三章 2
午前中に少しだけ、自由な時間をもらった。シンティアには、できるだけ部屋を出ないよう言ってある。
団長として報告することをまとめ、紙の束を抱えて、ベアトリスは兄の執務室へ向かう。
報告書を提出するだけなら、これからはウルスラに任せてしまってもいいかもしれない。
そんなことを考えつつ、今日の目的をもう一度、頭の中で並べてみる。
(まず、シンティア王女に恨みとかを持ってる人でしょ? それから、エリカ騎士団がなくなって欲しいと思う人。あとは……)
目の前のドアを、いつもどおりに二回叩く。しかし、すぐに返ってくるはずの入室許可がない。
じんわりと湧き上がった、不快で嫌な予感。
ベアトリスは手の中の書類を、そっと廊下へ下ろす。その間も、室内の音や気配に神経を研ぎ澄ませて、意識を集中させる。
「……兄様?」
相変わらず、室内はしんと静まり返っているようだ。
ゆっくりとドアノブに手をかけ、できるだけ静かに動かす。じれったいほど時間をかけて、ようやくドアを開け放った。
いつもなら、机にいる兄の姿はない。その机には、相変わらず書類が山積みだ。
普段はレース越しの淡い光が、今日は燦々と、室内に降り注いでいる。
(兄様は、いったいどこに?)
この部屋から離れるのは、ごく限られた時だけ。そして、この時間は、極力部屋を離れないようにしていること。それを、ベアトリスは知っている。
どこかへ視察に出る時には、たとえ急な話であっても、必ずすぐに知らせてくれるのだ。
何も言わずにいなくなることなど、一度もなかった。
「兄様!」
もう一度呼びかけたベアトリスは、室内をくまなく探す。
机の下も、続き部屋も、棚の中も。考えられる場所は、絨毯の下も含めてすべて、残らず捜索した。
そう、ベアトリスが自信を持って言えるほど、この部屋に兄はいない。もちろん、限られた用事で離れたにしても、とっくに戻ってきておかしくない時間が過ぎている。
「どこに、行ったの……?」
不安と恐怖でいても立ってもいられず、ベアトリスは思わず部屋を飛び出す。
頭の中にふわりと浮かんだのは、オリオンの顔。
(そう、よ……)
きっと彼なら、この不安を、恐怖を、少なからず和らげてくれるはず。
気を抜けば、視界がぼんやりとにじんでしまう。腹にグッと力を込めて、ベアトリスは手の甲で目をグイッとこする。
そうして、城を出て、職人棟へ向かった。
これから午前中の訓練に行くところだったのか。驚いた様子で立ち止まるオリオンが見えた。
とたんに視界は水没して、何も見えなくなってしまう。
「ベ、ベアトリスさん、どうしたのですか?」
動揺した声音で、駆け寄ったオリオンが声をかける。
頬を伝ってポタポタと顎から落ちるそれを、ベアトリスは拭うこともせず。ただひたすら、嗚咽をこぼしていた。
落ち着かせるためか。オリオンはそっと、壊れ物を扱うように、ベアトリスを両腕の中に閉じ込める。
一人ではないこと。誰かがそばにいてくれること。それが確かに伝わって、心は少しずつ落ち着いていく。
「……に、兄様が……」
「プラシダさん? 何かあったのですか?」
言葉にするために、頷いたベアトリスは一度息を吐く。ゆっくり息を吸い込んで、自分が見た光景を音にする。
「……確かに、おかしいですね。あのプラシダさんが、誰にも、何も言わずにいなくなることはあり得ません。部屋の中は、荒らされてはいなかったのですよね?」
もう一度、ベアトリスはしっかりと首肯した。
兄のいない、がらんとした寒々しい部屋を思い出すだけで、全身がキュッと一気に冷える。手足が冷たくなり、止めたくても止められない震えで、体がガタガタと震えてしまう。
おかしいと思うところは、取り立ててなかったように思えた。
「あ……」
冷えや震えと戦いながら、じっくりと部屋を思い返して。ふと、気がつく。
「カーテンが、全部開いていました」
二階の部屋なのに、覗き見られないよう、必ずレースのカーテンは引いたままにする。そんな癖のある兄の部屋で、カーテンが開けられ、光がはっきりと大きく差し込んでいた。
それは、明白な違和感だ。
「……なるほど。プラシダさんに、何かあったようですね。申し訳ありませんが、ベアトリスさんは青の離宮へ行ってください。シンティア王女のそばを離れないように。私は、メイベルさんたちに伝えてきます」
「は、はい……」
来た道を戻っていくオリオンを、瞬き数回の間見送って。ベアトリスは踵を返し、急いで青の離宮へ向かう。
