五章 1
ちょうど、宿舎に用事があったのか。それとも、ベアトリスが向かったと聞いて追いかけてきたのか。
靴音も高らかに、メイベルが足早にやってきた。
「整列なさい!」
ややすごみのある顔のメイベルが、騎士たちを一瞥して命令する。とたんに、リナリア以外の騎士たちも、あっという間にその場で隊列を整えた。
五色の服が、とりどりに混ざっている。
「ベアトリスもお聞きなさい。昨夜、青の離宮を襲撃した犯人が、ようやく命じた人間の名を吐きましたの。ついでに、白の離宮にて、モデスティー伯を監禁していることも、教えてくれましたわ。ついては、これから白の離宮に向かいます」
「メイベルさん、それ、本当ですか!?」
「事実のようね。今から行く旨を、ウルスラに伝えさせに行ったところ、いつもどおりだったそうよ」
あちこちから、げんなりした様子のため息が一斉にこぼれた。
だが、ベアトリスは、周囲が気にならないようだ。彼女の意識はすでに、兄の居場所へと向かっているのだろう。
(やっと、兄様に会える……)
今までは、会いたいと思えばいつでも会いに行けた。行けば、常に笑顔で出迎えてくれた。
離れ離れになって初めて、大切な家族だと痛感した存在だ。
「ベアトリスは先に向かいなさい。シンティア王女は、わたくしが責任を持って警護しますわ」
「い、嫌よ!」
「お黙りなさい。リナリア騎士団、これよりシンティア王女の警護に当たるわ。総員、配備につきなさい」
派手に騒いでいるシンティアと、冷静なメイベルの声を、ベアトリスは背中で聞く。
足はとっくに駆け出していた。
騎士宿舎から、青の離宮へ向かう途中。そこに、白の離宮がある。
白の離宮へ近づくに従って、周囲を取り囲んでいる人影がちらほら見え始めた。
さらに近づくと、その人影の半数は、ベアトリスが見知った顔だった。残りの半数は、騎士団の関係者や、王族のようだ。
「ベアトリス!」
気づいたオーソンが声をかけてくれる。まるで、昨夜は何もなかったかのような、あっけらかんとした態度だった。
「に、兄様は……」
「ウルスラが見たところ、無事のようだ。危害を加えていないことは、関わった者の言質も取ってある」
「兄様はどこですか?」
メイベルやオーソンが、気休めを言う人間でないことはわかっている。それでも、この目で無事な姿を見るまでは、ちっとも安心できない。
「サロンにいるらしいぞ。会ってこい」
オーソンの手に、トン、と背中を押された。その力は、決して強くはない。けれど、開け放たれていたドアをくぐり抜けるには、十分だった。
足がもつれそうになりながらも、ベアトリスは離宮の廊下を駆け抜ける。
離宮はどこも、同じ造りになっている。だから、通い慣れたサロンの場所は、手に取るようにわかった。
目的のドアを、うっかり叩き忘れたまま。ベアトリスは思い切り、バンと音がしそうな勢いで開け放つ。
「兄様!」
白いソファに悠然と腰かけて、こちらを見ている兄の姿。わずかに驚いて、それからふわりと破顔する。両腕をゆっくり広げて、はっきりと頷いた。
ほんの数日のことなのに、無性に懐かしいと感じてしまう。
ぼやっと視界がにじんだ。
「……兄様!」
広げられた腕の中に、ベアトリスは真っ直ぐ飛び込む。
ギュッと適度に抱き締めてくれる腕は、間違いなく兄のものだ。母が亡くなって、引き取られてからずっと変わらない、兄の腕だ。
「心配をかけたな。悪かった」
たくさん心配をした。もう二度と、会えないかもしれないと、ほんの少しだけ覚悟もしていた。その分、今は、安心しているし、嬉しいと思っている。
思いを声に出したいのに。確かな言葉で伝えたいのに。
しゃくり上げるばかりで、ベアトリスの喉からは言葉が出てこない。だから代わりに、首を何度も何度も横に振る。
「なあ、ビー」
優しい兄の声が、そっと問いかけてきた。
「今のお前に聞くのは、正直心が痛むんだが……お前は、五人の騎士団長とジェローム王子の中だったら、誰の求婚なら受け入れたいと思う?」
思いがけない問いに、ベアトリスは顔を上げる。
彼女の頬はベッタリと濡れている。しかし、驚きで止まったのか、涙はこぼれていない。
(え……えっと……)
突然のことで頭が真っ白になってしまったベアトリスだが、瞬きを繰り返しつつ考え込む。
最初に過ぎったのは、オリオンだ。彼に言われたら、頷くかもしれない。それから順々に、団長たちの顔が通り過ぎる。だが、ジェローム王子の顔は、はっきりと思い出せなかった。
求婚の言葉を言われて、嬉しい、とまでは言わなくても。
「……オリオンさん、だったら」
決して、拒否はしない。
彼とならば家族になりたい、と、いつか素直に思えるだろう。
