四章 3
シンティアには寝室で、侍女たちにはその続き部屋で寝てもらい、ベアトリス自身はソファで夜を明かした。
窓から差し込む光に目を開けたベアトリスは、ぼんやりしている頭を抱えて起き上がる。
眩しい光がチカチカして、ひどく目が痛い。
(……あたし、何でこんなところで……あっ!)
一瞬、状況が把握できなかった。だがすぐに、夜中の出来事を思い出す。
ソファから飛び下り、急いで廊下へ続くドアを開け放った。
当たり前だが、そこには、賊も含めて誰もいない。その代わり、片づけもまだされていなかった。
壁にも床にも、飛び散って乾ききった血がこびりついている。あちこちに、刃物でつけられたと思しき傷。さらに、魔法がぶつかったのだろう形跡も、そこかしこに残されている。
元々、壁にかけられていたはずの燭台は、騒ぎの最中にどこかへ飛んでしまったのか。燭台置きがつけられていたらしい跡だけ残して、何もかもがなくなっている。廊下に飾ってあった花瓶と花、絵画の類いは、すべて無残な姿をさらけ出していた。
凄惨な光景を目の当たりにして、ベアトリスは言葉を失う。
廊下に一歩、踏み出してみる。
ジャリ、と割れた花瓶の破片を踏んだ。
(……あたし、謝らなきゃ)
礼も言わず、ひどいことを言ってしまったことに対して。そして、助けてもらった感謝の気持ちを、残らず伝えなければ。
本音を言えば、今すぐ駆け出していきたかった。だが、シンティアたちがいるのに、護衛の騎士が一人もいない。この状況で、ほんのひと時でも、ここを離れるわけにはいかないだろう。
グッと思い切り握り締めた手のひらに、爪がギリギリと食い込む。
歯がゆくて、もどかしくて、仕方がない。
「……ベアトリス」
シンティアに呼ばれて、ベアトリスは勢いよくバッと振り返る。
「……後悔、しているのでしょう?」
「──っ!」
何もかもわかっている。そんな表情ではない。シンティアの顔に浮かぶのは、微笑とも苦笑ともつかない、不思議な笑みだ。
「すぐ、身支度を調えるわ。その後、一緒にあなたの行きたい場所へ行きましょう?」
「シンティア王女……」
「言ったでしょう? ふさぎ込んでいるベアトリスは、あなたらしくないの。そんなあなたを、わたくしが見ていたくないのよ」
嬉しい。たまらなく嬉しい。
こんな気分の時は、真っ先に何と言ったらいいのだろう。どんな言葉で、思いを伝えたらいいのだろうか。
「……シンティア王女、ありがとう。大好きです!」
心の思うまま、ベアトリスは言葉に込めた思いを音に乗せる。
素直に吐露したことがあまりに心地よくて、妙に晴れ晴れとした気分が広がっていく。
「なっ……」
ベアトリスがジッと見つめた先で、シンティアの顔がサーッと赤く染まる。
「あ、あなたのそれが欠点だと、何度言えばわかってくれるの!」
「え? だって、思ったとおりに言っただけですよ? 嬉しかったから、ありがとう。シンティア王女が大好きだから、大好き。他に理由はいりません」
きっぱりと言い切ったベアトリスに、ますますシンティアの赤みが濃くなった。今はすっかり、熟れきったトマト同然だ。
「き、着替えてきます! 少し、待っていてちょうだい!」
「はい、わかりました」
ニッコリ微笑んで、ベアトリスも部屋の中へ一旦戻る。
寝室で着替えを済ませたシンティアと、侍女たちを連れて、ベアトリスはまず騎士宿舎へ向かった。
青の離宮から最も近いのは、この騎士宿舎だ。昨夜の騒ぎでも、駆り出された者が多いだろう。そう判断した結果だ。
宿舎の入り口に近づくと、たまたま外に出ていたのか。気づいたベロニカ騎士が、慌てて中へ駆け込んでいった。
(あ……夜中に助けてくれた人たちを呼んできて欲しいって、頼みたかったんだけど……)
行ってしまったものは仕方がない。
シンティアたちを引き連れ、宿舎へ足を踏み入れる。
「エリカの団長!」
