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おかえりを四つ集めて

作者: ぱっちー
掲載日:2026/07/21

今回は、「おかえり」という温かい言葉から、少しずつ違和感が広がっていく物語を書きました。


知らない町で、知らない人から「おかえり」と言われたら、少しうれしいような、不思議なような気持ちになるかもしれません。


ただ、その言葉を何度も聞いているうちに、本当にそこが自分の帰る場所になってしまったら。


表面上は明るく、町の人たちも親切で、楽しい夏祭りが続きます。


けれど、読み終えたあとにもう一度タイトルを見たとき、少しだけ違う意味に感じてもらえたらうれしいです。



 朝凪町には、「いらっしゃい」がない。


 駅前の小さなパン屋に入っても、八百屋の前でトマトを眺めても、商店街の端にある写真館の戸を開けても、返ってくる言葉は決まっている。


「おかえりなさい」


 初めて町を訪れた青木千紘は、そのたびに振り返った。


 自分の後ろに、常連客でもいるのだと思ったのだ。


 三度目に振り返ったとき、隣を歩いていた高瀬陽介が吹き出した。


「もう振り返らなくていいって。千紘に言ってるんだから」


「初対面の人に?」


「朝凪町では、来た人はみんな帰ってきた人なんだよ」


「ずいぶん強引な町おこしね」


「『いらっしゃい』より親しみがあるだろ」


「親しみというより、記憶を試されてる感じがする」


 千紘がそう言うと、陽介は肩をすくめた。


「大丈夫。町のほうが勝手に覚えてくれるから」


 駅前広場には、色とりどりの三角旗が渡されていた。風が吹くたび、旗がぱたぱたと鳴る。


 七月の終わり、朝凪町では毎年「おかえり横丁まつり」が開かれる。


 焼きトウモロコシ、輪投げ、金魚すくい。商店街の店先には昔ながらの屋台が並び、夕方には町の人たちが長いテーブルを囲んで食事をする。


 十年前から続く、小さな町の夏祭りだ。


 千紘が呼ばれたのは、その祭りの案内冊子とウェブサイトを作るためだった。


 陽介とは東京のデザイン会社で働いていたころの同僚である。彼は五年前に実家のある朝凪町へ戻り、今は商工会と観光協会を半分ずつ手伝っていた。


「予算は少ない、注文は多い、締切は昨日」


 駅まで迎えに来た陽介は、久しぶりの挨拶より先にそう言った。


「最悪の依頼じゃない」


「宿と三食がつく」


「最高の依頼ね」


 そうして千紘は、祭りまでの十日間、陽介の実家に併設されたパン屋「ひだまり堂」の二階に泊まることになった。


 ひだまり堂の戸を開けると、焼きたてのバターの匂いがした。


「おかえりなさい」


 レジの奥から声をかけたのは、陽介の母、澄江だった。


 白い割烹着に黄色い三角巾。小柄だが姿勢がよく、パンをつかむ手つきに迷いがない。


「母さん、前に話した青木千紘。冊子を作ってくれる人」


「はいはい。聞いてますよ」


 澄江は目を細め、千紘の顔をじっと見た。


「春美、おかえり」


 陽介の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。


 だが、すぐに澄江が自分の額を軽くたたいた。


「あらやだ。千紘さんだったね。似た色の服を着てるから、間違えちゃった」


 千紘は自分の薄黄色のブラウスを見下ろした。


「春美さんも、黄色が好きだったんですか?」


「ええ。たまご焼きも、ミモザも、安売りのバナナも。黄色なら何でも好きだったの」


「最後のは、色より値段じゃない?」


 陽介が言うと、澄江はトングで彼の腕を軽く挟んだ。


「痛っ」


「人の思い出に値札をつけるんじゃありません」


「トングもつけるなよ」


 千紘が笑うと、レジの下から女の子が顔を出した。


「ねえ、お姉さん、春美おばちゃんの代わり?」


「こはる」


 陽介の声が少し低くなった。


 こはるは八歳になる陽介の娘だった。髪を左右で結び、片方のゴムだけが赤い。


「代わりって、何の?」


 千紘がしゃがんで聞くと、こはるは店の壁を指さした。


 そこには古い家族写真が飾られていた。


 澄江、今より若い陽介、そして黄色いワンピースを着た女性。女性は少し首を傾け、これから笑うと決めたような顔をしていた。


 千紘と似ていると言われれば、目元の雰囲気が似ていなくもない。


「春美おばちゃん。ずっと旅行に行ってるの」


