鐘楼姫(しょうろうき)
人々は口をそろえて言ったものだ。
北の地は魔の者の住み処だ――と。
地図を広げてみると、クロージェ山脈から北の大地――かつてノルドネーヴェと呼ばれていた地方は黒色に塗りつぶされている。
この北限の地にて起きたと伝えられている『対魔戦争』。
その悪魔と人間との争いに敗れたのは人間であった。
だが、敗北したはずの人々はノルドネーヴェの土地を悪魔に差し出しつつ、クロージェ山脈全域にかけて長大な壁の砦を築き上げて、物理的にも、呪術的にも悪魔を北限の大地に封じ込めることに成功した――と伝承は語っている。
以来三百年、ノルドネーヴェは『呪われた雪原の大地』として忌み嫌われ、誰ひとりとして近づこうとすらしなかった。
『対魔戦争』で散っていった勇者たちの詩を創ろうと思いつき、そのためには現地の空気を肌で感じてみなければと、ある種の使命感に突き動かされたこの私ギルムント・ハーヴェイをのぞいては、誰も――近づこうとはしなかったのだ。
クロージェの長壁には要所要所に門が設けられているのだが、長壁が築かれてから此の方、それが開かれたという記録はいっさい存在しない。
しかし、私は開かれぬ長壁を越えてノルドネーヴェの大地を踏みしめていた。
なんということはない。
クロージェの長壁には隣接する周辺諸国から国境警備と称して兵士が派遣されているのだが、都市から離れた辺境である。まして、壁ひとつ向こうには『呪われた雪原の大地』が広がっているのだ。
この特異な環境に長時間さらされることで、自らの存在意義に懐疑的にならない方がおかしいのだろう。
彼らは非常に怠惰で怠慢であった。
あっさりと金銭を受け取ると、ノルドネーヴェに行きたいという酔狂な男がひとり、長壁をよじ登る様を、ただ黙って眺めていたのだから。
そうして私は三百年間、誰ひとりとして足を踏み入れることのなかった『呪われた雪原の大地』に降り立つことができた。
その時の感動はいかばかりのものであったろうか。
短いとはいえ、春を迎えていたということもあるだろう。
だが、そこにあったのは、伝承に「魔女の呪いによって生命という生命が呪い殺されてしまった荒涼の大地」と記されている光景とはまるで違った景色であった。
針葉樹の森が無限のように広がり、そこにはあまたの動物たちが生活を営んで居るようであった。
灰色狐が雪兎を追いかけ、リスが枝の上で木の実を頬張り、小鳥の夫婦が歌を歌う。
絶滅したと思われていた銀角牛までいるではないか。
全ての生命が呪い殺されたどころか、三百年、人が足を踏み入れなかったための生命の躍動がノルドネーヴェにはあった。
そして、なによりも驚かされたのが、滅んだはずの王国が小さな集落となってでも存在していたという事実だ。
王城は崩れ落ちて、かつての栄華を物語ることはなかったが、そこにはクロージェ長壁の向こう側とさして変わらぬ人々の暮らしがあった。
そう――
そこにいたのは、まぎれもなく人間であったのだ。
悪魔に差し出され呪われてしまった雪原の大地にある集落だ。
ひょっとしたらそこは悪魔たちの集落なのではないかと思ってもしかたのないことであろう。
そこには私たちと何ら変わらぬ人々が、裕福とは言えないまでも慎ましい生活を営んでいるように思えた。
しかし、三百年ぶりの来訪者は歓迎されなかった。
私を見るなり、人々は蜘蛛の子を散らすように方々へと逃げだし、家という家は戸を閉ざしてしまう。
そして、わずかな隙間から漏れ出るのは、よそ者を蔑む澱んだ眼光。
まるで悪魔にでも出会したかのような人々の態度に、私は文字通り、肩を落とした。
