終章
しっとりと微笑んで、やたらと熱っぽく囁いてくる。そんな彼女の声が、まだ耳に残っているようだ。
ベッタリした違和感が薄気味悪くて、ふわりと頭に浮かぶ少女の声を聞きたくなった。この不快感を、彼女の声で、残らずさっぱりと洗い流したくなる。
地下牢を出たオリオンは、急く心をできるだけ抑えながら、モデスティー伯の執務室へと向かっていた。廊下と階段しかないわずかな距離ですら、あまりに逸って、無性に長く感じてしまう。
ドアを叩くと、すぐに入室許可が出た。
「失礼します」
行方不明になっていた間の仕事を、優先順位の高いものから順々に処理していると聞く。
元々長くない睡眠時間を削って、どうにか時間を捻出していること。今回の件に絡んだという理由で、ウルスラが、特別に雑用を兼ねて手伝っていることも聞いていた。
だから、彼の執務室に他人がいることは、それほど驚かない。
わかった上で、顔を上げないようにしてくれているウルスラの厚意を、ありがたく受け取る。
目を通した書類を束ねて移動させ、未処理の山から急ぎの案件をそろりと引っ張り出す。そんな雑用に、わざとらしいほど没頭しているウルスラの横を、オリオンはさっさと素通りした。
「ステラ王女が、変わった名を口にしました」
「……変わった名、か……もしかして、ヴェスパー・ガーナー辺りか?」
ひどく驚いたように、オリオンが目を見張る。書類を分けていたウルスラの手も、ピタッと止まった。
「確かに、ずいぶん久しい名だな。しかし、あいつはもう、家督を譲って隠居しているだろう? なぜ、そんな名が、ステラ王女の口から出てきた?」
あれは、五年ほど前だったか。前モデスティー伯同様、許されがたい醜聞を流したヴェスパーは、社交界を追放されることになった。家督を息子へ譲り渡すことで、ガーナー家だけは、かろうじて生きながらえた恰好だ。
とはいえ、いまだ社交界では、ガーナー家は肩身の狭い思いを強いられている。ヴェスパーからはやや遠い者には、強い恨みを買っているだろう。
そんなヴェスパーの名を、こんな時に、ステラの口から聞かされる。
誰もが、まったく想定していなかったことだ。
「なぜ接触してきたかまでは、ステラ王女にもわからないようです。ただ、私に対する行動は、ヴェスパーの入れ知恵が大きく関係していると思われます」
「……なるほどな。だが、今後はステラ王女とは接触できまい。次はどう出ると思う?」
名指しではないが、フッと視線を向けられたからか。ウルスラは書類に目を落としたまま、ジッと考え込んでいる。
「……私だったら、サマラ王女……っと、今はフィエリテの王妃でしたっけ? あの方に接触しますね。というか、もう、何らかの形で接触してると思いますよ? 何しろ、リナリアの団長に匹敵する悪女、と聞いてますから、うってつけですし。ついでに、手駒にできるステラ王女の解放も、画策したくなりますよね。フィエリテの王妃と、ステラ王女の擁護派……というか、反モデスティー伯派と言うんですっけ? あれを両方一緒に相手にするのは、さすがにちょっと骨が折れますから」
「……本当にお前は、ただの騎士や使用人にしておくのが惜しい人材だな」
「だからって、私をこき使わないでくださいね? 私は、今はあくまで、エリカ騎士の一員ですから。まあ、団長が私にお願いしてきたら、しょうがないからこんなふうに手伝いますけど」
すとんと書類に目を落とし、よどみなく答えるウルスラに、モデスティー伯は素直な賞賛を送った。それを受け取り、さらに言葉を続けながら、ウルスラは書類の分類を再開している。
真っ当な貴族の出であれば、出世頭に違いない。
そう思わせる程度には、ウルスラはそつなく仕事ができるようだ。
「そうそう、その団長ですけど、しっかりして見えて、まだ十七の女の子ですからね? その辺、ちゃんと気配りしてあげないと、おかしくなっちゃいますよ? 誰もが、私みたいに、あり得ないくらい図太くできてるわけじゃないんですからね?」
