予期せぬ求婚について3
「怖がらないでほしい。私は君を苦しめる呪いから解放するためにきたのだから」
「……呪い、なのですか? あの黒い薔薇の庭と関係が?」
二人の距離は一度ぐっと縮まったが、交わされた会話に甘さなどない。公爵はニネットが体勢を立て直したことを確認すると、すぐに腰にまわった手を離してくれた。
「ああ、あの庭の薔薇を黒に染めた悪魔が……そしてなにより私自身がこの呪いのはじまりに関わっている。でも大丈夫だ。私は君の呪いを解くことができるから。そして君はこれから誰より幸せになるんだ」
ニネットの痣には、悪魔と公爵が関わっている。あの恐ろしい、黒い庭の悪魔が……。
幸せになると言った公爵の言葉をすぐに信用することはできないが、少なくとも痣に関して、彼の前で怯える必要がないということだけはわかった。
「両親は、これが『悪魔の愛し子』と言われる類いの痣だということは知っております。でも、それはあくまで迷信のようなものだと捉えているはずです。……本当に悪魔が関わっていると知ったら、悲しみます」
ニネット自身にも、正直受け入れがたい事実でもある。
「それについては、君のご両親が望むような理由を考えてきた。騙すのではなく、安心させてあげたいと思っているのだが、どうだろう?」
公爵の回答は誠実なもののように思えた。しかし、一度深く呼吸をして整理してみるとニネットにはひとつの疑問が生まれる。
「公爵様、呪いとこの求婚はどんな関係があるのでしょう?」
呪いを解く方法を知っているのなら、それを実行してくれたらいい。わざわざ結婚する必要はないはずだ。その問いをすると、公爵ははじめて返事に躊躇いをみせた。
「結婚などする必要、ありませんよね?」
「いや、呪いは君の身体を蝕んでいる。生まれる前から君の心に巣を作っていたはずだ。それを解いた瞬間、何かしらの変調をきたすかもしれない」
「確かにこの痣が浮かび上がってきたときも、苦しくて数日間寝込みました。……それと、髪色が」
ニネットは自分の髪をそっとすくい上げる。
「生まれた時は、父や母と同じ茶色の髪色だったんです。痣が浮かび上がってきた時に髪の色が変わりました」
「やはりそうか。だとすると、髪の色もどうなるかわからないな……? やはりしばらくの間、私の庇護下にいられる理由が必要だ。他人同士の関係では難しい。君の名誉を守るために必要な措置だ」
ニネットに守るべき名誉があるかは疑問だが、確かに未婚の娘の醜聞はマズリエ伯爵家の評判に繋がる。
「では呪いが解けたら、頃合いをみて離縁いたしますか?」
「いや、君が私を憎んだとしても離縁はない。……これは、魂の贖罪だ。君を守るため、地位と財産を贈りたい」
「どうしてそこまで?」
問いかけたが、これには返事がなかった。ただ、悲しい顔を向けていただけだ。
そしてニネットも答えにたどり着いていた。魂の贖罪とは、エディスへの贖罪――。
(この人は過去に囚われているのだわ。だったら……求婚を受けたとしても、離縁を考えておいたほうがよさそう)
呪いさえ解いてくれたら、ニネットは伯爵家の娘として過分な幸せを手に入れることができる。
そして公爵は過去から解放され、ようやく自分の道を歩いていける。
ニネットは、公爵に過去の記憶について決して打ち明けまいと決めた。彼の中のエディスという存在がこれ以上強くなってはいけない。なぜなら、エディスは確かに死んだのだから。
「ひとまず、了承いたしました。それで、両親のことはどう説得してくれるのですか?」
すべて従うつもりはないが、まず一歩踏み出さねばならない。ニネットが、ニネットとして生きていくために。
強ばっていた表情を崩して笑いかけると、公爵は満足そうにうなずいた。
「ちなみに、お父上は心臓の病を罹ってないだろうな?」
公爵が、急にいたずらを思いついた時の少年の顔になった。ニネットは懐かしさを感じながら、彼の作戦を聞くことにした。
§
公爵と一緒に両親のもとに戻ると、父はある一点……繋がれた手を凝視していた。
「令嬢と、よく話し合ってきた」
父は公爵のほうを見ず、ニネットに「大丈夫なのか?」と探るような視線を送ってくる。
ニネットがうつむいてしまったのは、これから公爵が言うことが、かなり大胆で恥ずかしいものだったからだ。わざとらしく手を繋いで戻ったのも作戦の一環だった。
「まず、マズリエ伯爵と夫人に謝罪しなければならない。……実はあの夜、ニネット嬢のあまりの美しさに我を忘れ……」
「まさか娘に不埒なまねを? だからこんなに慌てて求婚をしてきたのか!」
父は最後まで聞かずに激怒した。もはや相手が自分より身分の高い公爵であるということを忘れている。
そんな父を前に、公爵はこっそりとニネットに耳打ちをしてきた。
「君は、よい両親のもとに生まれたんだな」
これには頷くしかない。彼らは悪魔の愛し子であるニネットを「処分」しなかった。そうならないために努力してくれた。普通と違う娘であっても、守ろうとしてくれた。
「マズリエ伯爵、落ち着いてくれ。求婚を急がねばならないことは、していないと誓う。ただ私は、彼女の秘密を知ってしまっただけだ」
その瞬間、空気が張りつめる。父はさっきまでの怒りを忘れ、顔を青くさせてしまっている。ニネットは見ていられなくて、繋いでいた公爵の手を強く握って続きを促した。
「安心してくれ。私が医学を学んでいることは、マズリエ伯爵も知っているはずだ」
「ええ。公爵閣下はありとあらゆる学問を学ばれ、特に医療医学に熱心であると……」
「大きな声では言えないが、医学を学ぶと国教会の教えについて、疑問を持ってしまうのは避けられない。たとえば、『悪魔の愛し子』とはなんなのか――など」
両親は、ごくりと唾を飲み込んだ。そうして、続く公爵の言葉を待つ。
「ユスタ王国建国前、古王国の時代に黒い痣が出る疫病がはやった。その感染拡大を押さえるため罹患した人間を処分したが、言い訳に悪魔を使った。病は忘れ去られたが、黒は悪だから処分しなければならない。そんな風習だけが残ってしまった。私は『悪魔の愛し子』についてこう考えている」
事前に聞いていた説明によると、これは半分嘘で、半分本当のことらしい。病が流行したのは史実であり、黒い班が忌避されていたことも確かなことだ。ただ、ニネットが持つようなはっきりとした痣は別物で、事実として悪魔が干渉しているのだという。
「私がニネット嬢との結婚を望んだのは、私と彼女が出会ったことに意味があると考えたからだ。私以外の者とは結婚することができない。そうではないか? そして私なら彼女を守ることができる」
公爵の言葉に、それまで黙ってきいていた母がぽろぽろと涙を零しはじめる。これはきっと安堵の涙だ。十年以上、母はずっと不安だっただろう。娘には普通の結婚は望めず、いつ秘密が露見してしまうかと気が気ではなかったはずだ。
やっと、この二人をニネットから解放してあげられるのだ。
「あなた……」
母が父に向かって呼びかけると、父は公爵に向かってゆっくりと頭を下げた。
「閣下、どうか娘を……お願いいたします」
父の声も震えていた。
公爵は……そしてニネットは両親に嘘をついたが、彼らの表情を見ると、時には必要な嘘があるのではないかと、そう思えた。