三、繰り返し(エストリビージョ)――踊り明かす夜
三、繰り返し(エストリビージョ)――踊り明かす夜
「一、二、三……そう、そこで回転だ。その繰り返し! もう一度最初から!」
大きな手拍子と掛け声、そして厳しい叱責。これは舞踊学校の初級訓練生に対するレッスン、ではない。
フェリアまで三週間と少し。時が迫り、ディオンは決意したのだ。エスメラルダの素質と才能は買った。だが彼女の感性の導くままに任せていたのでは、当日の舞台の出来は最後までわからないままだろう。プロの踊り手である自分が、下手な踊りを見せるわけにはいかない。
だから、完璧に合わせて仕上げる。当然といえば当然の決心と目標に基づき、ディオンはかくして鬼教師と変貌した。対するエスメラルダのほうは、
「わあ、本当に先生みたい! ねえ、こうして眉間に皺を寄せて、腰に手を当ててみて!」
などと言って手を叩いている。そう言われなくても取ってしまっていたポーズに、エスメラルダは無邪気な歓声を上げた。
「やだ、そっくり! 昔ね、そんな風によく怒られたの。けど授業ってものは同じことの繰り返しで、退屈で仕方なかったわ。ねえディオン、これまだやるの?」
「そういう台詞は……ちゃんと俺の指示に付いてきてから言ってくれないか」
低く押し殺した声音にも、額にぴくぴくと青筋が立っていることにも、エスメラルダは気づいていないようだった。
「はあい」なんて茶目っ気たっぷりに舌を出し、踊り始めの姿勢を取って指示を待つ、という具合だ。
(素直は素直なんだが、真面目にやっているのかどうか……)
ため息が漏れそうなのを抑えて、ディオンはまたリズムを取る。
「一、二、三……違う、ここでパサーダだ。足は左から! 器用な間違い方をするなと言うんだ!」
「あ、ごめんなさい。またやっちゃった」
なんか楽しくなっちゃって、とリズムを速く取ってみたり、かと思えばパサーダと呼ばれる、パートナーと位置を入れ替えるステップを間違えてみたり。
エスメラルダの動きはとにかく自由気ままで奔放。まるで基本を無視したやり方ばかりなのだ。それなのに難しい動きには全て付いてくる。しかし、見て真似しているだけで知識は皆無。あまりのひどさに辟易して、まずは基本を叩き込んでやろうと意気込むディオンだったが、エスメラルダはぷう、と頬を膨らませ唇をとがらせている。ディオンの苛立ちなど露知らず、
「ねえもうこの練習はやめて、早く本番に向けて踊りを合わせましょうよ」と妙なやる気を見せてくる始末だ。
「ディオン? どうしたの? 疲れたの? ホセに言って、レモン水でも用意してもらいましょうか」
「……結構だ」
両側からぴょこぴょこ顔を覗かせ、様子を見られ、ますます眉間に皺が寄る。
「ディオンったら……もしかして怒ってるの?」
(もしかして、だと?)
もしかしなくても怒っているに決まっている、と爆発させそうになった感情は、途端に泣きそうな顔をされて外に出せなくなった。
「ごめんなさいごめんなさい。怒らないで……! 私、ちゃんと頑張るから。言われた通りにするから。お願いだから……」
捨てないで、と子犬のようにすがられ、言葉を失う。
『彼と踊ることが、今の私のすべてなの』
あの時、レアンドロにそう言い切った、エスメラルダの言葉と笑顔が脳裏で繰り返される。今、目の前にあるのと同じ澄んだ緑の瞳。その純真さと愛らしさが、記憶の中の別の少女を思い出させる。
「ミ・カリニョ……」
私の愛しい人、と何度も呼ばれた言葉を呟いていた。よく聞こえなかったのか、エスメラルダはまだ怯えたようにこちらを見上げている。
『今度のフェリアが終わるまででいいの』
同時に蘇ったのは、カルロスの事務所でそう断言したエスメラルダだった。
これほどに懐いて、自分と踊ることが全てだとか言っておきながら、どういう意味なのか。フェリアで踊れればもう自分に用はないとでも――?
