ドリーム・ルーム
「ドリーム・ルーム」
石川安泰
正樹を最初に見たとき、彼は道端の電信柱の横で微かに動く小さな影を撫でていた。影は灰色の子猫であった。捨て猫であることが分かった。そのしゃがみ込む画が藍子には揺れて見えた。
正樹は革ジャンパーを羽織っていた。栗色に染めた少し長めの髪が頬を覆って揺れている。髪に街灯の光が淡く差し、横顔の輪郭をやわらかく縁取った。
そのとき、じっと見つめている藍子に正樹は気付いた。正樹は藍子を見つめ返した。二人でしばらく見つめ合っているうち、正樹は笑顔を作った。藍子も同じように頬を緩めた。
「猫、好きなんですか?」藍子が先に口を開いた。
「別に好きな訳じゃないけど、捨て猫のようで、寒空にこのまま放っておくと死ぬかも、と思って」
長めのダウンを着た藍子も膝を折り、正樹の横に並んでしゃがんだ。正樹が猫の頭の上から手を離し、藍子が代わって猫の頭を撫でた。
「かもしれないですね」
「どうしたらいいんだろう」
「保健所に連れていかれてしまったら、直ぐに処分されるかもしれませんね」
「処分って。殺されるのか?悪いことも何もしていないのに」
「そうです」
「どうやって?」
「どうやって処分されるか、そんなことに興味あるんですね」
「ああ。人間だったら、そしてまだ若かったら、少年院、ここで矯正の機会があって、どうにもならなかったら刑務所に、そして裁判を通じて、最悪極刑になればようやく絞首刑になる」
「詳しいですね」
「途中までは経験者なんだ」
藍子は沈黙した。正樹の手首にタツーが覗いていた。身体のどこまでそのタツーが続いているのか分からない。
「母にしばらく預かれないか頼んでみます」
「あんたのお母さんは猫は飼えるんだ?」
「家は猫屋敷です。今確か11匹います」
「それだけ飼えるだけの余裕があるんだ」
彼の言葉は藍子には嫌味にも羨みにも聞こえない。
「さあ、どうでしょう。パートしながらなんとか。ボランティアのようなものです」
正樹とはラインを交換して別れた。猫がどうなったかの連絡を正樹が欲しがったからである。
彼の指に頬を寄せていた猫を藍子は預かった。抱きかかえたとき、子猫は小さく鳴いた。返事のようにも、ただの震えのようにも聞こえる声だった。
母は新たな猫を受け入れてくれた。正樹にラインで連絡した。感謝の返信があった。電信柱の横でしゃがみ込む正樹の姿が浮かんで、頭に留まった。猫の頭を撫でる正樹の頭を電灯が照らしていた。猫と共振しながら、正樹も頭を撫でて、包み込んでもらうことを待っているようにも思えるのが不思議だった。
何かラインで言葉を送ろうとしているときに、正樹の方からラインが入った。藍子はシフト休を取っていた日曜日に会う約束をした。
電車の駅と一緒になったモール2階の喫茶店に入った。窓傍のテーブルにつき、コーヒーを頼んだ。窓からは、駅に向かってくる人々を見下ろせた。
正樹からは、自分が以前薬物中毒で少年院と刑務所に長く入っていたと聞かされた。刑務所の中で理容の職業訓練を受け、出所したあと同じように服務経歴のあるオーナーの理容店でお世話になっているという。
「そんなプライベートなことをまだ会ったばかりなのに、ごめんなさい」
「猫を助けてもらったのに、今更隠すものなど何もないんだ」
身体の一部に刻まれたタツ―と同じように、正樹の身体と取り巻く空気には傷のようなものがあったが、藍子はそれを怖いとは思えなかった。
「薬物中毒でもハサミを扱うような訓練を受けることができるの?」と浮かんだ疑問のままを正樹に聞いた。
「『薬物専門処遇プログラム』を修了した後、態度や安定性が認められれば」
「そう、努力したんですね」
「刑務官にいい人がいたから。その人がいなかったら多分上手くはいかなかった」
「良い出会いがあって、良かったですね」
「そう、良かった」
実家には常に複数の猫がいた。猫好きの母親はあちこちで拾ってきたり、頼まれた猫を飼っていた。里親が見つかるまで面倒を見るため、一番多いときには15匹の猫が家にいた。
藍子も猫は嫌いではなかった。外を歩いていると、どこかしこで捨て猫を見つけてきた。藍子には猫を見つける才能があったし、猫が藍子に寄ってきた。藍子の母親は自分たちを猫族だと言った。藍子もそのうち自分が猫の仲間だと信じるようになった。大学を卒業したあと、父親は亡くなった。藍子にとって家族は母と猫たちになった。昔から猫たちとは共振することができたが、一方で人間の友達はできなかった。学校でも浮いていた。だが藍子は気にならなかったし、母親も気にしなかった。自分たちは猫族なの、とやはり母は言った。
独り暮らしを始めても、捨て猫に遭った。見つけては実家に届けた。
「あんたの部屋には猫はいないんだ?」
正樹の疑問に、
「狭いから」と藍子は応えた。
藍子には正樹はまるで野良猫の一匹のように思えていた。ワンルームに正樹が居ても、猫の一匹のように接することが出来そうな気がした。
間もなく藍子の部屋に転がり込んできた正樹は、藍子より一歳若かった。
人付き合いが苦手なはずの藍子に、突然始まった正樹との共同生活は不思議と苦ではなかった。ワンルームの部屋は二人には手狭だったが、正樹という命が近くにあるのは悪くないと思えた。
部屋隅には正樹が持ち込んだ大きなキャリーバックと商売道具のハサミなどが収まった。仕事場に預けてあるもの、母親のいる実家に置いてあるものもあるので、これまでの部屋をはらって持ってきた荷物はこれで全てだと言った。
壁に付けたベッドの端に腰をかけ、正面のテレビ画面を二人で見つめる。一人の時にはテレビとの間には幅の狭い小型テーブルを置き、ベッドに腰かけながら食事をしたりコーヒーを飲んだりしていたが、二人の同じ光景に置き換わった。
「あんたのプライベートを奪ってしまってないか?大丈夫か?」と正樹が聞く。
「実家は猫で溢れてる。いつも猫に囲まれて、傍に猫がいるところで寝てたから気にならないわ」
「良かった」
「貴方はどうなの?」
「慣れてるんだ。かつて狭い雑居房に男ばかりが詰め込まれた中で過ごしてきたから」
「慣れててもいやじゃない?」
「安心するんだ。周りに人の息がしていることが。それに俺はどこかで、俺を見張っておいて欲しい、その環境が欲しいと思ってるのかもしれない。俺は一人だと何をするか分からないから」
「変わってるね」
「あんたもな。俺はやはりあんたの生活の邪魔をしてるんじゃないか」
「邪魔をしてると思えたら、直ぐ出て行ってもらうわ」
「その時はいつでも言ってくれ」
正樹は人間世界が息苦しく、もしかして猫族としてなら生きられるのかもと言う。
「馬鹿じゃないの?」自分も同じ、と思いながら藍子は違う言葉を口にする。
藍子の反応に正樹は苦笑する様子を見せる。
「あんたに馬鹿と言われる理由はないが、そう、馬鹿なんだ」と正樹は言った。
「猫族になった証拠を見せてくれる?」
「証拠、難しいな。でも、猫族に入る覚悟はあるかもしれない」
「じゃあ、その覚悟を見せて」
「猫族だとしても、俺たちは人間系に含まれる。含まれる以上、人間系の、猫族のあんたと同じ墓に入る」
「唐突ね。馬鹿じゃないの」
「そう、馬鹿なんだ。だけど本気だ」
「そんなに早くに人生決めれられるはずないでしょ?」
「覚悟してるんだ」
「じゃあどこの墓に入るの?適当なこと言ってるのは分かってるのよ」
「築地本願寺の合同墓がどうだろうか」
「何それ?」
「名前のごとく、合同募。みんなで入る墓」
「なぜそこに入るの?」
「猫族独自の墓があればいいんだけれど、俺たちは、俺も仲間に入れてもらったとして、猫の皮を被った人間だ。避けられない事実として。だから人間たちと一緒に墓に入る。自然なことだろう。俺のようにタトゥ―が入っていても、温泉には入れなくとも、合同墓には入れる」
「でもどうして私が貴方と一緒に入るの?」
そりゃそうだ、と正樹は笑う。
「もしその気になればでいい。急がなくていいんだ。いつか築地本願寺を見に行こう。申し込みをすれば名前をプレートに刻んでくれる。俺とあんたの名前が載る」
「私がどうして貴方の名前の隣に入るの?私たちはまだこんなに若いのに、死んだときのために名前を入れるの?」
「安心だろ」
「どこが・・・猫の灰は一緒に入れないのでしょうね」
「さすがに難しいだろうな」
「そうなのね」
「本気になってきたか?」
「ならないわ。馬鹿らしい。貴方は死ぬところから始めるのね」
「そう。考えて置いてくれ」と正樹は真顔で言う。言いながら、正樹は試しているのだと藍子はふと思う。藍子が正樹を本当に同じ仲間として見ているのかどうかを。
馬鹿らしい。正樹の戯言についていくことはない。
藍子の脳裏を保護猫たちが処分される『ドリームルーム』が過ぎる。
テレビ画面では戸建て住宅のコマーシャルが流れ、幸せを絵にかいたような家族が映っている。
「他に何か入れられるものがあったなら、貴方なら何を入れるの?」
「ハサミだね」
「合同墓にはそれも無理っぽいね」
「分かってる」
「仕事道具をどうして入れたいの?」
「向こうでも、みんな髪を切りたいだろ。切る人がいないと困ると思って。また合同墓なら周りにきっとそんな人がいっぱいいる」
「そう。残念ね」
「残念だ。だけど仕方ない。どれかを置いていかないと、願う人生は全うすることはできないものだろうから」
藍子は神奈川の進学校を卒業してから、同級生が地元大学に進むなか、地方の大学に入学した。藍子は同級生たちと離れたかった。藍子は記憶力が人並以上に良かったので、地元のどこの大学でも受かると教師には言われたが、構わなかった。母親からも、行きたいところで勉強すれば、と何の注文も受けなかった。大学を卒業した頃に、父親はがんで亡くなった。母はいくばくか入った生命保険に、遺族年金とスーパーのパートに出ることで生計を立てている。
藍子が正樹との生活を始めることに、母は驚きはしたものの、友達ができて良かったわね、お金の面倒は自分で見れるのよね、と言った。
「当たり前でしょ。猫じゃないんだから」
「でも彼を家に連れてきてね。私が猫族かどうかきちんと見てあげるわ」
母は心配を違う言葉で表現した。
実家は猫の王国である。玄関の扉を開けた瞬間、蒸せるような空気に包まれる。甘く、少し獣くさい匂いが鼻先をかすめる。靴を脱ぐ間もなく、三匹の猫が足元にまとわりついてくる。茶トラ、黒白、サビ。名前を呼ばなくても、彼らは人間の動きを熟知している。
リビングに入ると、さらに数が増える。窓際のキャットタワーでは長毛の白猫がふてぶてしく毛づくろいをしており、ソファの背もたれにはグレーの短毛が無言でこちらを見下ろしている。床には猫用のクッションがいくつも転がっていて、そのうちのいくつかは既に誰かの寝床となっていた。カーテンには小さな爪痕が無数に走り、ラグの端はかじられてぼそぼそである。
耳をすませば、どこかでカリカリと爪とぎの音がする。遠くの部屋では、陶器の器にカリカリが落ちる乾いた音。時おり、喉を鳴らす低い振動音が足元から伝わってくる。その様子に、母からつい笑みがこぼれる。父が亡くなってから、母の話し相手は猫になり、その数は徐々に膨れ、現在、正樹との出会い後で12匹になっている。正樹の猫にはまだ名前が付いていない。新入りの灰色子猫は、先輩猫に纏わりつきながら自分の居場所を見つけたようには見える。
壁には猫用の棚が取り付けられ、まるで立体的な迷路のように空間が縦にも広がっている。上からじっとこちらを見つめる瞳の数は、数え始めて断念する。
人間の気配よりも、猫の存在感の方が濃い。けれど、落ち着く。雑然とした空間の中に、それぞれが自由に過ごしている静けさがある。誰も縛らず、縛られず。ただ、ここに12通りの小さな猫たちが同居している。