これでは話を聞こうにも聞けないではないか。と途方に暮れていると、ひとりの小柄な老人が目の前に現れた。
杖をついていながらも曲がったままの腰がよりいっそう老人を小さく見せていたが、そのしわがれた目蓋の奥からのぞき見える眼光は、いまだ衰えることを知らないようであった。
それは鋭く、対峙する者を射竦めるに十分であった。
悪鬼に出会ったような恐ろしさを感じて、私は気取られぬよう腰に下げた細剣の柄に手を添えて、わずかに身構えた。
楽士を気取っている私ではあるが、護身に使えるくらいの剣術の心得はある。
だが、老人には私の考えなどお見通しのようであった。
残念だと言わんばかりに「ふぅ……」と息を吐いて、私を睨めつけた。
「ここを、どこだと思っておる。敵意と情動にまかせてそんなものを抜けば、狂気に取り憑かれて魔道に堕ちるだけだぞ」
毒気を抜かれて、私は構えを解いた。
どうやら、この老人には私をどうにかしようという気はないようであった。
「呪われる、とでも言うのですか?」
「呪いか。知っているぞ。外の連中がここをどのように呼んでいるのかはな。好きなように呼べばいいのだ。事実は変わらんのだからな。しかし、……このような粗暴者を招き入れるなど、いったい何を考えておられるのか」
ふたたび、老人は溜息をついた。
「光栄に思うがいい。姫様が会ってみたいと仰っている」
「姫様……?」
「そうだ」
頷いて、老人は廃墟しかない、かつての王城跡の方角を指さした。
「見えるな。あの『鐘撞きの塔』に姫様はいらっしゃる。悪いが案内はできん。勝手に行くがいい」
ずいぶんな言いようだと思ったが、問いかけるより先に、老人は背を向けて立ち去ってしまっていた。
確かに、老人が指さした方角に塔らしきものが見える。
らしいというのは、それは蜃気楼のように揺らいでいて、時々、透けて背景と同化してしまうほど存在が不確かであったからだ。
本当に、そこに塔はあるのだろうか。
なんとなく騙された気分で、私は廃墟に赴いた。
『対魔戦争』によって崩れ落ちたのであろう王城跡にあって、それだけが無事な姿でぽつんと建っているのは、なんとも奇妙な光景と言わざるを得ないだろう。
それは、四角く切り抜かれた岩を積み上げて築かれた、ありふれた、なんの変哲もない建造物だ。
最上階では四方が吹き抜けて外界を展望できるようになっているらしく、そこには大きな鐘が吊り下げられているのが見える。
なるほど『鐘撞きの塔』である。
しかし、奇妙なものだ。
なぜ、あのように離れた場所からだと存在が揺らいで見えたのだろうか。
「――それは、ここに魔王が眠っているからじゃ」
まるで私の心を見透かしたかのようなその声は、最上階から投げかけられた。
見上げれば、吹き抜けの縁に危なげなく腰をかけ、黒く長い髪を風のままに舞わせている少女の姿がそこにあった。
少女は私の反応に満足したのか、うっすらと笑みを浮かべて、よく通る声で言った。
「ちょうど退屈していたところなのじゃ、ひとつ、わしに異国の歌でも聴かせてはくれんか?」
そして、私は――
「……どうした吟遊詩人? 早くここまで上がってこい」
少女の姿のままの、美しい魔女に心を奪われたのだった。
塔の中に足を踏み入れると、異世界にでも迷い込んでしまったのではないか、という奇妙な錯覚に出迎えられる。
まるで空気の重みが違うのだ。
体重が十倍にも、二十倍にも感じられ、一歩を踏み出すのに丸一日費やしてしまうような時間感覚にさえ襲われる。
その違和感と重苦しい空気を背負って螺旋階段を上りきらなければ、鐘撞き場にはたどり着けない。
