ひとつの終わりとはじまりについて3
それからのリュカは、すべてのことに熱心に取り組んだ。剣術も学問も……。これまでも真面目にこなしていたが、熱の入り方がまったく違うものになった。
「僕は強くなって、エディスを助けるんだ」
でも、ただ強くなってもしかたないということもわかっていた。エディスはとても賢く、優しく、素直な人だ。しかしこの汚い宮廷では、彼女の本質は苦しみのもとになってしまっている。
エディスを守るためには、彼女ができないことをリュカができるようにならなければ。だからリュカは、自分の正しさを捨てることにした。
図書室の隠し部屋で、「悪魔」について書かれた禁書を見つけることができたのは、そんな決意から宮廷の裏側を探った結果だった。
「悪魔は絶望を好む……絶望を贄にすれば、悪魔を召喚し契約することができる。……本当かな?」
書物に書かれていることをすぐに信じはしなかった。でも、まったくのでたらめでもない気がしていた。国教会が禁じている悪魔に関する書物を、王家が隠し持っていること自体に意味があるはずだ。
同じ部屋にあった、ユスタ王国の歴史に関する書物には、悪魔が関わっていたため表から消された事件が子細に記されていた。国の歴史、王家の歴史が大きく動いた時、必ず悪魔も動いている――。
リュカは知れば知るほど、悪魔の存在を強く意識するようになっていた。
エディスが王太子の婚約者となってから、一年がたった。九歳になったリュカの才覚は、この頃すでに評判となりつつあった。しかしリュカが変わっても、エディスの立場はなにも変わらない。エディスを守る力を手に入れるなんて、簡単にできることではなかったのだ。
そんな中、リュカは国王から呼び出しを受ける。
「少しは見込みがあるようだな。よい、このまま励め」
国王はリュカにねぎらいの言葉をくれた。息子達を競わせようとしていることは、公然の事実となっている。ジェラルドはすでに立太子をしている身なので、それを覆すことは容易ではない。
ただ王が定めた婚約者を無視し、恋仲の娘を連れて歩いている王太子に反感を抱くものも当然いる。ドナシアン侯爵は自分の権力が揺るぎないものだと自由に振る舞っているが、少しずつ求心力は落ちていた。国王が王太子の身勝手を放任しているのは、これを狙ってのことだったのか。
ただ、報われない人がいる。御前でエディスを思い浮かべた瞬間、国王も彼女の話題に触れた。
「そなたはレティシュの娘と仲がよいのだったな?」
「お忙しい兄上から、代理を任されることがあります」
リュカはジェラルドとは違う。エディスとの交流はジェラルドに命じられているから成り立つもの
で、彼女とは友人関係だ。……言い訳をせずとも九歳の少年との関係が疑われることはないのだが、建前は大切だ。
「あの娘。役に立たぬと思っていたが沈黙もそう悪くないものだった。褒美を届けてやれ」
「ありがとうございます。さっそく届けてまいります」
国王がエディスのために用意したのは、髪飾りときれいな瓶に入ったキャンディだった。それを受け取ったリュカは、急いでエディスの姿を探す。
彼女は五月の庭のガゼボにいた。
ちょうど、薔薇の花が満開になっている。一年前、エディスに一輪の薔薇を差し出したときを思い出しながら、近付いていった。
まるで一年前の再現だ。エディスはまた、その場所で泣いていた。
「エディス? ……なにがあったの? なにをされたの?」
「なんでもないわ、もう大丈夫」
一年前ここで泣いていたエディスだったが、それからはほとんど涙を見せなかった。国王に踏みつけられた時でさえ、エディスは泣かなかった。それなのに、今彼女は再び涙を流している。
よほどのことが、彼女の身に起きたのだとわかる。彼女は首を振って、リュカには話してくれない意思をみせてくる。そして、なにかに怯えているようでもあった。
「……泣かないで。甘いものを食べると元気になれるから。それに今日はとてもいい報告があるんだ」
このキャンディを食べてもらって、それから髪飾りを渡して、国王がエディスの努力を認めてくれたのだと報告しよう。そうすれば、きっと彼女はいつものように笑ってくれるはずだ。
エディスはキャンディを一粒食べた。
片方の頬がリスのように膨らむ。普段大人びている彼女も、自分と同じく甘い物が大好きな、年相応の女の子だ。
「これは、特別なキャンディなんだよ……だって、陛下が君に――――え?」
なにが起こっているのか。最初は、薔薇の花びらが舞っているのかと勘違いをした。
直後、生ぬるい感覚が頬を撫でる。
無意識に拭うと、そこは濡れていて触れた指先は赤く染まる。
エディスの身体が傾いでいっても、リュカは支えてあげることもできずに、その場に立ち尽くした。助けを呼ぼうとしたが、ヒューヒューと喉を慣らすばかりで大きな声が出ない。
(そんな。エディス……エディス……! どうして? 陛下が? 毒を? ……いや、僕だ。僕が殺した!)
油断した。国王は信頼していい相手ではなかったのに、取り返しの付かないことをしてしまった。自分のせいで、エディスの命は消えゆこうとしている。
リュカは這いつくばるようにして、必死に彼女のもとにたどり着いた。エディスはもう、息をしていない。
「ああぁぁぁ――!」
ようやく出た声は、獣のような咆哮だった。そんな声を出しても、召し使いの一人も現れない。すべてが仕組まれていた。
「許さない。エディスを死に追いやった全員を、僕は許さない!」
絶対に復讐してやる。国王に、王妃に、ジェラルドに、ロザリーに……そして自分自身に。
リュカは恐怖という感情を、消失させた。何かに取り憑かれたように、必死に身体を動かす。
エディスが吐き出した血で、召喚文字を書いた。どうしてだか「できる」という確信を持っていた。文字を書き上げるとあたりは闇に包まれ、文字は光りはじめ深紅の目が浮かび上がってくる。
リュカは「禁書の悪魔」の召喚に成功したのだ。そうして迷わず悪魔と契約し、その力を借りて消えゆくエディスの魂を、別の器に移し替えた。
――これが庭に咲く薔薇が黒く染まった、呪いのはじまりの日だ。