度に留めておくべきでしてよ」
「初々しい、とかじゃなくって、どう考えたってバカップルで十分だって。事実だし」
「ヴァーノン?」
語尾を上げた美女に、ガザニアの団長は表情をわずかに硬くする。
団長になれる出自の人物が、四番街でしょっちゅう耳にする単語をポンポン使うとは。予想どころか、思ってもみなかった。
「……団長様でも、スラング、しゃべるんですね」
「ほら、わかる人にはわかるんです。今までの騎士たちはともかく、エリカ騎士にはかなり通じてしまいますからね。人前でしでかすと、団長の威厳がどんどんなくなりますし……ヴァーノンさん、これからは気をつけてください」
階段の陰から、真っ当な助言らしき声が飛んでくる。
「ホント、オリオンは優しいから大好きだよ。メイベルとは大違いだし」
声を弾ませて呟いたヴァーノンは、くるりと回ってベアトリスの顔を覗き込む。
さっきはこれで、うっかりやらかしたのだ。つい、身構えてしまう。
「実技は他騎士団でも合格に匹敵するし、モデスティー伯爵の妹君ってことで、当然血統も文句なし。ところどころ話し方に難はあるけど、最低限の作法は知っている。しかも、ほぼ庶民育ちみたいだから、貴族令嬢っぽい無意味なわがままさもなさそうで、使い勝手はきっといいだろうから……別に問題はないよね?」
ヴァーノンが他の四人に問うと、ベアトリス以外は同意を示すように頷いた。
「……何がですか?」
激しく嫌な予感がする。
怖ず怖ずと、ベアトリスは問いかけた。胸の内も腹の中も推測できない笑顔を向けたヴァーノンは、ニッコリ微笑んで堂々と宣言する。
「君を、エリカ騎士の団長に推薦するってことだよ」
「ああ、そうなんですか……って、えぇっ!? あ、あたしが団長!?」
声がひっくり返ったことなど気にも留めず。ベアトリスは必死に、首をブンブンと横に振り続ける。
一度だけ自警団の指揮を執ったことはあるが、常に一騎士団を率いるなど。
「む、無理です! 絶対無理!」
「無理でも何でも、君以外の適任者が出てくるとは思えないんだよね」
触れないようにしてくれているが、ヴァーノンは限界の位置まで顔を近づけてきた。チョコレートに似た色の瞳は、承諾の言葉を引き出すまで諦めないと語っている。
助けを求めて、ベアトリスは他の四人を見回してみた。元から目を合わせようとしないアマリリス騎士団長は、相変わらず壁と向き合っている。他の三人はあらぬ方を眺めて、ベアトリスを無視しているようだ。
(うぅ……)
この状況でベアトリスに言える台詞は、ひとつしかない。
「に、兄様の、許可がいただけたら」
その瞬間、視認できないアマリリス騎士団長以外の顔が、見て取れるほどはっきりと青ざめる。
「モデスティー伯爵っていったら、一週間前から申し出ても、なかなか面会できないことで有名なんだけど……どうやって許可をもらうの?」
「兄様の部屋に案内してもらえますか?」
ベアトリスは迷いなく告げる。団長たちは恐怖をにじませつつ、仕方がないといった表情で彼女を案内することにした。
「あ、ちょっと君」
部屋を出てすぐ会った騎士に、ヴァーノンがいくつか伝言を頼む。
見上げれば首が痛くなる、長身の五人。一人は美女だが、他は男だ。彼らに囲まれて、ベアトリスは恐怖でガタガタ震えそうになる体と戦う。
コツコツと足音が響く、石畳の廊下を歩く。時々、ヴァーノンが何かに引っかかって転びそうになっては、かろうじて踏み止まることを繰り返す。その際に彼の近くを見てみるが、出っ張りがあるわけでも、何か落ちていたわけでもない。
比較的口数が多そうなヴァーノンまでが、黙りこくってしまっている。ベアトリスが彼らについて聞こうにも、声を出しにくい状況だ。
右に左に曲がり、階段を上り、長い廊下をひたすら歩き続ける。
王城はこんなに広い場所なのか。ベアトリスが思い知ったところで、前を歩いていたヴァーノンの足が止まった。
「ここだよ」
内緒話以上に声を潜めた彼が、いかにあの兄を怖がっているのかがわかる。だが、見てきた兄しか知らないベアトリスには、彼らの恐れようが不思議でたまらない。
いつものように軽くドアを叩く。
「ビーか、どうした?」
いつもと変わりない、兄の声だ。
ホッとして、張り詰めていた気と、肩の力がすうっと抜ける。
「兄様、今、いいですか?」
そっと言葉をかけると、聞き慣れたいつもの承諾が返ってきた。
ドアの向こうは、内装から家具の配置まで、自宅の仕事部屋と同じ部屋だ。ほんのわずかに、空気の匂いが違う。
それでも一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。
静かに滑り込んだベアトリスを、彼は相好を崩して出迎える。視界に入る仕事机は自宅と変わらず紙の山で、ついついため息がこぼれてしまう。
「おいで」
「その前に、兄様にお話したいことがあるんです」
兄の手招きを初めて断り、ベアトリスは手早く用事を伝える。
「あたしをエリカ騎士の団長にしたいって、他の団長様たちがおっしゃるんです。それで、兄様はどうお考えかと思って……」
「団長たちは来ているか? いるなら入って来い」
恐る恐るといった表情の四人と、うかがい知れない一人が入室する。彼らがベアトリスの背後に並んだのを確かめてから、モデスティー伯はひんやりする笑みを浮かべた。
「ビー、この窓から見ていたが、弓姫の名に恥じぬ見事な結果だった。私はお前を誇らしく思うよ」
「ありがとうございます」
兄に対して軽く頭を下げるベアトリスは、兄妹というよりは上司と部下にも見える。だが、冷酷非情と名高い上司のかもし出す空気が、普段とまったく違う。それだけは、ベアトリス以外の目には明らかだった。
あまりに見慣れないモデスティー伯の姿。やや強引に入室させられた五人は、どうにも居たたまれない様子だ。そんな団長たちの感情まで、すべて計算ずくの行動らしく。モデスティー伯の視線は、ずっとベアトリスに釘づけだ。
「それで兄様、さっきの話ですけど」
悪魔も泣いて許しを請い、さっさと裸足で逃げ出す。
噂の域でそこまで言われるほど、周囲に恐怖を与えるモデスティー伯。彼に対し、ベアトリスはあっさりと話題の転換を図る。
「兄様は、あたしに、できると思います?」
「できる」
断言されたベアトリスが見せたのは、大輪の花が開くような笑み。
「必要とあれば、モデスティー伯の末の妹だと言えばいい。それを聞いて、お前に手を出せる人間はそう多くない」
「はい、わかりました」
素直に頷き、ベアトリスはニコニコと笑顔を兄に向ける。
「あ、兄様。家にはちゃんと帰ってくださいね?」
「……善処はしよう」
「帰ってくださいね?」
そんな兄妹のやり取りを、ぼんやりと眺めながら。待たされている五人は、そうと知られないようにため息をこぼれ落とした。