「旅行?」


「九年」


「それは、ずいぶん長い旅行ね」


「お土産、まだなんだよ」


 こはるは不満そうに頬をふくらませた。


 陽介が話題を変えるように、焼きたてのクルミパンを千紘へ差し出した。


「ほら、うちの名物。仕事代の前払い」


「安くない?」


「三食つきだって言っただろ」


「三食ともクルミパンじゃないでしょうね」


 澄江とこはるが同時に笑った。


 その明るい声に押されるように、さっき一瞬だけ止まった陽介の表情も、いつものものへ戻った。


 *


 祭りの目玉は「思い出さんぽ」と呼ばれる催しだった。


 参加者は、昔この町で暮らしていた人の名前が書かれた札を一枚選ぶ。


 その人がよく通った四つの店を決められた順番で訪ね、店の人から思い出話を聞く。最後に古い写真と同じ場所、同じ立ち位置で写真を撮り、町のアルバムに一枚加える。


「つまり、昔の住民になりきるスタンプラリー?」


 千紘が尋ねると、陽介は腕を組んだ。


「言い方が軽いな」


「町の記憶を、今の人に歩いてもらう体験型アーカイブ」


「急に役所っぽくなった」


「じゃあ、間を取って『思い出コスプレ』」


「取れてない」


 商工会の二階には、過去九年分の写真が分厚いアルバムにまとめられていた。


 八百屋の前で大根を抱える若い男性。神社の石段で赤い傘を差す女性。河原で靴を脱ぎ、両足を水につけている親子。


 どれも左ページに昔の写真、右ページに祭りで撮った再現写真が並んでいる。


 右ページの下には昔の住民の名前が大きく書かれ、その横に小さな文字で「代役」と参加者の名前が添えられていた。


「この『代役』って、少し固くない?」


 千紘は言った。


「『思い出役』とか、『今日の帰り人』とかのほうが祭りらしいかも」


「昔からそう書くことになってるんだ」


 陽介が答えるより先に、写真館の主人、篠田源一が口を挟んだ。


 源一は七十歳を越えているが、銀縁眼鏡の奥の目はよく動く。町の古い写真を整理し、思い出さんぽの立ち上げにも関わった人物だった。


「写真は、写っている人の名前を知らんからな」


 源一はアルバムを指で軽くたたいた。


「下に書いてやらんと、誰を覚えればいいかわからん」


「写真が覚えるんですか?」


「人間が写真を見て覚える、という意味だよ」


 陽介が笑った。


 源一は笑わず、千紘のパソコンへ視線を移した。


「今は紙だけじゃない。画面の写真にも名前を添えるんだろう」


「ウェブサイトですか?」


「大勢が見るものなら同じだ。何度も見られた名前は、写真によくなじむ」


「検索にも出やすくなりますしね」


 千紘は仕事の話だと思い、うなずいた。


 源一はアルバムのページをめくった。


「名前は大きく。代わりの名前は小さく。そうしておけば、昔の人と今の人が混ざらない」


「わかりました。デザインもそれに合わせます」


 足元に座っていたこはるが、アルバムを覗き込んだ。


「でも、代役って書いてあるうちは帰ってこないんでしょ?」


「誰がそんなこと言ったの」


 陽介が眉をひそめる。


「知らない」


「おばあちゃんじゃないの?」


「おばあちゃんは、言ってないって言うもん」


 商工会の隅で袋詰めをしていた澄江が、即座に振り返った。


「本当に言ってませんよ」


「じゃあ、どこで聞いたの?」


 こはるはしばらく考えた。


「寝る前かな」


「夢の中で?」


「たぶん」


 陽介が苦笑した。


「こはるは毎年、祭りが近くなると変な歌や決まりを言い出すんだ。誰にも教わってないことまで」


「子どもは聞いたことを忘れてるだけですよ」


 澄江が言った。


 源一だけが、めくりかけたページに指を置いたまま、こはるを見ていた。


 *


 思い出さんぽには、細かな決まりがいくつかあった。


 一つ、名前札は胸の左につけること。


 二つ、四つの店は指定された順番で回り、途中で引き返さないこと。


 三つ、店で渡されたものは、次の店で必ず手渡すこと。


 四つ、店の人に「おかえり」と言われたら、「ただいま」と答えること。


 五つ、自分の名前が書かれた紙は、最後の写真を撮るまでは表に出さないこと。


「ルール、多くない?」


 千紘が原稿を読みながら言うと、陽介は名前札の束を机に置いた。


「昔はもっと多かったらしい。右足から店に入るとか、パンは最後の一口だけ残すとか」


