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デシヴィアの檻  作者: 中雅
序章
2/3

悪魔の遺物 後編

「ようやく雨が上がるようじゃぞ。この歳になると、雨が降るだけで身体のあちこちが痛んでなぁ……やれやれ」


 ザハトが深い溜め息を漏らす。ただでさえ、シュナプスは水に弱い。本来なら、雨が降れば外出も控える一族だ。

 闇の森が位置する南の方角が、薄明かりを射し始めている。ノイトラール大陸の南部は、元は広大な草原に覆われていた。シュナプスは長くこの草原を支配し、放牧と農業の栄える国だった。しかし、その荒廃は年々酷くなり、美しかった草原は見る影もない。シュナプス侯爵の城があり、領土の中心地であるエルンテの街付近は、荒野と砂漠が広がりつつある。農作物の収穫量は目に見えて減り、食糧不足に本格的に対策を取らなければならなくなっていた。

 広い領域で草原が残るのは、今や、闇の森に覆われた最南部に近い場所しかない。闇に守られたその領域に足を踏み入れるものはなく、手が付けられていないのだから当然だろう。


「……?」


 空を見上げて、ラテルネは一瞬、厚い灰色の雲から差し込む陽光の中に、紫色の幕のようなものを見た気がした。森の中の何かが反射したのかも知れない。


「……メッサー殿!」


 監視を続けていた兵士の一人が、声を上げる。そこで現実に立ち戻った。


「どうした!」

「う、動いてます!」

「なんだと……! 総員、戦闘配置!!」


 ラテルネの指示で、兵士たちは各々武器を取る。ラテルネも自ら剣を抜き、槍を構える兵士たちに頷いて見せる。果たして、あの化け物に武器が通用するのか……悩んでいても、答えは出ない。

 遥か遠方で静止していた化け物は、焦れるほどの早さで、時折、立ち止まって全身を震わせながら、それでも着実に歩を進めていた。ラテルネは固唾を呑んで、攻撃の合図を掛ける瞬間を見定める。高台に待機する一小隊から、肉眼でその異形を確認できるほどに距離が狭まると、化け物は急に足を止めた。こちらの気配に気付いて、戸惑っているのか。人らしい感性があるとは思えないが、このまま森に逃げ帰ってくれるなら、それが一番いいのかも知れない。


「――ラテルネ、来るぞ!」


 立ち止まり、身体を何度か大きく身体を痙攣させていた化け物が、大きく反り返って空を仰いだようだった。瞬間、ザハトの怒号が飛び、ラテルネは瞬時に身を屈める。その頭上を、物凄い速さで、鞭のような一本の線が通り過ぎる。フードを掠め、炎のように揺らめく、赤緑色の髪が零れた。焼け焦げるような、じゅわ、という音がした。


「な――」


 鞭のようなそれは、化け物が伸ばした腕、だった。人型をしていても、化け物である。構造まで人と同じと思っていたのは間違いだったようだ。


「う、わ、あぁぁぁッ!!」


 戸惑うような悲鳴が上がる。振り返れば、化け物の腕は、ラテルネの後ろにいた兵士の腹部を貫通していた。それなのに、血は流れていない、奇妙な光景。兵士は恐怖に涙を溜め、驚愕の表情を浮かべ、何か言おうと口を開いて――消える。目の前で、一人の人間が、瞬時に塵と化した。原素に還ることも許されず、ただの塵へと――。


「くっ!」


 伸ばされた腕に斬り付けたラテルネの剣が、刃から塵となる。先程触れられたフードも、その部分だけが欠けていた。


「ひ……!」


 目にしたおぞましい現実に、恐怖が追い付く。兵士たちは息を飲み、青褪めて、じりじりと後ろに下がりつつある。恐怖に支配され、取り乱さなかったのは、さすが炎の如く勇敢と名高いシュナプス騎士団の兵士たちだ。


「……火矢を持て! できるだけ奴に近付くな!」


 既に役目を果たさなくなった剣を投げ捨て、ラテルネは後退の指示を出した。触れたもの全てを塵化してしまうのだとしたら、武器など通用しない。兵士たちが慌てて弓を持ち、油を染み込ませた矢の先に火を点けていく。シュナプスは火の原素を司る一族。完全な術となれば話は別だが、火種程度なら、子供でも操ることができる。しかし、続いた雨のせいで、火の点きが悪い。

