五章 3
シンティアたちは、すでに赤の離宮へ移した。まだ落ち着かないだろうが、それでも、綺麗な場所ならば気分はまったく違うだろう。
「ねえ、ベアトリス。申し訳ないのだけれど、わたくしと一緒に来てくださるかしら」
青の離宮の片づけをしていたベアトリスへ、メイベルが声をかけた。ついでのように、オリオンにも似た言葉を告げている。
「……例の件に絡んで、ですか?」
「ええ。これで最後と思って、少しつき合ってちょうだい」
「わかりました」
オリオンが承諾するならば、ベアトリスに拒否する意志はない。
彼が一緒であれば、不安も恐怖も、いくらか軽くなる。
だから、行かずに一人で待つ選択肢も、一人で出向く可能性も、ベアトリスの中にはなかった。
メイベルに先導され、オリオンと並んで歩く。
向かった先は、兄の執務室だ。そこを越え、さらに奥へと進む。
「……地下、ですか?」
「ええ。地下牢に用事があるの。ああ、そうでしたわ。ベアトリスは、何か言われても、思うままに答えて大丈夫でしてよ。あの甘ったれを、容赦なく、バッサリ切り捨てておやりなさい」
メイベルの口振りからは、地下牢で誰かに会うことになるようだ。しかし、そこに誰がいるのか、ベアトリスには一向に想像がつかない。
(甘ったれ、だなんて……いったい、どんな人なの?)
右に左に首をちょこちょこ傾けながら、ベアトリスは地下へ続く階段を下りる。下りきった先の突き当たりのドアが開けられ、さらに奥へと進んでいく。
(ここが、地下牢?)
通路の両側に、ズラリと鉄格子が並んでいる。両隣の壁は厚く、ひそやかな会話には向かない造りだ。空気が通るだけの小さな窓がいくつか、はるか上部に開いている。
決して、空気がよどんでいるわけではない。けれど、全体的に薄暗いこと。さらに、大きな石をたくさん積み上げた壁と、がっしりした鉄格子の印象か。どうにも息苦しさが拭えない。
「ステラ、ジェローム」
牢に向かって、メイベルがしっとりと呼びかける。前を見つめるメイベルの表情は、どこか痛ましい。
ようやく聞き覚えのある名前に、ベアトリスはスッと体を緊張させた。
(それにしても、王女様や王子様が、どうしてこんなところに……?)
疑問を覚えたものの、気軽に問える雰囲気ではない。
「ベアトリスはこちらよ。オリオンは向こうに」
ほっそりしたメイベルの指が示した牢の前へ、ベアトリスは怖ず怖ずと進み出る。奥にほど近い、反対側の牢へ、オリオンが歩いていく。
牢にはしっかりと鍵がかけられている。格子も一本一本が太く、間隔は狭めだ。簡単に出られるものではない。
知らず知らず、ホッと安堵の息を吐いたベアトリスは、そっと牢の中を覗き込んだ。
奥で座っているため、パッと見には男女の判別がつきにくい、髪の短い人物がいる。よほどの理由がない限り、王女は髪を伸ばしているだろう。そうかんがみれば、ここにいるのは恐らく王子の方。
(この子が、ジェローム王子……?)
末の王子というだけあって、見た目は、シンティアよりさらに幼い印象だ。
薄暗くて、外見はもちろん、表情もはっきりとはうかがえない。
「……エリカの、団長?」
「はい。初めまして、ジェローム王子。エリカ騎士団団長のベアトリスです」
挨拶をしている間に、ジェロームは牢の奥から手前へ、ズリズリと移動してきた。
うっすらとした燭台の明かりに照らされた顔は、とにかく幼い。まだ、十二、三歳くらいではないだろうか。
どことなく寂しそうな影が落ちていることが、わずかに気にかかる。
「……アマリリスの団長を選んだって、本当?」
一瞬、意味がつかめなかった。けれどすぐに、それが婚約の件だと気づいたベアトリスは、まず頷く。それから、少し慌てたように、小声で「はい」と呟いた。
「……彼が好き?」
真っ先に、ベアトリスは瞠目する。わずかに視線をジェロームから逸らし、ゆるゆると目線を下げた。
好きか嫌いか。その選択肢なら、答えは「好き」だ。
ただし、その問いには、より明確な答えがまだ出ていない。
友人に対する感情か。はたまた、異性として意識をしているのか。それらを飛び越え、家族に対する愛情に近いものなのか。
これだ、とはっきり言い切れないのだ。
「難しい?」
クスクス笑うジェロームは、外見の印象よりずっと大人びて映る。
「じゃあ、僕はどう?」
これにも、ベアトリスは答えられない。
何しろ、たった今、初めて顔を合わせた相手だ。
そもそも、四番街には、国王や王太子の噂すら、それほど多く聞こえてこなかった。シンティアが教えてくれるまで、王女が二人、王子が五人もいることすら、知らなかったのだ。噂話に疎いベアトリスは、末王子の話を聞いたことがない。
