【上】
お久しぶりです。
久しぶりの復帰1弾は、上下の短編連載でご勘弁を…。
暑いわけでもないのに、背中を汗が伝っていた。
下方から湧き出るように感じる微かな喧騒と静寂は、沸き立つ汗と留まる緊張感にかき消される。
上空を飛ぶ旅客機の音だけが降り注ぐ粗雑なコンクリートの床で、ほったらかしの四角いプランターからタンポポの花が、何処か無神経に咲き乱れていた。
春の陽射しが眩しく、しかし背中を滑りぬける風はまだ冷たかった。
ライフルの冷たいボルトを引いてチャンバーに弾丸を装填した時、心臓の鼓動が全身を震わせる。
日本では稀な銀行強盗事件……。
人質解放に向けての交渉は難航し、彼らの精神状態は限界だっただろう。
ビルの屋上からひたすらライフルスコープだけを覗く俺たちには、その状況全てを把握する事は出来ない。
建物の一階窓はすべてブラインドが下ろされて、閉ざされた向こうにターゲットを搾り出す。
状況はすべて、インカムからの声に頼るしかない。
行員と居合わせた客を含めた23人が人質に取られて、警備員の一人が負傷していた。
そしてこの時、人質の一人が再び犯人の銃弾に倒れる。
緩やかな風が歩道の並木に植えられた桜の花を微かに揺らすと、ひらひらと数枚の花びらが枝から離れて宙を舞った。
上から見るその光景は、海原に浮かぶ小船が波に揺られている様に似ている。
閉ざされていた出入り口のシャッターがゆっくりと3分の2ほど開いた。
何かの交渉だろうか、犯人の一人が入り口付近に立つ。
人質の一人の女性の腕を掴んで、一緒に連れ出してきた。
短い黒髪の女性はワンピース姿だから、おそらく一般客の一人だろう。
六階のビルの屋上から斜めに見下ろす八十五・七メートル先の状況は、手前の大通りのおかげでよく見えた。
開いたシャッターの奥に人影。立っているのは犯人―――床に座らせられた誰かの脚が、少しだけ見える。
裏口を突入準備の整った制圧班が固めた事を、インカムからの報告で知った。
時間を稼ぐ為とチャンスを作る為に、犯人と逃走経路と手段の交渉に入っていたらしい。
呼吸が空気を震わせた。
狙撃の現場は初めてではない。
だからもう、俺は戻れない。
人はどんな理由があろうとも、人を殺してはいけない。
人を殺めた人間は、それ以前とは違う何かになってしまう気がする。
それが何かは解らないが、きっと以前の自分には戻れない。それは他の自分になってしまうと言うことだ。
はた目には解らないかもしれない。
しかし、自分だけは知っている。
『撃て』
インカムから聞こえた、無機質で冷たい響き。
今も耳の奥から冷たく何度もリフレインする……。
――彼女と何処で知り合ったのかは、もう忘れてしまった。
気がついた時にはもう、戻れはしない関係になっていた。
家庭に問題の多い彼女は、何時も家を出たがっていた。しかし、仕事柄一人暮らしはできない。
職場の規定が、自宅通勤という硬い仕事なのだ。
俺の家に出入りするようになってからどれくらい経つだろうか……。
泊まりにくるようになったのは、ごく最近の事だ。
『家に帰りたくない』彼女は口癖のように言った。
彼女は兄と二人暮らしだったが、その唯一の家族で在る兄は酒癖が悪く酔うと暴力をふるう。仕事は長続きせず、彼女の安定した収入を頼るような甲斐性の無い男だった。
紫乃は明るくてよく笑う娘だった。
彼女と知り合ってから、俺はよく外出するようになった。以前は非番の時でもほとんど家に篭っていたような気がする。
紫乃はそんな俺に、ごく普通の誰もが感じる休日の高揚感というものを教えてくれた。
だから……俺は彼女の望みを叶えたのだろうか。
いや、彼女が願わなくても、俺は俺の任務として全ては執行されていただろう。
ろくに家具らしいものは無く、適当に並んだカラーボックスの上に、彼女の化粧品がキレイに並び始めていた。
それでも殺風景だったキッチンにはそれなりの食器が増えた。東急ハンズで買ったトムとジェリーのソーサーセットを彼女は気に入っていて、俺にはいつもトムの皿を差し出す。
「あなたはトムだから」
「なんで?」
「意地悪だけど優しい」
「意味わかんね」
トムは普段ジェリーを追い掛け回して食べようとさえする。しかし真冬の豪雪、外でカチコチンに凍ってしまったジェリーをトムは助けたのだという。
「それが、どうして俺と重さなんの?」
「わかんない。家庭の恐怖から助けてくれたから」
「じゃ、優しいだけだと思うけど」
「うん……でも笑ったときの瞳が、時々意地悪」
彼女は顔を伏せて、少し紅潮した。
紫乃は歳より若く見える。
今年26歳になった今も、二十歳そこそこかそれ以下に見える。
白い肌はあまりファンデーションを必要としないしから、まるで素顔にみえるのか、それとも元々童顔だから、仕事用のメイクも幼く見えるのだろうか。
「兄を殺して」
不意に彼女が言ったのは、先週の金曜日の夜だ。
シングルベッドの狭い布団の中で、紫乃は小鳥のように囁いた。
「俺は、人殺しじゃないよ」
乾いた笑いを浮かべながら応えを返した。
「来週、兄は友人たちと銀行強盗をするわ」
「強盗?」
銀行強盗が成功する確率なんてゼロに等しい。
「あたしの勤めてる銀行を襲うんだって」
「冗談だろ?」
「あたし、行内の見取り図をコピーして持って行かされたわ」
紫乃は、俺の胸の上に小さな手を置いた。
小さくて、でも細長い指が白く伸びる。
「だからって、なんで俺に?」
「硝煙の匂いがするわ。あなたも銃を撃つんでしょ?」
紫乃の父親は秋田の生まれで、彼女が小さい頃、狩に連れて行かれた事が何度かあるらしい。
俺の職業はSATだ。
SATとは日本国警察に所属する特殊部隊で、制圧班、狙撃班、技術支援班、指揮班に分かれ、テロ攻撃やハイジャックなど、凶悪事件の収束を目的として組織されている。
その狙撃班に、俺は属していた。
しかしそれは、自分の家族すら知らない。SATに所属する者たちは保秘を厳守する為に、自分の職務や現場で見聞きした事を誰かに話してはならない。
以前殉職した隊員の家族は、殉職の報告を受けて初めて彼の仕事を知ったそうだ。
「田舎の山の方ではね、狩猟期に入るとみんなで山に入るの。みんなライフルを持って、遠足にでも行くようにね」
紫乃は白い歯を見せて微笑んだ。
「その時に嗅いだ匂いが、あなたからするの。手持ち花火をした時に手に着く、あの火薬のような匂い」
紫乃は上目遣いでささやかに微笑む。
「俺は狩なんてしないよ」
「だったら、やっぱり殺し屋?」
知らぬ間に、俺の身体にも硝煙の匂いが染み付いているのだろうか……。
紫乃の脇腹に、薄い青あざがあった。2日前に、兄に蹴られたそうだ。
俺は彼女の問いに応える代わりに、その痣にそっと触れてみた。
紫乃は小さく眉を潜めて目を閉じる。
「痛い?」
「少しだけ」
消えかけた痣は、身体のあちらこちらにあった。
俺はこれ以上彼女の身体に痣ができて欲しくないと思いながら、何も出来ないでいた。
少し重くて暗いです(^^;
次回、【下】です。