 化け物は伸ばした腕を元に戻し、再び痙攣を始めた。第二弾が飛んでくるのは、時間の問題だ。


「我が原素を解せよ」


 ラテルネは口の中で呟き、指先を化け物へと向けた。その指に緑色の炎が灯り、緋色の文字が舞い躍る。

 シュナプスにおける騎士は、素術を扱えることが条件の一つだ。種族が生まれながらに持ち合わせる原素を、特殊な言語と精神力により増幅させ、力として操る術を《素術》と呼ぶ。その威力は、火種とは比にならない。習得には並々ならぬ勉強と修練が必要だが、ラテルネは、この素術の扱いに長けていたからこそ、騎士を拝命できた。


「ラテルネ!」

「効くかどうか分かりませんが……武器も通用しないのであれば、これしか!」


 ザハトが素術を苦手としているのは、騎士団では周知の事実である。ならば自分しかいないと、ラテルネは一歩前に踏み出す。緋色の文字、火の原素を示す古代語が円を描き、陣となって火の原素を強力に再構成していく。

 ラテルネが素術を展開すると、化け物は痙攣を止め、顔の部分だけを向けた。目はないのに、見られている気がする。


「放て、《赤銅の縛》!」


 叫ぶと同時に、文字が炎に包まれて消える。そして、緋色の余韻が集い、一本の赤く燃え滾る鎖を紡ぎ出す。鎖は真っ直ぐに化け物へと襲い掛かり、腕ごと身体を捕らえる。


「素術で生み出したものは、塵化できないようですね……」

「うむ……」


 炎の鎖は、触れたものを焼き尽くす温度を保っている。普通なら燃え上がるところだが、化け物の動きを封じるだけで、火の点く様子は一向に見られない。やはり、人とは異なる生き物なのだろう。


「応援を要請しましょう。素術であれば対抗できるかも知れません」

「いや……待て、ラテルネ」


 伝令を呼ぼうとしたラテルネを、ザハトは片手で制する。動きを止めた化け物は、ぶるぶると小刻みに震えていた。


「なにやら様子が…………ッ?」


 みしりと音を立てて、化け物を捕らえていた鎖が砕け散った。破片は原素を構成する文字に戻り、空中で霧散する。


「バカな……素術も効かないというのか!?」


 歯噛みするラテルネは、次の瞬間、身の毛もよだつ咆哮を聞いた。化け物が上げたであろうそれは、声ではなくて、ただの雑音だった。鼓膜が震え、身体の内側から引き裂かれそうな嫌悪感が沸いてくる。ラテルネはたまらず身体を折り、口元を押さえた。兵士たちの中には、耐え切れずに倒れるものも見られる。


「なんだ……何なんだ、あれは!」

「奴は、儂らが思っているよりも遥かに厄介な代物のようじゃ。だが、このまま野放しにする訳にもいかん……」


 倒れはしないものの、ザハトも表情を歪ませていた。血流が急激に悪くなり、寒気と震えが襲う。軽く眩暈も起きている。呼吸を繰り返しても、空気が肺に届かないかのように、息が苦しい。あの化け物の《声》を耳にしたせいだろう。どんな原素を元にした術か分からないが、身体機能を低下させる効果があるようだ。冷や汗が流れて止まらない。


「っ!」


 化け物は、鞭のようにしなる腕を振り回し、歩を進める。本体の動きは遅いようだが、あの伸びる腕は厄介だ。防ごうにも、触れれば塵になってしまう。ざり、とラテルネの足元が抉られる。草も、土すら塵となって、歪な跡を残す。そして、原素が塵になる瞬間の、じゅわ、というおぞましい音。


「ラテルネ、退け!」

「しかし、私が退いては……!」

「おぬし一人では――いや、今は誰も奴を止められぬ。ここは退け!」


 任を放棄するようで後味が悪いが、ザハトの言うとおり、あの化け物を止める術は見当たらない。


「……っ、我が原素を解せよ!」


 ならばせめて足止めをと、ラテルネは再び素術を展開させる。化け物は、やはりラテルネに顔を向け、全身を震わせていた。


「……まさか」


 術を解いて、ラテルネは走り出した。隊から外れ、化け物と充分距離を取りながら回り込む。そして、もう一度、素術を展開した。

 ――化け物が、向きを変える。


「やはり……! ザハト様、私が奴の注意を引き付けます。兵を連れて退いてください!」

「おぬし、何を!?」

「奴は素術に反応するようです。このまま森まで誘き寄せられれば、時間が稼げるでしょう。今見たことを、侯爵に……お願いします!」


 ザハトが止める間もなく、ラテルネは森へ向かって走る。それを、化け物がゆったりとした足取りで追った。


「ラテルネ!!」

 

 雨は、いつの間にか完全に上がっていた。



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