奴隷となった国民-2
「ありませんね。確かに彼らは私から見れば極悪人です。たいへん罪深い恥知らずな人間です。
例えば驚くべきことに、その政商は後に日本で最大規模の派遣会社の会長となります。その後も政策会議などに出席し、利益誘導が疑われていました。
また、彼は若者へのアドバイスとして、『君たちには貧しくなる自由がある。何もしたくないならそれでいい。貧しさをエンジョイしたらいい。けど、頑張って成功した人の足を引っ張るな』などと言っていましたね」
「それはなんだか、おかしくないですか?」
世の中のルールを作る側の人間が自分に有利なルールを作っておいて、不利な環境に放り込まれて割を食う若者には自己責任を押し付けるのである。
こんな物言いが許されて良いのか、と寛は思った。
「そうですね。
確かに自由というのは、反面とても厳しいものですから、個人が貧しさや破滅に向かう自由というものもあるでしょう。それは良いでしょう。
しかし、多くの人は何もしないから貧しくなっているわけではありません。
恐らく彼の言いたいことは、リスクをとって、起業でもして成功の果実を狙え、といったことだったのでしょう。
それはよっぽど競争資源に恵まれた人以外失敗する道のはずですが、それも自由だと言えばそうでしょう。努力しようとする意志を否定する気はありません。若者の希望の光を徒に潰す気も毛頭ありません。自由とは厳しくもあり、かつとても素晴らしいものだということは理解できます。
しかし、彼自身は多くの既存企業で役員を務めていますが、リスクをとって、一から起業して成功したことがあるのか、残念ながら私は知りません」
「弱肉強食のような社会を導きながらも、当の本人はずいぶん安全なところからものを言っているように思えますね」
「ええ。もしくは、元々学者畑の人のようですから、そこからのし上がって俺は政商にまで成功したんだという矜持のようなものがあるのかもしれません。つまり、そこで自分は努力して成功したから助言をしているのだということです」
「とてつもない暴言ですけどね」
「ええ。彼のしたことは労働者の権利という公共の財産を簒奪し、みんなの権利を自分の利益に変えているように見受けられます。
そのような大切なものを簒奪した人物に自由や努力の尊さを説いてなどもらいたくないですね。
彼らは罪深いことは確かです。しかし、法そのものを変えられては与える罰がありません。
新自由主義者は政権と結託し、時には政権自体が新自由主義者となり、大衆の権利を簒奪することで自らの利益とします。
これを努力と認めていいとは、私には到底思えませんね。
極論すれば、努力して法律を変えれば、泥棒まで正当化されてしまうのか、と思うからです。
果たして、そこに『みんなの幸せを願う心』はあるのでしょうか。全体の上位者である自分たちだけが良ければそれで良いといった、支配層の差別的な心がそこにあるのではないでしょうか」
いくら法的な問題をクリアし、受ける罰がないからと言って恥やモラルといったものはないのか、と寛は訝しんだ。盗人猛々しいとはこのことだと思った。同時にこれが新自由主義者というものかと改めて得心のいく気分であった。
また、こういう人々にこそ罰が必要なのではないか、と寛は思った。罰がなければ彼らは増長するばかりだろう。そして、それは歴史修正主義者にも言えることだ。彼らは罪の上に罪を重ねている。
よくヘイトスピーカーが自分たちを差別するなと言っているが、それは違うだろう。彼らは『公共』を傷つけているのである。例えば公園の遊具を徒に破壊する子供が居たら、注意するのが正しい行いというものだろう。それと同様にヘイトスピーカーを批判するというのは、社会の一員として正しい反応だろう。彼らの悪行は子供の比ではない。しかし、彼らは見逃され続け、増長を続けている。
それにしても罰がなければ、罪を犯しているということに彼らは気づけないものだろうか。
罰が無ければ罪を感じられないのか。いや、それでも彼らは罪を感じることはないかもしれない。何か基本的なことが欠けているし、自己正当化には余念がないからだ。
そして、新自由主義者のような考え方は実に身近であることが寛には実感された。
寛が言った。
「恐らく彼らは批判されたら、こう返すのではないでしょうか。『弱肉強食の世の中でぼうっとしている方が悪いんだ。情報弱者が悪いし、騙される方が悪い。俺たちは強くて、賢いから利益を独占してもそれは仕方のないことなのだ』と」
寛は実にすらすら彼らの気持ちを代弁できてしまった。なぜなら、こういった考えの持ち主はなぜか貧乏なはずの大衆にも溢れているからだ。彼らは現在も搾取されてばかりいるのだが。
「はは、それはものすごく言いそうですね。
