220話 千秋の恐怖
千秋の前に姉の明菜が立っている。
燃え滾る瞳を千秋に晒し、口は血で真
っ赤だ。
「千秋、あなた私を軽蔑しているでしょ」
口の血を拭いながら姉が薄ら笑っている。
「ううん、軽蔑などしてない、私は姉ちゃんを
軽蔑などしていないわ」
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十年前突然グール化が始まった。
栗原家は、千秋を含め四人家族だった。
仲の良い家族だ。
姉の明菜は千秋より四歳年上、成人式に着て行
く着物の話を家族でしていた時、姉と母の姿が
突然変わった。
赤く粘ついた液体が口から流れ、両端は耳元ま
で裂けていた。
大きく口を開けると、生臭い息が部屋中に漂い
千秋は思わず父の陰に隠れた。
突然、何の前触れもない豹変だ。
今ならそれが、グール化とわかるのだが、その時
はまだわからなかった。
姉と母の急変が理解できなかったのだ。
それでも父は何かを悟ったのだろう。
千秋を部屋から押し出すと
「逃げろ」
と叫んだ。
逃げなければ、大変な事になる、周囲の雰囲
気はそう物語っていたが、姉と母を置いて逃
げるなど千秋にできるはずがない。
それでも父が押し出すように千秋を部屋から
追い出すから、千秋はしかたなく押し入れに
逃げ込んだ。
押し入れの中で千秋は膝を抱え丸まって震え
た。
震えるしかなかっのだ。
部屋の外では大きな音がし、やがて骨を噛み
砕くような鈍い音が響いてきた。
争うような大きな音が千秋に危機感を知らせる。
何かが起きてる。
大変な事が。
夢ではない恐怖の現実が、今千秋を襲っている
のだ。
父は・・・
母は・・・
姉は・・・
心配になり、思わず押し入れの隙間から外を
見た。
目の前に父の顔があった。
血だらけで、顔には胴体が無い。
頭だけが千秋の前に転がっていたのだ。
その向こうで、グール化した母と姉が争っている。
父の身体を奪い合っているのだ。
千秋は唖然としてそれを見ていた。
恐怖を通り越し、感情が毛穴から抜き出てしまっ
たようだ。
音無しの映像を見ているように、ただ画面だけが
動いている。
グール化した母と姉の争いは長く続いた。
やがて姉が勝利したのだろう。
母が外へ逃げ出すと、姉が床に転がっている父の
胴体をムシャムシャト食べ始めた。
胴体を食べ終わると、千秋の前にあった父の頭を
引き寄せ、それも又、耳からかじりついた。
千秋は食べられる父の頭を
食べる姉の明菜を
ただただ、呆然と、隙間から見ていた。
目が離せない
いや、離せない、
いや、動くことができないのだ。
「姉ちゃん・・・」
父の頭を喰い終わった明菜が、押し入れに視
線を移した。
隙間から覗く千秋の瞳と視線が合うと、一瞬
身を固め、そのまま、一気に外に飛び出した。
千秋はそのまま、ずっと押し入れの中にいた。
出ることが出来なかった。
恐怖からではない。
・・いや恐怖か。
しかしこの恐怖は姉に対する恐怖ではない。
姉を憎んでしまうのではないかと言う自分の
気持ちに恐怖したのだ。