「そうか。ありがとう、ビー。こんな時に聞いて、悪かったな」
見上げる兄の顔は、やけに晴れ晴れとしている。まるで、長年引っかかっていたつかえが、ようやく取れたような。そんな、すっきりとした表情だ。
「これからしばらく、お前の周囲が騒がしくなるだろうが……まあ、それもそう長くはないだろう。さて、外に出るか。話の続きはそれからだ」
まだ、何かあるのか。
そう顔に書きながらも、ベアトリスは大人しく従う。
(兄様が一緒だもの、きっと悪いことじゃないわ)
それでも、些末な不安は拭いきれない。壊れそうな勢いでドキドキと、心臓が激しく動いている。
しっかりした足取りで、兄はさっさと外へ向かう。その背中を追い、ベアトリスは遅れないようについていく。
「プラシダ!」
外へ出たモデスティー伯へ、頭がツルッとして光っている、顔が非常に怖い男性が声をかけた。年齢は、五十前後といったところか。たくましい体躯のためか、年齢を見定めにくい。
男性のあまりに厳つい見た目に、ベアトリスは思わず足を下げる。
(……あ、この人、入団試験の時の……)
ベアトリスはハッとして、男性をまじまじと見つめた。
エリカ騎士の入団試験で、木を蹴り飛ばした試験官だと気づいたようだ。
「ホートン候、お手数をおかけしました」
「いや、お前にかける労力など、たいしたことじゃない」
「ビー、おいで。紹介しよう」
威圧感にすくみそうになる足を、ベアトリスは必死に前に出す。それでも、一歩前に出るのが精一杯だった。
「相変わらず、ダメか」
寂しげに微笑んで、彼はそっとため息を吐く。
「この方は、ホートン候……お前の祖父だ」
「……おじい、様……?」
ホートン候という名には、覚えがある。シンティアから、何度か聞いた名だ。
怯んで下がりそうになる足を、懸命に留めながら。祖父と紹介された男性へ、ベアトリスは呼びかけてみる。
「赤子の時も、わしの顔を見て大泣きしてくれたが……今も怖いか?」
「えっと……少し」
本当は、今すぐ離れたいほど怖い。
だが、あまりに寂しそうに笑っていた姿が思い出されて、実行するのはためらわれる。
「ビー、抱っこをさせてくれるか?」
愛称を呼ばれた瞬間、ベアトリスはなぜか頷いていた。
母と兄しか呼ばなかった愛称を、知っている。だからこの人は、間違いなく、祖父なのだ。
不意に、そう、実感したからかもしれない。
大股であっという間にベアトリスへ近寄ったホートン候は、ひょいと彼女を抱き上げた。ベアトリスを左腕の上に乗せ、右手で背中を支える。
がらりと変わった景色に、ベアトリスは目を大きく見開く。
「軽いな」
他の人に言われると、やけに反発したくなる言葉だ。けれど、苛立ちは湧いてこない。
「だが、ずいぶん大きくなった」
涙がこぼれてしまう。
そう自覚する前に、ポロッとこぼれ落ちていた。後から後からあふれて、止めることはできない。手の甲も手のひらも使って、ただひたすらベアトリスは拭い続ける。
「ああ、泣かないでくれ。プラシダと一緒で、わしもお前に泣かれると弱いんだ」
「もう、本当にしょうがない人ね。ほら、まずはビーを下ろして。ビーはこれで涙を拭きなさい。レディたるもの、ハンカチのひとつは常備しておくものですよ」
シャツとズボンといった、これから乗馬するような恰好の女性が、ホートン候の背中を軽く叩く。ベアトリスには、真っ白なハンカチをスッと差し出した。
ホートン候と変わらない年頃の、はつらつとした印象の女性だ。白髪混じりの薄茶の髪を、クルクルと巻いてまとめている。
「初めてじゃないけど、初めまして、ビー。あなたの祖母よ」
ニッコリ微笑む女性に、ハンカチを受け取りながら、ベアトリスは忙しく瞬く。
「……おばあ、様?」
「そうよ。それにしても、見た目は本当にリサの面影がないわね。性格はリサそのものらしいけれど」
笑みを崩さない年配の女性は、いつもニコニコしていた母を思い出させた。
「オーソンは話してあるのよね? じゃあ、後はプラシダくんだけね」
「ビー……今までずっと黙っていたことがあるんだが、聞いても怒らないでくれるか?」
「内容によりますから、保証はしません」
きっぱりと言い切ったベアトリスに、祖父母から笑いがこぼれる。言われた兄は、肩を落として苦笑いだ。
「今までお前を妹と呼んできたが……お前は、俺とリサの娘だ」
「え……?」
言葉がスルッと素通りした。
「お前は俺の娘だ」
呆然としているベアトリスに、モデスティー伯は重ねて告げる。
「前モデスティー伯を知る人間なら、俺が正しいとすぐにわかるだろうな」
(……兄様が、兄様じゃなくて、父様……?)