明らかに泣いた顔で駆けてきたベアトリスに、外を警護している他団の騎士たちが、一様にギョッとする。けれど彼らは、ベアトリスの異変には気づかない振りを貫いた。
「ご苦労様です」
ひと声かけて、離宮の中へ入る。
シンティアがいるサロンの前に立つエリカ騎士たちは、ウルスラ以外、全員がベアトリスの様子に目を見張った。
「団長、どうしたんですか?」
平然とした態度でウルスラが尋ねる。他の面々は口を挟めないようだ。
「……兄が、いなくなりました」
「……え?」
これまで、一度も飄々とした態度を崩したことのないウルスラが、口をあんぐりと開けている。
「あたしに何も言わずに、部屋のカーテンを全部開けて、いなくなりました」
「……え、それって……かなりヤバくないですか? だって、あの人ですよ? カーテン全開なんて、絶対ないですって。それに、団長に何も言わないで出かけるなんて、もっとあり得ないでしょう? あの人、団長のこと、ホントに大好きっていうか、激しく度が過ぎてるじゃないですか」
ベアトリスを元気づけようとしているのか。はたまた、動揺のあまり、普段思っていたことが次々にこぼれてしまったのか。ウルスラは驚きの表情のまま、一気に言葉を吐き出していく。
「あの人のシスコンっぷりって、オーソン様とどっちが上かって、競わせたくなるレベルですよ? むしろ、全世界シスコン選手権とかあったら、優勝するのはあの人じゃないですか?」
「まあ、それは何となくわかってますが……」
兄を知る人間からすれば、これはやはり異常事態のようだ。
ウルスラの言葉は、ほとんど頭に入ってこない。一度は響くものの、結局すぐにどこかへ流れて消えていく。
「あの人のことを知っている人間が部屋を見たら、もっと何かわかるかもしれませんね。あの人、自分の周りのもの、いじられるのが死ぬほど嫌いらしいですよ? 団長、あの人を探したとしても、ものは触ってないですよね? だったら、あの人が手がかりを残しているかもしれないですよ」
言われて、はたと気づいた。
部屋の中のものどころか、部屋に近づかれることさえ嫌う人だ。予定の来客も、部屋を変えることがあるという。
どんな事情があったのであれ、自ら進んで出ていったのであれば。あの兄の性格だ、部屋を出る前に何か細工をしているはず。
カーテンも、そのひとつなのかもしれない。
「……そうですね。兄には敵が多いと思いますし、これまでこういったことが起きなかったこと自体、多大な幸運に恵まれていたんですよね」
「……団長って、割とひどいこと、サラッと言いますよね」
「そうですか? あたしには優しくて、いつも甘やかしてくる兄ですけど、他の人にはとことん厳しいようですから。敵だらけでも、あたしは何とも思わないですよ?」
兄ならば、敵を作らずにうまくやっていく方法も知っているはずだ。それを選ばずに、あえてこんなやり方をしているのだから、すべて納得ずくなのだろう。
もちろん、味方もいるからこそだと、わかっている。
軽口を叩くウルスラでも、こんなに親身になってくれるのだ。ほんの少しでも、助けてくれる人がいる。
それだけで、今は十分だ。
「団長のお兄さんってことは、貴族ですよね? そんな人を連れてっちゃったなんて、大丈夫なんですか?」
「多分、多分ですが、あの人が生きて戻ったら、間違いなく死ねますね。命がどうって意味じゃなくって、人間として殺されるでしょうね。むしろ、そこに存在しない、空気以下の何かにされちゃいそうですし」
ベアトリスが答える前に、ウルスラがペラペラ語る。
普段のウルスラがまずやらないことを、迂闊にもしでかしてしまう。それほど、他人を動揺させる行方不明らしい。
「犯人が誰かは知りませんが……兄様を連れ去った犯人は、別に助けなくてもいいですよね? 離宮周辺に出るっていう、怪しい人影も、やっぱり助命をお願いする義理は、なさそうですもんね」
「……団長って、たまにすごいこと、平気で言いますよね……」
ウルスラだけでなく、他の団員までが。あからさまな恐怖の混ざった視線を、怖ず怖ずとベアトリスに投げかけた。
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「……ゴメン、あのさ、オリオン。今の、もう一回言ってくれる? 僕の幻聴じゃないって、念のために確認したくってさ」
団長たちとオーソンを呼び、訓練場で声を潜めて言葉を交わす。
午前中の訓練は外で行うよう、各団の騎士たちに伝えてある。ここへは、火急の用以外で近づかないよう、間違いなく伝えておいた。
