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洞窟の奥深く

作者: 此糸桜樺
掲載日:2026/02/05

「よーし! きょうもたくさん人間を驚かすぞ!」


 お化けちゃんはそう言って、元気いっぱいに家から飛び出した。

 お化けの世界から人間の世界へは、あっという間にひとっ飛び。びゅん、と風にのって空を走る。

 お化けちゃんが人間界でやること。それは、人間たちを驚かす楽しいイタズラだった。


 肝試し中の子どもたちのところへ行って、懐中電灯をチカチカ点滅させてみたり。

 アパートの空き部屋へ行って、ガラガラガッシャンと音を立ててみたり。

 タンスの上に置いてある日本人形の向きを、ほんの少しだけ変えてみたり。


 なんてことはない。ちょっとしたイタズラだ。

 その度に、人間たちは「わー!」と叫び、ぶるぶる震え、目を見開いて後退りした。

 そんな姿を見るのはとっても面白かった。


「今日は何をしようかなー」


 ふんふんと鼻歌を歌いながら空から人間界を見下ろせば、ちょうど前方に大きな山と細い川が流れているのが目に入った。水遊びにぴったりな、きれいな川である。

 山の開けた場所には、たくさんの子どもたちと数人の大人たちが歩いている。

 人間にもお化けと同じように、学校や遠足といったものがあると聞いたことがある。あの大群は、人間の子どもの遠足だろうか。


――水遊びついでに、イタズラしちゃおう!


 お化けちゃんは、なんのイタズラにしようかと思案を巡らせた。知らん顔して一緒に歩いてみようか。記念撮影のときこっそり一緒に写ってみようか。

 あとから集合写真を見たときに「この子誰だ!?」「知らない子がまじってる!」とびっくり仰天するに違いない。

 胸を躍らせながらあれこれと考える。


 そのとき、ふと、木の隙間からぽっかりとした洞窟が目に入った。

 陰鬱で、暗くて、じめじめとしていて。

 楓の木に隠れるようにしてひっそりと佇んでいる、大きな穴。


 お化けだけが分かる、この空気。

 地縛霊の気配である。


 お化けちゃんは人間界で、お化けの仲間を見たことがなかった。同胞らしき気配が嬉しくて、つい「あっもしかして!」と声を上げた。

 人間を追うのは一旦やめ、洞窟のほうへ体を向ける。ゆるやかに下降し、洞窟の大きさを見定めながら、すとんと地面に降り立った。


「ねえ! あなたはお化け?」


 中にいるであろう地縛霊にそう聞いてみる。しかし、地縛霊は洞窟の奥でじっと口を閉ざし、言葉を発しようとしない。


「ねえ! お友達になろうよ!」


 お化けちゃんは元気いっぱいに笑いかける。

 すると、真っ暗な洞窟の奥で、真っ白な二つの眼がぼんやりと浮かび上がった。その目はどこまでも温度がなくて、無表情。何を考えているのか全く分からなかった。


 お化けちゃんには長い間、友達がいなかった。お転婆で騒々しい性格だったため、先生から怒られることも多く、同世代の子たちとあまり仲良くなれなかったのだ。

 そもそも、お化けは「お化けの世界」だけで生活するのが普通である。お化けちゃんのように頻繁に人間界へ遊びに行っている者は珍しい。お化けにとって太陽は、炎は、電球は……あまりに明るすぎるのだ。だから、お化けちゃんはこちらの世界へ遊びに来るとき、いつも独りぼっちだった。気の合う友達がいればなあ、と常々思っていた。

 もう人間へのイタズラなんて、頭からすっぽり抜け落ちていた。今は、新しいお化けの友達ができるかもしれない、というわくわくだけが募っていく。


「洞穴から出てこれない? 一緒に遊ぼうよ!」


 返事はない。


「ねえ、あなたにお友達はいる? それとも、ひとり?」


 やはり返事はない。

 人見知りなのだろうか?


 その後も何度か話しかけてみたが、ついぞ返事を返してくれることはなかった。しかし、このくらいで諦めてなんかいられない。仲良くなれるまで粘り強く話しかけ続けていれば、きっといつか友達になれるはず。努力あるのみである!