皮肉な笑みを浮かべる兄に、ベアトリスはただただ瞬きを繰り返し、ジッと見つめるしかできない。
「前モデスティー伯は、薄茶の髪にとび色の瞳でしたわ。リサ嬢も同じ組み合わせであったことを考慮すれば、嫌でも理解できるでしょう?」
後ろから声が聞こえ、ベアトリスが勢いよく振り返る。
色とりどりの騎士を大勢従えたメイベルが、ほっそりした指で落ちていた髪をサッと払う。ふわりと揺れる白金色の髪は、すぐにパサリと同じ場所へ落ちた。
リナリア騎士に守られている、シンティアたちも見える。
不意に頭に何かが触り、グッと首を倒したベアトリスは、触ったものを確かめた。
「この髪も、この目も、俺の母譲りの色だ。遠い国の貴族令嬢だった母しか、持っていなかった色なんだ。俺には同母の弟妹もない。だから、この色こそが、お前と俺が父娘だという、何よりの証拠だ」
そっと頭をなでる兄──いや、父の手を、ベアトリスはジッと見つめる。
一度にいろいろなことを言われて、まだ混乱はしている。けれど、合点がいったことも、少なからずあった。
これまで、兄がやけに甘やかしてくれた理由。兄というよりは、父のようだと感じていたわけ。
憎悪ではなく、惜しみない愛情をたっぷりと与えてくれた意図。
「お前は俺の異母妹ではない。誰よりも大切で、愛する娘だ」
明かさずにきた事実を、より確実に、ベアトリスへ浸透させるように。モデスティー伯は、何度も『娘』であると強調する。
「……父様」
生まれた時には死んでいたという、今まで父親だと思っていた人。彼を父と呼ぶのは、なぜか大いに抵抗があった。
けれど今、兄を父と呼ぶことに、ためらいも迷いもなく。
口からほろりと、言葉が自然にこぼれ落ちた。
「ビー、おいで」
いつもと変わりなく、両腕を広げて待っていてくれる。
今まで兄と呼んでいた人を、これからは父と呼ぶ。ただ、それだけのこと。
そう思わせてくれる、いつもどおりの姿だ。
「父様!」
呼びかけて、ベアトリスは腕の中に勢いよく飛び込んだ。しっかりと受け止めたモデスティー伯は、そのままベアトリスを抱き上げる。
「騎士たちも集まっていることだし、ちょうどいい。我が娘ベアトリスと、アマリリス騎士団長オリオンの婚約を認める。異議のある者はいるか?」
「えっ!」
シンティアには、貴族の結婚は親が決めると聞いた覚えがあったが。
(……オリオンさんは)
それでいいのか、と疑問を覚えて、ベアトリスは懸命にオリオンを探す。
ベアトリスへ向かってくるオリオンの顔には、わずかな戸惑いが浮かんでいる。だがそれは、不満や不審といったものではない。幻聴ではなかったのかと、ひどく困惑しているような色だ。
「異議がなければ、後で正式に公表させてもらうぞ」
念を押すモデスティー伯に、異議を唱える者はいない。真っ先に文句を言い出しそうな、ホートン候やオーソンが、笑顔で押し黙っているからだろうか。
誰もが、かすかに笑みを浮かべている。
「ベアトリスさんは、いいのですか?」
「……オリオンさんこそ、いいんですか?」
真横に来たオリオンに、静かに問われた。何も考えず、ベアトリスはそのまま問い返す。とたんに、オリオンが小さく笑う。
「私は、ベアトリスさんがいいです」
大きく目を見開いて、それから、ベアトリスはゆっくりと破顔した。彼女の頬は、やわらかな紅色にほんのりと染まっている。
「いいか、ビー。困ったことが起きたら、すぐさま俺かオリオンに言え。絶対だぞ?」
「はい、わかりました」
それは、これまでと何も変わらない。わざわざ、言われるまでもないことだ。
「リサを最後まで守れなかった責があるからな……お前だけは、何があってもきっちり守り抜くと決めたんだ」
(……そういえば、父様と母様はどうして……)
婚約までしていたのに、別れ別れになってしまった理由。
寂しそうな姿に、ずっとためらってきた。こうしてすべてを明かしてくれたのだから、これからは遠慮なく聞いてもいいのだろうか。
問うようにベアトリスが見つめた先で、モデスティー伯はやわらかな笑みをふわりと浮かべた。




