平穏の中で浸食する闇について1
結婚式を一週間後に控え、ニネットは強引な婚約者との攻防の末、まずは公爵邸に移り住むこととなった。
「姉上……もっと一緒にいたかったのに! 行ってしまうの嫌だ。公爵様、姉上を独り占めするなんて酷いです」
ジャックが涙を浮かべ別れを惜しんでいると、迎えに来ていた公爵は、子どもの視線に合わせて姿勢を低くしながら微笑みかけた。
「君が、私にとってのニネットのような特別な女性と、早く出会えることを祈っているよ」
慰めているようで、とても大人げない言い方だ。公爵の言葉に、ジャックは涙をこぼしはじめてしまう。
「泣かないでジャック。会いたいと思えば、いつでも会えるのだから、ね?」
「はい、わかりました、姉上」
それからニネットは、両親に向き直る。
「お父様、お母様、今までお世話になりました」
「結局、私達はなにもできなかった。ふがいないばかりだ……」
両親は後悔を滲ませる。外の世界と遮断され、寂しくなかったといえば嘘になる。
でもニネットが正気でいられたのも、二人のおかげだ。もし、この人達の元に産まれて来なかったら、家門に陰を落とす存在として捨てられていたかもしれない。
「私は二人の子供でよかった……心からそう思っています」
最後に抱きしめあって、ニネットは馬車に乗り込んだ。
遠くない未来に、ニネットが呪いから解放されたら、その時こそ両親の心の重しを取ってあげることができるだろう。
みんなで幸せになる。ニネットはその第一歩を踏み出そうとしていた。
§
公爵邸の使用人の中で最初に名前を覚えたのは、家令のダルトンだ。そして移り住んだ日に「信頼できる者」としてあと二人、公爵から、彼の執務室で直接紹介を受けた。
一人はニネットの世話をしてくれる侍女、アン。そしてもう一人が護衛騎士のガーランドだ。アンはニネットより少し上の二十二歳の女性で、ツンと鋭い目つきをしている美しい人だった。
「よく目つきが悪いと言われますが、睨んでおりませんし不機嫌でもございませんので、ご容赦くださいませ」
その自己紹介から、彼女がきっとニネットと打ち解けるつもりがあるのだと伝わり、嬉しくなった。ガーランドは三十歳の、頬に傷がある屈強な男性だ。
「腕っ節だけは自信があります。公爵夫人の気に入らない相手は必ずや仕留めて参ります」
本気なのか冗談なのかよくわからない挨拶は、ニネットを困惑させたが、公爵が訂正をしてこなかったので、完全な冗談とは言い切れなそうだ。
公爵は、家令のダルトンを合わせた三人の使用人についてこう説明してきた。
「この者達には、なにも隠さなくてよい」
「なにも……とは?」
ニネットはどこまでのことを言っているのかわからず、混乱する。
「言葉通り、なにもだ。君が『悪魔の愛し子』ということを含めて、隠さなくていい」
ニネットは思わず、三人の顔を順番にうかがった。ガーランド、アン、それにダルトン、皆この言葉を平然と受け流している。
(本当に……?)
ニネットが疑りと恐れを交錯させていると、ダルトンは微笑みを見せながら一歩前に出てきた。
「閣下、私からご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
公爵に許可を得たダルトンが、ニネットに事情を教えてくれた。
「我ら三人、魔性とされる存在に何らかの形で関わってきた者達です。公爵閣下に拾っていただけるまで、まともな暮らしなどしておりませんでした」
「では、私達は仲間ということ?」
「奥様に仲間と言っていただけるのは、ありがたくも恐れ多いことです」
ニネットは安心しすぎて、目頭が熱くなった。今までは一人で部屋に閉じこもっていることが、一番安全だった。たとえマズリエ伯爵家の屋敷の中でさえ、部屋の外は安心できる場所とは言えなかった。まだ呪いが解けていないうちから、公爵はニネットに安らげる場所を与えてくれようとしている。
ダルトン達が部屋から出ていき、公爵と二人きりになるとふわふわとした気持ちになって居心地が悪かった。
(このままだと、離れがたくなってしまう……)
すべてがエディスへの贖罪からくるものだとわかっているのに、勘違いしてしまいそうだ。自分が、ニネットとして彼に愛されているのではないかと。出会ってすぐに求婚してきた人だ。そこに男女の愛情などあるわけもなく、もし執着心があるとしたら、それはニネットではなくエディスに対してのものだ。
(私を見てほしいなんて、とても言えないわ)
ニネットの中には確かにエディスがいるが、今を生きているのは自分自身だ。呪いが解けるのであれば、過去に囚われていたくなどない。
「ニネット、気分が悪いのか?」
公爵はニネットのことを、本当によく見ている。人の気分や機嫌など、気にしなくてもいいはずの彼が。
「いいえ、少し考え事をしていました。あの、これからの予定を教えてください」
ニネットは、ごまかすようにして話題を変えた。こういう時は忙しいほうがいい。そして、一日でも早く呪いを解いてもらえればいい。
「明日からは、衣装合わせ以外は特に予定がない。結婚式に向けてアンに身体の手入れでもしてもらうといい。一週間後、大聖堂での結婚式をして。それからこの屋敷でお披露目のパーティーを開く」
「大聖堂……」
王家の血が流れている者は、異国に嫁いだ王女を除き、これまで大聖堂で結婚式を執り行ってきた。しかし、ジェラルドとロザリーはそれが叶わなかった。
国教会との対立を避けるため、これ以上慣習を曲げることは許されないらしい。結婚式の場所については以前から承知していたが、過去に一度だけ大聖堂を訪れたことがあるニネットは気が重い。
「君はあの場所が嫌いなんだね」
「不安があるんです。五歳の時、大聖堂を訪れ気分が悪くなって、そのあと痣が浮かび上がってきました。また同じように気分が悪くならないか心配です。式の最中に倒れてしまったら大変ですから」
花嫁が倒れたら、印象はよくない。それに、聖職者というのは悪魔に対抗できる存在だ。彼らに近付くことで、ニネットの秘密を見抜かれてしまうのではないかと怖くなる。
これは公爵に言っても仕方がないし、返事など期待していなかったが、彼は「少し待ってくれ」と言ってから、考え事をするように黙ってしまった。
公爵が瞼を閉じた時、部屋の温度が下がった気がした。これは、あの黒い庭で感じた気配だ。ニネットは背筋を寒くする。みるみるうちに、黒い靄のようなものが公爵の身体を取り巻きはじめた。
(なんなの? これが……悪魔の気配なの?)
まるで彼が闇に飲み込まれてしまいそうだ。引き留めたくてつい、彼に手を伸ばす。
「公爵様……?」
触れても、なにも起こらなかった。
公爵はゆっくりと目を開けて、「大丈夫だ」と、それまでと何ら変わりない姿でニネットに微笑んでくれた。