菊池時雄【2月初旬】
菊池時雄25歳はアガルタ編集部の編集アシスタントとして今年で3年目になる。
元々大学卒業後に大手出版社の社員として就職をしたのだが、3ヵ月で挫折してしまいその後いいとよの編集アシスタントとして再就職をしたのだ。
2歳年上のもう一人の編集アシスタントの浅野とは違い、菊池は当初アガルタ編集部を希望しておらず学術誌や文芸の編集アシスタントを希望していたのだが募集時にはアガルタしか募集していなかったので生活の為にも仕方なく了承し今に至る。
なんだかんだでずるずると3年近くもここにいるうちに徐々に編集部の雰囲気にも慣れ、ようやく菊池の中でも色んなことが落ち着いてきたそんな中問題は起こった。
昨年末から自分の席の目の前に座る三枝寿々の隣にアルバイトの秦史が座るようになってから菊池の精神状態は少しずつ悪い方へと向かっていったのだ。
菊池は自分がゲイである事を自覚したのは中学生の時だ。
小学生の時からも恋愛対象が女の子でない事は理解していたが、それが決定的になったのは中学の男友達を本気で好きだと意識した時から自分の恋愛対象は同性なのだとそう理解したのだった。
その後も高校、大学とそれなりにマッチングアプリを利用すれば容易に同性の相手と交際する事はできたが、それでもいつも虚しさやジレンマに悩まされた。
もっと心から誰かを好きになれたらどれだけ幸せなのだろうか・・・と。
最初史がアルバイトとして入ってきた時は全くそんな風に見えなかったし、辞めた松下との会話を目の前で聞く事もあったがどうも対象は女性なのだと普通にそう思っていたのでまさか3ヵ月前に異動してきたこの三枝寿々という男を本気で好きになるなんてとてもじゃないけれど信じられなかった。
そして恐らくそれは10代特有の一過性のものなのではないかと本気でそう思っていた。
それからずっと目の前で史と寿々のバグった距離感を見ながら正直イライラする事もあり、そんな事を二人から言われてもないのに最近はその光景をみるだけで馬鹿にされているような気さえしてきていたのだ。
正直に菊池は羨ましかった。
本当にこの二人の仲の良さ、お互いを思いやって笑い合うその姿に心から嫉妬していた。
その日は寿々も隣の篠田も出払っており、丸もちょうどコンビニへ行ってしまい自分達の周りにいるのは自分と史の二人だけだった。
先日のドッペルゲンガーの一件の時に篠田にも自分がゲイである事を言ってしまったのでより一層史にその事について本気で聞いてみたくなったのだ。
「・・・・史君?ちょっと聞いていい??」
モニターに向かって記事を打ち込んでいた史は手を止めずに菊池の質問に答える。
「・・はい。何ですか?」
そしてチラとだけ菊池を見た。
「史君って。その。抵抗はないの?」
「抵抗??」
菊池の質問の意味がわからず史は手を止め真剣に聞き返した。
「・・・何のです?」
自分で聞いておきながら菊池は流石に言いづらかったのだが。
「その・・・。三枝さんの事を・・」
と言うと
「・・今それここで聞きます?普通」
と史は少しだけ嫌悪感のある表情をした。
確かにその通りなのだが、聞き始めてしまった以上この後また聞けるチャンスもないだろうと菊池は話しを続けた。
「いや・・だって。毎日のように目の前でそういう態度を見てたらさ・・僕だって流石に気になるよ・・・」
すると史はタイプを打つ手を止め
「菊池さんがどの辺の話しをしているのかはわかりませんが。抵抗はありませんよ全然」
史は目を合わせずそうすんなりと答え、再びタイプを打ち始める。
「え・・・でも。何で?君だってそっちじゃないでしょ??」
菊池は言葉を色々と濁してはいるが、史にもその意味は十分良くわかっていた。
「・・・そうですね。違います」
「じゃあ・・・なんで・・・」
菊池はそう言いながら肩を落とし落ち込んでしまった。
史は基本寿々以外への他人への察しが悪いので菊池の内情はわからなかったが、それでも何か思い悩んでこの話をしているのだけは理解できた。
「・・・もうここではそういう話はして欲しくないのであえ言いますが。俺だって物凄く悩みましたよ。別に何も考えずに今があるわけじゃないです。実際今でも毎日毎秒悩んでいます。でも結局自分の気持ちには嘘をつけないですよね。とういうか自分を偽って苦しむくらいならいっそ傷つけられて苦しんだ方がよっぽどマシだとわかったんです」
そう堂々と話す18歳の史を見て菊池はすっかり萎縮してしまった。
「そっか・・そうだよね。ごめん、変なこと聞いちゃって・・・」
「いえ、大丈夫です。確かに俺も寿々さんがいると完全にネジ緩んでるので・・・気をつけます」
そう言って表情を変えずに史は再び仕事を続けた。
その日の帰り道
菊池はふと昼間聞いた史の言葉を思い出し、スマホを取り出すと連絡先の一覧を眺めた。
「・・・・・・・」
そしてマッチングアプリで知り合った人達の名前を暫くぼうっと見つめたかと思うと急にそのリストにあった連絡先を全部消去した。
すると何故だか心の中にあった妙なわだかまりが少しだけスッと消えたような気がしたのだ。
「・・・ふふ」
菊池はちょっとだけいい気分になって小さく笑った。
勿論また気が弱くなった時には再び同じことを繰り返してしまうのかもしれない。
それでもそれはまたその時に考えればいい。
そう思い菊池はいつもより軽い足取りで渋谷駅の改札口を抜けて帰っていったのだった。