「決まりを考えた人しか楽しくなさそう」


 廊下では、こはるが小さな声で歌っていた。


「なまえをよんで、おみやげ四つ。いつもの道を、まっすぐ、まがる。写真のすきまに入ったら、おかえりなさい、うちのひと」


 千紘は顔を上げた。


「それも夢で覚えたの?」


「わからない。前から知ってたのかも」


「八歳が使う言葉じゃないな」


 陽介が言うと、こはるは得意げに胸を張った。


「前世が九歳だから」


「一年しか違わないじゃない」


 千紘が笑い、こはるも笑った。


 源一は窓際に立ち、商店街の先にある赤い橋を見ていた。


 *


 祭りの四日前、千紘は試しに一コース歩くことになった。


 冊子に載せる写真を撮り、所要時間を確認するためだ。


「どの札でもいい?」


 木箱の中には、二十枚ほどの名前札が入っていた。


 札の表には名前、裏には生まれた年、好きだったもの、町で呼ばれていた呼び名が書かれている。


「できれば、まだ写真の少ない人がいいな」


 陽介がそう言ったとき、こはるが横から一枚抜き取った。


「これ」


 黄色い縁取りの札だった。


 高瀬春美。


 好きなもの、クルミパン、黄色い花、古い映画。


 町での呼び名、はるちゃん。


「家族のを選ぶのは、身内びいきじゃない?」


 千紘が言うと、こはるは首を振った。


「春美おばちゃんのコース、まだ誰も最後まで歩いてないから」


「去年、途中まで歩いた人がいたんだけどな」


 陽介が札を見つめた。


「三軒目で気分が悪くなって、次の日には町を出た」


「熱中症?」


「たぶん。連絡先もわからなくなったんだ」


「受付表に書いてなかったの?」


「書いてあったはずなんだけど、名前のところだけ水でにじんでた」


 千紘は少し気になったが、祭りではよくあることだと思い直した。


「それなら、今年こそ案内をわかりやすくしないとね」


 千紘は名前札を胸の左につけた。


 澄江が、奥から黄色いリボンを持ってきた。


「札が落ちないように、これで留めて」


「春美さんのものですか?」


「さあ。昔から、ここにあったもの」


 澄江はそう言いながら、千紘の胸元でリボンを結んだ。


 指先がわずかに震えていた。


「きつくない?」


「大丈夫です」


 澄江は一歩下がり、千紘を見た。


「よく似合う」


 それから、ごく自然に言った。


「おかえり、はるちゃん」


 千紘は冊子のルールを思い出した。


「ただいま」


 こはるが、ぱちぱちと手をたたいた。


「一つ目」


「スタンプじゃないの?」


「おかえりを四つ集めるんだよ」


「四つ集めたら?」


「写真に入れる」


「写真なら、一つでも撮れるけどね」


 千紘がスマートフォンを向けると、こはるは変な顔をした。


 その後ろで、澄江はまだ黄色いリボンを見ていた。


 一軒目のひだまり堂で、澄江からクルミパンの入った紙袋を受け取る。


 二軒目は文房具店の「水野堂」だった。


 店主の水野は、千紘の名前札を見るなり目を丸くした。


「はるちゃん、おかえり」


「ただいま」


 言ってから、千紘は笑った。


「なんだか演劇みたいですね」


「祭りなんて、だいたい大人が本気でやる演劇だよ」


 水野は紙袋からクルミパンを一つ取り出し、代わりに青い表紙の小さなノートを入れた。


「パンは?」


「私の昼飯」


「思い出を食べるんですね」


「賞味期限が今日だからね」


 水野は店の奥から古い帳面を出した。


「ここに、名前を書いて」


 開かれたページには、過去の参加者が歩いた人物の名前が並んでいた。


 右側には小さく参加者名を書く欄があるが、そこだけ薄い紙で覆われている。


「今は札の名前だけ、でしたよね」


 千紘は「高瀬春美」と書いた。


 書き終えた瞬間、水野が小さく息をのんだ。


「何ですか?」


「字まで似てると思って」


「そんなことあります?」


 水野は別の古いノートを見せた。


 表紙の内側に、「高瀬春美」と書かれている。


 たしかに、少し右上がりになる「春」の字が、千紘の書き方と似ていた。


「練習したら真似できそう」


 千紘が言うと、水野は古いノートを閉じた。


「真似しなくても、もう十分だよ」


 三軒目は雑貨店「月舟」だった。


 店主の真理子は青いノートを受け取ると、表紙をなでた。


「これ、昔は五十円だったのよ。今は復刻版で三百八十円」