重々しく持ち上げられた足が冷たい石段を踏みつけるたびに、カツーン、カツーン、と堅い音が響き渡る。
響くだけで、それに応えるものは何一つない。
そう、ここには何もない。
静寂と暗闇以外の何も。
こんな場所に、三百年も幽閉され続けていれば、常人であれば気が狂ってしまって当然なのだろう。
だが、
「――三百年か……、たしかに短い時間ではないのだろうな。だが、わしにとって、それは三百日と同義なのじゃよ。『人柱』として魔王を封ずる役目を負ったときより、わしの中に流れる『時』は、悪魔のそれと同じになったのじゃ。感覚的には一年も経ってはいない。狂うには、まだ早すぎるではないか」
と『呪われた雪原の大地』にやってくる短い春の間だけ目覚めることを許された塔の主は笑って見せた。
そうなのだ。
儚くも笑ったのだ。
『鐘撞きの塔』とは名ばかりの、まったくもって鐘が鳴らされることのない、この塔の主は――
思い出すたびに、重たい足がさらに重たくなる。
それでも引きずるようにしてでも歩みを進め、螺旋階段を上りきらなければ、この重苦しい空間から抜け出すことはできない。
突然に視界が開けて鐘撞き場にたどり着くと、重く肩にのしかかっていた空気が吹き抜ける風にさらわれて、ふっと身体が軽くなる。
この瞬間は心地よい。
まるで澱んでいた魂が洗われるようだ。
そして――
「お久しぶりでございます。シーダ様」
壮大なパノラマを背にして、危なげなく吹き抜けの欄干に腰掛けている少女に向かって私は頭を下げた。
「久しぶり? そうか、もうそんなに『時』が流れたのか」
『冬眠』から覚めて、それほど間が経っていないせいだろうか、シーダ姫の黒い瞳は眠たげで、奇怪な彫刻でも眺めるようにまじまじと私を見つめると、ゆっくりと頷いて見せた。
「――うむ、よく来たな。ギルムント」
冷たい床石の上に座り込んで、私は五弦琴の調律をはじめていた。
弦をひとつ爪弾くとビィィンと旋律にならない音が空気を震わせる。
やはり、すこし音が堅い。
寒冷地であるためだろう、弦が萎縮してしまって、これでは思うような音が出せない。
一本ずつ弦をゆるめながら何度も何度も音を確かめていく。
気が滅入るようなその様子をじっと見つめていたシーダ姫の唇が、不意にそっと動いた。
「……しかし、お主も酔狂な男よな」
「と、申されますと?」
何を今更と思いながら手元の弦から視線を移すと、頬杖をついた姫は自嘲気味に吐息をもらした。
「……村の者たちでさえ気味悪がって、塔にさえ近づこうとはしないというのに――ギルムント、お主はわしの正体を知って尚、こうしてわざわざやってくるではないか。これでいったい何度目になるのだ?」
「今年で三年になりますが、足を運んだ回数などいちいち覚えてはおりませんよ。迷惑だと仰るならば今日を限りでお暇いたしますが?」
「ふふ……言うたであろう。わしは退屈しているのだ。お主の奏でる旋律は暇つぶしになりこそはすれ、迷惑になどなろうはずがない。むしろ歓迎しているのだよ」
「それは光栄の至り。しかし――」
私はふたたび弦の調整に意識を戻した。
「――私の酔狂など今に始まったことではありません。気になさることでもありますまい」
「そう言うな。気になるのだ。それに、お主はわしにばかり話させて、お主自身のことはまったく話さぬではないか。それは不公平というのだぞ」
わずかばかり語調を荒げて、怒った顔をしてみせる。
だが、それはどこかふざけているようにも見えて、まるで恐ろしくなどない。
むしろ、子供が駄々をこねているようなかわいさがある。
私は笑いをこらえるのに必死だった。
「……不公平、ですか?」
「そうじゃ」
