第10話 相棒
悍ましい光景を目の当たりにして、その場に凍り付いた寿々はこれが幻覚なのかそれとも現実なのか、それすら理解不可能なほどに頭が混乱していた。
一体どういう事なのか・・・。まるで目に見えない境界線がそこに存在しているかのように2階までの階段全体の天井、壁、床一面に夥しい数のゲジゲジが隙間なく蠢いている。
その光景は到底現実とは思えなかった。
「これは・・・」
自分の斜め後ろにいた史も寿々と同じ光景を目にしていた。
「史にも見えてるよな・・??」
寿々は震える声で聞いた。
「はい。しっかり見えています」
そう答えた史の返事に寿々はやはりこれは現実なのかと、更に絶望した。
史は寿々の前に出て壁の上の見えない境界線上で蠢くゲジゲジに近づいた。
「ちょっ!触るなよ」
慌ててそれを止めようとする寿々。
「大丈夫です・・・・」
そう言うとポケットからペンを取り出し一匹だけ見えない境界線のこちら側にススっと動かすと、動かされたゲジゲジはペン先からスっと逃げ出しもう一度境界線の内側へと急いで戻っていった。
「これは・・・もしかしたら〖虫〗を誰かが操っているのかもしれないですね」
「虫を操る・・?」
「使役しているって事です。つまりこれは呪術的なものの可能性が高いです」
「使役って・・・そんな事できるやつがいるのか?」
「勿論います。ただ術者がいるとしたらおそらく近くに存在していると思いますが」
「近くに??ってか何で俺たちに??」
「わかりません。ですがとにかく僕たちの事が気に入らないってのだけはよくわかります」
下に降りられるのは目の前の共有階段一つのみ。
史は反対側の廊下の手すりから下を覗き込み寿々に問いかけた。
「寿々さんはここから飛び降りれますか?」
「はぁ?2階から??」
2階と言っても1階自体が1メートル程度床が上がっている構造なので、実質2階半くらいの高さになるのだ。運動神経の良い史はともかく、運動は勿論体力に自信のない寿々には到底できそうになかった。
「いやいや、無理でしょ!絶対に骨折る自信しかない!!」
「じゃあ僕が下で受け止めますから」
「はあ?何言ってんだよ無理に決まってるだろ?そんな事したらどっちも怪我するだろ!?」
「寿々さん・・そうは言っても早く決めた方が良さそうですよ」
そう言われてゲジゲジの群れを見るとさっきとは明らかに違う動きをし始めている。
どんどんとその群れは塊に渦巻ながらどう見ても良からぬ動きをし始めていたのだ。
「先に降りますよ!」
そう言って史は2階の共有廊下の手すりに手を掛けた途端、どこからともなく湧いて出てきたゲジゲジの群れが手すりを覆い、いつの間にか足元にまで這い上がってきていた。
そしてバンッ!!という音とともにF棟の全ての明かりが消えた。
「史・・」
「静かに・・・・」
隣の棟からの明かりがより一層F棟を暗くさせた。
しかしながら暗くさせていたのはそれだけが原因ではなかった。
2階の廊下一番奥、201号室の方向で黒い塊がぐにゃりっと床から盛り上がってきたかと思ったら、昨日聞いたあの何かを引きずる様な音が暗がりの廊下に響き渡ったのだった。
ズ・・・・・
ズズズ・・・・・
ズル・・・・
黒い影だ。
「なるほど・・・確かにアレは〖幽霊〗とはちょっと違いそうですね。なんせちゃんと僕にも見えていますから・・・」
そう言う史の顔は妙に鋭く、そして何故か異様に楽しそうでもあった。
「史お前何言ってんだよ!!逃げないと!!」
「わかってます・・・ですがとても興味深いとは思いませんか??こんな事初めてですよ」
史の灰色の瞳はまるで目の前の黒い影に魅了されているようだった。
未知の現象を目の当たりにし、まさに夢が叶ったかのような恍惚としたその横顔に寿々はただただ絶句した。
『コイツ・・・目がヤバい・・・』
そして近づくその黒い影に史もまた一歩近づこうとしたその時。
今度は反対側の205号室の方からも同じ音が聞こえてきたのだった。
ズズズ・・・・・
ズズ!!