一見、弱肉強食という言葉は、何か生物全般が宿命付けられている真理のように思われます。そう考えると、なんだか説得されてしまいそうですね。しかし、彼らの言うそれは本当に弱肉強食なのでしょうか。吟味が必要な気がします。
弱肉強食とは自然界において、何でしょう?」
寛は少し考えてから、言った。
「えっと、例えばライオンがシマウマを食べるのは当然で、それは力の関係上仕方のないことだということではないですか?」
「そうですね。では、翻って、人間社会で弱肉強食を唱える人というのはどういう人でしょう?」
「う~ん、別に力が強いからってわけじゃないですよね。何か頭が良いからとか、そもそもお金があるからだとか、またはそうなりたい人が言いがちなイメージがあります」
「そうですね。自然界とはずいぶん違いますね。ということは、つまりここでいう弱肉強食とは人間社会上にのみ作られた階級化のためのフィクションだということです。
もちろんこのフィクションを信じるのは自由なのですが、これを信じて資するところがあるのは既に支配層である人々だけでしょう。
これを大衆の人々が信じたところで、彼らの幸福に資するところがあるのでしょうか。おそらく恵まれない環境に自分の中で折り合いをつけられるくらいのものでしょう」
反知性主義に無自覚な大衆が、また自覚的な支配層に都合よく使われているようだ、と寛は思った。
気をつけていないと、実に様々な言葉で分断されて階級に囚われてしまう。そして、それに自覚的でないと、批判を向ける矛先すら間違えてしまうのだ。それは無自覚に階級社会を強化し、再生産し、支配層に利する行為だ。
「階級社会というのはやはり、支配層にとっては非常に都合の良いものですね」
「ええ。頑なに支配層は階級社会を守ってきたものと思われます。なぜなら既得権益を持っている支配層にとってこんなに楽な社会構造はないのです。
日本における大衆の社会正義とは秩序そのものを守ることでした。
それでは、それによって大衆が得るものは何でしょう?」
何だろうか。腐敗したナショナリズム。相手より一枚上だと思える優越心。自分を納得させる方便。
「あ、根源的欲求、自分の居所を得たいっていう欲求ですか?」
老人は頷いた。
「はい。恐らくそうだと思うのです。
大衆は大衆であるがゆえに、つまり多数派は多数派であるがゆえに安心できます。
だから、その秩序を壊そうとするものは敵なのです。だから、大衆である多数派が勝手に階級構造を守ってくれるのです」
なるほど、これは楽だわ。寛は思った。
「安心できるという効用が実は日本の大衆的反知性主義の源泉でしょう。
そして、現憲法言うところの『公益及び公の秩序』に反するなというのは悲しいかな、こうした大衆の性質を先取りしたものでした。
本来ここには『公共の福祉』という言葉が入っていたのですが」
『公益及び公の秩序』とは現憲法にある言葉だ。これによって、国家からの様々な制約が正当化されている。『公益及び公の秩序』とは『国益及び国家の秩序』ということであり、要するに支配層の利益とその利益を産む階級構造に国民は反してはならないというだけのことだろうと、今の寛には理解出来た。
「『公共の福祉』とは何でしょう?社会理念とか社会正義のことでしょうか」
福祉とは幸福のことだろう。ということはみんなの幸福ということだろうか。
「『公共の福祉』とは多義的な言葉であり、歴史的にも変遷しているので定義の非常に難しい言葉なのですが、改憲前の最も有力な説は個人と個人の間での人権衝突の際に調整のために現れる公平原理とされていたようです」
「え~と、どういうことでしょう?」
「個人が人権を自由にふるう時、全員が全員気ままに振る舞ってしまえば必ずどこかで衝突が起こりますよね。
例えば、あなたがテレビゲームをしていたとしましょう。そこに弟がいたとします。他のゲームがしたいとやってきたとしましょう。でも、あなたは始めたばかりで、まだゲームを続けたいのです。あなたならどうしますか?」
寛は架空の弟を想像して考えてみた。
「うーん、そうですねぇ。一時間交代とかが妥当じゃないですかね」
「なるほど。その時、きちんとゲームを始めたばかりだと事情を説明しますか?」
「まぁ、多分」
「それなら弟はある程度納得してくれそうですね。
ところでこの二人の間にあるのは一時間毎という、公平の原理ですよね。それはお互いのゲームをしたいという個人的欲求に基づく人権衝突を上手く調整してくれました。
非常に卑近な例ではありますけど、これは『公共の福祉』が立ち現れた一例だと言えると思うのです」
「なんとなくわかった気がします」
「良かったです。
ところで、あなたは先程『公共の福祉』とは社会正義や社会理念のことかとおっしゃいましたね。字義どおりの『公に共有する幸福』だと予想したわけですね」
「ええ」