「また来るね!」


 お化けちゃんは洞窟の中にそう呼びかけると、ふわりと空に飛び立った。

 また明日も来てみよう。もしかしたら明日は話してくれるかもしれないから。


――友達


 なんて素敵な響きだろう。お化けちゃんは、ふふふっ、と笑った。

 楽しくて、嬉しくて、なんだかスキップしたい気分だ。お化けだから足はないけれど。



 それからというもの、お化けちゃんはその洞窟に毎日のように通うようになった。じめじめと湿っぽい洞穴は、少しお化けの世界と似ていて、なんだか心安らかな気持ちになった。

 今日あったこと。楽しかったこと。面白かったこと。

 思いつく限り、たくさん話した。もともとお喋りは好きだったから、相手が無反応でも構わず話しかけていた。

 一週間、二週間、そして一か月……。初めて会った初夏のあの日から、いつの間にか真夏と呼ぶにふさわしい季節となっていた。


「この山って楓の木多いんだね。紅葉になったら綺麗だろうな」


 まだ青々とした木々を見ながら、お化けちゃんは何気なく言った。


「……きれいだよ」


 洞窟の中から少年の声が聞こえた。小さな声ではあったが、洞穴に大きく反響した。

 初めて聞く、洞穴のじめじめ地縛霊の声。

 心臓が止まってしまいそうになるくらい、びっくりした。


「じめじめお化けくん、喋れるの!?」


 洞穴のお化けはもう返事をしなかった。でも、話してくれることが分かって、すごくすごく嬉しかった。

 心がきゅうっとなって、ぼんっと爆発しそうなくらいに嬉しい。

 お化けちゃんは、じめじめお化けくんにもっとたくさん声を発してもらいたくて、どんどん喋った。結局、その日はそれ以上言葉を発してはくれなかったけれど、それでも心がるんるんと浮足立っていた。



 いつものように洞窟で一人話していると、山道から賑やかな声が聞こえた。


「誰だろう?」


 そっと行って見てみると、小学校高学年くらいの子どもたちが水筒やリュックを持って楽しそうに歩いていた。きっと、夏休みってやつだろう、と思った。お化けの世界には四季がない。だからもちろん夏もなければ、夏休みもない。そのかわり「長休み」がある。人間界の夏休みとほとんど同じようなものだ。

 前回は洞穴に気を取られて、イタズラをし損ねてしまったことを思い出す。


――久しぶりにイタズラでもしよう


 お化けちゃんは元気よく飛び立つと、木の陰から外の様子を観察した。


「こんなところに洞窟があるよー!」


 子どもが遠くで大きな声を出している。どうやらこちらに来るようだ。


「洞窟?」「どこどこ?」「行きたーい!」


 好奇心旺盛な子どもが数人、ぱらぱらと寄ってくる。


――たくさんの子たちが来てくれて嬉しい! 友達がたくさんできたみたいだ!


 さっと姿を変え、お化けちゃんは小学校高学年くらいの子どもの姿に変身した。大人だとただの不審者に勘違いされかねない。こうすれば、子どもたちの警戒心を解き、うまくイタズラに誘導できるだろう。

 そして、洞窟の中から少しだけ顔を出し「おいでおいで」と手を招いた。


「僕らの他にも誰かいるみたい!」「女の子だったね」


 彼らは少しも不審に思わず、吸い込まれるように洞窟の中へ入ってくる。


「なんか怖い……」「もう戻ろうよ」


 二人の子が途中で立ち止まった。


「えー、行こうよ」「どこまで続いてるんだろう」「ここまで来たのにもったいない!」


 何人かは構わずどんどん進んでくる。


 そうだ、この奥まで来たらパッと姿を消してしまおう。そうしたら「さっきまでいた女の子はどこ?」と驚くに違いない。彼らがさらに奥を覗き込もうとした瞬間、涼しい風をスーっと吹かせて、ぼやぁ〜っと背後に立つのだ。

 きっと、悲鳴をあげながら一目散に逃げていくだろう!


 絶対に楽しいぞ! わくわく!