わらわらと集まってくるのは、他団の騎士たちだ。少し遠巻きに見ている騎士たちが、夜中に助けてくれた者たちだろう。
「昨夜の襲撃の際、助力してくださった騎士の方々にお会いしたいんですけど……」
遠巻きの騎士たちから、ザワザワした囁きが広がっていく。
数人が階段へ向かっていったことから、上階の騎士たちも呼んでくれるのだろうか。そう、期待していいのか。
不安が半分、胸を占めている。
やがて、関わったと思われる騎士と、そうでない騎士。恐らく、宿舎にいた騎士が全員、集まっていた。
「昨夜はありがとうございました。おかげで、シンティア王女はご無事でした。私的なことで我を忘れ、みなさんに礼を失したこと、深くお詫びいたします」
深々と頭を下げたベアトリスに、騎士たちが一斉に慌て出す。
「ま、待って、エリカの団長。俺たちに頭下げてもらっちゃ困るよ……」
「そうだよ。エリカの団長に頭下げさせたなんて、知られたら……」
彼らが言葉を濁している。
その理由がわからず、一度顔を上げたベアトリスは、不思議そうに首を傾げた。
「悪いことをしたら謝るものですよね?」
「あ、いや、そうなんだけど……」
「……あのさぁ、エリカの団長……あのモデスティー伯の妹なんだよね?」
「え……」
兄の名を出した覚えはない。それなのになぜ、知られているのか。
ザアッと音を立てて血の気が引いていく。頭が真っ白になって、グワングワンとひどい耳鳴りがする。
「……あなた、昨夜、行方不明の人間を匂わせたでしょう? その上で、兄様と連呼して、彼の娘の名を出したくせに……まさか、知られていないと思っていたの?」
「え……? あたし、そんなことしました?」
左手で口を軽く覆い、ベアトリスは大きく目を見開く。
あの時は、不安と恐怖と緊張と混乱と、安堵が立て続けに襲ってきたためか。自分が何を話していたか、ベアトリスの記憶にはほとんど残っていないようだ。
「したんですの」
はっきり、きっぱり、シンティアに言い切られて、ベアトリスは騎士たちの顔を順々に眺める。
誰も彼も、目が合うことを恐れている素振りだ。
ここにいない兄の姿に、怯える者ばかり。
「……じゃあ、すぐに他の人にも伝わっちゃいますね」
「残念ですけれど、そういう結果になるでしょうね」
シンティアの言葉に、グイッと後押しされたのか。
「わかりました。知られちゃったものはしょうがないから、隠すのはやめます。でも、あたしはあたしで、兄様は何にも関係ないので、今までどおりでお願いします!」
ぺこりと勢いよく頭を下げたベアトリスへ、承諾の言葉をかける者はいない。頷く者も見当たらない。
騎士たちは全員、完全に硬直してしまっている。
「ベアトリス……何度も言うけれど、あれは、あなた以外には恐ろしい人間でしてよ」
「恐ろしいって言いますけど、手も口も出すなって言ってあるんで、そうそう手出しはしてこないですよ? 今まで、一度だって、あたしが嫌がること、兄様はしなかったんですから」
モデスティー伯の実子であろうと、禁則事項を破れば容赦なく罰せられる。その事実は広く知られていて、恐怖の対象でしかないのだ。
今さら、態度を変えられるものではない。
「とりあえず、あたしは、兄様が怖い人じゃないって、わかってもらうことから始めないといけないんですね」
「……わたくしは、怖いものは怖いと、ベアトリスがしっかり覚えることから始まると思うのだけれど……」
ボソリと呟かれたシンティアの言葉を、ベアトリスはさりげなく聞き流した。
‡
昨夜は少々、騒がしかった。位置からして、青の離宮だろう。
(……ビーに何かあったのでなければいいが)
中身は母親そっくりで、気丈な振りをし続ける癖がある、可愛い娘だ。本音を言えば、いつもそばで守り続けたいと思ってきた。
(……そろそろ、俺が守るにも限界か)
昔からの約束を、果たす日が近いようだ。
だが、それを知らしめる前に、確かめなければいけないことがある。