寿々は怯えながら振り返る・・・。
そこにはもう一体。
廊下の天井にまで達する大きさで、まるで首を折って背中を丸めながら上から覗き込むような黒い影が聳え立っていた。
「ヒッ・・・・・!!」
引きつった小さな悲鳴を上げ寿々はその場で腰を抜かしそうになった。
史も背後のその異常な光景を目撃しハッと我に返ると、咄嗟に寿々の手を力いっぱい引き3階へと駆け上がった。
「上へ行きましょう!」
史はその選択が一番良くない事を理解はしていた。
だが現状寿々が下へ飛び降りる事が出来ないのならばもはやそれ以外なすすべはなかったのだ。
二人の動きをまるで目で見ているかのように、黒い影は先ほどまでの何かを引きずる様子から瞬時に姿を変え、煙の様な塊になると壁伝いに物凄い速さで二人の後を追った。
史と寿々は3階を過ぎ更に上へと駆け上がる。
「ふひ・・と!!!手折れる!!!離せ!!」
寿々は史に力いっぱい引っ張られて階段を駆け上がっていたが、もう限界だとばかりにその手を振り払った。
そして振りほどいたのと同時に恐怖からか足が縺れ、寿々は更に4階の階段の一番上で盛大にすっ転んでしまったのだった。
「だっ!!いってぇえ・・・・」
そして転んだ弾みで金縁の眼鏡が外れ廊下の手すりの隙間から、カシャン!という音と共に4階から地上へ落下してしまった。
「寿々さん大丈夫ですか!?」
「くっそ・・いてぇ・・・大丈夫じゃないに決まってるだろ・・」
寿々の視力は相当悪い。眼鏡無しではほぼ1メートル先すら目視できない程の近眼だ。
今この状況で眼鏡を無くすなんて事は本気で死を覚悟するレベルの惨事であった。
「・・・眼鏡がないと何も見えないじゃないか・・・」
寿々は廊下に這いつくばって見えるはずもないのに共有廊下の手すりから落ちていった眼鏡を上から見下ろした。
「すみません。僕のせいですね・・」
「・・・・・・・」
そしてあまりに絶望しすぎてもはや動くことすら諦め、その場で蹲ってしまった。
「黒い影・・・追ってこないですね・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」
黒い影が何故追ってくるのか何故襲われなくてはならないのか。
そもそもなぜただの編集者の自分がこんな目に遭わなくてはならないのか!!
今の寿々とっては全てが理不尽すぎた。
すると絶望で閉ざされた寿々の頭の奥で、クゥ~・・・という犬が鳴くような声がかすかに聞こえてきたような気がしてハッとした。
「・・・日向吾・・・?」
寿々はそれが幻聴だとどこかでは理解していたものの、恐怖によって精神的に混乱していたこともあり、覆っていた顔を上げるとその場で辺りをキョロキョロと見渡しはじめた。
「・・はい??なんて?」
史は驚いて寿々に聞き返す。
しかし寿々は史の言葉が聞こえていないのか、全く周りが見えない暗がりをただひたすらキョロキョロと探しているのだった。
「寿々さん?・・・今何て言いました?」
史は再びとても険しい顔で寿々に聞き返す。
しかし肝心の寿々には全く届いていないようだった。
すると今度は階段の更に上の方から再びクゥ~・・・という犬の鳴き声のような声が聞こえてきたのだ。
寿々はスクっと立ち上がると階段を上に登ろうと、関係者以外立ち入り禁止と書かれた1メートルと20センチ程の柵を乗り越えようと手を掛けた。
「ちょっと待ってください!!!」
今度は史が寿々を止めた。
錯乱したまま柵を越えようとしたところを引きはがし、呆然と虚ろな目をした寿々の肩を掴むと自分の顔が見えそうな距離まで近づけ真顔で問いかけた。
「一体どうしたんですか??」
「・・・上から聞こえたんだよ」
「何がですか?」
「鳴き声。・・・さっき話しただろ?昔飼っていた犬の話し・・」
そこまで答えながらも寿々の目は焦点が合っていない。
「どうして寿々さんの昔飼っていた犬がこの上から寿々さんを呼ぶ必要があるんですか?」
史は寿々を正気に戻そうと必死に問いかける。
「・・・・・さぁ。わからないけれど。呼ばれているから俺行かなきゃ・・・」
寿々がそう言ってもう一度柵の方を頭を向けた瞬間。
ガシャン!!という音を立てて今まで鍵がかかっていたその柵が誰も触れていないのに勢いよく開いた。
そしてその直後に更に上の方から、屋上に繋がるであろう鉄の扉までもキィィ、ガゴン!・・・と開く音が聞こえたのだった。
屋上から気持ちの悪い風が入り込み二人の間を吹き抜けていった。
それはまるで上がって来いと何者かに言われているようだった。
史はその時最上の言葉が脳裏に蘇った。
『史君。キミのやった行為には必ず代償がつくからね。くれぐれも自分の身の回りにだけは十分気をつけなさい』
最初は自分のやりたい事を追求する為に『三枝寿々』という人物を他人の能力を借りてまでアガルタへ引き寄せたのは間違いない。
そもそもなぜ『三枝寿々』でないといけなかったのか?