藍子が見つけてきた猫もいるが、母はボランティアで里親が見つかるまで行く当てのない猫を行政に協力する形で預かっている。去勢手術などある程度の補助が出るが、持ち出しの方が多い。けれど母は仕方ないと言う。自分は猫族なのだから仲間を助けるしかない、と冗談っぽく言う。転がり込んでくるものを許容する。
正樹は猫族かどうかまだ分からない。だが藍子には猫族見習いの正樹を受け入れることが宿命に思える。
ユーチューブで、犬猫たちが処分所に集められ、最期を迎える映像を見た。処分室は皮肉なことに『ドリームルーム』と呼ばれていた。何度も見た。どの犬猫も死を覚悟してぶるぶると震え、目には涙を浮かべていた。
3日程度で、長くて1週間程度までしか収容期間はない。行政の予算の関係である。その後、犬猫たちは長細い仮収納部屋の奥に押しやられると、床が抜けて下に落ちる仕組みになっている。落ちた先の小部屋の天井が閉められる。施設の従業員がボタンを押すと、二酸化炭素が壁の穴から吹き出てくる。彼らは懸命に吠え、鳴く。壁を搔きむしる音と鳴き声が響き渡る。ホロコーストを扱った映画の一シーンと同じように。
正樹は『ドリームルーム』に向かう訳ではない。ただ自分は自分の足元に来た迷い猫を、置き去りにはしない、藍子はそう思う。
藍子は水族館に勤めている。海洋生物と直接対する飼育のような仕事ではなく、労務総務といった事務だった。人付き合いが元来苦手な藍子には不向きなはずが、飼育スタッフがイルカやアザラシ、ペンギン、その他魚類などの生物と共振する気持ちが理解できた。猫とではないものの、目にする生物と繋がろうとする彼らとは共振できるような気がしていた。猫たちの中にいるように、種は異なれど煌めく命たちに囲まれていることに彼らは安堵を覚えていて、藍子も彼らと触れることで同じように命たちに包まれている、その思いに捉われていた。
正樹は高校生のときの大麻に始まって、やがてコカインの常習者になった。合わせてアルコール依存症となった。少年院を出てからも辞められず、刑務所にも入った。刑務所の入退を繰り返したという。
藍子と正樹はスウェットに着替えたあと、ワンルームのベッドの端に腰かけたまま、よく話した。
正樹は何も藍子に隠す様子はなかった。どうして、と聞くと猫を助けてくれたから、と言う。
「変わってるね」
「俺、馬鹿だから。あんたみたいにきちんと大学を出た人間には分からないさ」
「偉そうに言うのね。貴方は特別じゃないわよ」
「俺が偉いわけないだろ」
「さあ、どうでしょうね」
「あんたの今やっている仕事って、どんな仕事なんだ」
「水族館で働いているスタッフを、バックアップする裏方。労務や総務」
「ピンとこないな」
「そうね。分かりやすいところでは、水族館ではみんなユニフォームを着てる。みんなにユニフォームを配る、ユニフォームが破けたというとサイズを聞いてまた渡す」
「ユニフォームはみんな同じものなのか?」
「売店やレストランや私たち管理や偉い人たちは同じ。飼育や施設などの現場はもっと働きやすくて、汚れてもいいユニフォーム。そして濡れてもいいように長靴を履いている。イルカショーに出たり、水槽に潜って掃除したりする人なんかは、ずっとウェットスーツを着てる」
「へえ、冬でもウェットスーツ?」
「そう、冬でも」
「寒そうだね」
「そう、たいそう寒い」
「俺、寒いのだめなんだ」
「じゃあ、貴方に飼育はできないわね」
「あんたは他にはどんなことをしてる?」
「例えば安全衛生。スタッフが安全で健康でいられるようにする。定期的に産業医を呼ぶ。健康診断を定期的に受けてもらう。誰かスタッフが、あるいはお客さまが怪我をした場合、救急車を呼ぶ。怪我が重ければ一緒に救急車に乗って病院まで付き添う。手持ちのお金がなければ会社で一部用意しておいて仮払いする。スタッフの場合、後で労災申請をして国の保険からお金を出してもらう」
「なんか面倒だな。実際に大きな怪我があったりした?」
藍子は記憶を呼び戻す。
「そういえばこの間、イルカの飼育員の一人が怪我をして病院まで付き添ったわ」
正樹は顎を少し上げて、それで、と促す。
「飼育員は、メディカルタイムの最中にプールの中でイルカの体温を測ったり、血液を採って検査したりするの。そのとき、布性の水中タンカを使う。タンカの両側にそれぞれウェットスーツの飼育員が3、4人つく。タンカの中にイルカを入れて軽く持ち上げてイルカが動かないようにする。そのとき、イルカが突然暴れ出して、タンカの端を持っていた女性飼育員の腰を尾びれで叩いた・・・飼育員は動けなくなって、酷い痛みでわめき叫び続けていた。そして私たちのところに連絡が来た」
「その人は大丈夫だったのか?」
「私たちが駆け付けたとき、彼女まだ痛みのせいで叫び続けていたわ・・・でも近くにいるその女性の上司や獣医は割と平然としてるのよね」
「どうして?」
「骨が折れたり、そんなひどいことではないと思う、って。瞬間的に殴打されたせいで、神経の一部が過敏になっているんだろうと。やはり経験は大切ね。その後救急車が来て救急隊員が診たときも見立ては同じだったわ。やはり餅は餅屋。素人のこっちは右往左往したわ」
正樹は顎に手を持って行き、少し考えこむようなそぶりを見せた。
「ムショの中でいうと、あんたの仕事は刑務官の人の仕事に似てるかもな」
「そうなのね」
「色んな人がいるけどな。あんたのような人もいれば、いやな奴もいる」
「私はいい人なの?」
「さあ、どうかな」
「私がいい人なのか私には分からない。私は猫族なの。その義務を果たすだけなの・・・ところで貴方は大麻をどうして始めたの?」
「馬鹿だったから」
「馬鹿だったらみんな大麻をやるの?」
「俺は勉強が全くできなかった。学力の意味でも馬鹿だった。俺がこの世にいる存在価値はその意味ではどこにも無かった。そんな中で、大麻を吸っていたら、俺は人とは違う、という目で回りから見られた。俺の存在が、それで初めて認められた気がした。だから止められなかった。際限がなかった。酒も止められなかった」
「どういう風にそこまでいっちゃうのかしらね」
「俺にも分からないんだ。高校生のときに不良仲間から大麻を強制されて、断ると殴られるから吸ったんだ。でも直ぐに夢中になった。よく家出もした。家出をして帰ってくると親が怒らないことが発見だった。だからよく家出した。頭は悪い、運動神経もさして良くない。何もない俺が、店で万引きをやったり、時にはバイクを盗むようになった。周りが俺に日を追うごとに一目置くようになった。皆が俺を怖いと思っている。快感だった。高校卒業と同時にみんなは変わって去っていった。俺を残して。皆は裏切り者だった。俺は悲しくて悔しくて、自傷行為を繰り返すようになっていた。タバコで腕を焼いて、かさぶたを何度も作って。それを見るたびに、またタバコで腕を焼いて、俺を皆置いてきぼりにしやがって。裏切り者たちが、と」
「お酒も止められなかったのね」
「酒を初めて飲んだときには頭の中がぐらぐらして吐いてぶっ倒れて、救急車で運ばれた。急性アルコール中毒だった。仲間によると、俺は看護師さんに卑猥な言葉を吐いていたらしい。俺は何をするか分からないやつ、と仲間に思われていた。俺は有頂天になった。それから酒に溺れた。俺は人のいいなりで生きてはいない。自分の居場所を見つけるために、俺は大麻を吸い、酒を飲み、警察のお世話になった」
「生きにくかったのね。話してくれてありがとう」
「隠したって仕方がない」
「普通、刑務所に入るような人は育った家庭に問題があったりするの?デリカシーなしに聞いて悪いけど」
「多いだろうが人によるんだと思う。少なくとも俺の場合は特別問題のあるような家族じゃなかった。だから警察の人も、親が片親とか、ヤクザの場合などなら分かるが、お前はどうしてグレるんだ、と不思議がってた。だからおふくろもずっと面食らっているようだった。それでもおふくろは与えられた環境として俺との生活を受け入れていたな。そこでおふくろを救ったのは新興宗教だった」
「面倒かけたのね。お母さんに」
「そうだな。少年院から出てもまた大麻を吸い、酒を飲み続けた。ホストが出来そうだと一度女の子に言われてさ。本当にホストクラブで働き始めた。飲んではトイレに行って吐いて、また飲んだ。お客さんが帰った後の酒を集めておいて一気飲みした。客のボトルをくすねて飲んだ。いくつものクラブを首になった。俺は完全に酒に支配されていた。俺は自分でもう自分を制御することができなくなっていた。警察に自分で通報して、俺は精神病院に自分で入ることにした。入退院を繰り返した。任意入院から始まって、最後には始末に負えなくなって閉鎖病棟に匿われた」
「私には分からないけど、辛かったでしょうね」
「閉鎖病棟では、もう酒を調達する手段はなかった。助かったと思った。もうこれ以上酒を手に入れようともがく必要がない。俺の暗黒史・・・あんたはどうなんだ。あんたのこともしゃべってくれていい。つまらない話しでも俺が聞く」
「どうでもいいけど、あんた、という言い方は止めてくれない?客商売やっていたら分かるでしょう。そんな言い方お客様には言わないでしょ」藍子は正樹に言った。
「当然だ。お客には言わない。あんただから、あんたと言ってる。じゃあ、何と言ったらいい?」
「君、あるいは藍子」
「分かった」
「じゃあ私はあなたのことを正樹と呼ぶわ」
正樹ははにかんだように笑う。
「どうして笑うの?」
「正樹か、昔の仲間から呼ばれてたから」
「駄目なの?」
「いや、それでいい」
「正樹はただの正樹?何か形容詞は付かないの?例えば・・・」
「例えば?」
「人斬り正樹、鉄砲玉正樹」
「馬鹿言え。何もない。俺はそんなかっこいい名前のつく人間じゃない。クズなんだ」
正樹は真顔である。
「そう、良かった」
「何が?クズであることがか?」
「昔の仲間とは今でも会うの?」藍子は正樹の言葉を聞き流した。
「会わない」
「そう、寂しいわね。どうして?また元に戻ってしまうと思って怖いの?」
「・・・正直それもある。入所経験のある人間が刑務所に戻ってくる確率は相当高いんだ。その大きな理由の一つが、昔の仲間とよりを戻すことだ。それでも会う方がいいと思うか?」
「思わないわ」
「じゃあ会わない・・・できるだけ」
「それでいいの?」
「どっちなんだ?」
「会わない方がいいわ」
「ところで、理容の訓練を受けた人間がムショに戻る確率は低いらしい。自慢してるんじゃないが」
「どうして?手に職が付いている、ということかしら?」
「それもあるだろうな」
「理容店って、お客さまと上手く話しができないと駄目でしょ。それ社会と直接的に繋がっているということかな。だから社会から出ていかない」
「大学出は頭いいな。かもな。だからわざわざ昔の仲間には会う必要はない」
「でも寂しいわね」
「会いに行くとすれば、世話になった刑務官のおやじさんには定期的に会いにいく。それでいい」
「それがいいわね」
正樹はそう言っていたものの、ある日仲間に会ったようだった。あるいは向こうから無理に会いに来たのかもしれなかった。藍子は問いただそうとはしなかった。正樹が話したいと思うときまで、待とうと藍子は思った。
二人でワンルームのベッドに腰かけていた。藍子の目の端にはいつものように部屋隅の正樹の理容用具が目に入ってくる。
「私の髪も切って」と藍子は言った。
「女の人の髪を切ることには慣れていないんだ。女の人の流行を知らない」
「それでも貴方のお母さんの髪は定期的に切りに行ってるんでしょ。お母さんはどう切って、って言ってるの?」
正樹と母親の政子とは血が繋がっていなかった。実の母親は他界してしたあと父親が再婚したのが政子である。その父親もがんで早逝し、血のつながらない政子と正樹が残されたのだ。
