1話:幸せとは実に儚いものである
平々凡々。
それが、安藤近光という男を表すのに、最も適当な言葉といえよう。
どこにでもいるような、ありふれた成人男性。特にこれといって尖った何かがあるわけでもなく、誰かと比べて別段劣った何かがあるわけでもない。いわば、没個性というもの。
ごく普通の家庭で育ち、ごく普通の人間として、ごく普通に、公務員として四半世紀と少しの年月を過ごしてきた。
そんな近光であるから、彼女と親密な関係にまで及んだのは、奇跡以外の何物でもないだろうと考えている。
「彼氏」という地位から贔屓目に見ても、彼女は――霧崎絵留菜は、世界で一番可愛い存在と言えよう。
ぱっちりと大きく開いた目に、長いまつげ。ふっくらとした頬に煌めくような白い肌。毛先まで手入れの行き届いた、つやつやのロングヘア。浮かべる笑顔は太陽のようにまぶしく、見ているだけでこちらも自然とつられて破顔する。
天真爛漫で裏表がない。老若男女、動物を問わず分け隔てなく接する姿。「非の打ち所がない」という言葉は、まさに彼女のためにあるといっても過言ではないであろう。
彼女の隣にいるのは、どうか自分であってほしい。生涯を共にするならば、彼女以外考えられない。
この人じゃなきゃダメなんだ。
その思いは日を追うごとに増していく。そんな気持ちが抑えられなくなったある日、近光は、衝動のまま思い切ってプロポーズをした。
仕事終わりに、海の見える公園へとやってきた。まだ真冬であるせいか、潮風と空気が冷たく頬に突き刺さる。その代わり、星空と紺色の水面はとてもよく綺麗に見えた。
絵留菜がフェンスにもたれ、海を一望する。近光は、その背中に声をかけた。
「……絵留菜」
「なにー?」
振り返る彼女はいつものように穏やかで、間延びした返事。緊張で声も身体も情けなく震える近光とは対照的である。
気持ちを落ち着けるように深呼吸一つ。それでも、拍動する心臓は勢いを増すばかりである。
覚悟を決める。近光は深く頭を下げると、渾身の台詞を口にした。
「これから先、いつ何時も俺の隣にいてほしい。不甲斐ない俺だけど、絶対に幸せにするって約束する!」
そこまで言い放って、ここまでの行動その全てが見切り発車であったことに気づく。その後のことを全く以て考えていなかった。それどころか、現在近光は手ぶらである。
本当は、こんなはずじゃなかった! きちんとした場所で、例えば夜景が見えるレストランのようなもっといい雰囲気のところで、かっこつけるはずだったのに!
準備はしたけれど、家に寂しく放置してきた指輪の存在を思い出しては、悲しさで埋め尽くされる。
彼女は今、どんな顔をしているのだろうか。突然の行動に、きっと困惑しているに違いない。
もしダメだったら、だなんて最悪の結果が脳内を埋め尽くす。
そのときは――仕方ない、腹を、括ろう……。
不安にまみれた問いに対する解は、数秒の沈黙の後訪れた。
「――うん。こちらこそよろしくお願いします」
「えっ? あっ……い、いいの?」
「えっ、何その顔、チカくん今すごい面白い顔してるよ」
顔を上げた近光を、絵留菜がクスクスと笑う。
自分は今、そんなにも酷い顔をしているだろうか。いや、きっとそうに違いない。
これはあまりに不格好な愛の言葉を、受け入れてくれたことによる安堵だ。だからきっと、頬が緩みきっているんだ、そうに違いない。
ああなんだか、格好がつかないな。
「いいの、だなんて。私もチカくん以外考えられないよ。君がいいの」
月明かりが彼女を照らす。不意に吹き付けた優しい風が、彼女のスカートと髪の毛をさらっていく。青白い光と浮かぶ微笑。その光景は、思わず見とれてしまうほどに、とても幻想的で綺麗だった。
近光は改めて、決意を口にする。
「誓うよ。何があっても、ずっと君の側にいるって」
「へへ。ちゃーんと私のこと、幸せにするんだぞー?」
かくして、近光による一世一代の告白は見事成功を果たしたのである。
籍はいつ入れようか、俺は今すぐにでも構わないけれど。
気が早いよ、チカくん。まだご両親に挨拶もしていないでしょう?