ベアトリスが王族について知っていることは、誰でも知っている明らかな事実ばかりだ。
「……今、初めてお会いした方を、あたしは、好きとも嫌いとも言えません」
正直な気持ちを、たどたどしく吐露する。
一瞬、大きく目を見開いたジェロームは、ため息とも吐息ともつかない息をこぼした。
「……初めてじゃないよ」
「え……?」
ジェロームがボソリと呟いて、ジッと見上げてくる。ベアトリスは、軽く尻を浮かせ、膝をグッと抱えてしゃがみ込む。
彼と視線を合わせるように。
「どういうことですか?」
「言葉どおりの意味だよ。僕は、君に会ったことがある。エリカ騎士の入団試験の告知。あれがばらまかれる数日前の、夕暮れの四番街で」
──思い出して。
ジェロームの瞳は、そう言っている。だが、ベアトリスには、どうしても思い出せない。
夕方には、夕食の材料を買いに出るから、確かに街にいることが多かった。けれど、四番街の住人は、そのほとんどを把握している。
たとえジェロームと知らなくても。慣れた街で見知らぬ少年と言葉を交わしていれば、嫌でも覚えているはずだ。
「……ゴメンなさい。あたしには、覚えがないんですけど……」
吐息に乗せた小さな笑い声を漏らして、ジェロームは肩をちょいとすくめた後にがっくりと落とした。
「僕はあの時、君の笑顔に心を奪われた。君のことを調べて、年上だとわかっても……諦められなかった。保護者で兄であるモデスティー伯の命令なら、君を手に入れられると考えたけど……君はもう、僕の手では絶対につかまえられないと、はっきりわかったから」
彼の言う『あの時』がいつなのか、ベアトリスにはさっぱり思い出せない。
そのことが、ひどくもどかしくて、申し訳なくて。
「多分もう、君と会うことはないから……最後に、わがままを言ってもいい? 一度だけ、君と手をつないでみたいんだ」
きっと、突っぱねるのが正しい答えだろう。それは、ベアトリスにも何となくわかっている。
けれど、心のどこかで、罪悪感が泣いているのだ。
この罪悪感を抱えたまま生きていくのは、恐らく、叫びたいほど苦しいだろう。
(……あたしは……)
逡巡した末、ベアトリスは怖ず怖ずと、右手を牢へ伸ばした。その手へゆっくりと、ジェロームが左手で距離を詰める。
わずかに牢から抜け出たジェロームの指先が、ベアトリスの指先に触れた。ググッと隙間を通り抜けた手が、キュッとベアトリスの指をまとめてつかむ。
いったい、どのくらいそうしていただろうか。
「……ありがとう。それから、ゴメンね」
パッと離れた手は、あっという間に牢の中へ引っ込んでしまう。
不意に消えたぬくもりを追いかけたいような、妙な心細さに襲われる。
無性に寂しがるこの手に、今すぐ、オリオンに触れて欲しい。寂しがる必要はないのだと、確かな温かさで教えて欲しい。
チラッと確かめたオリオンは、まだ牢に向かって話をしていた。柔和を絵に描いたような彼からは想像もつかない、冷淡で怖さを覚える表情だ。
(今はきっと、近づかない方がいいよね……)
そっと首を横に数回振って、ベアトリスは自身の手でギュッと握り締めた。
‡
青の離宮を綺麗に片づけた翌日。ベアトリスは赤の離宮のサロンで、いつもどおりシンティアと茶を飲んでいた。
もう数日滞在して、シンティアはアレグリア王国へ帰国するらしい。
「寂しくなりますね……」
「ちょっと、ベアトリス。まだ数日はここにいるのよ? 今からしんみりしないでくれるかしら。わたくしまで、無駄に寂しくなってしまうでしょう?」
「あ、ゴメンなさい、シンティア王女」
ぷくっと頬をふくらませて、少し横を向くシンティアに、ベアトリスは素直に謝る。
彼女が帰国したら、友人として手紙をやり取りする約束だ。決して、これで縁が切れてしまうわけではない。
それがわかっていても、ベアトリスは寂しい気持ちを抑えられなかった。
「それから、あなたにもいろいろ心配をかけてしまったから、これからそのお詫びをするわ」
「え? いえ、あたしは……」
心配も迷惑も、かけられた覚えはない。むしろ、心配されてばかりいたはずだ。
そう伝えようとしたところで、ドアが静かに叩かれた。
「どうぞ」
シンティアが答え、訪問者はさっさとドアを開けて入ってくる。
「あ……ベルギル王子」
「エリカの団長、久しぶりだな。ああ、まだ正式に発表はされていないが、いつ会えるかわからないから今言っておく。アマリリスの団長との婚約、おめでとう」
「え? あ、ありがとうございます……?」
いくら、会う機会がほとんどないとはいえ、今言われるとは。