だから正樹が警察の世話になることがあると、正樹はもう自分に構わないでくれ、と政子に告げた。政子は聞き入れなかった。後に政子は、正樹がいたから夫の死を乗り越えられた、と返したという。政子は新興宗教に頼りながらも、依存症の家族の本を乱読し、生きる目的を正樹に見いだそうとしたのである。
正樹が政子を受け入れるようになったのは、正樹が世話になったという刑務官のおやじさんの影響も大きいように思われた。
「お袋は、あの芸能人と同じようにして、と俺に言う。そうするとその芸能人の写真をネットで調べて、俺はそのように切る」
「できるじゃない」
「職業柄、ある程度はできる。でも長い髪だとどうやっていいのか」
「私も長くないわ」
「そうだな。いつか」
「いつって、いつなの?」
藍子は正樹の指先が頭皮をまさぐって髪を刈る様を想うと、心地良い。だが口にはしない。
「お客さん以外の髪を切ることは他にはないの?」
「理髪店オーナーの髪も切る。お互いに切ろうという約束だから」
「師匠の髪を切るとなると緊張する?」
「ある程度は。でもやりがいというか、世話になった、なっている人への恩返しのような感じなんだ」
「オーナーはいくつぐらいの人なの?」
「50くらいかな」
「じゃあ先輩というより親に近いわね」
「そうだな。まれにオーナーの奥さんの髪も切る」
「やっぱり女の人の髪も切ってるじゃない」
「自分がやると文句ばっかりだから、とオーナーが言うんだ。そのための、お袋は練習台とも言える」
「じゃあ私も練習台になってあげるわ。オーナーの奥さんのために」
正樹は笑う。横顔に栗色の髪がさらりと垂れている。
「この間、古い友達に会ったようね。その人にも何か恩があるの?」
ふと留めていた疑問が口をついた。
正樹は肘をテーブルにつき、手を顎に持っていく。
「気になるか?」
「正樹が喋りたくなければいいの。気にしないわ」
「刑務所で部屋が同じだったんだ。部屋のイメージ沸くか?」
「映画なんかで見たくらい」
「君が想像している感じの雑居房だ。その狭い空間で一緒に生活しているから自然近しくなる。俺の方が先に出たから、気になって会いに行ってもいた」
「その人は出所してから今何をしているの?正樹みたいに手に職はあるの?」
「ないから苦労している。とにかく何でもやろうとしている」
「で、何かしてるの?」
「デリヘルの女の子の送り迎え運転手」
「へえ。そう」
「免許証があれば働ける。そこの社長も出自を何も問わない。再スタートには適してる。藍子にはイメージつかないだろうな。普通に大学を出て、普通の人たちの社会の中で暮らしてきたんだから」
「デリヘルの運転手は普通じゃないの?」
「どうだろうな。社会の中では底辺なのかな。朝早くから深夜まで。女の子の愚痴や素に付き合いながら、だから」
「女の子からどんなこと言われるのかしら」
「言われるだけじゃない。シートを後ろから蹴られたり、コーヒーをこぼしたり、タバコをわざと落としてシートを焦がしたり。口の利き方も人それぞれだ」
「貴方がされたみたいに聞こえるわ」
「いろいろと聞かされるから、自分がそこにいるような気分になる」
「その人は続けられそうなの?」
「その仕事をずっと続けるかは知らないが、いずれにしてもきちんと生きていくさ」
「どうして分かるの?」
「親しくしている女がいる。その女の前で恥ずかしい生き方はしたくないんだろ」
「正樹も恥ずかしくないように生きないとね」
「クズなりに、生きてるさ」
正樹は定期的に医者の施術カバンのように理容機材を持って政子の家に行く。いずれは訪問理容を始めたい、そのための準備なんだと正樹は言う。『福祉理美容師』というNPO法人の認定資格で高齢化に進む日本では今後ますます需要が増えていくはずだと言う。
政子の家に付いていきたいと藍子はふと思うが、口にはしない。
藍子の母親、清子が正樹を連れて、拾った猫がどれだけ育ったかを見に来いと言う。春が来ていた。2か月でだいぶ大きくなったという。
まだ正樹は直接清子と会ってはいなかった。戸惑いながらも正樹は行くと言った。
郊外の古い住宅地にあるその家は近所から半ば冗談、半ば本気で「猫屋敷」と呼ばれていた。清子もそう呼ばれていることを認識していた。
夜のバスに乗り込んだ。扉が重たい音を立てて開く。藍子と正樹は、料金カードリーダーの横を通り過ぎた。車内はまだ暖房が効いていて、曇った窓に街の光がぼんやりと滲んでいる。
窓の外では、春が来たばかりの街が静かに流れていく。閉ざされた商店のシャッター、白く煙るコンビニの灯り、信号待ちの車列。昼間は人の髪を整え、鏡越しに他人の人生の断片を見つめる正樹の横顔が窓に映っている。
母の家に近づくにつれ、景色は少しずつ変わる。ビルの高さが低くなり、代わりに古い木造家屋や小さな畑が現れる。街灯の数も減り、夜はより深くなる。
バスが終点に近づく。車内の乗客はいつの間にか二人だけになっていた。降車ボタンを押すと、控えめな電子音が鳴る。その音が、彼の中の迷いに区切りをつける合図のように思えた。
扉が開く。外気は鋭く、夜は相変わらず冷たい。
二人でバスを降り、細い坂道を上り始めた。遠くに見える一軒家の窓から、やわらかな光がこぼれている。
「猫屋敷へようこそ」
子猫を抱えた清子は笑顔で正樹を迎えた。清子の周りにはさらに数匹の猫がいた。どうぞ、と清子が正樹に靴を脱いで上がるように促し、藍子は横から同じように手で合図した。
清子の後に続いて正樹が廊下をリビングに向かう。藍子の周りには猫たちが従って歩く。
リビングのテーブル椅子に向かい合って座る。清子の上には子猫がいる。
「この子よ。あなたから預かったのは」
「そうだと思いました」
「男の子。翔太と名付けたわ」
「聞いています。飛翔の翔に太い、ですよね。いい名前です」
「抱いてみる?」と言って清子は立ち上がり、正樹に翔太を渡す。
「正樹のこと分かってるのかしら?」藍子の言葉に、
「あの時拾って以来だから、どうかな」正樹は翔太の額を撫でる。
お茶を入れるわ、と清子は立ち上がる。藍子もキッチンに立ち、二人並んで用意する。
正樹は翔太をひとしきり撫でている。
「元気になった。大きくなった」
お茶をテーブルに置く。
正樹は身じろぐ翔太を床に下ろす。翔太は藍子の足元に寄り、藍子のジーンズに手をかけて上るとその膝の上に落ち着いた。
藍子を見ている正樹に、
「猫族だから」と藍子は言う。
「なるほど」と正樹が言い、その様子に清子が笑う。
「理容師なんですってね」
正樹は清子を向く。
「そうです」
「手に職があっていいよね」
「そのためにこの職にしました」
「でも日々技術を磨いておかないといけないでしょうし、流行も知ってないといけない?」
「その通りです」
藍子が口を挟む。
「いつも帰りが遅いのも、仕事のあとずっと練習してるんですって」
「そうなの?」と清子。
「理容師にとっては当たり前のことですから」と正樹は言う。
藍子は膝の上の猫の頭を眺め撫でながら、
「定期的に理容師のコンテスト大会などもあって、その準備もしてるんだって」
「そう、すごいね」清子の言葉は、言葉通りの驚きの響きを湛えている。
「僕たちの間では当たり前のことなんです」
「僕たち、ねえ。私の前では俺としか言わないのに」
「お客様やご婦人の前ではいつも『僕』です。『僕』を使う」
清子は嬉しそうに笑う。
「いくつか貴方のことは藍子から聞いてます。私も一般的な母親だから、娘のことは一般的に思われるくらいに心配してるの」
心なしか正樹は居住まいを正す。
「そうですよね」
「しっかりとした仕事をされてて、お客様にそっぽを向かれたら直ぐに仕事はなくなる。お客様に選ばれ続けられる、ということは社会から信頼されている証ということだと思うわ」
「そこまで行けてはいません。僕はクズ出身です」
清子は正樹のクズという言葉を受け流す。
「ところで、私たちが猫族なのは聞いたわよね?」
「はい。本当に猫族というのは存在するのですか?」
「存在するの。私たちは猫の仲間。夜になれば猫の姿に戻る。普通じゃないの」
「本当ですか?」
「ウソ。藍子は夜でも変わらないでしょ。でも猫族なのは確か。私たちだけにしか分からないけど」
「猫族だと何が違うんですか?」
「猫族は猫族同士でしか共振できない。猫族同士でしか恋愛も結婚もできない。それでも猫族以外と結婚してしまうと相手を不幸にする。相手を食いつぶしてしまう。そうならないために、猫族は猫族同士で家族を作らなければならない」
「そうですか。僕は自分が猫族なのかどうかわかりません」
「貴方が夜の電信柱の下で翔太を見つけた。そのままだと翔太は『ドリームルーム』行きだった。藍子は貴方のその時の様子で猫族じゃないか、と言う。私は藍子より猫族歴が長い。だから私が見定めてあげると言った」
「じゃあ、どうですか?僕は猫族なんですか?」
「どうかしら。素質はある。それはこれからの時間が証明する・・・貴方はお母さんの髪を定期的に切っているそうね」
正樹は頷く。
「いつか藍子の髪も、私の髪も切ってほしいわ」
「彼女にも言ったんですが、女性の流行まではまだ勉強できていないんです」
「『福祉理美容師』を目指すそうね。それならそんなこと言ってられないわね。それに髪を切るのは、仲間同士が毛づくろいをするようなもの。猫族ならやってもらうわ。いずれ」
「そうだとすると、理容師は全て猫族になってしまいますね」
「そうね。実は理容師は全員が猫族かもしれない。みんな黙っているのか、まだ気づいていないのか」
まじめな清子の口調に正樹は押され、
「分かりました。準備しておきます」
「オーナーの人はいい人なの?」
「いい人です。彼のおかげで今の自分があります」
「貴方の過去も知った上で雇ってくれてるのね?」
「彼も塀の中にいたんです。だから僕のような人間のことも良く分かっているんだと思います」
「そう、良かったわ。塀の中から理容師になる人は多いの?」
「それなりにいます。塀の中で、申請をすれば職業訓練として理容を選ぶことができます。それなりに塀の中で品行方正な態度を続けていると認められます」
「塀の中でよく立ち直れたわよね」
「どうでしょうか、立ち直れているのかは分かりません。塀の中では時間があるのでいろいろと考えます。『薬物専門処遇プログラム』を経て、ドラッグやアルコールへの依存も断ち切ることができました。まだ自信がありませんが。そんな人間にハサミやカミソリを許すんですから、刑務所もそれなりに更生が見られないと認めるわけにはいかないでしょうね・・・なんとかに刃物、ですから」
正樹は清子の頭の中を見透かしたように言う。
「腕にタトゥ―があるのね」
「そうなんです。若気の至りで。でもかつての黒社会の方のように、背中全体に竜の画が入っているわけではありません」
「ファッションね。痛かった?」
「針が刺さる痛みはその瞬間だけです。施術後は1週間ほどジンジン・ヒリヒリ感が残るくらいです」
「その手首の模様は何なの?」
「そうなんでも聞くもんじゃないわ」藍子が口を挟む。
「いいんだ。これはドラゴンです」
「結局竜なのね」
「そうです。アメリカナイズされた竜です。竜のように立ち上りたいという気持ちがありました。あのときは酒漬けだったこともあって」
「そう、ごめんね。今貴方がどの段階にいるのか、できるだけ知っておきたいの。娘のことを思うとね。言いたくないこともいろいろとあると思うけど許してほしい」
「大丈夫です。自分のことを話すことには慣れています。依存症から脱却するときに、プログラムでは自分のことを同じ経験者と共有することから始まりました」
「刑務所の中で更生できた一番の理由は何なのかしら?更生できた、と言って悪いけど」
少し正樹は間を置いた。
「結局人ですね。刑務官のおやじさんがいい人だったので」
「そう、どんな人だったの?」
「おやじさんというように、本当に自分の第二の父でした。私の父は早くに他界していましたけど。彼自身も家族に対して過去に行った後悔があるようでした。この仕事についているのは贖罪だと言ってました」