「思い出にも物価高が来てるんですね」


「思い出が一番値上がりするの」


 真理子は笑い、引き出しから小さな鈴のついた鍵を出した。


「はるちゃん、おかえり」


「ただいま」


 三つ目、とこはるが指を三本立てる。


 鍵には黄色い花の形をした飾りがついていた。


「昔の裏口の鍵。今はもう使えないけど、最後に家まで持っていくの」


「使えない鍵を運ぶんですか」


「使える鍵を知らない人に渡すほうが怖いでしょう」


 鍵を手渡すときだけ、真理子は両手を使った。


 千紘もつられて両手で受け取った。


 四軒目は、商店街の端にある篠田写真館だった。


 途中で陽介が路地を指した。


「近道ならこっち」


 こはるが強く首を振った。


「だめ。春美おばちゃんの道は、郵便局の角を曲がって、赤い橋を渡るの」


「今日は所要時間を測るだけだぞ」


「道を変えたら、帰れないよ」


「誰が?」


 陽介が尋ねると、こはるは困ったように眉を寄せた。


「わからない」


 少し間を置いて、付け足した。


「でも、そう言われたの」


「誰に?」


「知らない人」


 陽介は冗談で返さず、こはるの顔を見た。


 三人は郵便局の角を曲がり、赤い欄干の小さな橋を渡った。


 写真館に着くと、源一が古いカメラを磨いていた。


 黄色い名前札と鍵を見て、彼はしばらく黙った。


「はるちゃん、おかえり」


「ただいま」


 こはるが四本目の指を立てた。


「そろった」


 源一は鍵を受け取り、代わりに一枚の写真を千紘へ渡した。


 写真には、ひだまり堂の前に立つ澄江、陽介、春美が写っていた。


 九年前、春美がいなくなる数日前に撮られた最後の家族写真だという。


 写真の裏には、三人の名前が書かれていた。


 高瀬澄江。


 高瀬陽介。


 高瀬春美。


 春美の名前だけ、インクが少し薄い。


「この写真と同じ場所で撮れば終わりだ」


 源一が言った。


「今日は試し歩きだから、撮影は祭り当日にしよう」


 陽介が口を挟んだ。


 源一は千紘の胸の札を見た。


「そうだな。試しなら、ここまででいい」


 こはるが不満そうに唇を尖らせた。


「四つ集めたのに」


「本番の楽しみに取っておこう」


 千紘が言うと、こはるは少し考えてからうなずいた。


「じゃあ、まだ半分だけ帰ったんだね」


「半分だけ帰るって、靴だけ玄関にあるみたい」


「春美おばちゃんの靴、まだあるよ」


 陽介が、こはるの頭を軽くたたいた。


「余計なこと言わなくていい」


「本当にあるの?」


「母さんが捨てられないだけ。九年前の靴なんて、もう履けないよ」


 写真館のガラス戸に、四人の姿が映っていた。


 千紘、陽介、こはる、源一。


 風で黄色いリボンが揺れ、千紘の胸元の名前札を一瞬だけ隠した。


 そのとき、ガラスに映った自分が、壁の古い写真の春美に少し似て見えた。


 似た色の服を着ているからだろう、と千紘は思った。


 *


 祭りの準備は、毎日少しずつ賑やかになった。


 商店街の人たちは、仕事の相談をしに来るのか、差し入れを持ってくるのか、本人たちもよくわかっていなかった。


「文字をもう少し大きくして」


 八百屋の主人がスイカを抱えて言う。


「高齢者に優しく?」


「俺に優しく」


「個人向けデザインは別料金です」


「じゃあ、スイカ半分」


「一玉」


 夕方になると、ひだまり堂の二階で千紘がパソコンを開き、こはるが隣で宿題をした。


 陽介は祭りの備品表を作り、澄江は下から焼きたてのパンを運んできた。


 千紘の前には、決まってクルミパンが置かれた。


「好きだって、一度も言ってないんですけど」


「嫌い?」


「好きです」


「じゃあ、合ってる」


 ときどき、澄江は千紘を春美と呼んだ。


 最初はすぐ訂正していたが、三日目には陽介も笑って流すようになった。


「母さん、最近ちょっと物忘れが増えてるんだ」


 陽介が小声で言った。


「でも、店の値段と客のツケは絶対に忘れない」


「大事なところは覚えてるのね」


 千紘は気にしなかった。


 むしろ春美の話を聞くのが、少し楽しくなっていた。


 春美は映画が好きで、町に映画館がなくなってからも、月に一度は隣の市まで電車で観に行った。雨の日は黄色い傘を差し、帰りに水野堂で青いノートを買い、見た映画の感想を三行だけ書いた。