(どうせ、誰も俺自身など見ていない。俺を愛する者なんて、いるはずがないんだ)
「ディオン?」
記憶の中の少女と同じ呼び方、同じ接し方。無性に苛立ったディオンに、物騒な考えが閃く。
(いっそ、壊してやろうか)
何もかも滅茶苦茶にして、慕ってくることなどできないようにして。そうすれば面倒に振り回されることもなく、心を乱されることもない。理性の綱を知らずに断ち切ってくれた少女に片手を差し伸べる。小首を傾げ、何の疑いもなくその手を取るエスメラルダ。そのまま強く引き寄せ、華奢な体を腕の中に収める。
「ディ……オン?」
細い声に呼ばれても無視だ。握っていた左手首を頭上に上げさせ、片方も同じようにする。両腕で作られた楕円は、さながら踊り始めのポーズと同じだった。
「ああ、レッスンの続きなのね? なんだ、急に怖い顔をするからびっくりしちゃった」
ほっとしたのか笑顔になったエスメラルダに、人差し指を立てて静かにするよう命じる。
「このまま動かないで。俺の目を見るんだ」
囁く声に剣呑な響きが込められていることに、まだエスメラルダは気づいていない。
数度瞬いた後に、緑の双眸がこちらに向けて固定される。その奥を覗き込むようにしながら、ディオンは左手でエスメラルダの腰をぐっと引き寄せた。自然、至近距離で互いの顔が見え、息遣いまでも近くなる。そのまま黙って顔を近づけると、さすがのエスメラルダも驚いたようで、大きな目が猫のように丸くなる。それでも今更遠慮してやるつもりはなかった。
「目線は外すなと言ったはずだ」
低く指示すると、困惑から緊張に変わった表情でエスメラルダが小さく頷いた。再びかち合った視線を更に絡めるように、深く見つめる。息がかかる距離で、ほとんど抱き合っているも同じ格好である。
(さあ、どうする? お嬢さん(セニョリータ))
暗い微笑を湛え、ディオンはつう、と右手の指先でエスメラルダの腕から脇、腰までの線をなぞる。
「……っ」
くすぐったそうに身をよじるエスメラルダの耳元に、再度囁く。
「動くなとも言ったぞ。俺が言う通りに、何でもやるんだろう?」
囁きついでに、耳に息を吹きかけるようにする。声音がやけに甘く、妖しくなっていくことも自覚しながら、言葉を継いだ。
「レッスンの続きだ。フラメンコでは足を踏み鳴らすサパティアードに目が行きやすいが、腕や手首の動かし方もそれと同様に重要なんだ」
もっともらしく(確かに事実である)言うと、その体勢のままエスメラルダはこくりと頷く。ディオンの本意など知らず。
「腕はしなやかに、大きく。手首はやわらかく……そう、こんな風に」
いちいち該当箇所に触れ、優しく撫でながらディオンが教えると、エスメラルダは真面目に実行する。ただ、その頬が少し染まっていて――ディオンの意地悪心に火を点けた。
(初心な反応が本物なのか、それとも演技なのか。暴くぐらいの権利は、俺にはあるはずだろう? 『聖女』の花娘)
「ほら、俯いていたら踊れないぞ? 回転の時には、こうやって抱き寄せられるぐらいに近づいてもいい」
右手で顎を上向かせ、左手で腰をより深く引き寄せる。驚くエスメラルダの息がかかり、びくりとした腰の細さを改めて意識して。寸止めにして脅かす程度のつもりが、完全に止められなくなった。顎を持ち上げていた右手を滑らせ、うなじから首の後ろ、豊かな髪の束に差し入れる。
「踊る相手から目を逸らさず、何よりも心を合わせる。熱情と激情のあふれるままに、お互いを求める……それが、真のセビジャーナスだ」
軽く握っていた髪に強く指を絡ませながら上向かせ、自身の首も傾けて。
「ディ……」
呼ぼうとする小さな唇に、まさにあと少しで触れるところまで近づいた。その刹那だった。
「お邪魔しまーすっ、っとっとっと! おお、マジで邪魔だった?」などというすっとぼけた、実にわざとらしい声が来訪を告げたのは。
「アロンソ……勝手に入ってくるなとあれほど言ったはずだが」
平然とした風を装い、エスメラルダから離れる。その実低く押し殺した自分の声に、いつもより物騒な響きがこもっていることにアロンソは気づいたようだった。
「いやあ、悪い悪い。そんなに怒んなって」
笑顔で両手を挙げつつ、「まさか日も高いうちから取り込み中とは思わなくてさ」などと声を落として囁かれる。エスメラルダには聞こえないように言ってくるところが余計に腹立たしい。
「とにかくさっさと用件だけ済ませて帰……」
片手を振って追い払う気満々のディオンの横から、エスメラルダが出迎えた。
「お久しぶりです、アロンソさん!」
「本当だよね~! 元気そうで何より。あいかわらず可愛いね、エスメラルダちゃんは」
(アロンソはともかく、なんでこいつまで嬉しそうなんだ?)