「どういうことかしら?」
「ひどいDV を自身繰り返していたようです。それを原因に娘さんは自殺をしたと聞きました」
その後、清子は正樹の理容師の仕事について質問を重ねた。
出勤してから開店をする。前日に洗濯しておいたタオルをたたんで棚に収める。床の掃除はしてあるが、椅子やドア、鏡がきれいになっているかチェックする。インターネットの予約状況をオーナーと一緒に確認し、一日の業務の流れをシェアする。予約の入っているお客様のカルテを見る。そこにはお客様のこれまでの施術内容を記載してあり、希望などの記憶を呼び戻す。時間になったら店の外に看板を出す。
「お客さんの希望を聞き出して、その通りにカットするのは大変でしょうね」清子の言葉に、
「最近はタブレットを使ってこんな感じですか?など聞いたりもします」
シャンプーではお客さんの頭の形を見ながら強すぎないか、どうすれば心地よいかを考える。指の触れ方や動かす速度に気を遣う。その後のカットのために、髪の癖を直しながら、その人の髪の状態を確かめる。
カット用のハサミは腰に掛けたシザーケースに何本も刺してある。用途に合わせて4から5本を使い分ける。かりこみやかり上げなどは大きめのハサミで、細かい作業や仕上げには小さいものを使う。すきバサミを使って髪の量を調整し、毛の断面を柔らかくする。
閉店後には床の掃除とタオルの洗濯をする。技術を磨くためにウィッグを使って練習をすることがあれば更に遅くなる。
ウィッグは高いがなるべくセール品や型落品を買う。
「藍子を練習台にして。私もなるわ」と清子が言い、皆で笑う。
「訪問理美容も考えているんだってね?」
「そうです」
「資格がいるの?」
「『福祉理美容師』という資格があります。NPO法人の資格なので国家資格ではないんですが、訪問した人が一人で動けない場合など、ベッドから車椅子に、またカットするスペースに動くのを手伝います。またベッドから起き上がれない場合は寝たまま切ります。こうした介助の基礎を身に着けるための資格です」
「そう、偉いわね」
「いいえ、母の髪を切りにいくうちに、いつか考えるようになりました。それだけのことです」
白、黒、縞、灰、三毛。十二匹の猫たちが、帰巣本能のように清子、藍子、正樹まで匂いを確かめにくる。毛並みが擦れ合う音、鈴のかすかな震え、喉を鳴らす低い振動。家そのものが、柔らかく呼吸しているようだった。
三毛猫が清子の膝に乗り、翔太が背中を踏み台にして肩へ上がる。まるで木に群がる小鳥のようである。清子が肩の翔太を抱きかかえ、正樹に差し出し、正樹が抱きかかえる。
オーナーから理容コンテスト参加を勧められているので、このところはまた練習で特に帰りが遅いことを藍子が清子に教える。
「勉強を欠かさない。偉いわね」と清子が言う。
「ただ目先に見えるものを追っているだけです」
「また翔太の様子を見に来て。そして私の髪もいつか切って」
清子の言葉に正樹が頷き、その横の藍子に清子は目配せした。
「翔太を引き受けてもらってありがとうございます」
「いいえ、私は猫族の一員だから、仲間を『ドリームルーム』に送ることは決してできないの。使命なの」
食事を共にしたが、いつものように正樹は酒を飲まない。ビールが好きだからごめんなさいね、と言いながら清子は飲んだ。気にしないでください、と正樹はいつものように応えた。
帰りのバスに揺られながら藍子は言った。
「お疲れ様。緊張した?」
「全然、いい人で良かった。写真を先に見せてもらっていたからイメージも沸いていたから。翔太にも会えた」
「私も母との会話で貴方のことがもっと分かった」
「そう?どこが?」
「いろいろ」
「なんだ、それ」
「説明が難しいわ。貴方はハサミを扱うでしょ?ハサミやカミソリは刃物でしょ。刃物を持った人に髪を切ってもらったり、目を閉じているうちにシェービングをしてもらうなんて、お客さんに取ったら貴方に命を預けるようなものね」
「何を急に」
「いえ、お客さんは貴方に全てを委ねてるんだろうってね」
「そう。でも俺はそんなに強くない。いつも揺れてる。どちらに転んでもおかしくない。アルコールや薬物では経験してきたクズだから」
「でもやっぱり、いろいろ知ったわ。悪くない意味で」
「じゃあ良かったことにしておくよ」
正樹のことはまだ知らないことばかりなのだろう。正樹は時折部屋のベッド横たわりながら寝言を言っている。
「痛い、痛いって貴方夜中に寝言言ってるわよ」
「そう、なんだろう?うるさいか。寝られないくらいに?」
「大丈夫。ただ気になっただけ」
「精神病院で隔離病棟にいるときがあった。俺が暴れるからとベッドに括りつけられて、身動きもできず、糞尿は垂れ流し。そのときのことを思い出しているのかもしれないな」
「そう、忘れられたらいいのにね」
寝言のあと、正樹の:心臓の音と自分のを重ねる。寝息、呼吸を重ねてみる。そうすると私はいつも寝られるの。
正樹は寝言はなくとも時にうなされている。
その理由までは分からない。だけど聞かない。いずれ時が来れば分かる、そう藍子は思う。
昔の仲間とは極力会わないようにすると正樹は言っていたが、忙しい中を縫って、かつての相部屋だった人間とやはり会っているようだった。
彼の名前は中原誠也と言った。正樹より2歳若く、正樹は慕ってくる中原を弟のように感じていることが伺えた。深く聞くことをしなかった藍子に、
「会ってみるか?」と正樹はワンルームの部屋にいるときに言った。
「俺みたいな人間でも周りに助けられて、受け入れられてここまで来た。仲間が『ドリームルーム』に押し込まれて社会から消されてしまう、などは見てられない」
「何かその人に起こったの?前にデリヘルの運転手をしていたと言ってたわよね」
「事故を起こしたんだ。だから運転手も首になったそうだ。これからどうやって暮らしていっていいか悩んでる」
中原と会うことは、正樹を更に知るきっかけになるとは思えた。
「そんなときに私が会っても大丈夫?私は貴方やその人からすれば苦労知らずよ」
「苦労知らずでも猫族だろ。『ドリームルーム』に仲間が送られるのを見てはいられない」
「その人にも、私のこと猫族と言ってるの?」
「ああ。そして俺も今は猫族見習いだと」
正樹がオーナーと時折行くという駅に近い居酒屋で、夜8時に会うことになった。
居酒屋では、かつて酒依存症であった正樹と中原は酒を飲むことができない。それでも居酒屋でいいの?と訝る藍子に料理を楽しむから、と正樹は応える。オーナーは普段から正樹のために特に料理がおいしいところを選んでいるのが伺えた。
藍子はシフト時間が終わってから少し残業をして水族館を後にし、正樹はその日のトレーニングを取りやめて、約束した駅の改札で落ち合った。
暖簾をくぐってドアを開けると、中原は先に来ていた。横には女性がいた。藍子が参加するということで連れてきたようだった。
正樹が気付いて軽く手を挙げると、彼らは立ち上がって頭を下げた。
中原には、刑務所に居たというような影を見つけることはできない。トレーナーにスタジャン、ジーンズといういで立ちで、普通に大学を出てサラリーマンをしていると言われればそうにも見えそうだった。耳にかからない短めの黒髪。軽く整えただけの自然なスタイルで、清潔感がある。肌はきめ細かく、ひげの跡もない。
中原の若さが、人格を纏う影を覆って隠していた。
女性は宮部美羽と言った。水商売っぽくない彼女は、バーで働いているということだった。肩につくかつかないかの柔らかな髪は、艶を含んでゆるく揺れる。派手に染めてもいなければ、過度に飾ってもいない。ただ丁寧に整えられている。薄いメイクは灯りに溶けるようで、素顔の延長のような透明感を残している。
年齢は藍子と変わらなかった。
美羽ちゃんと呼ぶね、と藍子は言った。
じゃあ私も藍子ちゃんといいますね、と彼女は言った。
「中原さんのことは何と呼んでるの?」
「誠ちゃん」
「誠ちゃんねえ。その誠ちゃん、仕事はありそうか?」正樹が聞いた。
「誠ちゃんは止めてください」中原が言う。
「じゃあどう呼べばいい?」
「いつもどおりにお願いします」
「美羽ちゃんは美羽ちゃんでいいよね」正樹が美羽を向いて聞く。
美羽が頷く。
で、仕事は?と正樹は誠也に促す。
「ないですね。車の運転ができることだけが取り柄だったんですけど。車に乗れないので。正樹さんのように手に職があったらいいんですけど」
「俺が手伝えることがあればいいんだけど。安請け合いができる立場じゃないんだ。良く分かっているように」
「分かってます。正樹さんもぎりぎりで精いっぱい生きてらっしゃるのは」
「だけど、俺にできる限りのことはさせてもらうよ」
「こうして悩みを聞いてもらえる機会があるだけで結構です。お金の無心や保証人になってください、などはしません。美羽もいるし。そうだ、俺の髪も切ってください。散髪代馬鹿にならないんで。一度美羽に切ってもらったら無茶苦茶にされて」
「当たり前でしょ。私はプロじゃないんだから」美羽が口を挟む。
「分かった。俺が刈ればお金がかからない。じゃあカッコよく刈ってやるよ。それと今日は奢らせてもらう。だから気兼ねせずに食べてくれ。美羽ちゃんは飲んでね」
藍子は美羽を見ながら、彼女が一緒にいることで、誠也も経済的には何とかなるのだろうと想像した。正樹の穏やかな表情から、彼が同じように安堵しているのが見て取れた。
別れ際、正樹は言った。
「間違っても、筋の悪いところから金を借りるんじゃないぞ」
「大丈夫ですよ」と誠也は返した。
誠也たちと別れたあとの夜の電車は、酒の匂いと金属の匂いを薄く混ぜながら、闇のなかを滑っていた。
つり革につかまる藍子の手の平が、さっきまで握っていたグラスの余熱をまだ覚えている。向かいの窓には、自分と正樹の姿がぼんやり映り、その奥に闇が流れていく。店のざわめきが、まだ藍子の耳の奥に残っていた。
「誠也の印象はどうだった?」
「刑務所に入っていたような影のある感じは受けなかった。どこにでもいる普通の若者といった感じ」
「そうだろ、見た目は。だがヤクザだった」
「何をやって入ったの?」
「俺と同じで薬。他には少し・・・」正樹は口を濁した。
「他には?」
「刺傷事件を起こした」
「そう・・・何が原因で?」
「彼女がしつこい客に絡まれていたのを、止めに入って。彼女をずっとストーカーしていた男だった」
「彼女というのは、美羽ちゃん?」
「そうだ。アイスピックで刺したらしい。幸いにも相手は死にはしなかったけどな。刃物を見ればあいつは人が変わる。笑いながら人を簡単に刺せるやつだった。誠也は薬もやってたから余計に衝動だったみたいだ」
「そう」
「刑務所で同じ部屋になった。あいつは弟のように思えた。部屋の中にはボスのような奴がいて、そいつが絶対だった。あいつは見かけが何の苦労もないように見えるだろ。周りからは見るだけで癪に障るんだ。そしてあいつのいた組は今はもう壊滅していて、あいつが仮にヤクザに戻ろうとしても戻るところはもうない。あいつはヤクザであってもいじめるのに一番だった。俺は、あいつを守るのが俺の使命のように思えた。でもあいつは逆上したら何をするか分からないやつなんだ。抑えておかないと。馬鹿みたいだろ。おれはクズだった。クズのおれがクズなりに誰かを守る。馬鹿げた思いが急に頭をもたげて消えなくなった。俺はただのアル中のチンピラで、あいつは俺より若くても正真正銘のヤクザだったのにな。何を俺は勘違いしてか」
やはり猫族なのかもしれない、ふと正樹を見ながら藍子は思う一方、正樹も誠也と同じでかっとなると何をするか分からない人間なのかもしれないとも思う。自分はまだ正樹の本当の芯の部分を見れていないのかもしれない。