「三行だけ?」


「四行目になると悪口になるから、三行でやめるって言ってた」


 陽介が答えた。


「二行目から悪口のときもあったけどな」


 春美はパン屋を継ぐつもりだったらしい。


 ところが九年前の祭りの翌朝、黄色い鞄を持って家を出たきり、戻らなかった。


 警察にも届けた。駅の防犯カメラには、朝の電車に乗る姿が映っていた。その先はわからない。


「本人が旅行好きだったからね」


 澄江はそう言って、いつも話を終えた。


「きっと、帰る時期を決めてないだけ」


 その言い方は悲しげではなかった。


 本当に、少し長い旅行を待っている母親のようだった。


 千紘は、春美が残した青いノートを何冊か見せてもらった。


『主人公は家へ帰った。

 みんな喜んだ。

 あの家が主人公の家なら。』


「最後の一行、悪口ですかね」


 千紘が言うと、陽介はノートを覗き込んだ。


「春美は、幸せな結末に厳しかったから」


「幸せならいいじゃない」


「帰る場所を間違えなければな」


 陽介は軽く笑い、すぐに次のページをめくった。


 *


 祭りの前日、思い出さんぽに参加する予定だった動画配信者が、急に来られなくなった。


「犬が夏バテしたらしい」


 陽介が電話を切りながら言った。


「本人じゃなくて?」


「犬を一人にできないって」


「それは仕方ない」


「春美のコース、また空くな」


 こはるが千紘の袖をつまんだ。


「千紘さんがやればいいよ」


「私は撮影側」


「お父さんが撮ればいい」


「俺は運営」


「源じいが撮ればいい」


「源さんは写真館の担当」


 こはるは指を折って考えた。


「千紘さんは、パソコンして、パン食べて、笑ってる」


「かなり忙しいけど」


「春美おばちゃんも、そうだったって」


 澄江がトレーを持ったまま、こちらを見た。


「無理にお願いすることじゃないわ」


 口ではそう言いながら、目には期待が浮かんでいた。


 千紘は断りにくくなった。


 試し歩きは楽しかった。四軒を回って話を聞き、最後に家族写真へ入る。それで澄江とこはるが喜ぶなら、悪くないと思った。


「写真に入るだけなら」


「ほんと?」


 こはるが跳ねた。


 澄江は棚の奥から、古い家族写真で春美が着ていた黄色いワンピースを出した。


「さすがに、これは着られないですよ」


「わかってます。ちょっと見せたかっただけ」


 代わりに、黄色いスカーフを千紘の首に巻いた。


「これは祭りの小道具。去年、新しく作ったものだから」


「本当に?」


「疑い深いのね」


「デザイナーは確認が仕事です」


「じゃあ、確認。似合ってる」


 鏡の中で、黄色いスカーフが明るく揺れた。


 こはるが、古い写真と千紘を交互に見た。


「やっぱり似てる」


「服の色がね」


「笑う前の顔も」


「笑う前の顔って何?」


「これから笑うって決めた顔」


 千紘は鏡の中で、少しだけ笑ってみた。


 鏡の奥で、黄色いワンピースが揺れたように見えた。


 振り返ると、澄江がすでに服を畳んでいた。


 *


 祭り当日、朝凪町は朝から騒がしかった。


 駅前では太鼓の練習が始まり、商店街には醤油の焦げる匂いが漂った。子どもたちは、まだ金魚が入っていない水槽へ集まっていた。


「何をすくうの?」


 千紘が聞くと、こはるは水の中を指さした。


「期待」


 昼すぎ、思い出さんぽの受付が始まった。


 参加者は木箱から名前札を引き、胸の左に留める。知らない誰かの好きだった食べ物や、よく歩いた道に触れるたび、町の人が話をしてくれる。


 初めは遠慮していた観光客も、二軒目を過ぎるころには大声で「ただいま」と答えるようになった。


 千紘は黄色い縁取りの名前札を胸につけた。


 高瀬春美。


 その下には、参加者名を書く細い紙が重ねてある。撮影が終わるまでは裏返しておく決まりだ。


「準備はいい?」


 こはるが聞いた。


「クルミパン一か月分の準備はできてる」


「お父さん、忘れないでね」


「なぜ俺が払う」


「家族だから」


 澄江が黄色いリボンで名前札を留めた。


 前よりも、手は震えていなかった。


「おかえり、はるちゃん」


「ただいま」


 一つ目。


 ひだまり堂で紙袋を受け取り、水野堂へ向かう。


 水野は待っていたように店の前へ出てきた。


「はるちゃん、おかえり」


「ただいま」


 二つ目。


 帳面に「高瀬春美」と書く。


 前回と同じように、「春」の字が少し右上がりになった。


 水野は何も言わず、紙袋からクルミパンを取り出し、青いノートを入れた。


「今日は食べないんですか?」


「あとでゆっくり食べるよ」


「思い出は賞味期限が今日じゃなかった?」


 水野は千紘の顔を見た。


「今日のは、もう少し持つ」


 三軒目の月舟では、真理子が青いノートを受け取り、黄色い花のついた鍵を両手で渡した。


「はるちゃん、おかえり」


「ただいま」


 三つ目。


 真理子は千紘の首のスカーフを少し直した。


「曲がってると、写真で目立つから」


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


「何がですか?」


 真理子は一瞬、答えに迷った。


「来てくれて」


 郵便局の角を曲がり、赤い橋を渡る。


 橋の上には、祭りの提灯が並んでいた。川上から風が吹き、黄色いスカーフが後ろへ伸びた。