私はすこし悩んだ。
話したところで、どうという人生ではない。
英雄譚はもちろん、目の前にいる少女の姿のままの姫君に比べれば、平凡なほど平凡である。
だが――
「どうした? 話してはくれぬのか?」
私は嘆息し、五弦のすべてを弾いた。
バララァァンと鳴ったそれは、観念した私の心情を代弁していた。
「……では、身の程を知らず英雄にあこがれ、ついぞ成り得なかった愚か者の話でもいたしましょう」
重苦しさを装い嫌々語り出した私の顔を、輝くばかりの好奇心を宿した瞳がとらえて離さなかった。
陽が落ちた。
世界の果てに待つ恋人の元へと太陽神が帰ってしまうと、闇が全てを覆い尽くさぬようにと、月の女神と彼女に付き従う星々の精霊たちが淡い輝きで地上を照らし出す。
眠るためには十分すぎるほどに緩やかで優しげな輝きである。
だが、夜が訪れても眠ることが許されない。
彼女が眠ることができるのは、『冬』という名の『長い夜』の間だけなのだ。
それが、魔王を封じたが故に呪われてしまった彼女の運命。
世界を救った英雄として称えられて当然のはずなのに、逆に、世界中の不幸を一身に背負ってしまったかのようだ。
村の者たちでさえ口にこそ出さないが、彼女を腫れ物のように扱っているのは明らかであった。
それでも、彼女は人間を決して非難したりはしなかった。
「人は非力な存在だ。故に、己を守るため、時に集団で個を排除しようともする。危険をはらんだ個をな。それは当然の行為だ。かつて我々が、彼の君を封じたのと、それは同じ理由なのだから」と言って、ノルドネーヴェ王国最後の姫君は笑った。
儚く嘲るように。
『対魔戦争』がいかにして終結したのかを教えてくれた時も、彼女はそうやって弦月のように笑っていた。
「――ここに、彼の君が封じられている。その意味がわかるか?」
「意味……ですか?」
「そうじゃ。吟遊詩人」
「はて、そうですね……」
私はいたずらに弦を弾きながら思案するふりをした。
彼の君などと呼ばれている魔王が、かつてノルドネーヴェの王城の一翼を担った塔に封じられている理由など考えたところでわかるはずもない。
単発で弾き出される振動が後追いで重なり合って、どうにか旋律のように聞こえだしたところで、私はもっともらしく頭を振って白旗を揚げることにした。
「恐れながら、皆目、見当もつきませぬ。私のような者には想像もできぬほどの途方もない理由なのでしょうから。ただ……」
「ただ…なんじゃ?」
もったいぶって途切らせた言葉の先を、シーダ姫はぐいっと身を乗り出すようにして促した。
「ただ、シーダ様が犠牲になられた。ということは理解しているつもりです」
すこし驚いたように瞳を見開いたかと思うと、シーダ姫はフッと力無く笑った。
「……犠牲になどなったつもりはなかったのだがな」
それは通りすがった風に溶け込んでしまい、本当に音として発せられたのかどうかさえ判別することが難しいほどに弱々しいささやきであった。
フッ…と力無く笑った、美しいが影の差した顔が私に向けられた。
「わしは――ただ、彼の君の元へと嫁がされただけなのじゃからな」
「え?」
嫁いだ――
聞き違えたのではないかと、私は思わず疑問符を口にしていた。
だが、それは聞き違えなどではなかった。
「ノルドネーヴェ王国が降伏したとき、彼の君が人を生かし続けるための条件として提示したのが、このわしを妻とすることじゃった」
まさか――と、動揺した私のことなど気づきもしなかったのか、シーダ姫は天上から吊り下がる大きな鐘を見上げた。
「この鐘は『儀礼の調べ』と呼ばれるものでな。代々のノルドネーヴェ王族の冠婚葬祭はもちろんのこと、あらゆる儀式において、その音色で式典に祝福をもたらしておったものだ」