「かつても今も、美羽ちゃんがそばにいるのがあいつには救いだ」
「美羽ちゃんは誠也さんのその一面は大丈夫なの?」
「怖い、恐ろしいだろうな。でも自分がいないと誠也はどこに行くか分からないから、と思ってるんじゃないか」
「正樹にとって、彼は本当の弟のようね」
「美羽ちゃんがネックレス付けていただろ。何買っていいか分からないからと付き合わされたんだ。男二人でネックレス買うなんてカッコ悪いだろ。でもあいつは全く気にしてないんだ」
「どうかな。まああまり見ない光景ではあるわね」
「刃物を見たら、手にしたら、にやっと無垢に笑って、人を刺す。同じように、無垢に、一緒にプレゼント選んでくれ、と俺に言う。笑顔が一緒なんだ。見ておかないと、あいつは危ない・・・今度プレゼントを買う機会があれば、君に付いていってもらいたい」
「私が行くの?」
「そう、君だ」
「私にもそんなセンスはないわ」
「いいんだ。君は水族館で働いている。水族館の水槽を毎日見てる。きれいだろうな。きれいなものを見ている人なら大丈夫だ」
「何、それ。私は飼育やショーをする部隊じゃないから毎日見ているわけじゃないわ。私は裏方なの」
「今更だけど、君はスタッフの面倒を見るのが仕事なんだよな」
「そう。飼育する人とか、売店の人とか、レストランの人とかが働きやすい環境を作る」
「その人たちを介して、間接的にブルーのきれいな水槽に繋がっている」
「そう、間接的に」
「君はスタッフを透かして水槽を毎日見てるんだ」
「そう言われれば、そうかもしれないわね。売店やレストランの人も、元は専門学校や大学で海洋生物を学んだり関わったりしてた人も実は多いのよね。彼らもみんな、心の目でいつも水槽を見ている」
「そうなんだ?でも売店やレストランで?」
「生物に関わりたい人口がポジションに対して過剰に多いの。狭き門。だから、売店でもレストランでも間接的にでもいいから生物の近くにいたいから、と入ってくるの」
「そうなんだ。彼らはそれで幸せなんだろうか」
「どうかしら。少なくとも生物、命の群れの中にいる、っていうことは心地良いんじゃないかしら」
「だったらいいな」
藍子は心の内で、正樹が誠也を見る目と、飼育部員が海洋植物を見るそれとを重ねてみる。
正樹が月曜日の定休日に、医者の施術カバンのように機材を運んで母親の家に行くのを、藍子は部屋から見送る。部屋に暖房は入っていない。正樹はジャンパーを脱ぎ、春になっていた。
「私と私の母の髪はいつ切ってくれるの?」出ていく前に、いつものように聞く。
「今度翔太を見に行ったときに。立て鏡を用意しておくように清子さんに言っておいて」と正樹は応える。正樹は君のお母さんとは言わない。清子のことは清子さんと呼ぶ。
「どうして鏡がいるの?」
「自分の髪がどのように切られているのか清子さんも気になるだろうから」
「分かったわ」
「お母さんだけなの?私の髪はどうなるの?」
「清子さんの後に切るさ」
「約束よ」
「ああ」正樹は玄関を出ていく。
藍子はその時を思う。
想像していたその景色は1か月後にやってきた。前に立て鏡を立て、リビングの椅子に清子が座る。正樹はカットクロスを清子にかける。清子と藍子がいると、勝手に猫たちがリビングに集ってくる。正樹も猫族だと彼らは理解しているようで、正樹に身体を摺り寄せてくる。翔太もいる。
「集中できないわよね」清子の言葉に、
「床に落ちた髪が猫たちの身体について、部屋中に巻かれてしまうんじゃないかと。それが気になって」
「確かにそうよね。藍子、彼らを離しておいてもらえる?ドアを閉じておきましょう」
藍子は翔太たちを部屋の外に追い出し、ドアを閉めた。彼らが普段自由にくつろいでいる場所を塞がれ、不満げである。だが、壁の立体迷路棚の猫たちまでは動かしようがない。彼らはじっと藍子たちに視線を向けたままである。
「どんな感じにしましょうか?」正樹の言葉に、
「私に似合うと貴方が思うようにして。私は練習台なんだから。藍子もね」
正樹は笑い、ではそうしてもらいます、と頷く。
正樹は清子の髪を櫛ですいていく。正樹の手と指が、清子の頭の周りを踊る。櫛はハサミに代わる。ハサミは櫛に戻り、正樹の指が髪を束ねてハサミが小気味よい音を立てて踊り、床に髪がさらさらと落ちていく。
少し手を止めて、
「何か音楽があった方がいいですよね」正樹は言い、カバンから小さなブルートゥーススピーカーを取り出してリビングテーブルの上に置き、胸ポケットのスマホを操る。
「どんな音楽が良いですか?」
「貴方の好きなものでいいわ」
正樹は頷く。
「じゃあジャズボッサで」
スピーカーからピアノとベース、ドラムの音色が踊るように流れてくる。
「上手ね」
「プロの音楽家ですからね」
「貴方の腕のことよ」
「あ、そうですか。一応、僕もプロの理容師ですから」
正樹の指が音楽に合わせて踊る。正樹の指がまさぐる清子の頭皮は心地良いに違いないと藍子は思う。
「大会があるのよね?」藍子が言う。
「そう。いつ?」と清子が被せる。
「一か月後です。だから丁度練習が出来ていいです」
「私の髪を切ることでも大会に役立つの?」
「なります。所作や時間管理の面でも、また人髪でやることは意味があります。このあと娘さんも練習台にさせてもらいます。練習台は多ければ多いほど良いので」
「他の練習台は?」
「オーナーやオーナーの奥さんも練習台です。他の知り合いも練習台にします。タダで切るからと言って」
「誠也さんや美羽ちゃんもそれを理由に切ってあげるのよね」藍子が問う。
「そう。彼らのも切る。手当たり次第に切る」
正樹の指は止まらない。正樹の指は温かいだろうと藍子は思う。
「知り合い?」清子が問う。
「そう、彼の昔からの弟分とその彼女です」
「そう、大切なつながりがあっていいわね。貴方の場合、過去を引きずるのが良いのかどうか分からないけど。ごめんなさいね、私には実情が分からないから」
「いいえ。心配はごもっともです。彼らには娘さんにも会ってもらっています。彼女がお目付け役です」
「私はそんな偉いものじゃないわ」藍子は言う。
清子の後に正樹は藍子の髪を切る。出来上がりは悪くなかった。
次の月曜日の定休日、誠也と美羽の髪を切ってくると言って誠也は出て行った。
夜遅くに帰ってきた正樹は疲れていた。
「どうしたの?」と聞いても言葉を濁して答えようとしない。
「言いたくないならいいわ」
正樹は頭を軽く振りながら喋り出す。
「あいつ、言っておいたのに、闇金から金を借りたみたいなんだ。何のために美羽ちゃんと一緒に暮らしてるんだ」
「そんなに彼は困ってるの?」
「そしてまた酒に手を出した。美羽のヒモでいる訳にはいかない。だから自分で生計を立てる、と言っていたのがプレッシャーになったんだろう」
「そう」
「美羽ちゃんが懸命に支えてくれるのに何やってんだ、誠也は」
「プレゼント買いたいと言ってたものね」
「そのプレゼントを買うために知り合いから金を借りたらしい。金を借りることで自分を追い込む。なんでもやらないとならないとなると自分を駆り立てることができる、と」
「何、その理論」
「一度借りると際限がなくなる。繰り返す。馬鹿じゃないか。そんなの昔の俺と一緒じゃないか。俺たちはそうやって、容易に転げ落ちる」
「今の正樹は違うでしょう?」
「どうだろう」
「誠也さん、そしてどうにもならなくなり、酒を飲む。薬までやらなければいいけど」
「愚かだ」
「そうね」
正樹は藍子を正視する。
「何を考えているんだ?」
「正樹が巻き込まれないように、願うわ」
「俺が何に巻き込まれる?」
「正樹には正樹の大切にしている世界がある。その世界を壊されないことを、願う」
「何も壊れないさ」
「誠也さんは正樹の世界の一部を占めているのかもしれない。でも、正樹は正樹を大切にしてほしい」
「俺はどうしたらいい?」
「正樹一人で抱え込まない。何か誠也さんを少しでもヘルプできるコミュニティはないのかしら」
「NPO法人などあるみたいだけど、どのように活用したら良いか。喫緊の金の問題はどこに頼れば良いのか」
「私も調べてみるわ。母に相談してみるわ」
「清子さんも心配するだろうな」
「世話焼きだから大丈夫」
「いや、君のことだ。君がクズの世界に巻き込まれなければいいときっと思ってる。清子さんにとっては君が全てだ・・・そして清子さんが繋がりがあるのは猫のNPOだろう」
「猫族はやろうと思えばなんだってやれるの」
「そうなんだ。そうかもしれない。じゃあ頼む」誠也は半信半疑の様子である。
「大会の準備はどう?」
貴方が今注力するのはそこなの、と藍子は思う。そしてゆくゆくは福祉理美容師になり、訪問理容も始めないとならない。
それまで正樹はよそ見をしてはいけないのよ、藍子はそう思う。
正樹の帰りは遅い。毎日オーナーにも見てもらいながら大会の準備をしているからである。
全理連、すなわち全国理容生活衛生同業組合連合会や、各都道府県理容組合主催の理容競技大会では、全国大会・地方大会ともに、ほぼ共通した「公式競技種目」があるという。
主な種目には、クラシカル・バックバリエーションという、理容の基本中の基本となる
ネープ(えり足)からバックにかけての刈り上げ技術を競うものに始まり、ミディアム・カットというクラシックをベースにしたミディアムレングス、ハサミ技術、コームワーク、シルエット構成力が評価されるもの、レディス・カット、 花形種目であるクリエイティブ・スタイル、トラディショナル・スタイルなど様々ある。正樹は最もクラシックな、コーム・シザー・レザー使いが厳しく評価されるトラディショナル・スタイルでの参加を予定している。
審査員は最初にえり足を見るという。営業中や練習中から「大会目線」で作ることが肝要で、「早く終わらせる」えり足はご法度である。
グラデーション(刈り上げ)のコームの角度一定で、刈り残しを作らず、面でつなぐことを意識しなければならない。影・段差は即減点となる。だから夜練では「0.5センチ幅で上下をつなぐ」ことを繰り返すのだ。
コームは立てすぎない、シザーは開きすぎない、同じ動作を繰り返す。
動きの美しさを意識する。スピードと正確性を同等に保つ。
審査員は手元をじっと見ている。ブロー・仕上げでは風を当てる方向、根元を起こす、寝かす所作を見る。シルエット、清潔感、トレンド感を見る。
カット8割、仕上げ2割で順位が変わる。
所作・姿勢・段取り、すべて日常技術が直結する。立ち位置から、道具の置き方、無駄な動きを排除する。技術点とは別に「印象点」がつく。ベテランになるほど差が出る。
営業中のクセがそのまま出るんだ、とオーナーは正樹に口酸っぱくアドアイスするという。
そして、えり足処理、ネープの完成度を高め続ける。刈り上げバックバリエーション、
前髪処理、シルエット、ブロー、最終印象をチェックする。
段取りはどうか、制限時間内の完成度を振り返る。全体の衛生管理・所作・仕上がりを評価する。毎 日毎日、禅道のように繰り返す。
清美の、あるいは藍子の髪を切るときに、正樹は細かく説明してくれた。
クラシカル種目の場合、ネープ(えり足)とバックの刈り上げが命という。
「じゃあ、私たち女の人の髪では練習にならないんじゃない?」と清美は聞いたところ、
「所作や時間管理の面でも、また人髪でやることには十分意味があるんです」
「大会はマネキンじゃなく本当の人のモデルを使うの?」と藍子が聞く。
「メンズマネキン。ウィッグだ」
「じゃあ大会は本当の人の頭でやるんじゃないのね」
「でも大会では人毛のウィッグを使う。一方で、俺にとって大会はあくまで経過点に過ぎないので。そもそも大会に出るのが目的ではないので」
「修行僧のようね。頭は剃ってないけど」と清子は言った。