というより、どこかほっとしたようにやわらかい笑顔を見せているエスメラルダ。たった今までの緊迫した空気はどこへやら、ディオンをさしおき、アロンソと二人でたわいない話で笑っているのだ。
「それで? 『太陽と海のカンテ』の進み具合はどうなんだよ」
「はあ?」
「とぼけんなって。ついに伝説のセビジャーナスが見られるらしいって、街中で噂になってるぞ。練習してんだろ? あのドン・クリスティアンがついにセビジャーナスを踊るんだ。そりゃ幻の名曲ぐらいやらないとかっこつかねえよなあ」
うんうん、と勝手に頷いているアロンソの向かい側で、エスメラルダが首を傾げる。
「太陽と海の……?」
「そうそう、例の聖人ルロンサがかつて踊ったとかいう伝承の中だけの、セビジャーナスの名曲なんだよ。あれ、エスメラルダちゃんは知らない?」
「ええ、初めて聞きました。ねえ、ディオン、そんな素敵な曲があるの? じゃあ早くそれを練習しましょうよ!」
きらきらした目で見上げてくるエスメラルダと、にやにや顔のアロンソ。後者のほうは、明らかに実情を察知していることがわかる。どうせホセあたりに聞いておきながら、あえて噂をぶつけて余計に自分を困らせてやろうという魂胆なのだろう。
(それにしても、やはりこいつ――)
ディオンが確信した次の瞬間、まるでそれを待っていたかのようにアロンソが新聞を差し出した。そういえば練習に夢中で、まだ読んでいなかった朝刊だ。
「増える難民対処が当面の議題……ラハール王女、亡命か。新たな火種の可能性……これ、本当なのか?」
示された見出しを読み上げ、ディオンが顔をしかめる。
「そ。まだ行方不明ってだけで、亡命かどうかはわかんないんだけどねー。これでまた取り締まり強化ってわけだ。俺の仕事も増える一方。頭痛えぜ」
「……エスメラルダ? どこへ行くんだ」
二人の話す横をすり抜けていこうとした背中は、ディオンの声にぎくっとしたように振り返った。
「い、いいえ、別に。あ、そうそう! ホセに飲み物でも用意してもらおうと思って」
「じゃあ、オルチャタにしてくれ。とびきり冷やしたやつをな」
「オ、オルチャタね。わかったわ」
慣れない単語を繰り返すように、エスメラルダは了承する。その姿が廊下の奥へ消えてから、アロンソと目を合わせた。
「お前、もしかしてその増えた仕事とやらでここに来てるんじゃないだろうな?」
「そんな、まさか。あくまで俺は大事なアミーゴと可愛いパートナーの様子を見に来ただけだぜ? じゃあ、今日はこれで。ああ、オルチャタは二人でごゆっくりどうぞ。飲んだこともないみたいだし、気に入るんじゃないか?」
言われ、どきりとする。それを見越してあえて試した自分の意図も、この友人は気づいているのだ。気づいた上で、こうして伝えに来た。
「知ってるか? ディオン」
去り際に声をかけられ、顔を上げる。
「かの火種、ラハールは、有名なエメラルドの産地。そして現在行方不明中の王女も、同じ色の瞳をしてるって噂があるんだぜ」
今度こそ真面目な瞳で言い残し、アロンソは出て行った。
(まさか――だよな)
そんなばかげたことがあるはずがない。そもそも、ラハールは南方大陸の国。ここ西方大陸の人間よりも、浅黒い肌の色をしているはずだ。
思いながらも確かめるのは、先ほどの紙面。消えたラハールの王女とは、長年子供に恵まれなかったという国王夫妻の一人娘であるらしい。まだ十七になったばかりの、ラハール王の掌中の珠。そんな高貴な少女が、たった一人単身で、こんな海を越えたトレスタになんかいるはずがないのだ。