正直あの時は自分でもわからなかったのだ。ただ直感的にそう思っただけだと信じていた。
・・・でも今はそれも違っていたのだと理解した。
何故ならば自分のやりたい事を追求する為にはこの『三枝寿々』が必ず必要になってくると分かってしまったからだ。
そしてその代償はこの人がいなくなれば恐らくこの先望む全ての道が閉ざされるという事に違いなかった。
つまり現状この『三枝寿々』を守りながらでないと絶対に先には進め無いのだ。
たとえその結果、自分の命が犠牲になっとしてもだ。
史は一瞬目を瞑り短く息を吐いた。
『考えるまでもないな・・・そんな事でやめるくらいなら最初から他人の能力を使ってまで誰かを引き寄せるなんて馬鹿なことを自分ができるはずもなかったのだから・・・』
そしてゆっくりと目を開くと、まだ焦点の合わない寿々の肩から手を離し。
「わかりました。上へ行きましょう。その代わりに絶対に僕の後ろから離れないでください」
と真剣に話すと先に屋上へと足を進ませたのだった。
屋上からは気持ちの悪い生ぬるい風が絶え間なく吹き込んでくる。
扉の向こうに屋上が見え、今まさにこの場所が境界になっているのはたとえ力のない人にでもわかりそうなものだった。
ここから向こうへ出れば容易には戻れない。
まさにそういった雰囲気だ。
史は扉の前で立ち止まり、目を閉じ左手を屋上に向けて掲げた。
そこに視えてきたのは屋上の床全体を覆いつくし蠢く黒いモヤ。そしてその中を泳ぐ一つ目。
・・・・更にその一つ目の奥で青白く光る何かだった。
すると
「クゥ~~・・・」
と、その青白く光る何かが確かに犬の様な声真似を発しているのを史は捉えたのだった。
「日向吾!!」
そう言ってまだ正気に戻らない寿々はそのまま屋上へと出て行きそうになり史は急いでその手を引き留めた。
「離せよ!!何で止めるんだよ!!」
寿々は史の手を払おうと力いっぱい腕を振った。
「寿々さんいい加減正気に戻ってください!アレは日向吾ではありません!!昨日の黒い影の幻覚と同じなんです!きっとさっき寿々さんが話していたのをどこかから聞いていてアナタを騙しているんです!」
「・・・でも声が聞こえるじゃないか」
「アナタの元飼い犬は夢の中でアナタを危険から守ってくれたんですよね??だったら絶対に屋上なんかに呼び寄せたりしないでしょう?そう思いませんか??」
「そんなの・・・わからないじゃないか。大体もし本当に霊魂とかがあるのならば、アイツの魂だってまだこの世に残っていて、それで俺に助けを求めている可能性だってないとは言えないだろう?・・・・アイツ、もしかしたらまた独りで寂しくなって俺を呼んでいるのかもしれないし」
史はもう寿々の話しを聞いているのも無理とばかりにバカでかいため息を大げさに吐いた。
「はぁあああああ・・・・・まったくらしくないですね。最初のあの超懐疑的な寿々さんはどうしたって言うんですか?アナタは都合に応じてこうも簡単に自分の主張を捻じ曲げてしまうんですか??」
「はあ?どういう意味だよ!!」
「はいはいはい。じゃあもうそれでも構いませんけれど。そんなに都合よく霊魂を信じられるのであればもう一度ちゃんと扉の向こうを視てみてください!寿々さんならば視力が悪くてもアレがちゃんと視えるはずですよ?あそこにいる存在は本当にアナタの元飼い犬ですか??」
「何言ってんだよ・・?」
寿々は史の態度にイラつきながらも全く見えない扉の先の方へ眼を向けた。
『・・大体何の根拠があって俺に霊を視ることが出来るとか言ってるんだ?そんなことできるわ・・け・・・・・・・・』
寿々はボンヤリと真っ暗な闇の中を見つめると、その暗がりの中に佇むボサボサの白髪頭の老婆が口元だけ見せニヤニヤと不気味に笑いながら「クゥ~~~・・・」と犬の声真似をしている姿がはっきりと視えたのだった。
「!!!」
その気味の悪さに寿々は全身に電気が走るような衝撃を覚えビクっと震え上がると一気に正気に引き戻された。
「何が視えました?アナタの元飼い犬でしたか?」
「・・・違う・・・・・白髪の老婆だ」
「老婆?」
寿々は恐怖から目を背けるように老婆から視線を逸らそうとそのまま史へと目を向けた。
「・・!?」
すると一体どういう事だろうか?
