平穏の中で浸食する闇について3
起きがけに感じた胸の痛みがしばらく続いて、朝食の席では出された料理を口に運ぶのに苦労した。
これでもし食事をしなかったら、ニネットの向かいに座る公爵は、見逃してはくれないだろう。そう思って顔に出さないようにしていたのだが、彼の観察眼は本当に鋭い。
「顔色がよくないな。枕が合わなかったのだろうか?」
「いいえ、むしろぐっすり眠れました。夢見が悪かったような気がしますが、あまりよく覚えていなくて……」
「そうか。今日私は離宮に所用がある。君は屋敷でゆっくりしていてくれ」
離宮と聞き、ぴんときた。そこには公爵の母である王太后が滞在しているはずだ。王太后はもう十年以上公の場に顔を出していないと聞く。
世間では「王太后は、愛する夫を偲んでいる」という美談に塗り替えられていた。
ニネットが持つ前世の記憶では、王太后は夫と不仲だったはずだが、上の者が都合で印象操作をするのは珍しくない。
エディスとレティシュ家が、反逆者と貶められているのと同じだ。生き残った者のよいように、事実は隠匿され、嘘の世界が築き上げられていく。
「ご一緒しなくて、失礼にはあたりませんか?」
念のため、ニネットは確認を取った。王太后は公爵の実母だから、本来なら真っ先に挨拶に行かなければならない相手だった。
「君が王太后に会う必要はない。会っても、気分のいい人ではないから。それに前に言っただろう? あれは私の敵だ。少し事情があって、人と会うことができない」
公爵は母親を嫌っていることを隠さない。確執の発端は、おそらくエディスにまつわるものだろう。
「公爵様、大丈夫ですか?」
ニネットは陰る公爵の表情を見て、不安になった。彼の言葉通りなら、これから彼は自分の敵に会いにいくのだ。たった一人で。
「なんの問題もない。結婚前に確認しておきたいことがある。……ただ、それだけなんだ」
それっきり公爵は、口を閉ざす。これ以上詮索しないでくれと、そう言われた気がした。
離宮へと向かう公爵を見送ったあと、ニネットは部屋で大人しくすごすことにした。胸の苦しさが、昼近くなっても解消されなかったからだ。眠気は感じず、寝台に入るほどでもない。だからアンに何冊かの本を用意してもらって、気分転換の読書をしていた。
具合の悪さは、いったいどこからくるのか。
公爵は、呪いの原因である悪魔に確認していたようだが……今苦しさを感じるということは、確かに大聖堂や聖職者は関係していないのだろう。
(記憶……のせいなの?)
記憶の破片を拾い集めていくと、花は大きくなり、痛みが増すのだ。
「私が、私でなくなってしまうみたい」
どうにも集中できないニネットが読書をあきらめ、長椅子に身体を横たえると、ちょうどアンが部屋に入ってきた。
「ニネット様、お加減はいかがですか?」
「元気になったわ……と言いたいところだけど、朝食はしっかり食べたから昼は許してくれないかしら?」
体調が悪いことを大げさにはしたくなかったが、黙っていて食事に手をつけないのはよくないことだ。
「料理長には、スープだけ用意するよう伝えます」
「それと、公爵様には……」
できれば報告しないでほしい。懇願するように見つめると、アンは一度目を閉じたあとゆっくりと頷いた。
「一口だけでも召し上がってくださったら、軽いお食事をとられましたと伝えられましょう」
「ありがとう」
アンは表情を読み取りにくいところがあるが、信頼できそうな人だ。ニネットの気持ちを汲みつつ、公爵にも嘘はつかない。その妥協点を示してくれたのだとわかった。彼女を困らせないためにも、はやく調子を取り戻さないといけない。
「それでは、なにかございましたら呼び鈴でお知らせください」
そう言ってアンが部屋から出ていくより先に、外から別の誰かによって扉が叩かれた。すぐにアンが対応してくれたが、聞こえてきた声から、ダルトンがやってきたのだとわかった。
まだ部屋の外にいるダルトンと、少しだけ開けた扉のこちら側にいるアンで、なにやら話し込んでいる。アンが一度目配せをしてきたので、ニネットは起き上がり、ソファーに座り直してから「どうぞ」とダルトンの入室を許可した。
「奥様、お休みのところ申し訳ありません」
ダルトンは困惑している様子で部屋に入ってきた。
家を取り仕切る彼が、この表情で新参者のニネットのもとにやってきたのが意外だ。自分が彼を困らせるような間違いを、知らないうちにやってしまったのかと不安になるニネットだが、それなら失敗を重ねないよう、落ち着いて対応することを心がける。
「構いません。なにかありましたか?」
「実は……急な来客がありまして、公爵閣下の不在を告げたところ、それならニネット様に挨拶をしたいと」
「来客? 先触れもなしに? ……どなたですか?」
公爵邸をいきなり訪ねてきて、門前払いされないならかなり身分の高い人物だろう。でもそれなら事前に約束を取り付けてからくるのがマナーだ。公爵がいないなら、自分に会いたいと言いそうな知り合いなど思い当たらず、ダルトンが答えてくれるのを待つ。
「お客様はセドリック陛下がお忍びでいらっしゃっております。個人的な結婚祝いを持参したとのことで、私では判断いたしかねまして……」
「国王陛下?」
「こっそり息抜きにいらっしゃるのは、これまでよくあることでした」
ニネットも判断に迷った。婚姻が成立して正式な女主人となったのなら、客人をもてなすのはニネットの仕事になる。でも今は結婚を控えている婚約者なので、まだ女主人ではない。
相手がセドリックでなければ断るのが正解だろうが、彼は数少ない「公爵」より上の立場の人で、失礼な対応はできないのが悩みどころだ。
ほかの人の意見も聞いてみたくなり、アンに視線を向けると、彼女はこの話が持ち込まれたことに不満があるようで、ただダルトンを冷たく睨みつけていた。
睨みつけられたダルトンも気の毒だ。彼をこれ以上困らせるわけにはいかない。
「アン、ありがとう。私は大丈夫。ダルトンさん、支度をいたしますので陛下にはしばしお待ちいただけるよう、お伝えください」
「かしこまりました」
ダルトンはニネットの決定を受け、ほっと表情を和らげた。それからダルトンはすぐに部屋から出ていき、アンと二人きりになる。
「ニネット様、大丈夫ですか?」
「ええ、短い時間なら。服装はこのままでいいわ。髪型だけ整えてくれる?」
今ニネットが着ている服は、衿のつまったリボン付きのブラウスと、紺色のスカートだ。王宮で会う貴婦人と違いすぎて、セドリックは驚くかもしれない。
これはセドリックへのせめてもの抗議だ。ニネットは、突然の訪問で困ったことを服装で表すつもりだった。アンに意図を伝えると、彼女は感心したように言った。
「ニネット様は長らく伯爵邸で療養されていたと聞いておりますが、すでにしっかりとした社交術をお持ちなのですね」
ニネットは内心どきりとする。引きこもりで両親以外の誰とも接してこなかった自分が、戸惑いなく国王に対応できるのは、エディスの記憶を持っているからだ。アン相手ならともかく、他では今後注意しなければならない。
(国王の前では、気をつけなきゃ)
ニネットは「病弱で世間知らずの箱入り娘」に徹することに決め、客人が待つ部屋へと向かった。