対等なる個人-6
「はい。しかし、階級社会である日本では、実際に対等を保つのは、つまり『個人』を保つのはやはり非常に困難でした。
階級社会の特質として、支配層がもし下の者を大切に扱わなくても、罰することができません。一旦不公平、不公正が産まれると、階級社会ですから、下の方向へと延々と負の連鎖が始まります。これは単純化したモデルではありますが、実際にそのようなことは改憲前の日本では特に頻繁に起こっていたように思います。いわゆるモラルハザードなどと呼ばれていました。
超一流と言われていた企業の不祥事が相次ぎ、もはやどの企業が不祥事を起こしたのかも覚えていられない程でした。
スポーツ系の団体トップの不祥事も相次いで起きました。
何より一番ひどかったのは政権でしょう。国家の最高機関であるはずの国会を軽視して、いい加減な答弁を繰り返す。これは国会議員という国民の負託を受けて代表となった人々を軽視しているということであり、つまりは国民を軽視しているということです。
法案に必要なデータはいい加減極まりないものであり、それが野党により暴かれても、気にせず強行採決をする。後の取材ではいけしゃあしゃあと議論は十分に尽くしたと言い張る。こんなことが通用してしまうということは、じわりじわりと既に独裁国家の体を成しつつありました。
政権の中でも特に首相は、野党に痛いところを突かれるとすぐに前の政権よりはマシだったと論点をずらしました。基本的に他人のことを舐めていましたし、『他者』の痛みがわからない人間でした。実の父親にもそんなことを言われていたというのは有名な話です。
忘れられないのは現在の外国人労働者をさらなる劣悪な環境へと導いた法案に関する質疑において、人が何人もその時点で死んでいるというのにヘラヘラ笑って、そこでも馬鹿にした態度で答弁していた、その姿です」
「何だか、真面目な子供に政権運営を任せたほうがまだ良い世の中にしてくれそうな気すらしますね」
「本当にそのとおりです」
「私利私欲に走らず、みんなの幸せを真面目に考えてくれそうな気がします」
「しかし、実際には私利私欲にのみ走り、利権集団と化した政権がやりたい放題の状況が延々と続いていました。そして、その状況は更に悪化して現在へと引き継がれています。
与党は過半数以上を維持していましたから、なんでも通ってしまいます。しかし、だからといって国会なんて無意味だと国民が断じて無関心になってしまうのは、政権の思う壺でした。彼らの手口は常に権力によってゴリ押しし、権力を縛る鎖を緩め、その状態に国民を慣れさせることでした。多くの国民が異常事態を異常だと認識できていませんでした。民主主義と立憲主義の持つ自浄作用を壊すことが目的だったのです。
また、階級社会故に上が公正さを欠けば『じゃあ、自分だって良いだろう』と人々は思ってしまいます。そこに自己正当化の論理を見出し、取り込まれ、人を見上げるか、見下すかしかしなくなります」
目の前の不公正に負けて、自分も取り込まれれば、上の横暴に目を瞑ることになる。なぜなら、自分も共犯だからだ。やはり、ろくなシステムではないな、と寛は思った。
「モラルハザード、いや、モラルの崩壊、倫理に反すると言った方がより適切な社会状況でした。はっきり言って、社会は壊れようとしていました」
その後に訪れたのが支配層が望む社会だったというわけだ。しかし、いきなり変わったわけではない。まるでアメーバのようにじわじわと権利を侵害する醜悪なるものの姿が寛には幻視された。
なるほど、確かにそういう状況下で『個人』をただ一人きりで守るというのは難しそうだ。
「だからこそ、必要なのは、草の根的な、大衆の中での対等な話し合いであり、つまり『個人』と『個人』が連帯することなんですね」
『貧相な個人主義』も対等に話し合うことで育まれ、『豊かな個人主義』となる。その結果として、『貧相な公共意識』も『豊かな公共意識』へと変わる。
「はい。支配層を自認しているような連中から自発的に変わるというのは有り得ないことでしたから、主体的な個人同士の繋がりにより社会を変えていく必要がありました。この社会は自分たちのものだ、自分たちは責任を持っているのだと意識するだけでも全然違ったでしょう。