「ねえ、じめじめお化けくんも一緒にやる?」


 お化けちゃんがそう言うと、じめじめお化けくんは小さく首を振った。よく見るとカタカタと小刻みに震えている。


「ど、どうしたの?」


 じめじめお化けくんは、黙って人間のほうを見た。


「人間が怖いの?」


 コクンと小さく頷いた。


――しまった。じめじめお化けくんは人間が怖いのか。


 お化けちゃんは反省した。ここはじめじめお化けくんの住処だ。人間をおびき寄せるようなイタズラをするなら、やってもいいか、迷惑じゃないか……きちんと聞かないといけなかったのに。

 自分が楽しいことだけを考えていて、じめじめお化けくんのことを考えていなかった。せっかく仲良くなれそうだったのに、自分から嫌われるようなことをしてしまっては、今までのことが台無しだ。


 どうしよう。


 人間とじめじめお化けくんを交互に見やりつつ、あたふたと焦りだけが募る。しかし、子ども三人はずんずん進んでくる。もう少しでここに着いてしまう。


 どうしよう。

 追い払わなければ。でも、どうやって?


「こ、来ないで!」


 どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 お化けちゃんは勢いよく手を振りかざした。


 その瞬間、猛烈な風が起こった。

 子どもの一人が「……は?」と困惑したような声をあげたそのとき。

 狭い洞窟の中で激しい突風が吹き、竜巻のような暴力的な風が吹き荒れた。


 子ども三人は軽々と竜巻に持ち上げられ、洞窟の壁に思い切り打ち付けられる。

 右、左、天井、地面。あらゆる方向に舞い、ばき、がん、という音が響く。

 そのとき、一人の腕がひしゃげた。もう二人は互いにぶつかり合い、ぐえ、という悲鳴をあげた。

 風と人の激突により、岩壁からはパラパラと石の屑が落ちる。

 そして、最後、子どもが地面に勢いよく落ちれば、みし、と骨のきしむ音がした。

 彼らは動かないまま、その場に倒れた。


 お化けちゃんは静かになった洞穴の中で、息を止めてその様子を見ていたが、しばしののち「……ん?」と呟いた。


「あれ? 人間、動かないね」


 こうすればさすがに逃げるだろうと思ったのに。どうして動かないんだろう。もしかして、「狸寝入り」ってやつかな。お化けの世界にタヌキはいないから実際に見たことはないけれど、ことわざだけは知っている。


「くくっ」


 そのとき、私の声ではない笑い声が辺りに響いた。それは、じめじめお化けくんの笑い声だった。


「くくっ、くっくっくっ」


 さも楽しそうに笑い続ける。


――笑った!


 お化けちゃんは驚いた。

 じめじめお化けくんはいつも無表情で、何を考えているのか分からないことが多かった。

 それなのにこんなに楽しそうにしているなんて!


――嬉しい!


「じめじめお化けくん、楽しいの?」

「楽しい」

「面白いの?」

「面白い」

「よかった!」


 人間は動かないままだ。なぜなのか分からない――けれど。


「ねえ、人間怖い?」

「動かなければ怖くない」

「そっか!」


 お化けくんが楽しいのなら、それでいい!


 それからというもの。お化けちゃんは日々「どうしたら人間が動かなくなるのか」を考えた。なぜ動かなくなるのか原理は分からないけれど、ネジ巻きおもちゃみたいなものだろうと推理した。


 洞窟に入ってきた人間たちをいろんな方法で動かなくさせた。


 落とす。つぶす。押す。ぶつける。刺す。焼く。


 人間は案外すぐに動かなくなった。


 その度にじめじめお化けくんは笑った。

 嬉しかった。

 初めてできた友達だったから絶対に嫌われたくないと思ったし、もっともっと楽しい世界を知ってほしいと思った。



 今日はどんな方法で人間を動かなくさせようかあ、と考えながら身支度をしていると、部屋のドアが勢いよく開いた。


「あなた、人を殺す遊びをしているそうね」


 お母さんが見たこともないような険しい顔で言った。


「ころす?」


 ころす、ってなんだろう。


「死なせるって意味よ」

「しなせる?」


 しなせる、ってなんだろう。


「人は死ぬと動かなくなるの。命が尽きて、話すことも歩くこともできなくなって、そのまま骨だけになってしまうの」

「でも、お化けは『しなない』よね?」

「ええ、お化けは死なないわ」

「じゃあ、なんで人間は『しぬ』の?」

「そういう生き物だからよ」

「うーん……?」


 お化けにない概念を理解するのは難しかった。

 人間を高いところから突き落とすと動かなくなる。人間を炎に包むと動かなくなる。――あれが死ぬってことなの? あれが殺すってことなの?