「はは、それはさすがに考えすぎだろ」
わざわざ声に出して否定したのは、一抹の不安がよぎったから、なのだが。
有名な料理も飲み物も、トレスタ人なら知らぬはずのない聖人ルロンサの伝承さえも知らない、不思議な少女。どこから来た、どんな生まれなのかさえも知らない、謎の――。
「ディオンったら! ほら、持ってきたわよ? オルチャタ」
チュファと呼ばれるかやつり草の地下茎。そのペーストに水とシナモン、砂糖を加えた冷たい飲み物。トレスタ人ならば小さい頃から愛飲してきたはずのオルチャタを、エスメラルダは初めて飲んだ顔で喜んでいる。
(いや、そう、それに言葉だ。トレスタ語だって、こんなに流暢に喋ってるじゃないか)
物自体を知らなかったとしても、ラハールなどという遠方の国から来たばかりでこれほど話せるわけがない。白い肌の者は珍しいが、大国であるセリジアやレスディアならば北方の民も多く移住している。そのどちらかからトレスタにやって来たばかりなのかもしれない。西方の言葉はどこも似通っているから、トレスタ語も習得したんだろう。そうだ、そうに違いない。
エメラルドの瞳を見つめながら、ディオンは浮かんだ可能性をかき消した。これ以上の厄介事なんて御免なのだ。
(でも、確かめる必要はあるな)
「ねえ、ディオン。行きたいところがあるの」
考えた刹那に振り向かれ、ぎくりとした。無邪気な顔でエスメラルダが告げた場所とは――。
赤や青、黄色に緑。色とりどりの光が床に美しい模様を形作っている。静寂に包まれた聖堂の、ステンドグラスを通して差し込む夕焼けの光だ。
「天にまします我らの父よ、願わくは、御名を尊まれんことを。御国の来たらんことを――」
司祭の読み上げる祈りの文句を、訪れた聖徒たちが繰り返す。一番後ろの席に隣り合って腰掛けたエスメラルダは、神妙な顔つきでその後の聖歌斉唱にも聞き入っていた。歌わずに前列をぼんやり見つめながら、ディオンは不思議な気分でいた。
(静かにミサに参列するなんて、何年ぶりかな)
概して信仰深いトレスタ人。その中に、少なくとも自分はあてはまっていないだろう、とディオンは確信できた。もちろん、有名バイラオールとしての立場上、教会に通わないわけには行かない。日曜のミサには形ばかり参加してきたが、こうして平日の夕刻にやってくることなど滅多になかった。
「それでは、聖体拝領の儀を行います。前へどうぞ」
ミサの終盤、ソラノ神と弟子たちの最後の晩餐を記念して行われる儀式の時間。ディオンの疑念は確固たるものとなった。ミサは基本的に誰でも参列できるが、この儀式に参加できるのは洗礼を受けた信者だけだ。エスメラルダは、やはり動かなかった。頭に白いレースのヴェールを被った女性たちをただ遠くから見ている。ヴェールだけならば、持参していなかったなどの言い訳(これも相当苦しいものだが)もできるだろう。だが、非信者となると、
(やはり、トレスタ――いや、この西方大陸の人間じゃないな)
短期の旅人ならばともかく、長期で暮らす場合、例え異教徒であったとしてもいずれは洗礼を受け、教会に通わざるを得ないのが西方の風習だ。それが地域社会と付き合っていくための方法でもあるのだから。
「行ってきていいわよ、クリスティアン」
笑って見送ろうとするエスメラルダは、なぜかひどく寂しげだった。
「……一緒に来てみな」