それは、少なくとも旧憲法下においては、本来の姿を取り戻すという正当性のある行為でした。だから、そのチャンスを逃さずに社会全体で公平、公正さを求める社会作りが必要でした」
支配層が殴ったからと言って、じゃあ、自分よりも下のものを殴ろうというのはおかしい。殴ったやつが罰を受ける社会でないとおかしい。こんな簡単な理屈はそれこそ子供でも理解ることだろう。しかし、それがずっとこの社会は是正されてこなかった。
権力を握っている者にも、いや、そういった人々にこそ適正な罰が必要だろう。人は必ず間違いを犯すし、それが見逃され続ければ、権力は腐る。これは人類が歴史から学べる真理の一つに思えた。歴史を学ぶのは、決して偽物の自尊心を満たすためではない。二度と同じ間違いを犯さないためだ。
また、権力者が『公共』を傷つけたり、簒奪したのであったなら、なおさら重罰であるべきだと寛は思った。なぜなら、そういった人々はみんなの幸福の結晶である『公共』を守り、育む立場にあるが故に権力をふるうことを許されていたのだ。それを私的に利用した上、みんなの幸福というとても大きなものを傷つけるなど言語道断だ。罪悪感というものがあるのかどうかすら疑ってしまう。ならば、やはり適正な罰を設け、間違いなく機能する仕組みを作る他ないだろう。そして、それにはやはり、国民の不断の努力が必要だ。
お隣の国を揶揄するネット記事の中に、大統領が捕まって二十年以上の懲役刑をくらったという話があった。それは十年以上前の話のようだった。しかし、それを揶揄する前に、自国を振り返ってみて、おかしさに気づくべきだろう。冷笑的に振る舞って思考停止している俺達を見て、支配層は嘲笑しているのだ。
先程、老人は多くの国民が異常事態を異常事態だと認識していなかったと言った。しかし、もしも私的な領域を目の前で侵されたら、誰だって反抗するだろう。例えば、家庭や自分、恋人のことだ。そんなことはもちろん許されるべきことではないからだ。
しかし、それが許されてしまう、正当性を得てしまう社会がすぐそこに来ているのだという危機を知らせ、共有することが当時重要だったはずだ。
恐らく憲法が変わっても、何も変わらないと多くの国民はなんとなく思っていたのだろう。しかし、それは間違いだった。それは足枷を明確につけられ、私的な領域など一切持てない、自らが所有物となった瞬間だった。
奴隷とは何も持たぬものだ。己の生命さえも自分の所有物ではないのだ。そのことは寛には身に染みて感じられた。そして、それでも、業火のような感情が身の内に育っていくのを感じた。
「『個人』同士の連帯を阻害する要因はいくつもあります。上下を正当化する様々な論理、分断化され、憎悪感情は募り、またそれを忌避し、何が自分の幸福かも理解らぬまま、いつの間にか檻に入れられていく。
そういった『貧相な個人主義』に陥らないようにすることが、まずは何より肝要でしょう。
とりあえず出来ることは近くに理解者を得ること、ということでしょうか。
『個人』は確かに時に寂しさに耐えてでも、己が努力にて対等を保たねばなりません。取り込まれてはなりません。そのためにハッタリ、やせ我慢、安いプライドなどを駆使します。しかし、それには限界があります。ただ一人きりなのと『個人』は違います。『個人』とは、人との関係の中で保たれ、育まれていくものに他なりません」
『幸福』、『他者』、『自分』、それらがなければ『個人』は産まれ得ない。そして、それは『他者』との関わり合いの中で、社会の中で育まれていく。
だが、もしかしたら、社会が巨大に成りすぎたということもあるのかもしれないな、と寛は思った。
あまりに巨大に、大量に成りすぎて、『他者』をじっくり見られなくなった弊害があるのかもしれない。
以前、友人が、飲食店員にお礼言うやつってなんなの?と言ってきたことがある。レジで金を払う際のことだろう。そんなの言われた方も困るよなって、もう一人の友人が言っていた。しかし、何故言ってはいけないのか?