じゃぁ、今度の水曜日は非番だから、その日に絵留菜の実家にお邪魔しよう。
いいよ。お母さんたちに連絡入れておくね!
帰りの車内にて今後の計画を立てていく。あれよあれよと話は進む。確かにその時、近光は人生において最も幸福な場所にいた。
そして、絵留菜の実家への挨拶を、翌日に控えたその日。
今日は珍しく、早めに上がることができた。とは言っても、もう時刻は二十時を回っているが。手元の腕時計に目をやり苦笑する。
外は大粒の雨が降っていた。傘についた雫を払い、傘を畳み玄関前へ立てかける。
鍵を差し込みドアを開け、中にて待つ彼女に声をかけた。
「絵留菜、ただいま」
普段絵留菜は、近光が帰宅するなりパタパタと小走りで出迎えてくれる。何かしら作業の途中であれば、声だけを返してくれる。
しかし、今日に限っては、その返事はなかった。
それどころか、家中が暗い気がする。
彼女は明かりもつけずに、一体何をしている?
「……絵留菜?」
後ろ手に施錠しながらもう一度声をかける。が、やはり呼応はしなかった。
とても静かだ。上映前の観客席にて訪れる、静寂にも似た沈黙。嵐の前の静けさ、とでも言おうか。
もしかして、寝ているのであろうか。確かにこの頃、手続きやら何やらで慌ただしい日々を過ごしていた。だからきっと、疲れて眠ってしまったのだろう。推測するに、昼寝からそのままもつれ込んで今に至るか。随分と長い間寝ているものだ、これは早々に起こしてあげねばなるまい。
いや……――それにしたって、静かすぎないか……?
抱いた違和感、そしてほぼ同時、猛烈に嫌な予感がした。
早鐘を打ち始めた脈を押さえ込むように、浅い呼吸を繰り返す。心なしか視界が眩むような気がする。一歩一歩ゆっくりと、床を強く踏みしめ前へと進んでいく。
どうか杞憂であってくれと、考えすぎであってくれ、と――。
リビングへ続く廊下の扉に、汗ばむ手をかけ引けば、むわりと籠もったような臭いが鼻先にまとわりついた。反射的に鼻を腕で覆い、眉をしかめる。
――この、悪臭は。
何度も、嫌っていうほど、そこで嗅いできた。
何故、それがうちで? 一体どういうわけで?
その答えは、すぐ目の前にあった。
スイッチに触れ明かりをつける。煌々たる空間に慣れない目が光を一気に取り込んだことにより、一瞬ひるむ。徐々に視界がはっきりとしてきた頃、「それ」の正体が明らかとなった。
「え……る、な……?」
蚊の鳴くような声と共に、携えていた鞄がドサリと重い音を立て落下した。
彼女はリビングの中央に、仰向けで倒れていた。純白のワンピースは赤黒く染まり、四肢は力なく投げ出されている。そのすぐ傍ら、血だまりができていた。
まだ――まだ、間に合うかもしれない。そんな希望的観測を胸に、駆け寄り頬に触れた。ぬめりと、不快な感触が手のひらを這う。どうやらこの状態になってから、長時間は経過していないらしい。
顔をのぞき込む。指先に伝う感触を確かめる。
――その顔は青白く染まり、蝋人形のように冷たくなっていた。
喉元から声が漏れた。か細い吐息にも似た、悲鳴にも似た何かが。
華奢な矮躯を強く揺さぶる。何度も名前を呼んだ。勿論、返事は――ない。
その全身を抱きしめる。動かなくなってしまった彼女を、二度と抱擁を返してくれることのない彼女を。自らの衣服が、その赤く鉄さびた液体で汚れることすら意に介さずに。
改めて向き直った彼女の遺体には、心臓がなかった。何者かに抉られたかのように、ぽっかりと。左胸には、そこにあるべきものを失った空洞だけが残されていた。
それから――それから? 一体、どうしたんだっけ?
