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硝煙  作者: 徳次郎
1/2

【上】

お久しぶりです。

久しぶりの復帰1弾は、上下の短編連載でご勘弁を…。


 暑いわけでもないのに、背中を汗が伝っていた。

 下方から湧き出るように感じる微かな喧騒と静寂は、沸き立つ汗と留まる緊張感にかき消される。

 上空を飛ぶ旅客機の音だけが降り注ぐ粗雑なコンクリートの床で、ほったらかしの四角いプランターからタンポポの花が、何処か無神経に咲き乱れていた。

 春の陽射しが眩しく、しかし背中を滑りぬける風はまだ冷たかった。

 ライフルの冷たいボルトを引いてチャンバーに弾丸を装填した時、心臓の鼓動が全身を震わせる。


 日本では稀な銀行強盗事件……。

 人質解放に向けての交渉は難航し、彼らの精神状態は限界だっただろう。

 ビルの屋上からひたすらライフルスコープだけを覗く俺たちには、その状況全てを把握する事は出来ない。

 建物の一階窓はすべてブラインドが下ろされて、閉ざされた向こうにターゲットを搾り出す。

 状況はすべて、インカムからの声に頼るしかない。

 行員と居合わせた客を含めた23人が人質に取られて、警備員の一人が負傷していた。

 そしてこの時、人質の一人が再び犯人の銃弾に倒れる。

 緩やかな風が歩道の並木に植えられた桜の花を微かに揺らすと、ひらひらと数枚の花びらが枝から離れて宙を舞った。

 上から見るその光景は、海原に浮かぶ小船が波に揺られている様に似ている。

 閉ざされていた出入り口のシャッターがゆっくりと3分の2ほど開いた。

 何かの交渉だろうか、犯人の一人が入り口付近に立つ。

 人質の一人の女性の腕を掴んで、一緒に連れ出してきた。

 短い黒髪の女性はワンピース姿だから、おそらく一般客の一人だろう。

 六階のビルの屋上から斜めに見下ろす八十五・七メートル先の状況は、手前の大通りのおかげでよく見えた。

 開いたシャッターの奥に人影。立っているのは犯人―――床に座らせられた誰かの脚が、少しだけ見える。

 裏口を突入準備の整った制圧班が固めた事を、インカムからの報告で知った。

 時間を稼ぐ為とチャンスを作る為に、犯人と逃走経路と手段の交渉に入っていたらしい。

 呼吸が空気を震わせた。

 狙撃の現場は初めてではない。

 だからもう、俺は戻れない。

 人はどんな理由があろうとも、人を殺してはいけない。

 人を殺めた人間は、それ以前とは違う何かになってしまう気がする。

 それが何かは解らないが、きっと以前の自分には戻れない。それは他の自分になってしまうと言うことだ。

 はた目には解らないかもしれない。

 しかし、自分だけは知っている。


『撃て』

 インカムから聞こえた、無機質で冷たい響き。

 今も耳の奥から冷たく何度もリフレインする……。





――彼女と何処で知り合ったのかは、もう忘れてしまった。

 気がついた時にはもう、戻れはしない関係になっていた。

 家庭に問題の多い彼女は、何時も家を出たがっていた。しかし、仕事柄一人暮らしはできない。

 職場の規定が、自宅通勤という硬い仕事なのだ。

 俺の家に出入りするようになってからどれくらい経つだろうか……。

 泊まりにくるようになったのは、ごく最近の事だ。

『家に帰りたくない』彼女は口癖のように言った。

 彼女は兄と二人暮らしだったが、その唯一の家族で在る兄は酒癖が悪く酔うと暴力をふるう。仕事は長続きせず、彼女の安定した収入を頼るような甲斐性の無い男だった。


 紫乃しのは明るくてよく笑う娘だった。

 彼女と知り合ってから、俺はよく外出するようになった。以前は非番の時でもほとんど家に篭っていたような気がする。