普段の練習にはウィッグを使う。大会までの目安を6か月とし、大会まで約24週間を要す。毎晩1時間半の練習として、ネープ中心フル練習を行う場合、ウィッグ1体 を 約3週間で消耗するとなると、大会までに最終8体程度はウィッグが必要となる。
練習量が多い場合は、消耗用は安いウィッグ、大会仕上げ用は人毛のものと使い分ける。消耗用もウィッグは部位ごとに使い分ける。ネープ・バックはフル練習専用で、トップ・前髪は別ウィッグで反復する。ウィッグは乾かし、絡みを防止し、ネット保存を徹底する。カット角度・分量を少しずつ練習する。一気に切らない。
正樹は練習だという名目で、かつてお世話になった刑務官のおやじさんの髪も切りに行く。
刑務官は「安心した」と正樹に言う。「しっかりと地に足を付けて歩いてくれてありがとう。これまで生きた甲斐があった」と正樹に言う。正樹は清美と藍子に刑務官の言葉を伝える。その時の正樹の目は生きている。
娘に対する悔恨を正樹の存在が相殺してくれているように刑務官は感じている、藍子はそう思う。いつまでも正樹の目が今の状態を保ち、曇らないでいることを願う。
正樹はたまの月曜日の休みにも、誠也に会いに行く。やむを得ない。
「このところよく彼のところに行くのね」とベッドに横並びで腰かけて聞く藍子に正樹は応える。
「俺が電柱の下で翔太を見つけたときのように、あいつも翔太のように見えるんだ」
「そう。誠也さんも猫族なのかしらね」
正樹はふっと笑顔を作る。
「あいつはほっておくと死んでしまう、かもしれない」
「極端ね」
正樹は藍子をじっと見る。
「あいつはムショにいるとき、自殺を試みたんだ」
「そう」雑居房でどのように自殺が可能なのか分からない。藍子の疑問を読み取ったように正樹は続ける。
「夜中にトイレのドアノブに服をくくりつけて、首を吊ろうとしたんだ」
藍子は黙って聞く。
「変な音で俺は目が覚めた。俺はあいつをドアノブから引き離して大声で刑務官を呼んだ。例の刑務官のおやじさんがちょうど夜勤の日だった。あいつ、刃物を見たら人が変って人を刺すことも何とも思わないくせに、自分のことになったら弱い」
「そうなのね」藍子には言葉が見当たらない。電柱の下でじっと翔太を見つめていた正樹の様子が頭に蘇った。
「当時美羽ちゃんも何度も面会に来ていた。それでもあいつは死のうとした。俺はあの時、脳天にずどんと何かが落ちた。あいつの人生が突然自分の中に落ちてきた。あいつの人生と俺の人生が重なった。あいつの過去は俺の人生と同じだったんだ」
「そうなのね。正樹と誠也さんは同じ・・・」
「今度あいつの髪を切りに行く。マネキンの代わりに。美羽ちゃんもいる。君も来るか?髪を切ったあとに、皆で飲みに行こう」
「正樹も誠也さんも飲めないのに?」
「いいんだ。慣れている。料理を楽しむから」いつもと同じように正樹は応える。酒をまた口にしてしまったという誠也は大丈夫だろうか、と藍子は思う。
約束の午後4時を目指し、二人の暮らすアパートに向かう。駅の改札を出て階段を下りて右に出る。バスのターミナルを横目に短めの商店街を抜ける。焼き鳥屋があり、パチンコ屋があり、ドラッグストア、コンビニ、マックや吉野家がある。
「あとでここらあたりの居酒屋にみんなで戻ってこよう」
「おいしいところあるの?」
「ああ、調べてある」
国道に当たる。信号が変わり、横断歩道を渡る。クリニックの脇を通ると住宅街となる。中にひときわ古びた2階建てのアパートが見えた。むき出しの錆びた鉄製の階段が見える。偶然帰ってきた一人の住民が階段を上がる甲高く足音が鳴る。
「1階の一番奥の部屋だ」と正樹が振り向いて言う。
部屋のブザーを押すと、ドアが開いて誠也の、その後ろには美羽の顔が見えた。
「いらっしゃい。藍子さんも」
靴を脱いで上がる。
「狭くて古くて汚いところだけど」
入ったすぐが台所になっており、リビングに繋がっている。奥の窓は閉まっている。
リビングのテーブルの横に散髪道具を正樹が下ろす。
「窓を開けると直ぐに向かいの家の窓があるから、滅多に開けられないんです」
美羽が言う。
「でも贅沢言えないんで」誠也が言う。
「十分、十分じゃないか」正樹が言って繋げる。
「早速切るか?」
「まずコーヒーお出ししますから、その後に」
美羽が台所に立つ。
皆がその後ろ姿を見る。
「ごめんなさい。インスタントで」
「十分、十分」と正樹が言う。
美羽の入れたコーヒーを飲んだあと、正樹は自分の座っていた椅子をテーブルから離して置く。
「じゃあ誠也、そろそろマネキンになるか」と正樹は散髪道具の中から白いカットクロスを取り出して誠也に渡す。
カットクロスは暑いだろうから、ということで美羽がクーラーを強くした。
「大きな鏡がないんだ」と誠也が言い。
「私が手鏡を持って貴方が見たいところを見せてあげる」と美羽が言う。
正樹が切り始めると、美羽は言葉通りに、纏わりつくように椅子の誠也を回る。
「見える?見える?」
誠也は時折頷き、時折頷かない。
「ちゃんと見えなくても、俺は正樹さん信じてるから大丈夫だ」
「そうね。髪の切り方がおかしいからって、死ぬわけじゃないものね」藍子が言う。
「馬鹿言え。俺は一つ一つの刈り方に命を注いでる」正樹が言う。
「失礼、失礼」
藍子の言葉に美羽が笑った時、突然玄関のブザーが鳴った。
「誰かしら?」
誠也の顔が強張るのが藍子には分かった。
美羽が玄関ドアの覗き穴に目を付ける。
無言で振り向き、誠也に言った。
「また来たみたい」誠也は諦めたように顔を伏せたあと、立ち上がる。カットクロスの膝にあった切った髪が床に落ちる。
ドアを叩く音がした。最初軽く、徐々に強くなる。
「いるんだろ」声が重なる。
「お二人が来られたのに、ごめんなさい」美羽は言うとドアを開けた。
強面の男が立っていた。
一目で取り立て屋だと分かる。夏に不釣り合いな濃紺のトレンチコートは肩に重みを落とし、折り返した襟が首元まで覆っている。足元には黒い革靴の靴先が電灯を反射して鋭くって光っている。
手には薄手の革手袋、その下の拳には無言の力が宿っている。
「なんだ、今日はやけに豪勢じゃないか。4人もこの狭い中にいてご苦労なこった」
男は乱暴に靴のまま上がってきた。
「ちょうど良かった。助けてくれる人は多い方が良いからな。そうだ、助けるというのはお前のことじゃないぞ」
男は白いカットクロスを被ったままの誠也に目を向ける。誠也よりうわずえがある。
「お前の髪を切ってくれている、この方々が俺を助けてくれる、という意味だ」
誠也の口は半開きになるが言葉は出ない。
「お前は俺から金を借りておいて、返さないという。どう考えても人の道理に反してるんだから」
そうだろう、お兄さんお姉さん方、と男は言って睨む。
「俺はあんたに金を借りたわけじゃない」
「金を貸したお前の友達のあいつな、会社の金に手を付けてとんずらしやがった。あいつはこの世界では許されない。この後いつか海に浮かんでるだろうな。残念なこった。そうだ、お前が返さないのだったら、このお姉さん方に払ってもらおう。若くてきれいなお姉さんなら、色んな返し方があるからな。俺が見繕ってやる」
「俺の周りの人を巻き込むな。これは俺の問題だ。周りには関係ないんだ」誠也の言葉に男はあざ笑う。
「人の道に反しておいて何をお前はほざいてるんだ。お前にそんなこと言う資格はねえんだ」
男は正樹たちを見回す。
「そうだろ、あんたらはどう思うんだ」
「いいかげんにしろ」誠也がうなって続ける。
「お前を殺したところで、俺はまた元のところに戻るだけだ。お前ごときを殺したところで」
「今日はやけに威勢がいいな。お前を見ている人たちの前でカッコ悪いところを見せられないからな。でもやめておけ。怪我をするだけだ」
「どっちが怪我をするかだ」誠也はそう言うと正樹の腰にあったシザーケースからハサミを遮二無二引っ掴んでいた。正樹は言葉にならない驚きの声を上げた。誠也は男に向かっていた。
ハサミを奪われた正樹は瞬時に誠也を追った。誠也を後ろから抱きかかえた。
身動きの取れなくなった誠也が暴れた。その様子に男は笑った。
「お前ごときに何ができる」今度男は誠也の手にあるハサミを取り上げようとした。
抵抗する誠也を中心にして3人でもみ合いになる。誠也がハサミから手を離さないので、今度男は誠也の腕を取ってそのハサミの切っ先を誠也に向けようとしていた。正樹が切っ先から誠也を逃がすために力を緩める様子が見えた。
その瞬間、ハサミは男の手に渡っていた。男は誠也の脇腹に切っ先を当てた。
正樹はそのハサミを抑え込んだ。奪おうとした。刃先は今度正樹に向かっていた。
藍子は叫んだ。美羽の悲鳴が響く。誠也を間にした正樹は咄嗟に身体を翻して逃れると刃先を向ける男の手首を取り、男の首元に向けて押した。
血しぶきがあがった。誠也の白いカットクロスに赤い液体が舞って流れ、床に落ちた。
男は首を抑えながら、床に膝をついた。
藍子は叫んだ。
男は首を抑えながら横に倒れ込む。
「てめえ」
「救急車、救急車よ!」
「てめえ」呻く男に、
「動かないで!」と藍子は怒鳴った。
美羽がタオルで男の首筋を、男が添える手の上から抑えた。誠也も手伝った。
男の首元を共に抑えながら藍子は正樹を見た。正樹は血に濡れたハサミを手にしたまま、立っていた。正樹は笑顔を誠也に向けて、突っ立っていた。澄んだ笑顔だった。これから海でも皆で行こうか、とでも言いたげな笑顔だった。
どうして笑うの・・・
どうしてそんなに幸せそうに笑うの・・・
「電話をかけて、早く救急車を呼んで!」
正樹は藍子の声にようやく押されるようにして、スマホで電話を掛けた。住所を聞かれて誠也に代わる。
電話を切った誠也が正樹に言う。
「俺がやったんた。やったのは俺なんだ」
正樹は首を振る。正樹は無理に笑顔を作っていない。笑顔から歯が覗いている。藍子にはその歯が血を飲んだように真っ赤に染まって見える。
「警察が見たら直ぐに分かるさ。俺がやったと」正樹が応える。
「だが最初に正樹さんのハサミを掴んだのは俺なんだ。これ以上、正樹さんに迷惑はかけられない。これまでもずっと世話になってきたのに」
「誠也の言うように、最初にハサミを掴んだのが誠也だから、警察や検察はどう判断するか、確かにどうなるか分からない。だけど、刺したのは俺なんだ。俺はクズ中のクズだった。その俺は誠也のおかげで人間になろうとできた。これは運命だ。どうなろうとも、俺は与えられたものを返しているだけなんだよ」
救急車と警察が到着したのは40分後だった。
「予断は許しませんが、ある程度効果的に止血はできているようです」と救急隊員はそのとき言った。部屋に運ばれたストレッチャーに男は乗せられた。ジャージやスウェット姿の近所の人たち、野次馬が救急車を取り巻くように立っていた。
重症だと伝えてあったために受け入れ病院は直ぐに決まった。藍子は、いつも水族館で怪我をしたゲストや従業員を救急車に乗せる際、病院が中々決まらずやきもきしたことを思い返していた。
正樹は警察に現行犯逮捕され、留置所に拘束されることになった。
それぞれが事情聴取を受けた。藍子は正樹に会えなかった。藍子は誠也、美羽と通路に付けられた長椅子に座っていた。
「どのくらい拘束されるのかしら」
「おそらく10日、その後延長されたらさらに10日。その間に起訴がされるんだろうと思います」誠也が答える。
「どのような量刑になるのかしら」
「取り立て屋が助かるかどうか。もし運悪く、もしもだけど死んだ場合、傷害致死罪に当たるのかもしれない。俺も正樹さんもその場合前科があることが悪い方向に動く。執行猶予は付かず、実刑でまたムショに中になるかもしれない」
「そうなの?」
「俺が正樹さんの人生を壊してしまった。償っても償いきれない。俺が正樹さんを頼りにさえしなければ。会わないようにしていれば」
美羽は頭を抱える誠也の肩を抱いている。
集中治療室に運び込まれた取り立て屋は、命を取り留めた。正樹は傷害罪で起訴された。