思い出を呼び起こすかのように、シーダ姫はそっと瞳を閉じた。
目蓋の裏に映っているのは、おそらく栄華を誇ったノルドネーヴェの姿であろう。
「……その、恐ろしくはなかったのですか?」
「なにがじゃ?」
「――彼の君に嫁ぐことが、です……」
恐る恐る、私の口から紡がれた音は、すこし震えていた。
「ふふふ、恐ろしくなどなかったさ。彼の君は、それはそれは強く荘厳で美しい方だったのじゃから。まさに人の心を魅了するにたる悪魔のごとき美しさであったよ」
楽しげに語られる、その声音は決して憎むべき相手に向けられるものではなかった。
それは――、
それは……美しかった。
儚い夢を見るように、遙かな過去を思い起こす少女の姿は、まるで一流の彫刻家によって生み出された氷細工が、月光を受けて淡く輝いているようだった。
「――ともかく、王国は、いや、隣国の将軍たちも混ざっておったな。当時の王や宰相たちは条件を呑むふりをして策を弄じたのだ。これ以上、彼の君の好き勝手にされてはたまらんとな」
一息ついて、夜の闇に閉ざされた塔の外へと視線を投げ出す。
満月が不気味なほどに怪しく美しかった。
「そして、婚礼の儀式を装って封印の儀式を行ったのじゃ。儀式は成功し、封印は成立した。だが、彼の君は最後に言ったのだ。『呪ってやる! 呪ってやるぞ! 我を欺き全てのモノを呪ってやる!!』と――」
「『呪われた雪原の大地』……!」
思わず、その言葉が私の口から吐いて出ると、こくりと黒髪の姫君は頷いた。
「そうじゃ。ノルドネーヴェは呪われたのじゃ。わしらは、この土地より外へ出ては生きることができぬのじゃよ。以来、この鐘は鳴らなくなった。叩こうが、引っ張ろうが、何をしても鳴らなくなったのじゃ。おそらく『時』が止まっておるのだろうな。再び、この鐘が音を奏でるときは、彼の君が蘇るときであろうて。――さて、その時、わしらはどのようになるのであろうな?」
そんな日が本当に訪れようなど、このときにはまるで気付きようがなかった。
ただ私は、この凍えた時の中に眠る魔王と運命を共にする少女が不憫に思えてならなかった。
できることなら、この手で彼女を運命の軛から奪い去ってやりたかった。
だが、空を舞うための翼を持たず、地を這いずり回り、五弦の琴を奏でるしか能がない身であれば、そんなことは叶わぬ願いでしかなかった。
私に出来ることと言えば、永遠と思える『時』の中の、わずかな一時を共に過ごすことだけだった。
それでもいいと思っていた。
あの瞬間までは……
「……そろそろ、話してくれてもよいのではないか?」
空想と現実を調律して導き出される詩と旋律に身をゆだねていた私は、不意に姫の口から放たれた厳かな口調によって現実へと呼び戻された。
私は弦を一つ弾いて、とぼけてみせる。
「はて、愚か者の話はもう終わますが?」
やれやれ、といった感じでシーダ姫は笑みを浮かべた。
それはどこか、消え入るような弦月の儚い輝きを思わせた。
「ふふふ、わしとて無為に長い時を過ごしているわけではない。お主が何かを隠していることくらい、お見通しじゃ。それに、―― 」
白く細い指が緩やかに私の背後を―― 南を指す。
どこまでも続いて果てなどないと思われる夜の中に真紅の列が見える。
それは地獄の淵へと行進する魂の隊列のようにさえ見えた。
もう来たのか――
それが私の率直な感想だった。
「あのような行軍を見てしまってはな。山向こうの国々で何かあったと考えるのは、ごく自然なことであろう。そして、ギルムント―― お主は、何があってこうなったのかを知っているはずじゃ」
