【下】
◆ ◆ ◆
「金だせよ」
「今月だってギリギリなのよ」
「ウソつけ。親父の残した金は何処に隠した?」
「お兄ちゃんが全部使ったじゃない。競馬とパチンコで、全部使っちゃったじゃない」
紫乃は台所で叫んだ。
兄は茶の間のサイドボードの引き出しを乱雑に次々と開けている。
「うるせぇ。じゃぁ、この家の権利書は何処だ?」
「そんなの知らないよ」
「何処に隠したか言え!」
兄が大またで台所に入って来た。
紫乃は後ろに下がった。距離をとらなければ。とらなければ。
兄はかまわず紫乃の腕を掴む。
「何処に隠したか言え!」
「この家が無くなったら、お兄ちゃんどうやって暮らすの? 仕事もしないでどうやって暮らすの?」
「説教はいいんだよ」
咽るような強い酒の臭いがした。
兄は紫乃の腕を掴んで、冷蔵庫に強く押し付ける。
手を振り上げた。
「やめてっ、あたし受付業務なのよ。顔ぶたないでっ!」
兄は振り上げた腕を下ろして、彼女の横っ腹を思い切り蹴った。
紫乃の細い身体は、あっけなく倒れようとして彼女は反射的に電子レンジに掴まる。
しかし兄は再び彼女の胸を正面から踏みつけるように蹴った。
紫乃はそのまま床に倒れこんだ。
何時もそうだ。兄が酒を飲むのはギャンブルで負けた時。そして、妹に金をせびる時だ。
「見取り図はどうした? はやく持って来い」
「そんなの、簡単に持って来れるわけないでしょ」
紫乃は床に向かって言った。
「職場なんだから、何とでもなるだろ」
「銀行強盗なんて、うまくいくわけないじゃん」
兄の足が再び紫乃の身体を蹴る。
一瞬息が苦しくて咽た。
兄は紫乃に背を向けると、再び茶の間の家具についている引き出しという引き出しを全て開け放すと、舌打ちひとつして二階へ向う。
紫乃の部屋を漁って、一万五千円入っていた財布から、一万円を抜き取る。
彼女は台所の床に這いつくばり、ゆっくりと身体を起こした。
泣きたくないと思っても、勝手に肩が震えて涙が零れてしまう。床に着いた手を強く握りしめた。
玄関から出て行く兄の気配を感じで、わき腹を抑えながら微かに安堵した。
◆ ◆ ◆
『撃て』……その冷静で短い言葉の意味するモノは、殺せという事だ。
俺は迷わずスナイパーライフルのトリガーを引いた。迷う暇など無い。
インカムからの指示は絶対で、個人の感情を入れる隙などコンマ1秒ほども無いのだ。
そして、それが使命だと信じていた。
三人いた犯人グループのうち、外に出た一人は即死だった。もう一人は一命を取りとめ、もう一人は 打たれる一瞬前に両手を上げて降伏した。
一人に対して複数の銃弾を浴びせる為、傍目には誰の撃った弾丸が致命傷になったか判別は難しい。
複数で狙撃するのはそれが目的だ。もちろん、撃ち損じない補助も兼ねているが……。
報道のカメラでは確かに誰の弾が犯人を殺傷したか判らない。
しかし俺は見た。
炸裂した硝煙の向こう……ターゲットスコープに映る犯人の心臓を、俺の弾丸が間違いなく貫いたのを。
そう、撃った人間には判るのだ。
着弾する瞬間は、手に取るような距離感で瞳孔に妬き付く。
一瞬遅れて右肺に着弾したのは、おそらく隣にいた藤本先輩のものだろう。もしかしたら犯人を絶命させない為に、わざと肺を狙ったのかもしれない。
山崎先輩の弾は右腕に着弾した。
そして男の顔が歪み、身体は音も無く崩れ落ちる。
俺だけが……俺の弾だけが確実に犯人の急所を貫いたのだ。
犯人が持っていた銃のゲキ鉄は起きていた。即死させなければ誰か犠牲者が出る可能性があった。
最後の力で傍らの人質を撃つかもしれないし、苦痛にもがくあまりに暴発するかもしれない。
だから俺は、俺の判断で心臓を狙った。
――別に紫乃の為に彼を狙撃したわけじゃない……
俺は自分自身に言い聞かせる。
崩れ落ちた身体は、木偶人形のように床に倒れ、リノリウムのタイルに真っ赤な鮮血が流れた。
スコープから目を離すと、そこは八十五・七メートル離れた非現実的な世界。
麗らかな陽射しが俺達を照らし出して、風は一瞬の達成感すら運んでくる。
しかし俺は人殺しだ。
嗅ぎなれた硝煙の匂いは何処か生臭く、咽かえる俺の脳裏に深く刻まれた。
SATは覆面で顔を隠している。
誰が誰なのか周囲から確認されない為だ。
それは、射殺した犯人の遺族から殺人で起訴されない為でもある。
しかし、彼の遺族は紫乃だけだ。
俺はゆっくりと黒い覆面を剥ぐ。
頬を風が撫でる。
ゆっくり息を吐くと、自分の中から何かが抜け出してゆく気がした。
人を殺めた人間は、それ以前とは違う何かになってしまう。
以前の自分には戻れない事を、自分だけは知っている。
ビルの屋上から再び銀行の入り口付近を見ると、人質が解放されて出てきた。
ストレッチャーで搬送される者やその場に座り込む者もいる。
開放された行員の中に、紫乃がいた。
彼女は一度だけこちらを振り向くように見上げ、微かに笑みを見せる。
報道陣と救急隊員が取り囲む八十五・七メート離れた歩道から、安堵に満ちた不思議な笑みは、素顔の俺を捕らえていた。
――END――
実はこれ…以前某企画小説に参加した際に書き下ろしたもので、
結局その時は別の作品を投稿したので(苦笑
今回加修して投稿いたしました。
当時のキーワードがそのまま残っているかもしれません(^^;
少ししたら、また現れたいと思います。
完読していただいた方、気になって目にとめて下さった方に
感謝いたします。
ありがとうございました。