60話 無理、私には無理
「私は、母さんよ、千秋の母さんよ」
「母さんは死んだわ」
「死んじゃいない、こうして千秋の前にいる
じゃないの」
「騙されないわよ、この化け物」
千秋は剣を再び上げた。
母を謀る半魚人、許し難き化け物だ。
「その手には乗らないわよ」
「私は本当にお前の母さんなんだよ、私を殺せ
ば、くっくっくっ」
突然声の音色が変わった。
野太い、男の声にだ。
「女、俺の体の中にお前の母の核がある。俺を殺
せばお前の母の核も散る、それでもいいのだな」
「何を言ってるの」
「女、お前に教えてやる。俺たち半魚人は、グー
ル化した人間の核を(すみか)にして変異した。
いわば人間の化身だ、俺様の体の中には貴様の
母の(心の核)が住んでいる。この核のお蔭で
俺はこの力を手に入れたのだ」
千秋は黙ったまま半魚人の言葉を聞いている。
まんざら戯言とも思えないからだ。
「グールになり、生きることに絶望した人間共
は足に鎖を着け海に飛び込んだ。そのまま朽ち
果てるためにな。ところが肉体は朽ち果てたが、
グール化した人間の(心の核)はそのまま残っ
たんだ。その心の核を喰らった俺が、こうして
見事な半魚人になったわけだ、いわば、俺はお
前の母親と言うわけだ」
「ふざけたことを言わないで、何が心の核よ、そ
んなものある訳がないでしょ」
「心の核の存在も知らないのか、愚かなグールよ
な、貴様は」
「私はグールじゃない、人間よ!」
「人間?ふざけたことを言うな、俺と対等に戦
える相手は人間にはいない」
「黙りなさい」
千秋は半魚人を切り割こうとした。
しかしどうしても刀を振り下ろせない。
半魚人の言葉を信じたわけではない。
心の核の話を信じたわけではない。
ただ、ただ
母の匂いが充満しているのだ。
充満した母の匂いが、千秋の全身を固縛し、
動けなくしているのだ。
「母さんは死んでもういないのよ」
千秋は剣を下ろし、両手で顔を覆った。
懐かしい匂いの柔らかさは、千秋を包み、涙さえ
溢れさせてくる。
戦えない・・・
切れない・・・
倒せない・・・
「無理、私には無理」