一瞬史の顔の横に何故かかつての愛犬の日向吾が重なって視えたのだった。
寿々はそれこそ幻覚であるべきだと思い、何度も目を擦り再度史を確認した。
「・・・何ですか急にジロジロと・・」
流石の史もこの状況において寿々の奇妙な視線に困惑し半歩下がった。
しかし寿々はその半歩を追いかけて不思議そうに史の顔をマジマジと眺める。
「今・・・・史が一瞬日向吾に見えた気が・・・??」
「!?・・・・・」
史は返答に詰まり視線を逸らす。
「・・・・何をこんな時に言ってるんですか?まだ正気に戻っていないんですか?」
史は視線を合わせないまましどろもどろに答えた。
「おかしいな・・・・・まぁ確かにそんなわけがないか」
寿々はなんだか解せないと言った感じではあったが、特にそれ以上詮索する事はなく史は胸をなでおろしたのだった。
「さてそれじゃあどうしましょうか・・・・」
史は再び屋上へ目をやると目を瞑り手をかざした。
すると先ほどまで蠢いていた黒いモヤも一つ目の青い光も全部消えているではないか。
「おかしいですね・・・。先ほどまで屋上にいたものが全ていなくなっています」
「いない?」
「罠かもしれませんけど・・・」
寿々は
『もしかして今なら階段で下に戻れるのではないか?』
と思いゆっくりと後ろを振り返ったが、そこには階段そのものを壁の様に塞いだゲジゲジの塊がすぐ目の前まで迫って来ていた。
史もそれに気づきもはや屋上以外出る場所がない事を悟った。
二人は追いやられるように屋上へと出ると案の定扉は大きな音を立てて閉まり、史は何度か力一杯にドアノブを回そうと試したがピクリとも動かなった。
「ダメですね。全く開きそうにありません・・・」
寿々は辺りの様子を伺う。
先ほどまでの生ぬるい風はなくいつも通りの夜風がそこには吹いてはいたが、どうにも不気味な雰囲気だけは拭えなかった。
そして背中に嫌な寒気を感じ寿々は背後を振り返った。
「!!!!」
そこには出入り口の屋根に女子中学生らしき人影が項垂れ、と言うよりは首が変な方向に折れ曲がった状態で寿々を見下ろすようにして立っていた。
折れ曲がった首を覆うように垂れた黒い髪の間から妙な角度の見開いた目と目が合ったかと思うと寿々は反射的に恐怖から一瞬目をぎゅっと閉じた。
そしてゆっくりともう一度目を開けるとそこには誰もいなかった。
「・・今そこの上に首の折れた女の子が立っているように視えた。今はもういないけれど・・・」
寿々は〖幽霊〗を絶対に信じたくはなかったが、幻覚であれ何で今は史と情報を共有していく事の方が重要だと思い、ひとまずは全て視えたものを報告していくことにした。
「女の子・・・もしかしたら一家心中の前になくなった長女の霊でしょうか・・・」
「・・・なあ史。さっきあの〖虫〗は使役されているのではないかって言ってただろ?」
「はい。その可能性が高いかと」
「・・・一つ頼みがあるんだけど」
「なんですか?」
「今103号室を透視してもらう事はできるか??」
「103?当間さんの部屋ですか?何でですか?」
「・・実は一家心中の記事を読んでからずっと引っかかっていることがあるんだ・・・・」
「・・・・・・わかりました。やってみます」
史は全てを確認はしなかったが寿々の勘を信じ、目を閉じると手を下へ向け103号室へ意識を集中しその部屋の中の様子を透視し始めたのだった。