それでも、万一聞き耳を立てている人間がいた場合を想定し、決定的な言葉はできるだけ避けている。
「ですから、伝言することなく、プラシダさんが執務室から消えました。あの部屋を隅々まで探す間、帰ってこなかったそうです。それから、カーテンがすべて開けられていたと」
うーん、とヴァーノンが唸る。
普段はろくに話を聞かないテレンスも、鏡を手放し、腕を組んで考え込んでいるようだ。
「あのモデスティー伯が、無断で出かけるだなんて……確かにあり得ないね」
ボソリとコーデルが呟く。
誰もがベアトリスの名を出さないのは、出さなくても伝わるから。それも理由だが、実際には、仮に聞かれてしまった場合、彼女を危険にさらさないためだ。
ベアトリスが自ら突っ込んでいくことを止めるのは、かなり難しい。それは、モデスティー伯にもよくわかっているだろう。だが、関わりがあることを知られて巻き込むのは、話が別だ。
そんな些末な失態で大きな災いを呼ぶ人間は、彼の手足になり得ない。むしろ、敵と認識されるだろう。
スッと立てた人差し指を唇の下に当て、メイベルも不思議そうに首を傾げる。
「カーテンもおかしいですわね……通常、覗かれることのない二階の部屋でも、必ずレースを引いているのでしょう? 外からひと目でわかると評判ですもの」
「ええ。ですから、すぐにおかしいとわかったようです」
「まいったな……あの人に手を出して、相手が無事に済むとは思えないんだが……」
「この際、残らず滅んでしまえばいいではないか。どうせ、役に立つとは思えない者どもなんだろう?」
深く思考に沈むオーソンに、ぬけぬけとテレンスが言い放つ。
「とりあえず、この件が他の騎士に漏れないよう、気をつけてください。特に、リナリアとコキアにいる方には、今は絶対に知られないようにお願いします」
「わかっているわ」
「ああ、任せておけ」
ほぼ解決の糸口が見えた頃であれば、知られても問題はない。彼らにも、そうそう手出しはできないだろう。だが今は、彼らが手も口も出せてしまう。そして、それがまかり通ってもおかしくない。
くだらないことに時間を取られている暇は、どこにもないのだ。
やるべきことを確認して、訓練場で解散した。
モデスティー伯の部屋を知っているオーソンとオリオンは、異変や違和感を探すことが第一だ。その間に、貴族の動きに詳しいメイベルやヴァーノンが、情報収集をすることになっている。
テレンスはいつもどおり、鏡を手にフラフラし、さりげなく噂を拾い集める。コーデルは、特にすることがないため、やはりいつもどおりに過ごしつつ、運よく情報を得ることが目標だ。
オリオンとオーソンは、先に騎士たちの訓練の様子を確かめる。それからやっと、モデスティー伯が仕事部屋にしている執務室へ向かった。
ベアトリスが飛び出した時も、その前も、鍵は開いていたらしい。よくよく考えれば、その時点でおかしいと気づけなければいけないのだ。
「あのプラシダさんが、鍵を開けたまま部屋を離れている時点で、その違和感に気づくべきでしたね……」
「まったくだな……これは、後で追求されるぞ」
「……仕方ありません。私としては、プラシダさんの残したものより、目の前の惨事に気を取られていましたからね」
「ああ、そうか。まあ、それは仕方ないな。あの人も、多分許してくれるだろ」
無防備に泣きじゃくるベアトリスを放って、行方不明の人間を必死に探した。
それを許してくれる人ではない。優先順位を間違えたと、かえって激怒させるはずだ。
最近やっと、異性として意識されている実感が出てきたというのに。彼女が衝撃を受けた時、真っ先に頼ってくれるようになったのに。
せっかく彼女の心を手に入れても、最終的に許されなければ、何もかも意味がない。
到着した部屋の中へ踏み込む前に、山積みの書類をじっくり眺める。
念のため、積んだ書類には重しを置いているが、それが役立つほどの風が吹き込むことはない。せいぜい、ドアの開け閉め程度だ。
「……おかしいですね」
「何がだ?」
「届けに来た書類を、足元に置いて部屋に入ったそうですが……見当たりませんね」
ベアトリスが開け閉めした際に、数枚がヒラリと飛んだとしても。この廊下の見えない範囲に飛ぶことは、まず考えられない。まして、何枚もある紙束が丸ごと、こんな短時間でどこかへ行ってしまうなど。
オリオンは、ベアトリスと同じ、団長という肩書きを持っている。彼女がどんな書類を書き、彼に届けたのか。おおよそ推測はできるだろう。