ウルスラが、完全に無関係の話題を出すことはない。それを知っているからか、モデスティー伯がスッと表情を曇らせる。
彼女の性格をよく知らないオリオンでも、言われた意味は痛いほどに理解できた。
いつでも前向きに頑張っている。そんなベアトリスは、痛みも苦しみも悲しみも、自分の中にすべて抱え込んでしまう。素直に打ち明け、誰かに甘えることを、ほとんどしないのだ。
まずは自ら、問題の解決に挑む。その姿勢は非常に好ましく映る。だが、度が過ぎれば、それは単なる不安の材料にしかならない。
若干十七歳の少女が、王国騎士団の一団長を務めているのだ。かかってくる重圧も、責任感も、ただの団員とは比べものにならないだろう。
(当初は、メイベルさんに、しばらく兼任してもらう案もあったのですけれど……)
もちろん、実際の護衛は全員エリカ騎士だ。メイベルはあくまで、何かあった時の責任者という形を取るだけ。それが、最有力の案だった。
まっさらなエリカ騎士団を発足させるきっかけは、ベアトリスとウルスラだった。オリオンはそう聞いている。
どちらか片方だけなら、メイベルが兼任の団長を務めていたはずだ。
表に立たせられる者。影から支え、きっちりと補佐できる者。
運がいいのか悪いのか、両者がそろってしまったから、今の形になったのだ。
「アマリリスの団長は優しい人らしいですから、そんなに心配はしてないですけど……横からかっさらわれる可能性も、たまには考えた方がいいですよ? 今回みたいな、精神的に来てる時なんて、グラグラ揺れて当たり前じゃないですか」
「……お前はつくづく、ビーの味方なんだな。だが、闇雲に、オリオンの不安まで煽るべきじゃないと思うぞ」
「もまれ慣れてないんで、うちの団長、打たれ弱そうなんですよね。っていうか、打たれ弱いですよね。今回でちょっとは強くなった気はするんですけど、やっぱりまだまだっていうか。うちの団長、ひたすらジーッと待ってるより、情報もらって自分で突っ込んでいきたいタイプみたいですし。ちょっと危なっかしいんで、その辺も気になりますよね」
かすかな悔しさが、じわじわと胸中に広がっていく。
そういう性格の少女なのだと、頭の片隅では何となくわかっていた。けれど、彼女をしっかりと支え切れていたかと聞かれれば、答えは否だろう。
本来は、シンティアに対する恐怖と秤にかけてしまえるような、生半可な存在ではないはずだ。
今も、まだ見慣れないウルスラに対し、怯えに似た本能的な恐怖がじっとりと湧き出てくる。
(オーソンさんに言われたとおりですね……)
他団の騎士を相手に演説をする、というのは難しい。しかし、初対面であろうとも、目を逸らせば会話ができる程度にならなければ。今後、彼女を守るなどと、堂々と言える立場ではなくなってしまう。
彼女の隣に立ち、どんなものからも守るのは自分だ。
そう言い切れるよう、彼女に見合う努力を、とにかく重ねていきたい。
「とりあえず、ヴェスパーの動向は探らせておく。もちろん、こちらの対策より早く、向こうが打って出てくる可能性もあるが……その時には、俺の指示を待つ余裕がなければ、その場に合わせて対処してくれ。お前とビーの婚約も、できるだけ早く公表できるよう、手はずは整えている最中だが……騒動に巻き込まれれば、遅れてしまう可能性もある」
そうなった時には、彼は、申し訳ないと表情で語りながら謝るのだろう。彼に落ち度など、一切ないというのに。
「はい、わかりました」
大きく頷き、オリオンはモデスティー伯の前を辞す。
退室の途中で意を決し、作業をするウルスラの横顔を見つめてみた。
視線に気づいたウルスラが、チラッと目線だけ向けてきた。それをかろうじて受け止め、オリオンはドアを開けて廊下へ出る。
これから、まだまだ問題は続いていきそうだ。
少しでも他人に慣れて、いざという時、大切な人をきちんと守れるように。そのためにできることを、今から始めなければ。
決意を新たに、オリオンは城の出口を目指し、いくらか足早に歩いていった。