誠也から連絡があり、藍子は喫茶店で会った。美羽はいなかった。
藍子が約束の店のドアを開けると、既に奥の席に座っていた誠也が気付いて手を挙げた。
「待たせた?」
「いえ、俺も今来たばかりなので」
藍子がウェイトレスにコーヒーを頼むのを待って、誠也が口を開いた。
「お呼びだてしてすみません」
「いえ、私も母が紹介した仕事のことなど、お話したかったから。丁度良かった。お仕事はどうですか?」
「大変助かりました。毎日通ってます。俺ばかりが申し訳なくて」
「誠也さんは誠也さんのできることを全うすることを正樹も望んでいるんだと思います」
「そうですね。正樹さんは俺のことをいろいろとこれまでも藍子さんに伝えているんだとは思いますが、何か伝えきれていないところや藍子さんがお聞きしたいこともあるんだろうなと思いまして」
「ありがとう。でも誠也さんが話したいと思うことだけ話してもらえるんであればそれで結構です」
「そうですか。どこを話せばよいか、頭の中が整理できないですが」
「取り留めもなく、で全然良いんです」
「ムショを出たあと、デリヘル嬢を送り迎えする運転手をやってました。運転免許以外に何も資格がないし、正樹さんと違って何もできることがなかったので」
「聞いてました。大変だったでしょうね。毎日明け方から夜中まででしょうね」
「時間だけじゃないんです。女の子たちも様々で、まれに性格の良い、育ちの良いような子もいて、どうしてこんな子がこんな仕事してるんだろう、と思うこともありました。自分のことは棚にあげてですが」
ウェイトレスがコーヒーを運んできて、コーヒーカップを置いていくのを待った。藍子はミルクを注いでカップを持って口を付けた。
「でも大抵の女の子はホストに捕まっていて、ホストを自分の彼氏だと思い込まされて、金を貢いでいました」
「女の子がそういうこと喋るの?」
「彼女らは本気で彼氏だと思ってました。仕事が終わったら彼氏に会うの、とよく言ってました。客の相手を終えた、そんな子の一人をホテルにピックアップに行きました。彼女は上客が掴めたようでとても機嫌が良かった。祝杯をあげよう、と俺にウイスキーの小瓶を差し出しました。彼女はアル中でいつもバックにウイスキーを入れているようでした」
「飲んだの?」
「飲酒運転になるから飲めない、と当たり前のことを言いました。私の酒が飲めないの?と彼女は不機嫌になりました。車を発進させました。私の酒が飲めないなら、あんたの運転が無茶苦茶だと店に告げ口するわよ、と言われました。女の子に告げ口されると、直ぐに運転手は首になるんですね。だけど俺は黙って運転しました」
藍子は沈黙で先を促した。
「うそじゃないわよ、と彼女はさらに不機嫌になりました。あんたに性的暴行を受けたと言うわよ。そうなればあんたは首よ。彼女は本当にそうしそうでした。店の商品に手を付けたとして、俺は首になるのだろう、と思いました。俺ならやって当たり前と店も思うことは想像できました。だから」
「だから?」
「俺は車を道脇に止め、彼女からウイスキーを受け取り、口を付けました。おめでとう、と彼女に言いました。その後でした。接触事故を起こしてしまいました」
「そう」
「正樹さんから聞いてましたか?」
「そこまでは聞いてなかったわ」
「美羽の手前、ずっと仕事は続けておきたかったんですが、運がないです」
「無念ね。そこまで頑張ってきたのに」
「そう、俺なりに頑張ってきたのかもしれません。女の子をピックアップするために、ホテル近くの道の車の中で待ってます。すると警察が現れて、職務質問を受けるんです。何をしてるんだ、と。免許証を見せろ、という。トランシーバーでやり取りをしていたと思うと、俺がムショにいたシャブ中の元ヤクザだと知れる。小便を出せ、とやり取りが続く。何時間も拘束される。女の子のピックアップができずに、俺は店を首になる。また他の店の面接を受ける。繰り返しでした」
「理不尽ね」
「そんなもんです」
「よく我慢していたのにね。美羽ちゃんのため?」
「どうでしょうか。少なくとも俺を人間扱いしてくれたのは彼女だけでした。でもその後はなかなか仕事を見つけられませんでした。気持ちを持ち直すのにも時間がかかってました。お金が本当になくなったら、生活保護の申請を役所にすべきだったんだと思います。正樹さんからもそうアドバイスはもらってたんですけど」
「そうしなかったのね」
「美羽の手前、国には頼りたくなかったこと、美羽のヒモ状態で一緒に暮らしてたから、実質所帯として申請が通らないかもとも思ってました」
「通ったかもしれない?」
「役所とのやり取りが想像できました。「住まいはありますか?」と役所の担当が言う。「……あります」と俺は応える。「ただ、俺の家じゃありません。一時的、ということです」こんなやり取りを思うと通らないだろうと思えました」
「そう」
「刺傷事件で男に怪我をさせてムショに入ったときは、俺はシャブ中の駆け出しのヤクザでした。そこで正樹さんと同部屋でした」
「正樹から聞いています」
「美羽が何度も面会に来てくれました。だがシャブから離れてそこでは自分を保つことが難しかった。正樹さんには大変お世話になりました」
「正樹も親しくしている刑務官のおやじさんがいて、その人のおかげで立ち直れたようなことを言ってたわ」
「そうです、立花さんと言います。俺もその同じ人に助けてもらいました。俺は睡眠薬と精神安定剤を毎日服用してました。正樹さんの助けもあって、これを少しずつ減らしていって何とか自分で更生しようともがいてました。でも大抵の刑務官は意地が悪く、少しずつ減らそうとしているのに、前の日飲まなかったからもう薬はいらないと判断して薬は用意していない、渡さない、などと言うんです。まあ、独りづつの薬の数を毎日管理しなければならない人間にすれば気持ちは分からないでもないですが。立花さんは、そのくらいはやってやれ、と便宜を図ってくれました」
「いい人に会えてよかったですね。正樹とも馬が合ったのね」
「俺も正樹さんも高校の時に大麻に出会って、俺は最後はシャブ中、正樹さんはアル中に至った」
「誠也さんは本物のヤクザになったところは違うけど」
「駆け出しで止まったんです」
「正樹は言ってたわ。お世話になったのは、刑務官のおやじさんと、誠也さんだって。誠也さんがいたから立ち直れた。正樹は誠也さんに自己投影していた。誠也を助けることは自分を助けることだった。だから理容を心に誓うきっかけになったのも誠也さんだった。誠也さんがいたから、正樹は理容に打ち込みながら更生できたんでしょうね」
「俺も正樹さんが散髪に打ち込む姿を見て、自分も変わろうとしました。変われると思いました。正樹さんはやはり猫族ですか?」
「正樹が人の髪を切るのは、猫を撫でて、毛づくろいをするようなものに思える。それは猫族なのでしょうね」
「取り立て屋が死ななかったことで、本当に助かりました。うまくいけば正当防衛で正樹さんは実刑がつかないかもしれません」
「本当に良かった。でも誠也さんの借金は解決してないわよね?」
「とりあえず弁護士と相談してます。違法な貸し付け、金利なんで」
「そう、上手くいけば良いわね」
藍子は良い方向に全体が向かっている気がしていた。心配する清子を安心させるのにも、現実の好転を見てもらうのが最善だと思えた。
藍子はオーナーに会うために理容店を訪れた。
扉の上についた小さなベルが、からん、と乾いた音を立てる。
店の奥から現れた男は背は高くない。だが肩幅が広く、白いワイシャツの袖をきっちりと二度折り返した腕には、年季の入った筋が浮いている。毎日ハサミを握り、剃刀を扱ってきた手・・・節くれ立ってはいないが、静かな力を内に溜め込んでいる。
髪には銀色が混じっている。染められておらず、無理に若作りをする気配がない。額は広く、眉は太い。目は小さめだが、客の襟足を見るときのように、細部まで逃さぬ鋭さを持っている。
口元には、常に薄い笑みがある。それは愛想笑いというより、職人の癖のようなものだった。客を安心させるために長年貼り付けてきた、柔らかな仮面。
白い理容衣には微かな整髪料の匂いが染みついている。シトラスと石鹸の混ざった匂い。店内にはポマードの艶と、消毒用アルコールの冷たい気配が漂っていた。
彼は藍子を一瞥した。
背筋はまっすぐで、鏡越しに客を見るときの姿勢のままだ。店という城を守る城主のような落ち着きがある。
壁には、色褪せた理容組合の表彰状。
「急にいなくなって大変なんだ、ってあいつに言っておいてください」開口一番オーナーは言った。
「大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「貴方が言うことではないです。大変でしたよね」
「いえ、大変なのはオーナーの方です」
「いえ、僕も確かに大変です。だけど、貴方の方が大変です」
オーナーは笑顔を見せる。
「藍子さん、貴方のことは正樹から聞いています。会わなくてもイメージが沸いていました。いつか会うこともあるだろうと思ってましたが、このような形になるとは残念です」
「私も残念です。彼も常日頃からオーナーにはとてもお世話になっている。足を向けて寝られないと言っていました」
「お世話をかけられるのは大丈夫なんですが、あいつまたアイドリングの時間が必要になってしまいましたね。人生長いとはいえ」
「順調に来てたのに。恐らくですが順調だった思うのですが残念です。でもそれほど長くないんじゃないかと」
「そう、良かった。仕方ありませんね。状況がどうなろうと、僕は待ちます、そう言っておいてください。待ってる、なんて彼女みたいで気持ち悪いですね。だけど、貴方も私に合わせてください、と言っているわけではありませんよ。お二人のことですし、先のある貴方にはまだ色々な可能性を検討する必要があるでしょうから」
正樹の母親、政子がワンルームを訪ねてきた。電話で喋ったことはあるものの、実際に会うのは初めてである。
奥に通した。政子はいつも正樹の正位置のベッドの端に腰かけていた。
インスタントコーヒーを入れて、ベッド前に小さいテーブルを設えて置き、政子の横に座った。
「あの子がどのように暮らしているのか、きちんと暮らしているのか気になってたけど、こんな機会で藍子さんにも会って、暮らしている部屋を見させてもらうことになるとは思わなかったわ」と政子は言った。
「狭くて恐縮です」
「あの子は慣れてるでしょ。雑居房生活が長かったから」
「彼も同じことを言ってました」
政子は弱く笑う。くたびれた紺色のカーディガンは、何度も洗われて毛羽立ち、袖口はわずかに伸びている。膝の出た黒のスラックスは几帳面にアイロンがかけられているものの、どこか力なく身体に沿っている。指先にはささやかなひび割れ。季節に構わず同じ薄いストールを首に巻き、それを無意識に握りしめている。
「暑くないですか?」
「大丈夫。電車のクーラーが私には効きすぎているから、いつも長袖着てるの。この部屋はそれほど寒くないわ。気にしないで」
髪はきちんと後ろでひとつに束ねているが、白いものが隠しきれず、こめかみのあたりに静かに光っている。化粧はほとんどしていない。ただ、かすかに色づいた口紅だけが、彼女なりの「きちんと」の名残のように残っていた。
その目は、怒りでも絶望でもなく、長い年月を経てすり減った祈りの色をしている。
「私は何度もこのような目に遭ってきました。私はいい。でも貴方には貴方の人生がある。きちんと学校を出て、きちんと仕事に就いている。私たちとは違う。生きる世界が違う。だから無理しないで、あとは任せて。元の位置に全て戻してもらって結構なのよ」
「お母さんは本当にそれを望んでいますか?」
政子は声を詰まらせる。