宝玉のような瞳が、哀れむように、そして睨むように私を見つめた。
私は――長く長く吐息をついた。
諦めるという観念を私の身体から吐き出してしまおうとするように。
出来ることなら、彼女を連れてどこへなりと逃げ出したいのだが、彼女の魂と肉体は塔に縛り付けられており、それは不可能だ。
自分の無力さが呪わしい。
「では―― 、」
私は瞳を閉じ、緩やかだが、重々しい調べを弾く。
「……天の力に対し無力ゆえに、全てを呪いのせいにした愚かな為政者たちの話をお聴かせいたしましょう」
幾日も空は灼け
地は痩せ衰えて
飢えと疫病が死神の手からこぼれ落ちた
黒い恵みは国中を這いずり回り
弱き人々に襲いかかった
彼らの口から吐いて出るのは
苦痛の呻きと
天への祈りばかり
それでも地上に流れ落ちるのは
許しでも恵みでもなく
涙と嗚咽ばかり
このままでは滅ぶだけだと
誰かが言った
囁く声で
呪いだ
北の呪いだ
魔女の呪いのせいだ──と
人から人へと連鎖が広がり
やがて、呻きと嗚咽は怨嗟になり
人々は剣を持って立ち上がった
呪いの魔女を討つために──
「ふむ……なるほど、あれは救国の英雄たちの行進と言うことか」
遠目に炎の隊列を見つめる少女は一つ頷くと、私に向き直り穏やかな笑みを浮かべた。
そこには、覚悟を湛えた凛々しさと儚さが宿っていた。
「……ギルムント、一つ頼まれてくれるか?」
「何なりと……」
いやな予感がしていた。
「村に行って皆に伝えて欲しい。出来るだけ、遠くに逃げよとな」
「シーダ様!」
思わず声を荒げていた。
まるで遺言のように聞こえたのだ。
「彼らも人間です。血の通った人の子です。話せばきっと分かってくれます。シーダ様が呪いの魔女などではなく―― 」
「いや、無駄だな」
静かだが強い口調が私の言葉を遮った。
「言ったであろう。わしは無為に長い時を過ごしていたわけではないぞ。団結した人間の愚かさと恐ろしさは十分に理解しておるつもりだ。それに、呪いの魔女自身の話など誰が信じようか」
その通りだ。
彼女の言うことは憎らしいほどに正しい。
正義を盲信した人間の恐ろしさは私も知っている。
それが集団となってやって来るというのだ。
一人や二人が、あるいは村人たち全員が「違う」と叫んだところで、せいぜいが雛鳥の囀り程度にしか聞こえないだろう。
ましてや、ここは『呪われた雪原の大地』そのものなのだ。
聞く耳など、端から持ってはいまい。
「三百年か……、事実が歪められ真実になるには十分すぎる時間であったようだな……」
感慨深く遠くを見るように、少女は呟いた。
三百年……
言葉にしてしまえば一言ですんでしまうが、そこには数えきれぬほどの人々の生き死にが刻み込まれているはずだ。
それを目の当たりにしてきた少女の口から出た言葉の、何と重々しいことか。
それは彼女にのみ発することを許された音であった。
そして、少女は改まって、私を見つめた。
「吟遊詩人殿と過ごした日々は、久方ぶりに充実した時であった。楽しかったよ。ありがとう……」
それは何と、悲哀に満ちた旋律であろうか。。
私の心を揺り動かすには十分すぎるほどの音色であった。
いや、初めて出会ったときから、こうなることを心のどこかで望んでいたのかも知れない。
「……村の者達にシーダ様の言葉は伝えましょう。しかし、私はすぐに戻ってきます。そのように哀しいことを言わないで下さい」
「お主……」
呆れたように驚いて、シーダ姫は弱々しく微笑んだ。
「それでいいのか?」と問い掛けるように。
私は頷くだけで答えとし、微笑み返した。