それ以前に、いったいいつ、誰からそんな話を聞いたのか。
きっちり問い詰めたいことは、いくつもある。
「ねえ、ベルギル様」
シンティアが呼びかけると、ベルギルはピシッと硬直した。どことなく、何かを怖がっているようで、完全に挙動不審だ。
「わたくしにとってあなたは、誰よりも、わたくしの理想そのものでしてよ。あなたの妻と呼ばれる日が、ずっと楽しみでしたの」
ニッコリ微笑むシンティアからは、その真意が読み取れない。
ベアトリスもベルギルも、ただぼんやりと、彼女を見つめるだけだ。
「一度、聞いておきたかったの。ベルギル様は、ほんの少しでも、わたくしを愛してくださっていたの?」
ギョッとした様子で、ベルギルは大きく目を見開いた。やけにたじろぎながら、助けを求めるように視線をフラフラ泳がせる。
だがすぐに、助けてくれる者がいないと悟ったのか。
ふうっとひとつため息をついて、腹をくくったらしいベルギルが口を開く。
「……その気がなければ、婚約はしない」
(それじゃ、ダメ……)
直感的に、ベアトリスはそう思った。その証拠に、シンティアの表情は、少し作ったような笑顔からまったく動かない。
「元を正せば、少なからず気になっていたから、縁談が持ち込まれた時に会ったんだ。何というか……過去の印象と、噂から想像した以上に楽しかった。だから、承諾した」
シンティアは怪訝な顔をして、軽く首を傾ける。だが、彼女はまだ懐疑的だ。
「……わたくし、あれ以前に、ベルギル様にお会いしていましたの?」
「覚えていないのも無理はない。何しろ、男装の麗人に見えるレーニアが一緒だったからな。他の人間は、嫌でもかすむだろう?」
今は妖艶な美女で、あのヴァーノンですら、昔は天使と見まごう美少女、と称していたくらいだ。
会った人間の視線をことごとく、残らず奪うくらい、造作もないことだっただろう。
「それに、あの時は、王子と主張するレーニアに、あなたが真っ向から妙な反論をして、派手にケンカをしていたから、なおさらだ」
くつくつと笑うベルギルの言う状況が、ベアトリスにもなぜかあっさりと想像できた。
男と知らされた今でも、たまに半信半疑になるのだ。今よりさらに違和感がないだろう子供の頃では、男装の疑いが強くなるのは無理もない。
(でも、昔は、メイベルさんは自分から王子だって言ってたのね。今は、絶対言わない気がするけど)
王子と名乗る、絶世の美少女。それは、シンティアでなくとも、男装の王女が懸命に主張しているようにしか見えない。
「正直に打ち明ければ、あの頃からシンティアが気になっていた。あのレーニアに真っ向から勝負を挑む無鉄砲さが、成長してもまったく消えていない。それどころか、むしろ悪化していると聞いて、その上で縁談が持ち込まれたものだから……興味を持たないはずがないだろう?」
ベルギルは、シンティアしか見ていない。シンティアもまたしかりだ。
(……ひょっとして、あたし、邪魔かな?)
それ以前に、ここにいることを、すっかり忘れられているかもしれない。
こっそり出ていこうにも、物音が立てば気づかれるだろう。
今はこのまま、できるだけ気配を消して、二人の邪魔をしない。それが得策のような気がしてきた。
「改めて言っておく。シンティアを全力で幸せにしてみせるから、俺の妻になってくれるか?」
音がしそうな勢いで、シンティアの露出した肌がふわっと赤く染まる。口をパクパクさせているシンティアは、必死に言葉を探しているようだ。
「……わ、わたくしの夫となる方は、アレグリアの次期国王になる方でしてよ! ですから、逆ですわ! 嫁いできてよかったと言えるように、わたくしが全力で、あなたを幸せにして差し上げます!」
「……そうか、俺は嫁入りするのか」
「実際には婿入りですけれど、似たようなものでしょう? わたくしは、嫁入り気分ですけれど。何より、わたくしが感じる幸福以上の幸せを、味わって生きていただくのですもの。どちらでもかまわないわ」
完全に存在を忘れられている。
そう察したものの、ベアトリスは動けずにいた。
せっかく、二人が仲直りをしたのだ。しかも、さらに睦まじくなった様子だから、その邪魔をしたくはない。
とはいえ、ただよう空気は、非常にいたたまれないものがある。
(早く気づいてくれるか、誰か飛び込んできてくれないかな……)
思わずそう願ってしまうほどに、あまりにも場違いな存在のような気分がしてしまう。
(でも、シンティア王女が嬉しそうで、幸せそうで、本当によかった)
ほんのりと頬を染めて、今までで一番素敵な笑顔で微笑むシンティアを眺めて。ベアトリスはホッと、安堵の息を吐き出した。