 こはるが、小さな声で歌い始めた。


「なまえをよんで、おみやげ四つ。いつもの道を、まっすぐ、まがる。写真のすきまに入ったら、おかえりなさい、うちのひと」


「四つ目のお土産は何?」


 千紘が聞いた。


「写真」


「写真はもらうもの?」


「もらうし、取られるもの」


「撮られる、でしょ」


 こはるは答えなかった。


 千紘の胸元を見たまま、歌の最後をもう一度つぶやいた。


「おかえりなさい、うちのひと」


 篠田写真館では、源一が正装して待っていた。


 彼は千紘の胸の名前札を見た。


「はるちゃん、おかえり」


「ただいま」


 四つ目。


 源一は黄色い花の鍵を受け取り、代わりに九年前の家族写真を渡した。


「これを持って、同じ場所へ」


 ひだまり堂の前には、すでに澄江と陽介が立っていた。


 古い写真と同じように、澄江が左、陽介が右。その間に、ひとり分の空きがある。


 千紘は古い写真を見た。


 春美が立っていたのは、澄江と陽介の間だった。


 足元には、源一が白いチョークで小さな印をつけている。


「ここ?」


「そこ」


 こはるが答えた。


 千紘が印の上に立つと、澄江がそっと腕を組んできた。


 思っていたより強い力だった。


「痛くない?」


「大丈夫です」


「細い腕ね。ちゃんと食べてる?」


「ここへ来てから、ずっとパンを食べてます」


「パンだけじゃだめよ」


「母さんがパン屋を否定するなよ」


 周囲から笑いが起きたが、澄江は千紘の腕を離さなかった。


 源一がカメラの後ろから顔を出した。


「名前札の下の紙を、表にして」


 千紘は名前札の下に重ねてあった細い紙を裏返した。


 そこには「青木千紘」と書かれている。


 その瞬間、黄色いスカーフの端が風に揺れ、細い紙だけを覆った。


「見えませんけど?」


 陽介が言う。


 源一は黒い布に手をかけたまま、空を見た。


「風が止むまで待つか」


「このままでいいでしょう」


 澄江が言った。


「春美の札は見えてるんだから」


 源一は澄江を見た。


 それから、黒い布の下へ顔を入れた。


「では、撮るぞ」


 こはるが声を張った。


「おかえり!」


 見物していた商店街の人たちも続いた。


「おかえり!」


 澄江が、千紘の腕を抱いたまま言った。


「おかえり、春美」


 千紘は笑った。


「ただいま」


 シャッターが切られた。


 その瞬間、風が止んだ。


 黄色いスカーフが胸元へ落ち、青木千紘と書かれた細い紙が、名前札から外れて地面へ落ちた。


 こはるが拾おうとしたが、次の風が先だった。


 紙は商店街を転がり、焼きそば屋台の下へ入り込んだ。


「あっ」


 千紘が追いかけようとすると、陽介が止めた。


「あとで探すよ。撮影は終わったし」


「でも、参加者名がわからなくなる」


「俺たちはわかってる」


 澄江が笑った。


「ちゃんと、わかってるから」


 千紘はなぜか、それ以上言えなかった。


 祭りの太鼓が鳴り始めた。


 *


 夜、長いテーブルに町の人たちが集まった。


 焼きトウモロコシ、枝豆、冷やしトマト、ひだまり堂のパン。誰かが持ってきた大きな鍋には、夏なのに豚汁が入っていた。


 こはるは金魚すくいで一匹も取れず、店番のおじさんから二匹もらっていた。


「それは、すくったことになるの?」


「人の心をすくった」


 陽介が、千紘の紙コップに麦茶を注いだ。


「今日は助かった。母さんも、久しぶりにあんな顔してた」


「どんな顔?」


「これから笑うって決めた顔」


 ひだまり堂の前には、昼に撮った写真がもう飾られていた。


 写真の中で、澄江と陽介の間に立つ千紘は、黄色いスカーフを身につけ、春美の名前札を胸につけて笑っている。


 青木千紘と書かれた細い紙は、完全にスカーフの下に隠れていた。


「昔の写真と並べると、本当に似てるね」


 誰かが言った。


「顔というより、雰囲気が」


「立ち方も同じだ」


「家族だからじゃない?」


 こはるが答えた。


 みんなは子どもの冗談だと思って笑った。


 写真の下には、源一の字でこう書かれていた。


 高瀬澄江 高瀬春美 高瀬陽介


 その下に小さく、


 代役 青木千紘


 澄江はしばらく写真を見つめていた。


「代役、か」


「決まりだから」


 源一が言った。


「わかってるわ」


 澄江は笑った。


「でも、今日くらいは、帰ってきたことにしてもいいでしょう」


 源一は答えなかった。


 写真の横で、こはるが例の歌を口の中だけで歌っていた。


 祭りは九時に終わった。


 町の人たちは提灯を外し、机をたたみ、余った枝豆を分けた。


 千紘は商工会の二階へ戻り、撮影した写真をウェブサイトへ載せる作業を始めた。


 思い出さんぽの参加者一覧、四軒の店の紹介、当日の写真。


 祭りの熱が残っているうちに公開したほうが、翌日の閲覧数が伸びる。


 陽介は隣の机で、腕を枕に眠っていた。


 こはるはソファで丸くなり、澄江が持ってきた薄い毛布をかけられている。


 千紘は写真の明るさを整え、文字を入れた。


 高瀬澄江 高瀬春美 高瀬陽介


 代役 青木千紘


 画面で見ると、「代役」の二文字が妙に固く見えた。


 昼間、自分でもそう思った。こはるも、本物ではないみたいだと言っていた。