「……本当に、酔狂な男よの……」
困ったように、だが、どこか嬉しそうに少女の姿のままの姫君は言った。
「ええ、よく言われます……」
だが、それもこれが最後になるだろう……
軽快な旋律の中に、軍靴の鳴り響く音が混じって聞こえてくる。
段々とそれは大きくなって、近づいてくるのが分かる。
決死の思いで乗り込んできた彼らは、そこで繰り広げられているあまりにも平和的な光景に、呆気にとられたようだ。
あるいは、女神の舞に心を奪われたのか。
ともかく、鋼鉄を纏った訪問者たちは言葉を失っていた。
私は旋律を奏で歌い、少女の姿のままの姫君は踊っていた。
伸びやかに、そして軽やかに舞う少女の姿は、人を惑わせる邪香にも似た魅力があり、月下に舞う夜光蝶もかなわぬほどに美しかった。
見る者を魅了させるという意味において、彼女はまさしく魔女であった。
その魔女ただ一人のための舞踏会は、夜と共にあり続けるように終わる気配を見せない。
だが──
唐突に、訪問者の一人が吐き出した無粋な叱責によって、舞も音楽も止んでしまった。
私はゆっくりと顔を上げて、声の主を撫でるように見つめた。
「……これはなんと、国王陛下自ら出陣なされるとは、此度の進軍、よほど重要な戦とみえますな」
これはもちろん皮肉だ。
一際豪奢な鎧を身に纏った男の顔が、明らかに引きつる。
「誰かと思えば、いつぞやの吟遊詩人ではないか。ふんっ、魔女は魔女ではないなどと言っていたが、やはり、呪いの魔女の使いであったのだな。余を誑かそうとしたその罪、死をもって償うがいい!」
男が手を掲げると、思い出したように兵士たちが身構える。
抜き放たれた鋼の輝きを見つめ、少女は自嘲するように、そして、哀れむように微笑をこぼした。
それは、彼らを戸惑わせるに十分すぎる笑みであった。
「……一人では、気が狂いかねるほどに心細かったであろうな……」
囁くようなその声は、わずかに震えているようだった。
「……ギルムント…すまぬ。お主を巻き込んでしまった……」
「いいえ、これは私自身が決めたこと。かの時に、シーダ様が下された決意に比べれば、極々些細なことでしょう」
「ふふっ、そんなこともあるまい。だが、ギルムント、お主がいてくれて助かったよ」
一息ついて、少女は改めて私を見つめる。
優しげだが、これ以上はないというほどの憂いを湛えた瞳で。
「一緒に死んでくれるか?」
「どこまでもお供いたします」
「すまぬな。本当に……」
そして、
掲げられた手が振り下ろされるのと、私が五弦の全てを弾いたのは同時だった。
「殺せ! 殺すのだ! 呪いの魔女とその使いを討ち! この世に恒久なる平和を築き上げるのだ!」
張り上げられた死刑宣告によって、一斉に動き出した鋼の列が私と姫の身体を同時に貫くと、噴き上げる鮮血が冷たい床石を染め上げた。
真っ赤に。
深紅に。
これ以上の赤は、どんな一流の画家ですら生み出すことは出来ないだろうと思えるほど、鮮やかに。
ふと、誰かが私の頭を抱きかかえる感触があった。
最後の力を振り絞り、鉛のように重たくなった目蓋を開くと、自らの血で真っ赤に染まったドレスを着たシーダ姫の美しい顔がそこにあった。
鮮やかすぎるほどの赤に化粧された唇が動いて、何かを喋っているようだったが、その声は小さすぎて、聞き取ることが出来なかった。
「おのれ、魔女め!」
呪詛に満ちた声と共に繰り出された一刀が、少女の首をはねる。
蹴鞠のように跳ね上がったそれは、ゆっくりと宙を舞っているようだった。
ああ……
そして、
私は薄れゆく意識の片隅で、
無数の悲鳴と鐘の音が鳴り響くのを聴いていた……
〈 了 〉