(オリオンはいい、すでにわかっている。だが、ビーは……)
これが約束だと伝えた時、どんな顔をするのか。どんな反応を示すのか。今までの様子からは、まだ未知数だ。
激しく拒絶することはないだろう。しかし、大いに喜ぶかはわからない。
(泣かれるのは、勘弁して欲しいところだな)
リサはほとんど泣いたことがない。だが、ベアトリスは違う。己の感情に、どこまでも素直だ。
近々訪れる瞬間を想像してみるが、まったく想像がつかない。
(……まあ、当日のお楽しみというやつか)
小さく笑ったモデスティー伯の耳に、ドアノブを回すかすかな音が届く。とたんに彼は、スッと表情を引き締め、ふんぞり返ってソファに腰かけ直した。その顔には、嫌味や皮肉をいくらでも吐き出しそうな、嘲笑に似た笑みが浮かんでいる。
「せめてノックくらいするもんだぞ」
「……モデスティー伯、聞いて」
スルリと部屋へ滑り込んできたのは、いつも姉姫の影に隠れてオドオドしている弟王子だった。
「あなたが早く頷いてくれないから、エリカの団長の素性が知られたよ」
「まあ、そうだろうな。あの子はカッとなると、つい余計なことをしゃべってしまう性格だ。どのみち、長く隠しきれなかっただろう。どちらかと言えば、長持ちした方だな」
「……嘘だ」
「いや、事実だ。何より、ここから出た暁には、あの子の素性と選んだ結果を、即座に公表する予定でいるんだからな」
ジェロームがヒュッと息を呑む。
もちろん、選択肢は明らかに彼が不利だ。今さら、少々の努力を重ねたところで、ベアトリスの選択は覆らないだろう。
「俺を殺すか? それでも、お前の思いどおりにはならないぞ。俺が死んだら、後はホートン候に任せてある。彼の口から、正式に公表される手はずだ」
それが、リサとの約束だ。
オリオンが約束を守った時には、関係者の手で、すべてを明らかにすると。
(まさか、本当に、こうもリサの予告どおりに転がるとは……さすがに思ってもみなかったがな)
無表情のまま、モデスティー伯は心の中で苦笑をこぼす。
『え? 将来、この子がオリオンくんを嫌ったらどうするの、って? そんなはずないでしょう? さっきだって、あんなに懐いてたんだもの。この子、昨日見に来たお父様が触ったら、近所迷惑なくらいに大泣きしたのよ? あ、迷惑になるほど近くに、他の屋敷はないけれど。ニコニコしていたんだから、オリオンくんには心惹かれるものがあったに決まっているわ』
やけに自信たっぷりに断言したリサに、どうしても言えなかったことがある。
実体は、気さくで陽気なただの中年親父に過ぎない。そんなホートン候だが、全体的な雰囲気が怖いのだ。いくらリサの実父とはいえ、それは誰にも覆せない事実だろう。
後々、ベアトリスの件で訪問した際、リサの言葉を裏づける愚痴を聞かされている。孫に泣かれて相当落ち込んだだろう彼に、雰囲気が怖いからだ、などとは、さすがに言えるはずがなく。こちらからも、祖父が誰か、あえて教えることはしなかった。
そもそも、雰囲気はそう簡単に変えようがないものだ。特に、彼のように、威圧感を持って立たなければいけない立場の人間では。
大泣きされて、よほど深い傷として残ったのか。ホートン候からも、今まで、祖父であることを打ち明けずにきたようだ。
遠目にベアトリスを眺めながら、いったいどれほどの我慢をしてきたのか。その苦痛と葛藤は、想像に難くない。
それほど可愛い娘を、ただひたすら甘やかされて育った甘ったれに、なぜくれてやらなければいけないのか。わざわざ不要な苦労させる理由が、いったいどこにあるのか。
何より、本人の意志を無視して、こちらが嫌われたら責任が取れるのか。
そのあたりは追求したが、この姉弟からはいまだ明確な答えがない。
それ以前に、そろそろこの軟禁生活にも飽きてきたところだ。
「お前たち姉弟の望みは叶わない。それは、俺が死のうが、何が起ころうが、揺らがない事実だ」