「死ぬのは悪いこと?」

「悪いことよ。でも、殺すのはもっと悪いこと。もうあんなことやっちゃダメ。人間だって家族がいるんだから」


 お母さんお化けは、お化けちゃんに言い聞かせた。その眼差しはいつになく真剣だ。


「……私は悪いことなんてしてないよ。ただ動かなくなるのを楽しんでただけなのに」

「それがダメだって言ってるの」

「なんで。嫌だ」

「これがいけないことって分からないならもう人間界へは行っちゃダメ」

「なんで! 嫌だ! そんなの嫌だ!!」


 お化けちゃんは、勢いに任せてそのまま外へ飛んでいこうとした。しかし、お母さんお化けはそれを瞬時に察知し、素早く腕をつかもうとする。


「待ちなさい!」


 それでも、お化けちゃんはすばしっこくお母さんから逃げ回り、天井にぴたっと張りついた。


「いやだ!」


 そのまま一直線にドアへ飛び、勢いよく外に出た。


――お化けくんは私の唯一の友達なんだ! しぬとか、ころすとか、そんなの知らない!






 しかし、お母さんと喧嘩をしてから、お化けちゃんの胸にはもやもやがこびりついていた。


「お化けくん、もう人間で遊ぶのはやめない? その代わりにさ、私とおしゃべりしない?」


 お化けちゃんがそう言うと、じめじめお化けくんは無表情でお化けちゃんを見つめた。


「おしゃべりは嫌……?」


 ぴちゃん、ぴちゃんと水滴が落ちる。静かな洞窟に重い空気が流れる。


「あ、あのね! お喋りも楽しいんだよ! この前ね、とっても面白いことがあったの! えっとね……」


 場をとりなすように明るい話題を話す。しかし、一度重くなってしまった家に気はなかなかもとに戻らない。


――ああ、もう! やっぱり人間を「動かないようにさせる」をしないと、だめだ。お喋りなんかじゃ駄目駄目。全然盛り上がらないもん


 動かない=死なら、動かなくなる手前でやめればいい。

 お化けちゃんは腕まくりをして気合を入れた。死なない程度に人間を動かなくさせるのだ、と。



「ここが、死者の続出している洞屈です」

「調査しましょう」


 ヘルメットをかぶり、壊中電灯を持った大人たちが穴をのぞきこむ。いつもは無表情でうつむいているお化けくんが、ちょっと顔をあげた。人が入ってくる気配を密したのだろう。


――大丈夫。うまくやれる。死なないようにすればいい。それだけのこと


 二人の大人がやってくる。いつものようにお化けちゃんは、びゅう、と風をおこした。人間の体は軽々と宙に浮く。


「ぎゃあああ」


 人間の叫び声が響いた。

 そこから一気に風圧を上げ、地面にたたきつける。

 ゴッ、という鈍い音がした。

 大きな音がしたので一応人間の様子を見てみれば、思った通り、人間の足が変な方向に曲がっている。


 その様子を見て、お化けくんはちょっと笑った。

 きっとお化けくんは珍しいものが好きなんだと思う。もっと言うなら、自分に危害を与えないものが好きなんだと思う。住処を侵略してくる人間は嫌いたが、そうじゃない人間は怖くない。そういうことなんだと思う。


 お化けちゃんとお化けくんは、二人で一緒に笑った。とっても嬉しかった。


 人間の腕を引っ張ったり、まわしたり、放り投げたり。いろんなことをして遊んだ。

 ふと、人間を見ると、息が細くなっていた。なんだか、もうすぐ動かなくなりそうな……予感。

 とりあえず人間をずるずる引っ張っていって、洞窟の外に出した。こうしておけば誰かしら見つけてくれるだろう。

 これで、殺してはいないはずだし、死なせてもいないはず。目標達成だ。


 それからというもの、お化けちゃんは人間を「殺さない」ことに全力を費やすようになった。


 叫んでいる間は元気いっぱいってこと。

 ぴくぴく動いていればちゃんと生きているってこと。

 心臓が動いていれば、まだ死んでいないってこと。


 そういうことでしょ?