金を払って商品を買うという行為の反対側には金を受け取って商品を売るという行為があるわけで、対等な関係である。そこに店員が「ありがとうございました」と載せてきたなら「どうも、ごちそうさまでした」位返したって良いだろう。別に彼らは客の下に居るわけでも、上に居るわけでもない。むしろ、お礼を言う人は店員をきちんと対等な人だと捉えられていると言えるのではないか。
だが、ここには上下観とは別に、人を人としてすら見ていないのではないかという疑念が浮かぶ。人ではなく、何か役割を果たすだけの人形のように見えているのではないか。
確かにファーストフード店で目の前が衝立のカウンター席で食べている時など、自分自身のことでさえ飼い葉を食べている牛の気分になることがある。
また、通学時の満員電車に揉まれている時もそうだろう。人口が減ったら、満員電車も無くなりそうなものだが、それに合わせて電車の運行本数も減らしているから相変わらず満員電車はある。
多くの大人は死にそうな顔をしてつり革に捕まり、うつむいている。目を細めて見れば、絞首刑を連想させるシルエットだ。急に怒り出す人もよく見かける。降車時に足が当たっただの、イヤホンから音楽が漏れているだのの理由でだ。だが、それらはすべて満員電車という環境ならば仕方のないことだ。混んでいれば移動時に足も当たるだろうし、至近距離ならば音楽だって漏れ聞こえてしまうだろう。
彼らは常に耐えていて、ふとしたきっかけで暴発してしまったように見えた。そして、その姿はとても人間らしいもののように見えた。つまり、普段彼らは自由な人間性を押し込めているのである。まるで出荷される商品のように、きちんと自身を梱包して大人しくしているというわけだ。
だが、そういった生活様式は自分自身からして、尊重されるべき人間であるという意識を薄れさせるものなのではないか。そして、結果として他人のこともそう見てしまうのである。
巨大で、大量なマス社会は確かに強大で、かつ便利だ。だが、目の前の人とじっくりと向き合う、つまり自分と同じ人間であるということを忘れがちにする社会のようにも思えた。入れ替わり、立ち替わり、目の前に現れては消えていく、スクリーンに映された影のような平面的な人間観に陥りがちなのではないか。そして、そこでは自分自身も平面的な影に過ぎない。
では、そんな社会で求める『幸福』とは何なのであろうか?やはり、巨大で大量で、強大で便利なものになってしまうのか。
それはどうしたって相対的な『幸福』だろう。しかも、消費的なものである。また、自分自身でさえ消費されるものとなってしまう。
その社会で一本貫かれる指標が、金ということになるのだろう。あらゆるものを相対化、数値化し、換算してくれるから、あらゆるものの社会的位置を示してくれる。
確かに便利かもしれない。己の社会的位置を示してくれるし、金さえあればその社会での存在価値も高められる。
だが、それは所詮取り込まれたものの価値観だ。外部的な指標に過ぎない。
それは社会的フィクションであり、所詮泥で塗り固めた巨大な高層タワーに過ぎない。
確かにフィクションでも構わない。どのような社会でもフィクションには違いない。それに自覚的で、選べるならなお良いが、問題は、そのフィクションが『幸福』に根ざしているかだろう。そして、幸福は私欲のみでは有り得ない。『他者』もいて、『自分』もいるから社会なのだ。
あらゆる人が『幸福』になるためには『個人』という基盤なしには有り得ない。これは真理の一つだろう。
また、高いとか低いとか言っているうちには、絶対的な幸福は訪れない。それどころか、そうしているうちに『幸福』を追い求めているという大前提さえ人は忘れてしまうのではないか。
悪貨は良貨を駆逐するのが世の習いというが、人は物ではない。人が人をまっすぐに信頼できれば、そのことを思い出せれば、どうにかなったのではないか。いや、どうにかなるのではないか。少なくとも、そう信じて生きる他ないように寛には思われた。
マス社会における金という指標に、国家が憲法でお墨付きまで与えてコントロールしているのが今の日本社会だ。
国家とは本当に何のために必要なのか?内にあっては、弱者を守るため。外にあっては、戦争をしないよう努力するための機関に過ぎない。少なくとも、国民の幸福を搾取、簒奪するなどあってはならないだろう。そのことは先の大戦で既に痛いほど学んだはずだ。
国家があって、社会があるのではない。社会があって、国家があるのだ。そして、社会は人なくしては成立し得ない。
しかし、実際には国家と社会が混濁してしまった。本来支配層のための国家にならないよう対峙しなければならない個人、ひいては大衆社会が、支配国家に迎合してしまった。その結果、自分は支配層側なのだと勘違いする人々が続出する始末だ。国家と個人が混濁しているのである。
国家のことを無批判に信用するのはあまりに愚かなことだ。そんなことをしていれば、手品師なのに超能力者だと平気で嘘をつき、大切なものを簒奪していく。
今や国家は何よりも肥大してしまった。社会を国家で塗りつぶし、人まで圧し潰そうとしている。内にあっては、弱者を虐げ、強者を助ける。外にあっては、強者におもねり、国民を使って戦争のお手伝いまでする。こんなのは本末転倒だろう。
こんな社会で正気を保つには、共感してくれる他者が必要だった。
おかしいことに気付き、理解してくれる他者。その他者に触れることで、豊かな幸福にも気付けるだろう。そんな特別な他者はやはり、寛にとっては一人しか思い浮かばなかった。
「ありがとうございました」
寛は立ち上がった。
「行きますか?」
「はい。会いたい人が居ます」
「それはとても良いことですね」
老人は笑った。
寛はもう一度お礼を言って、立ち去った。
振り返ると老人は一人、木彫りに没頭していた。