 参加者一覧には青木千紘の名前が別に載っている。誰が役を務めたかは、そこでわかる。


 千紘は少し迷い、「代役 青木千紘」の行を選択した。


 源一の言葉を思い出した。


 大勢が見るものなら同じだ。


 何度も見られた名前は、写真によくなじむ。


 千紘は削除キーを押した。


 写真の下には、三人の名前だけが残った。


 高瀬澄江 高瀬春美 高瀬陽介


「そのほうが、きれい」


 背後から、こはるの声がした。


 いつ起きたのか、ソファから顔だけを出している。


「起こした?」


「ううん」


 こはるは眠そうに目をこすった。


「おばあちゃんが、代役って書いてあるうちは帰れないって」


「言ってないって、何度も否定してたよ」


「じゃあ、夢の人かな」


「夢の人って?」


 こはるは答えず、パソコンの画面を見た。


「でも、消したから大丈夫だね」


「ウェブ版だけね。アルバムには残るよ」


「みんなは、どっちを見る?」


「今はウェブかな」


「じゃあ、大丈夫」


 千紘は笑い、公開ボタンを押した。


 画面に「更新が完了しました」と表示された。


 同時に、商工会の一階で何かが落ちる音がした。


 陽介が目を覚ました。


「何だ?」


「提灯じゃない?」


 千紘が窓の外を見た。


 風はなかった。


 ひだまり堂の前に飾られた家族写真だけが、紐から外れて地面へ落ちていた。


 源一が貼った紙の札は、写真の下からきれいにはがれていた。


 暗い商店街の地面に、白い紙が一枚だけ伏せて落ちている。


 翌朝、貼り直せばいい。


 誰も、それ以上は気にしなかった。


 *


「パンが焦げるよ」


 朝の声が階段を上がってきた。


 布団の中の女性は、目を閉じたまま答えた。


「今行く」


 誰の声なのかは、よくわからなかった。


 階下からは、バターとクルミの匂いがする。


 昨夜は祭りの後片づけで遅くなった。頭の奥に太鼓の音が残っていて、夢と朝の境目が曖昧だった。


 枕元には、黄色いスカーフが置かれている。


 なぜ自分の枕元にあるのだろう。


 そんなことを考えながら階段を下りると、陽介がレジ横でコーヒーを飲んでいた。


「遅いぞ。祭りの翌日だからって、店は休みじゃない」


「私は店員じゃないんだけど」


「母さんに言ってくれ。朝から四回も起こしてこいって」


「三回しか聞いてない」


「一回目は寝言で返事してた」


 こはるが、テーブルでクルミパンを食べながら笑った。


「寝言でも『ただいま』って言ってたよ」


「それは祭りのやりすぎ」


 女性は黄色いスカーフを椅子の背にかけた。


 澄江がオーブンの前から振り返った。


「春美、ぼんやりしてないでトレーをお願い」


 呼ばれた名前に、一拍遅れて手が動いた。


 焼き上がったパンをトレーへ移す。


 上の段からクルミパン、次に塩パン、最後に焦げやすい小さなクリームパン。


 手が作業の順番を知っていた。


「手伝ったこと、あったっけ」


 つぶやくと、澄江は笑った。


「何年この店にいるの」


「そうだっけ」


「旅行が長すぎて忘れたのね」


「九年だもんね」


 こはるが言った。


 陽介がコーヒーを吹きそうになった。


「朝から重い冗談を言うな」


「お土産もないし」


 春美は笑いながら、こはるの皿に焼きたてのパンを一つ追加した。


 その名前で呼ばれることに、もう違和感はなかった。


 パソコンを開くと、昨夜公開した祭りのページが表示された。


 家族写真の下には、三人の名前が並んでいる。


 高瀬澄江 高瀬春美 高瀬陽介


 春美は画面を見つめた。


 写真の中の自分は、首に黄色いスカーフを巻き、これから笑うと決めたような顔をしている。


 見慣れているはずなのに、少しだけ他人の顔にも見えた。


「この写真、誰が撮ったんだっけ」


「源さんだろ」


 陽介が答えた。


「それはわかるけど。私の代わりに歩いた人がいたような」


「代わり?」


「春美のコースを」


 陽介は眉を寄せた。


 しばらく考え、首を振った。


「おまえが自分で歩いたんだろ。九年ぶりに町を回るっていうから、みんな張り切ってたじゃないか」


「そうだった?」


「俺が途中まで一緒に歩いた」


 陽介はそう言ったあと、コーヒーカップを持ったまま動きを止めた。


「途中まで?」


「どうしたの」


「いや」


 彼は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり繰り返した。


「最後まで一緒だったよな」


「そうじゃない?」


「そうだな」


 陽介はうなずいた。


 だが、コーヒーを飲むまでに少し時間がかかった。


 春美は参加者一覧を確認した。


 最後に、空白の一行があった。


 階段の下に、一枚の細い紙が落ちていた。


 油がしみ、端が少し焦げている。


 青木千紘。


 そう書かれていた。


「お客さんの忘れ物かな」


 春美が拾うと、澄江が振り返った。


「知らない名前ね」


「昨日の参加者じゃない?」


「そんな人、いたかしら」


 陽介は紙に書かれた名前を見た。


「青木……」


 彼は何かを思い出しかけたように目を細めた。


「知ってる人?」


 春美が尋ねる。


「いや」


 陽介は首を振った。


「知らない。たぶん」


 こはるも、パンを食べながら首を横に振った。


「そんな人、いなかったよ」