「どうかしら。本心であり本心でない。あの子のことを思えば、どうお願いするのか、何をお願いするのが適切なのか分からない」
「失礼と分かりつつ、お聞きしますが、正樹さんとは血が繋がっていないとお聞きしました」
「そう、そこまで聞いてられるのね」
「その中で、お母さんは実の息子のように、あるいはそれ以上に彼のことを大切にされた。これだけお母さんの人生を無茶苦茶に傷つけたのに」
「これは運命なの。私に課された。私は正樹がいることで、生きられた。どのような形にしろ。私は幸せだった」
政子はコーヒーに口を付け、弱い笑顔を作る。
正樹は裁判の判決に至るまでに拘置所に移送された。国選弁護士に面会の段取りを依頼した。
拘置所での面会は平日のみで、一回15分から20分の短い時間だけが許される。藍子はシフトで平日に公休を入れ、正樹に会いにいった。
その前に、藍子は刑務官の立花に連絡を取り、会う約束をしていた。
拘置所への最寄駅の改札で待ち合わせた。
立花は長年規律を保ってきた背筋をしていた。撫でつけが足りないような白髪混じりの頭をした初老の男であった。深い皺の刻まれた額に、相手を値踏みするのでも、突き放すのでもない。ただ観察する目をしていた。黒い革靴は磨かれているが、先端に細かな皺が寄っている。
階下にある喫茶店に入った。
席につき、水を運んできた店の人にコーヒーを二つ頼んだ。
立花のチェック柄のボタンダウンの半袖から覗く腕は太く、手は大きく節くれ立っている。
「わざわざ拘置所の近くまでご足労いただいて恐縮です」
「いいえ、会えなくとも、彼が今いる近くまで来たかったからいいんです。理容師で順調にやっていたのに、本当に残念です」と彼は言った。
「いつも彼は立花さんに大変お世話になったと言ってました」
「そうですか。あいつとは私も本当に長い。あいつは何度も入っては出て、出ては入ってを繰り返していましたから。こいつまた帰ってきたか、という最初は諦めの気持ちでした」
「そうですか。どうして変わったんでしょうね?変われたのが立花さんのおかげだと言っていたのですが」
「不思議ですね。私は特に何もやってないんです。ただ、私は人を人として見る、という信条だけはあった。それも途中からなんですけどね。たまたま、私とあいつの人生の、精神状態の波動のタイミングが合ったんだと思います。それと・・・」
「それと?」
「起点は誠也が自殺を図ったことかもしれません。聞いてませんか?」
「誠也さんにそんなことがあったとは聞きました」
「何かあれがあってから、あいつの本能というか、DNAが蘇ったように思います。あれからなんです。理容の訓練に申請をして没入するようになったのも」
「立花さんもお辛いことがあったともお聞きしました」
「そうですか、聞かれてますか・・・誠也が自殺を図り、正樹が生きようとすることで、私自身もいつしか引っ張られて生き直そうと思っていました。私がやってきたことは取返しがつかないし、私には生きる価値もない。だけど、正樹と誠也の行く末を見届けようと誓いました。私は彼らに救われたんです。正樹が髪を切るために来てくれるたび、その幸せを噛み締めていました・・・あなたのご家族はずっと猫たちの面倒を見ているそうですね」
「はい。家では猫を。ちなみに仕事では毎日海洋生物、イルカやアシカなど、見ています。間接的ですが」
「命に囲まれてる、ということですね」
「立花さんのお仕事と私の仕事も似通っているかもしれません。僭越ですが」
「聞きました。労務や総務だそうですね。刑務官と一緒です。藍子さん、あいつを見放さないでやってもらいたい。勝手なお願いだとは分かっています。貴方のように若い人なら、これから新しい出会いも、新しい人生もいくらでも広がっているでしょう。だから、これはお願いに過ぎません。どんな形にしろあいつを見放さないでもらえたら、こんなにうれしいことはない」
「彼は理容師です。ハサミを忘れることはないと思います。また戻ってきたときに、彼はハサミを握ります。またコンテストにチャレンジするでしょう。立花さんもまた彼の練習台として首を差し出してください」
立花は嬉しそうに笑う。
「首を差し出す、いい表現ですね」
喫茶店を出ると、空は思ったよりも低かった。
高架を走る電車の音が、鉄のきしむ余韻を残して遠ざかっていく。朝でも夜でもない曖昧な時間の色が、コンクリートの地面に薄く沈んでいた。藍子は一歩踏み出す。
住宅街は静かだった。洗濯物が風に揺れ、古い自転車が塀に立てかけられ、どこかの家から味噌汁の匂いが流れてくる。生活はここでは普通に息をしていた。
やがて視界の先に、灰色の巨大な建物が現れた。無機質な四角い塊。規則正しく並ぶ小さな窓は、まるで目を閉じたまま外界を拒んでいるようだ。高い塀と監視塔が、空との境界をぎこちなく切り取っていた。
近づくにつれ、街の音が薄くなる。車の走行音も、子どもの笑い声も、遠くへ押しやられる。代わりに、靴底が舗道を踏む音だけがやけに大きい。自分がここへ来ることを、地面に知られている気がする。
彼女は建物を見上げる。空はさらに狭く、建物の角に切り取られている。中にいる正樹も、この空を思い出すのだろうか、と考える。自由だった頃の空の広さを。
風が吹き、スカートの裾が揺れる。
その風は温く湿っている。川が近いせいかもしれない。川の水面は見えないが、重たい流れの気配だけが空気に混ざっている。
門の影に入ると、外界の色が一段暗くなる。
藍子は小さく息を吸い込む。ここから先は、時間の流れが別の速度になる。
30分ほど待ち、職員が立ち会うなかで正樹と会う。
薄く曇ったガラスの向こうに、彼はいた。
少しやせた頬の線が際立っている。最後に会ったときよりも静かな影が宿っていた。それでも、目だけは変わらない。
「大丈夫?」
「大丈夫。慣れているから」と正樹は笑う。
「笑えないわ。慣れないで。でも少しでも快適に過ごすためにある程度は昔も思い出すのは仕方ないわね」言葉が詰まる。
「誠也は大丈夫か?」心配される側が正樹を心配する。
「母が仕事を紹介して働き始めてる。もっと早くに紹介出来ていればよかったんだけど」
「どんな仕事?」
「母はスーパーで働いているでしょ。そこでコンタクトのある清掃会社の人に頼んで、ビルやスーパーの清掃を始めてる。病院に行ったりもしてるみたい」
「そうか、とにかく何かを始められてよかった」
「糊口をしのぐことはそれである程度はできるしね。それだけじゃなく、母はボランティアで動物保護センターに出入りしているでしょ。そこでシェルターの掃除もしてる。こちらの方はほとんどお金のもらえるものじゃないけど」
「あいつもいよいよ猫族の一員だな」
「誠也さんは美羽ちゃんの前では恥ずかしくないようにしっかりと生きていたい、そうしたいのね」
「だろうな。清子さんには面倒かけるな」
「面倒じゃないわ。好きでやってるの。猫族はほっておけないの」
「俺も猫族の一員と認めてくれるかな」
「正樹は猫族よ。母もそう言ってる」
藍子を見る正樹は、藍子を透かすような遠い目をした。
「君は無理をしなくていいんだよ。これから俺はどうなるのか、直ぐ出られるのか、長くなのか。俺は引きずられるようにして昔の居場所に一旦戻り、また外の世界に帰るという道を辿る。君は大切な君の時間を過ごすべきだ。人生は長いかもしれないし短いかもしれない。だけど人生が一回しかないことはだけは確かなんだ。これまで君が見てきたように、俺の運はもしかすると良い方には向いていないかもしれない。君はそれに吸い付かれ、蟻地獄のようにその底に引き込まれてしまうかもしれない。大学まで出て君は何をしている。これ以上清子さんが大切にする君を留め置くことはできない。清子さんもそれを望んでいるだろう」
「私は無理をしていないわ・・・翔太を連れてきたかったんだけど、規則で絶対に駄目なんだって。はっきりと弁護士の先生に言われたわ」
「そりゃそうだ」正樹は呆れたような顔をする。
「どうしてそんな馬鹿にしたような顔をするの?」
「馬鹿になんかしていない。馬鹿にする資格も気力もない・・・ところで、誠也が動物シェルターの掃除をするとき、施設のどこかにあるかもしれない『ドリームルーム』を見なければいいんだが」
「その点は大丈夫。特定スタッフのみしか立ち入れない仕組みになってるわ」
「そう、良かった・・・俺はいつか言ったよな。築地本願寺の合同墓に一緒に入ろうと」
正樹は藍子を見つめて続ける。
「あの時は言ってみただけだ。俺は一人で入る。合同墓だから一人じゃない。人々の命と一緒だから俺は問題ないんだ」
「正樹はどうして私と暮らしているの?どうしてそうしようと思ったの?」
「・・・前にも言ったかもしれない。俺はどこかで、俺を見張ってくれる人を求めていた。それを君は受け入れてくれた」
「貴方にはそんな必要なかったでしょうに」
「安心だった。雑居房で、俺や立花さんがいたから誠也は生き続けることができた。俺と誠也とは同じ人生なんだ・・・だが、もう大丈夫」
「・・・一緒に合同墓に入ろう・・・か。いつかそれもいいかもね」
正樹は黙って藍子を見つめている。
「貴方はまた理容師に戻る。そして訪問理容師になる。大会にも出る。ずっと忙しくなるわ。オーナーとも会ったわ。居場所は残してある、って私にも言ってた」
「誠也が手紙をくれた。雑居房で一緒だった人間は面会は難しいからと」
「聞いてるわ。何を書いてたの」
「検閲を気にして特別なことは書かれていない。ただ、自分のせいだ、とまだずっと思っているのが分かる。もうその話は止めてくれ、と言っておいてくれ。気にしていないと。本当にあいつでなく俺が加害者でよかった。あいつが以前ムショに入ったのも指傷事件だった。今回も刃物絡みだからどうなるかと思った。胸をなで下ろした。俺で良かったんだ。それに」
「それに?」
「妙な感覚なんだ。いつ俺は落ちていくか分からない、その恐怖にずっと捉われていた。落ちないように、落ちないように、いつもビクビクして生きてきた。でも逆に、いつもどこかで引き込まれて落ちたい、その快感を待っていた気もする。そして俺は落ちた。あいつもためという納得感もあった。不思議なんだ」
「貴方は落ちてはないのよ。直ぐに戻ってくるの・・・実は、立花さんに今会ってきたわ」
「そうなんだ。何で今まで黙ってたんだ」
「貴方のお母さんにも会ってきた。これまで正樹から話でしか聞いていなかった人たちと、立て続けに会えた」
「それも、どうして最初に言わない?」
「サプライズよ」
「何か言ってたか?」正樹の目に強さが宿る。
「立花さんは、仕事柄面会は許されないから申し訳ないと。伝えてもらわなくても分かると思うが、無念だろうが自棄にだけはならないでくれ、大丈夫とは思うが、と」
「そうか」
「みんなお前のことを気にかけている。お前は一人でないと」
正樹は頷く。
「立花さんも猫族予備軍なのかもね」
「違いない」
「貴方も猫族なのよ。これからもずっと皆の髪を切り、毛づくろいをするの」
正樹は力なく笑う。
拘置所を後にして、来た道を帰る。広い空に包まれる。
正樹、貴方をドリームルールに押し込むようなことはしない。『ドリームルーム』の床が外れて違う世界に落ちるようなことは絶対にさせないわ。貴方が入るのは『ドリームルーム』じゃない。
あの冬の寒い日、正樹は膝を折り、かがんで、小さくか弱い翔太を見つめていた。
正樹の背中は縮んでいく。薄暗い街灯に照らされながら小さくなる。その背中は翔太に被さり、一体となる。正樹は翔太になる。正樹は猫だ。
私は電柱に近づく。私は正樹になる。私は翔太になった正樹を見る。正樹は寒さに震えている。ただでさえ小さいのに、瘦せ細った身体を震わせている。
こんなところで何をしてるの・・・
私は正樹の頭を撫でる。頭から背中を撫でる。小刻みな震えは正樹の心臓の音だ。私は正樹を手に取り、胸元に引き寄せ、抱きしめる。
了




