一章 1
西の空が、ゆるゆると赤く染まり始める頃。
急ぎ足で買い物をする、女性たちの忙しい流れ。そんな彼女たちに対する賑やかな呼びかけが、子供のはしゃぐ声と混ざり合う。少し隙間の空いた石畳の道は、少々座りが悪い。それでも、馬車が十分通れるだけの幅がある。
街の入り口から中央の王城へ向けて、道は四方から真っ直ぐ伸びていく。道の両脇には、赤茶けたレンガ造りの家が軒を連ねる。王城を中心にして、道と家が交互に円を描く。
最も快適な街の南側。その中でも、王城に近いところには、国の重鎮や主だった貴族が暮らしている。東側の王城寄りは、彼らより少し劣る者。西は平均的な貴族が暮らしている。王城に近い北側には、すっかり落ちぶれた貴族が、過去の栄華を心の糧に日々をどうにか生き抜いている最中だ。そして、王城から離れれば離れるほど、暮らす人々の生活は細々と、苦しくなっていく。
北と西を分ける道で、すっきりと短い亜麻色の髪の少女が足を止めた。
どこかの屋敷で働く使用人だろうか。あまり上等とは言いがたい生地の、膝丈の長袖カートル。飾り紐で足首を止めたズボンは、いくらか色あせた生成り色だ。厚手で頑丈さが売りの布製の靴は、あちこち擦り切れ始めている。しかし、髪は艶があり、使用人にしては少なからず小綺麗な印象を受けた。
何より、腰に飾り気のない小剣用の鞘を下げている辺りが、ただの使用人らしくない。
彼女がジッと見つめているのは、ヒラヒラと舞い降りてくる何枚もの紙だ。
「号外、号外だよ!」
偶然目の前にクルクルと落ちてきたそれを、小さな手がつかむ。少女の、やや垂れ気味で大きな暗緑色の瞳が、さらに見開かれる。
全身が細かに震え、知らず知らずのうちに声がこぼれ落ちていた。
「……これよ、これ!」
『エリカ騎士団新設につき、腕に覚えのある女性のみを募集します。人数は五十人まで。簡単な実技試験と面接あり。試験日は、中春の月二十五日。三時課の鐘が鳴った後、受付を開始。騎士団の詳細と試験方法は王城にて』
彼女が空に高々と突き上げた紙には、やけに癖のある文字でそう書かれている。剣や槍を持った、人らしき絵も描かれていた。全員の髪が長いことから、恐らく女性を描いたつもりなのだろう。だが、これなら、子供の落書きの方がずっとずっとマシだ。
(今月の二十五日ってことは、十日後ね。試験に合格して、衣食住に困らない王城で、騎士として生活できるようになったら……!)
途中でこの大切な紙を飛ばしてしまわないよう、しっかりと握り締める。その足で、少女は北側へと一目散に駆け出した。
この一角では最も大きな敷地を有し、周囲を高さ二メートルほどの壁に囲まれた三階建ての屋敷。少女は、その裏側にある使用人用の出入り口へと向かう。ここが彼女の出入り口だ。
眩しいほどに真っ白な外壁は、汚れひとつない。まともな来客は見に来ないと思われる裏手側まで、色とりどりで愛らしい花が彩りを添えている。
(この時間だったら、兄様はもう帰ってるから……)
裏口から続く厨房をそっと抜けて、屋敷内へ入った。そのまま、静かに厨房の階段を上って食堂を通る。玄関ホールを右手に悠々と見下ろしながら、食堂脇の階段を一気に最上階まで上っていく。左に出て、突き当たりの部屋を訪れた。
ここでは、この屋敷の主が、王城から持ち帰った大量の仕事をこなしている。室内に主人がいる場合には、使用人どころか、家族たちでさえ絶対に近づかない。
軽くドアを叩き、少女は小声で呼びかける。
「兄様、今、いいですか?」
「お前ならかまわない。入っておいで」
閉められた窓にかかる、薄いレースのカーテン。やわらかな日差しが、ほのかにこぼれ落ちる。それが当たる机の上に、隙間なく積まれた紙の山。机の後ろには、天井との隙間がない本棚が壁いっぱいに並ぶ。棚の中には、古い本から新品同然のものまで、びっしり隙間なく詰まっている。そのわりに、部屋の空気は外の匂いと変わりない。
よく見れば、仕事机の上だけでなく、椅子の周りにも書類が山積みになっていた。
鼻梁の通った男性は立ち上がり、少女を視界に入れて相好を崩す。冷たい印象を受ける切れ長の瞳が、ふわりと温かく形を変えた。
癖のない亜麻色の髪と、暗緑色の瞳。同一の特徴を持つ二人が、同じ血を分けた兄妹ならば頷ける。
あげつらう部分があるとすれば、兄妹というよりは、親子ほど年齢に開きがある点か。
「毎日毎日、こんなにたくさん書類仕事を持ち帰るより、王城でパパッと終わらせてから戻ってきた方がいいと思いますけど」
ごくごく普通にドアを開閉した際に起きた風で、書類が何枚かふわっと舞い上がった。それらを慌てて拾い集め、机の上にポンと置きながら、少女は彼を嗜める。
「王城にいると、後から後から持ち込まれてうんざりするんだ。だいたい、すべての仕事が終わるまでお前の顔を見に帰れないというのは、俺に対する新手の嫌がらせ以外の何だと言うんだ?」
唇に薄い笑みを浮かべ、彼は少女を手招く。いる場所が仕事机でなければ、膝の上に乗せることもある。珍しい菓子が手に入れば、手ずから食べさせてくれることもあった。
いつも、いつもそうだ。
彼は、実の娘たちより溺愛してくれている。その事実を少女自身はもちろん、彼の家族たちも理解していた。だからこそ、いろいろな面で冷遇されている。
家名自体は没落気味とはいえ、一貴族の妹でありながら、使用人同然の格好をしているのもそのためだ。
だがそれも、予定が確定になれば、何の問題もなく終わること。
「兄様、あたし、エリカ騎士団の試験を受けたいんです」
予想していたのか。彼はため息をついただけで、取り立てて驚きはしなかった。
「この界隈では『弓姫』と呼ばれているお前ならば、無論合格できるだろうが……私に王城で仕事漬けになれと言うのか?」
「兄様は、ちゃんと帰ればいいんです。あたしはもう十七ですし、いい加減自力で生きていくようにしなきゃいけないって思ってたので、ちょうどいいなって」
なぜ、こんな募集が行われているか。仕事柄それを知っている彼は、今度は重いため息をついて、しげしげと少女を見つめる。
「ならば、応募する際に家名は出すな。私が兄であることも、合格してから騎士団長たちに明かす程度ならばかまわない。実力でエリカ騎士の地位を得てこそ、お前の望みが叶う。そうだな?」
異論は一切ないため、少女は大きく頷いた。
許可さえもらえれば『善は急げ』だ。
「あたしは最初からそのつもりです。じゃあ、そろそろ見回りに行ってきます!」
ふわりと、彼女はやわらかく笑う。
格好にそぐわない貴婦人然とした一礼をし、彼女は手ぶらで出て行った。