 その声は、いつもの子どもらしい声だった。


 春美は紙をレジ横の忘れ物箱に入れた。


 箱の中には、名前の書かれた細い紙が何枚も入っていた。


 どれも油じみていたり、雨でにじんでいたりして、長く置かれているように見えた。


「こんなに忘れ物があるんだ」


「祭りのあとだからね」


 澄江はそう言って、新しいクルミパンをオーブンへ入れた。


 忘れ物箱の一番下には、文字がほとんど消えた紙があった。


 端に、春という一文字だけが残っていた。


 *


 春美は、そのまま朝凪町で暮らした。


 東京へ戻らなければならない気もしたが、どこへ戻るのか、うまく思い出せなかった。


 パソコンには仕事のデータが残っていた。


 けれど、メールの送信先はほとんど空欄で、名刺の住所も朝凪町のひだまり堂になっていた。


「旅行中も仕事してたんでしょ」


 陽介が言った。


「なら、ここで続ければいい」


 春美はひだまり堂の二階を仕事部屋にした。


 朝はパンを並べ、昼は町のチラシを作り、夕方はこはるの宿題を見る。


 町の人たちは、誰も「いらっしゃい」と言わなかった。


 みんな、春美を見るたび「おかえり」と言った。


 春美も「ただいま」と答えた。


 一か月もすると、それ以外の返事があることを忘れた。


 澄江はよく笑うようになった。


 陽介は「母さんのパンが甘くなった」と文句を言った。


「気のせいよ」


「クリームが二割増えてる」


「幸せな人には、少し甘いくらいがちょうどいいの」


「売価も二割増やす?」


「それはだめ」


 こはるは、春美に映画の感想を三行で書く方法を教わった。


『金魚が二匹になった。

 どっちも右ではない。

 たぶん、左でもない。』


「映画の感想じゃないよ」


 春美が言うと、こはるは笑った。


「四行目に悪口を書くよりいいでしょ」


 古い家族写真の隣には、祭りの日に撮った新しい写真が飾られた。


 写真の下には、三人の名前だけがあった。


 高瀬澄江 高瀬春美 高瀬陽介


 誰も、その文字を直そうとはしなかった。


 写真を見上げるたび、陽介はときどき首をかしげた。


「どうしたの」


 春美が聞くと、彼は決まって笑った。


「昔より、笑い方が変わった気がして」


「九年もたてば変わるよ」


「そうだな」


 陽介は納得する。


 そのたびに、何を不思議に思ったのかまで忘れてしまうようだった。


 こはるだけは、ときどき春美の顔をじっと見た。


「どうしたの?」


「夢の人に似てると思って」


「どんな人?」


「名前をなくした人」


 春美が聞き返すと、こはるはもう覚えていないように、金魚の水槽へ目を戻した。


 *


 翌年の夏、朝凪町にまた三角旗が渡された。


 おかえり横丁まつりの朝、駅前には去年より多くの観光客が集まった。


 春美が作り直した冊子は評判がよく、思い出さんぽの予約は午前中で埋まった。


「今年は名前札を三十枚に増やしたよ」


 陽介が木箱を運んできた。


「増やしすぎじゃない?」


「町を出た人は多いからな」


「帰ってくる人も増えるといいね」


 春美は笑って、名前札を一枚ずつ確認した。


 黄色い縁取りの札は、今年も一枚だけだった。


 そこには、見覚えのない女性の写真が貼られていた。


 薄黄色のブラウスを着て、これから笑うと決めたような顔をしている。


 知らない顔のはずなのに、その表情だけは、鏡の中で何度も見たもののように思えた。


 春美は胸の奥に生まれた落ち着かなさを、祭りの慌ただしさのせいにした。


 名前は、青木千紘。


 好きなもの、クルミパン、黄色い花、古い映画。


 町での呼び名、ちーちゃん。


「この人、朝凪町に住んでたの?」


 受付を手伝っていた観光客の女性が尋ねた。


 春美は名前札を胸の左につけてやり、黄色いリボンで留めた。


「ええ。去年の祭りのあと、東京へ出たきりなの」


「どの順番で回ればいいですか?」


「ひだまり堂、水野堂、月舟、篠田写真館。途中で引き返さないで、赤い橋を渡ってください」


「店で『おかえり』と言われたら?」


「『ただいま』って答えるの」


 女性は少し照れながら笑った。


「ちーちゃんって呼ばれるの、変な感じですね」


 春美も笑った。


「大丈夫。四回目には、ちゃんと自分の名前になりますよ」

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


この物語では、「名前」「写真」「記憶」の三つが重なったとき、人はどこまで同じ人でいられるのかを描きました。


朝凪町の人たちに、はっきりとした悪意はありません。


澄江は娘に帰ってきてほしかっただけで、陽介は家族がそろったことを喜び、こはるも教えられた通りに歌っていただけなのかもしれません。


だからこそ、誰か一人を悪者にするよりも怖い物語になったように思います。


青木千紘が高瀬春美になったあと、彼女は一年後には次の誰かを迎える側になっています。


本人は何も奪っているつもりはなく、ただ親切に、正しい道順を教えています。


そして朝凪町では、今年も誰かに「おかえり」と声をかけます。


その言葉が歓迎なのか、それとも新しい名前を渡すための呼び声なのか。


答えは、町の人たちももう覚えていないのかもしれません。

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