 紫乃はそんな俺に、ごく普通の誰もが感じる休日の高揚感というものを教えてくれた。

 だから……俺は彼女の望みを叶えたのだろうか。

 いや、彼女が願わなくても、俺は俺の任務として全ては執行されていただろう。

 ろくに家具らしいものは無く、適当に並んだカラーボックスの上に、彼女の化粧品がキレイに並び始めていた。

 それでも殺風景だったキッチンにはそれなりの食器が増えた。東急ハンズで買ったトムとジェリーのソーサーセットを彼女は気に入っていて、俺にはいつもトムの皿を差し出す。

「あなたはトムだから」

「なんで?」

「意地悪だけど優しい」

「意味わかんね」

 トムは普段ジェリーを追い掛け回して食べようとさえする。しかし真冬の豪雪、外でカチコチンに凍ってしまったジェリーをトムは助けたのだという。

「それが、どうして俺と重さなんの?」

「わかんない。家庭の恐怖から助けてくれたから」

「じゃ、優しいだけだと思うけど」

「うん……でも笑ったときの瞳が、時々意地悪」

 彼女は顔を伏せて、少し紅潮した。

 紫乃は歳より若く見える。

 今年26歳になった今も、二十歳そこそこかそれ以下に見える。

 白い肌はあまりファンデーションを必要としないしから、まるで素顔にみえるのか、それとも元々童顔だから、仕事用のメイクも幼く見えるのだろうか。


「兄を殺して」

 不意に彼女が言ったのは、先週の金曜日の夜だ。

 シングルベッドの狭い布団の中で、紫乃は小鳥のように囁いた。

「俺は、人殺しじゃないよ」

 乾いた笑いを浮かべながら応えを返した。

「来週、兄は友人たちと銀行強盗をするわ」

「強盗?」

 銀行強盗が成功する確率なんてゼロに等しい。

「あたしの勤めてる銀行を襲うんだって」

「冗談だろ?」

「あたし、行内の見取り図をコピーして持って行かされたわ」

 紫乃は、俺の胸の上に小さな手を置いた。

 小さくて、でも細長い指が白く伸びる。

「だからって、なんで俺に?」

「硝煙の匂いがするわ。あなたも銃を撃つんでしょ?」

 紫乃の父親は秋田の生まれで、彼女が小さい頃、狩に連れて行かれた事が何度かあるらしい。


 俺の職業はSATだ。

SATとは日本国警察に所属する特殊部隊で、制圧班、狙撃班、技術支援班、指揮班に分かれ、テロ攻撃やハイジャックなど、凶悪事件の収束を目的として組織されている。

 その狙撃班に、俺は属していた。

 しかしそれは、自分の家族すら知らない。SATに所属する者たちは保秘を厳守する為に、自分の職務や現場で見聞きした事を誰かに話してはならない。

 以前殉職した隊員の家族は、殉職の報告を受けて初めて彼の仕事を知ったそうだ。


「田舎の山の方ではね、狩猟期に入るとみんなで山に入るの。みんなライフルを持って、遠足にでも行くようにね」

 紫乃は白い歯を見せて微笑んだ。

「その時に嗅いだ匂いが、あなたからするの。手持ち花火をした時に手に着く、あの火薬のような匂い」

 紫乃は上目遣いでささやかに微笑む。

「俺は狩なんてしないよ」

「だったら、やっぱり殺し屋?」

 知らぬ間に、俺の身体にも硝煙の匂いが染み付いているのだろうか……。

 紫乃の脇腹に、薄い青あざがあった。2日前に、兄に蹴られたそうだ。

 俺は彼女の問いに応える代わりに、その痣にそっと触れてみた。

 紫乃は小さく眉を潜めて目を閉じる。

「痛い?」

「少しだけ」

 消えかけた痣は、身体のあちらこちらにあった。

 俺はこれ以上彼女の身体に痣ができて欲しくないと思いながら、何も出来ないでいた。




少し重くて暗いです(^^;


次回、【下】です。

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