 とりあえず、人間を生かしたまま動かなくできて満足だ。これでお母さんも納得してくれるに違いない。

 しかし、家に帰ると、お母さんが怖い顔をして待ち構えていた。


「人間界に行くのはもうやめなさい」

「……なんで?」

「あなたのイタズラは危険すぎる。今までそんなことしていなかったのに……一体どうしちゃったの?」


 人間を動かなくするという遊びのことだろうか。


「え……でも、死なせないように頑張ってるじゃん! あれもダメなの? あれも殺すってことなの?」


 困惑しながら言えば、お母さんは頭を抱えてため息をついた。


「お化けは死なないし、殺されることもない。だから、お化けはその本質的な苦しみを理解することはできない。でも、『死ねない』苦しみはあなたでも簡単に分かるわ」


 お母さんは悲しい顔をしながら、手を前にやり、勢いよく押し出した。


 まずい、と思った。反射的に逃げようとするも、本気を出したお母さんに叶うわけもなく、いとも容易に引き戻されてしまう。


 瞬間、突風が起こり、お化けちゃんを巻き込んでぐるんぐるんと吹き荒れた。

 壁には、いつの間にかびっしりと棘が仕込まれ、体が壁に触れる度、鋭い痛みが走った。


「いっ、嫌だっ」

「だめよ。まだ、『死ねない』の域までいっていないから」


 風はいつしか竜巻のようにまわり始め、お化けちゃんの体が左右方向に、ぐい、と力が働く。竜巻の中央あたりで力は最大になる。


 ギャッ


 片方の腕が引きちぎられ、片方の目が潰れた。

 激痛に意識を飛ばしそうになるも、目を薄くした瞬間、爪を剥がされることで無理やりに覚醒させられる。


「これで理解できたかしら」


 お母さんは顎に手をやりながら、ふう、と悩ましげに吐息をついた。


「殺さないことはそりゃあ大切だけど、死ねないっていうのも結構辛いものなのよ? 要は、人間でもお化けでも、痛いことはしちゃダメってこと。ね、分かった?」


 お母さんはまるで天使のようなほほ笑みで問いかける。娘の腕を引きちぎり、目を潰したばかりとは思えないほどの優しい顔だ。


「大丈夫よ。お化けの世界には再生機能があるから。もう人間界に行かず、ずっとこの世界で暮らしていけば、3年くらいですぐ元通りになるわ」


 今まで感じたことのない痛みと有無を言わせぬ圧に、思わず涙がじわりと浮かぶ。


 もうじめじめお化けくんと会えないの?

 3年も人間界に行けないの?

 友達なのに。たった一人のともだちなのに……。


 そのとき、ふいに、じめじめお化けくんの言っていた紅葉の山を思い出した。お化けくんが初めて声を発してくれた、あのときの……。


――きれいだよ。


 じめじめお化けくんがあそこまで言うのだから、それは見事な紅葉の山であるに違いない。

 お化けちゃんは想像した。

 暗くて、狭くて、静かな、あの洞穴の中から紅葉の景色を見たらどんなに素晴らしいだろうか、と。ぽっかりあいた洞穴の口から、赤や朱の鮮烈な風景が、絵画のように縁どられる風景。

 見てみたい、と思った。


「でも、私は、お化けくんと一緒にいたい! だって初めてできた友達なの!」

「はあ……まだ分からないの?」


 お母さんは再度手に力を入れる。


 ……くる!