誰かが置きに来た書類と一緒にしてしまったかと、手近な山の上の方だけ、オリオンはパラパラとめくってみた。しかし、それらしいものはまったく見当たらない。
「さて、どこに行ったやら」
それが、書類を指すのか。はたまた、行方知れずになったかの人を示すのか。
とっさに判断できなかったオリオンは、無言を返した。そのまま黙り込んで、ドアをそっと開ける。
ベアトリスの言葉どおり、部屋に明るい日差しがたっぷりと降り注いでいた。
「あーあ。書類が焼けるぞ」
言いながら、紙の山を覗き込んだオーソンが、いきなり笑い出す。
「ははっ、こいつはたいしたもんだぞ!」
「どうしたんで……ああ、なるほど」
同じようにオリオンが覗き込んで、納得したように息を吐き出した。
見える範囲の書類は残らず、裏を向けているのか。処理済みのものから未処理のものまで、すべて残らず白い面だ。
試しに一番上を手に取ってひっくり返したオリオンは、もう一度ため息をついた。
「……上に、白紙を置いているようですね」
「ほお……どれどれ」
パラパラと何枚かめくってみたオーソンが、途中でプッと噴き出す。そのまま、そこで手を止め、オリオンに手招きをした。
「裏返した上に白紙だ。いやぁ、実にあの人らしいな」
「つまり、それだけ用意する時間があったということですね」
「ってことは、だ」
オーソンは片っ端から引き出しを開けていく。
どの引き出しにも、手がかりになるものはない。そう見せかけて、次々とあり得ない光景が飛び込んでくる。
「……あれが、ないな」
「……ないですね」
ここを見たことのある人間にしかわからない、強烈な違和感。
それが、すべての引き出しに入れてあるという、ベアトリスの肖像画だ。どれも、紙自体はそれほど大きくない。手紙に同封できる程度だ。それぞれ、騎士となる前のベアトリスを、毎年描かせたものだと聞いている。
緊張した様子の彼女が、少しずつ成長していく様がよくわかる。そんな肖像画の数々だった。
恐らく、何よりも大切にしているだろうそれが、一枚もない。
「持って行ったか、隠したか。まあ、隠したんだろうな」
「持ち運べば、見つかる可能性がありますからね」
家捜ししたベアトリスに見つけられないのなら、隠し場所は限られている。だが、そこに手がかりは一切ないだろう。
何しろ、以前見せてもらった時には、愛する二人の女性に関するものしか置かれていなかった場所だ。誰かが踏み込むことを前提に、手がかりを残す場所ではない。
「これだけやれたってことは、前もって時間指定して会った人間だな」
「そうですね……調べれば、会おうと考えていた人はすぐに目星がつくでしょう」
調査は主に、メイベルとヴァーノン任せになるだろう。こちらはこちらで、敵の目につく行動をひたすら取っていればいいのだから。
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モデスティー伯の執務室を出て、職人棟へ向かっていたオリオンを、ベルギルが呼び止めた。
「アマリリスの団長、少しいいか?」
彼と目を合わせることは難しいようで、オリオンはあからさまに顔を背ける。本心では背中を向けたいのか、体も半分ほど横を向いていた。
「ジェロームとステラに不審な動きがある。警戒した方がいいだろう」
驚きで目を見張ったオリオンが、思わず体を硬直させる。
ステラは第二王女で、ジェロームは第五王子だ。
兄姉たちとは年が離れているためか、もしくは王位に遠いからか。締めつけも弱く、かなり甘やかされて育ってきたらしい。彼女たちにも厳しかったのは、家族の中でメイベルだけと聞いている。
彼らが絡んでいるならば。
「……なぜ、それを教えてくださるのですか?」
「罪滅ぼしだ」
意味がつかめず、オリオンは軽く首を傾げた。それを見て、ベルギルは力なく笑う。
「いや、違う。そうだな……私を助けてくれた、ささやかな礼だ。何より、無関係ではいられないようだからな」
彼はあえて、ベアトリスの名を出していないようだ。
それに気づいたオリオンが、スッと表情を改める。
(ベアトリスさんが、無関係でいられない……それは、プラシダさんがすでに絡んでいるからでしょうか……それとも……)
今すぐ教えてくれない情報は、いずれ判明するのか。はたまた、すでに誰かがつかんでいるのか。
何ひとつわからず、もやもやしたものは、ちっとも晴れていかなかった。