自分で警察と救急車を呼んだ? 警察が警察のお世話になるだなんて、全くもっておかしな話だ。
自宅に引かれる黄色の規制線。見慣れた制服の彼ら。騒ぎを聞きつけ、ごった返す野次馬。ひしめく喧噪。止まない雨音。せわしなく回る赤色に、甲高く鳴り響く警音器。
同情、哀れみ、憐憫、好奇、奇怪、恐怖、様々な感情の入り交じった数多の目線。
救急車。担架。寝袋のようなものに押し込められて、その顔は覆い隠された。運び込まれる遺体。閉じられる鉄扉。
鉄と、人間と、埃っぽい湿った臭いと。全てが混じり合って、飽和する。
眼前に映し出されるは、赤と、白と、黒と、まるで誰かの物語を遠巻きに見ているかのような、非現実的おとぎ話。
それらをずっと、傘も差さず虚ろに眺めていた。
断片的なことを曖昧に、しかしはっきりと覚えている。
霧崎絵留菜は何者かに殺害された。犯行動機も犯人も、不明瞭なままに。
誰かの叫び声が聞こえる。悲痛で聞くに堪えない、金切り声にも似た慟哭が。
それが自分のものであると自覚したのは、己の喉が焼けただれそうになるほどの痛みに苛まれてからだった。
――その日から、近光の世界は全てを失った。
忘れもしない。一月二十日のことだった。
それが、あの日の出来事。
霧崎絵留菜が殺害された事件は、「自宅で二十代の女性が死亡した」と銘打って報道された。金目のものが盗まれた形跡のなかったことから、警察は怨恨による殺人として捜査を進めている、とも。
初めこそ世間やSNSを騒がせていた事件であったが、それらはやがて、政治家の汚職や脱税問題、それ以上の猟奇殺人の陰に消えていった。
近光は、来る日も来る日も事件のことを調べ上げた。同じような手口で犯行に及んだ者はいないか、それによる被害者はいないか。
まるで、何かに取り憑かれたかのように。空いた時間はごくわずかでも調査に充てた。個人ブログやまことしやかに語られるSNS上の流言、都市伝説。全て片っ端から調べまくった。
探せど探せど、手がかりはおろか少しの情報ですら掴むことはできない。
あれだけ躍起になって行われていた捜査だって、あっけないほど早々に打ち切られてしまった。そんな杜撰な対応に、到底納得なんていくわけがない。
それでも諦めることはなかった。血眼になりながら、目の下にクマを作りながら。初めこそ協力的だった人々が、同情や侮蔑の視線を向けてもなお、足掻き続けた。温厚だと称された性格は、見る影もなく冷酷なものへと移ろっていった。かつての同僚に別人のようだと指摘されようが、知ったことではない。他者が勝手に貼り付けるレッテルや外的評価など無用の長物。
そもそも、前提自体が間違っているのだ――。あの絵留菜が誰かに恨まれ、挙げ句殺害されるだなんて、あり得ない。対人関係は極めて良好だったと認識している。
時は流れていく。立っているだけで凍死しそうだった外気は、今や汗ばむものへと変わっていった。それでも、雀の涙ほどの情報だって、何も掴めやしない。
そんな近光を嘲笑うかのように、やがて辞令が下る。
警視庁刑事部捜査第一課、第三強行犯捜査 殺人犯捜査第十三係――通称『十三係』。
聞いたこともない部署への異動。
お役御免、お払い箱、前触れもなく渡された引導。
自分はついに組織にすら見限られたのだと、瞬時に察しては落胆した。
いくらお荷物とはいえ、あれこれ適当な理由をつけて懲戒免職処分とならなかっただけ、よしと言えようか。手がかりを一番掴みやすい舞台から下ろされなかっただけ、ありがたいと思おうではないか。
特に逆らう理由もなかったので、大人しく従うことにした。全く以て未知なる世界ではあったが、そこに足を踏み入れることに抵抗はない。所属が変わろうが、やるべきことに変化はない。
だが、それは近光にとっては、またとない幸運なのであったと――、知るのはもう少し後の話。