手を差し伸べると、エスメラルダはためらいがちに握り、おずおずと付いてくる。
信者に分け与えられるパンと葡萄酒はもらえなくとも、参列者に許されたささやかな権利がまだあった。
「司祭様、彼女にどうぞ祝福を」
年老いた司祭は一瞬、エスメラルダを驚きと共に見つめたが、すぐに優しく微笑んだ。軽く下げられたエスメラルダの頭に手を置き、司祭は厳かに述べる。
「ソラノ神と、聖母レーアの御名において、願う。この若き迷える子羊に、主の愛と祝福が与えられますように」
これが果たしてエスメラルダの望みなのかどうか、何も確証などない。けれど、ゆっくりと上げられた顔からは、少しだけ悲しみの色が拭い去られていたように見えた。
ミサが終わり、外へ出てからのこと。無言でいたディオンが、おもむろに振り返る。
「やるよ」
言って、エスメラルダの手のひらに落としたのは、古びたロザリオ。くすんではいるが美しい、薔薇色の小さな珠が連なる鎖だ。先端には、聖母レーアに抱かれた幼子ソラノの像のモチーフが付いている。
「でも、ディオンの大事なものでしょう? そんなのもらえないわ」
あわてて返そうとするエスメラルダに、ディオンは苦笑した。
「別に大事じゃないさ。俺は熱心な信者でもないしな」
「そうなの?」
「でも、まあそうだな。もらえないって言うんなら、貸してやるよ。フェリアが無事終わるまでのお守り代わりだ」
気楽にそう告げると、ようやくエスメラルダはロザリオを受け取る気になったようだった。手の中にそうっと握り締めたところを見計らったように、ディオンは続けた。
「ただ、一つだけ聞かなきゃいけないことがある」
緑の瞳が不安げに揺れる。どう訊ねるべきか悩んだディオンが、考えた末に口を開こうとした、その瞬間だった。
「――ラニ!」
聞きなれない単語に、エスメラルダは弾かれたように背後を振り返った。その只事ではない驚愕と恐怖の表情に、ディオンまでもが嫌な緊張に包まれる。
暗い路地の影からこちらへ駆けてこようとする、背の高い男。街灯の光が反射して、顔はよく見えない。が、裾を引きずる長い衣服と頭の覆い布は、トレスタでは見慣れないものだった。
「いや……っ!」
必死でしがみついてくるエスメラルダを、ディオンは咄嗟に抱きとめた。なおも何事か叫んで、走ってくる男。その後ろから数人の男たちが現れたのを見とめ、ディオンは瞬時に行動に移っていた。
エスメラルダの手首を掴んで引き寄せ、ほとんど抱き上げるようにして、待たせてあった馬車に乗せる。
「出せ! 早く――あの連中を引き離すんだ!」
命じられた御者は、今までに見たことのないディオンの勢いと形相に驚いたらしい。一気に動き出した馬車は、どんどん勢いを増していく。
「やはり追ってくる、か」
小窓から覗いた路上で、男たちがそばにつないであったらしい馬に乗り、追跡してくるのが見えた。
だが速度を上げ続ける馬車には勝てず、複雑な路地を抜け、駆け抜けるうちにその姿はどんどん遠ざかっていく。すっかり見えなくなった頃、ディオンは隣で震えているエスメラルダに向き直った。
「さっき、聞けなかったことを聞く。お前の、本当の名は何だ?」
知り合ってから今までの疑問の数々。新聞の見出し。遠いはずだった火種。ディオンの中で渦巻いていた疑念は、今の事態でより強い疑惑に変わっていた。
「ラニ――あれは、ラハール語だな? 昔、旅の一座にいた時に聞いたことがある。十二の時から五年間、俺は諸国を放浪していたんだ」