 お化けちゃんは渾身の力を振り絞って、風を起こした。お母さんの突風を逆手にとって、自分の起こした風に取り込み、すんでのコントロールで追い風に変化させる。


「ちょっ……」


 お母さんは焦ったような声を出したが、それに構わず、お化けちゃんは、びゅん、と外へ飛び出した。


 真っ暗な空に、湿った空気。陰鬱なお化けの世界を飛び出せば、見えてくるのは人間の世界。青い空に、澄んだ空気。

 向かう先は、もちろんじめじめお化けくんのもとである。


「お化けくんっ!」


 お化けくんはいつもの表情のない顔で、うずくまっていた。しかし、お化けちゃんが思いっきり抱きつくと、少し驚いたように目を見開いた。


「紅葉の山、絶対一緒に見ようね! 誰がなんと言っても、私はずっとお化けくんと一緒にいるから!」


 半ば自分自身に言い聞かせるように、しっかりとした口調で言う。これは衝動的な行動なんかじゃない。紛れもない自分自身の意思だ。


 お化けくんから体を離すと、お化けくんは無表情のままお化けちゃんを見ていた。嬉しいとも嫌だとも何とも思っていない、まるで、井戸の底のような瞳をしていた。


「お化けくんは私が嫌い? どうしたらもっと話してくれる? どうしたらもっと仲良くなれる? 初めてできた友達なの。だから分からないの。教えて、お願い」


 お化けくんはぴくりとも反応しない。


「お化けの世界の話なら、たくさんしてあげるよ。運動会もお祭りもイベントがいっぱいあるんだよ。あと、私はね、変身だってできるんだよ。風を起こして、浮遊させて、遊んだりもできるよ」


 お化けくんは黙ったまま下を向いている。


「人間の世界のことも知ってるよ。お化けくんは海行ったことないでしょ? 海! きれいだよ! 海ではね、海水浴に来てた人たちをびっくりさせたの。ひっくり返ってびっしょびしょ!」


 お化けくんは、ここで初めて顔を上げた。


「道路にいきなり飛び出して、ドライバーを驚かすこともしたよ。がしゃーんって塀にぶつかって、車はぺっちゃんこになってた」


 お化けくんの目が、一瞬、きらりと光った。期待に満ちた感情を写したかのような瞳。


「他には、川遊びをしてた親子をわざと転ばせたりした! 流れの早い場所だったから溺れて大変そうだった」

「……人間は……動かなくなった……?」

「え? いや、殺してはないから動いてはいたけど……」


 その瞬間、お化けくんの瞳から急速に光が失われていくのが分かった。お化けちゃんの話に対してか、お化けちゃん自身に対してか。興味をなくしたようにまた自分の殻に閉じこもろうとする。


「でもでも! 動きはぎこちなかったよ! 真っ青になってた! 動かなくなるまであとちょっとって感じだった!」


 すると、お化けくんの瞳が再び光を帯びる。


「お化けくんは動かない人間が好きなの? そうなのね? それなら私がいっぱい見せてあげる! いっぱい、いーっぱい、人間のこと動かなくしてあげる! 約束!」

「……ほんと?」

「もっちろん!」


 これでいいのだ、と思った。


 お化けくんに好かれるには、これしかない。

 もっと仲良くなるには人間を使うしかない。

 仕方のないことなんだ。


 潰れた片目をさすりながら、お化けちゃんはニッと大きく笑った。

 痛いのは、確かに悪いことだ。それはお母さんのおかげで身をもって実感した。しかし、その痛みを知ってでも、お化けくんと友達になりたかった。


 きっと、今、お化けの世界へ帰ったら、手も足も両目も全て失うことになるだろう。内蔵も数個抜かれる可能性がある。もしかしたら一生人間の世界へ行けないよう、鎖で縛り付けられるかもしれない。

 お母さんは愛情深い人だが、怒ると怖いのである。言うことを聞かない子どもには容赦はしない。


「私、お化けくんのためならなんでもする。だから、私とずっと友達でいて。お願い。私ね……帰る場所がないの」


 懇願するように縋れば、お化けくんはゆっくりと目尻を下げた。

 その目はまるで、お化けちゃんの片目が潰れていることも、片腕がもげていることも、少しも気が付いていないようだった。


「紅葉の時期は、もう少しだよ」


 お化けくんはふわふわとした口調で言った。洞窟の口から見える楓の木は、だいぶ紅に染まってきている。紅葉の盛りの時期も近いだろう。


「お化けくん……!」


 お化けちゃんは再度ぎゅっとお化けくんに抱き着いた。ずっと一緒だよ、と何度も何度も呟きながら。


 楓の葉は中秋に向けて、赤く、濃く、色づいてきている。

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― 新着の感想 ―
初めは無邪気だったのにお化けくんと関わることで不穏な空気に! でもお化けちゃんが根本的に悪いとは思えない……楽しいってのもなんとなくわかってしまう、わたしも子供の頃蟻の体を引きちぎっていたりしたから……
可愛らしい童話のような短編かと思いきや、無邪気な残酷さが描かれていて大変すてきでした。お化けちゃんの世間知らずさと純真さが最悪の形で発揮されていて、美味しかったです。お化けくんの昏い悦びを純粋に受け取…
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