そう、それこそがディオンが兄の身代わりを務められた理由でもある。トレスタにいない片割れのことなど、誰も思い出さなかったから。
打ち明けられた事実にエスメラルダの顔が青ざめる。蒼白、と言ってもいいくらいに。
「諸国を……?」
「ああ、ラハールの王都でも踊ったことがある。といっても王宮までは入れず、その前の広場で他国の旅芸人も一緒に、だったがな。あの頃はまだ今ほど情勢も厳しくなかったから、民衆にも歓迎された」
「ラハールの、広場で……?」
消え入るような声で、エスメラルダが聞き返す。しかし声音とは裏腹に、瞳には先ほどまでと違う強い光があった。
「ラハールの王宮には、神秘の美姫がいる。そういえば、そんな噂を聞いたな。だが、彼女は滅多に民の前に姿を見せないとか」
(そうだ、誰も王女の顔を見た者がいない限り、どんな可能性だって成立し得ることにもなるんだ)
探るように語るディオンを前に、エスメラルダは硬直している。だが、驚愕の内に別の感情も閃いて見えた気がした。
「どうだ、これでも話す気にならないか? 俺は話したのに、不公平だよな」
見破られたから仕方なかったにしろ、ディオンは紛れもない本名を教えた。その事実に、エスメラルダはうなだれるように俯く。
「……ごめんなさい、ディオン」
小さな謝罪の声に、知らず緊張が走る。ディオンの膝の上の手と同様に、エスメラルダの両手も硬く握り締められていた。
「でも、今はただ、エスメラルダと――そう呼んでほしいと言ったらだめ……? 全てが終わったら、フェリアで踊ることさえできたなら、必ず真実を話すわ。だから、お願い……!」
――捨てないで。緑の双眸は、懸命にそう訴えていた。最初に会ったあの時と同じように。
(なぜだ? なぜ、こんなに辛そうな顔をする……?)
硬い顔で、張り詰めた糸のような時間に耐えている。そんなエスメラルダの真剣な願いを、はねつけることなどできなかった。
「……わかったよ」
苦虫を噛み潰したような顔をしている自分を知りながら、それでもディオンは承諾した。降参、とでもいうように天を仰ぐ。
「一度了承したことだ。ドン・クリスティアンに二言はない、ってのが、俺の仕事のやり方でもあるからな」
(そうだ、ここまで来て今更なかったことになんてできやしない。少なくとも、震える女を突き放すような無粋な男じゃない。例えその相手が、とんでもなく遠い存在だったとしてもな)
深いため息をつくディオンとは裏腹に、エスメラルダの顔には微笑みの花が咲いた。やわらかく、それでいて心を掴む艶やかな赤い花が――。
「ありがとう、ディオン! 私、もっともっと頑張って、最高のセビジャーナスを踊れるようになるわ」
「そうだな。これだけ舞台を整えられちゃ、やるしかない。最高の、今まで誰も見たことがない傑作に仕上げよう。『太陽と海のカンテ』をな」
「……ディオン!」
潤んだ瞳はより感極まり、今にも滴を零しそうだ。涙にゆがむ顔を見たくなくて、仏頂面で付け足してしまう。
「ああ。言っておくが、この先後悔しても遅いぞ? 俺が一度やると決めて、やり遂げなかったことはないんだ」
「もちろんだわ! ああ、ディオン……心から感謝の気持ちでいっぱいよ」
抱きつこうとして、自身の手から落ちそうになったものにエスメラルダは目を留めた。薔薇色の、かつてディオンが母にもらったロザリオ。幼い頃の、唯一の宝物。
(これはあんたの皮肉か? それとも、過去のわだかまりを心せずして捨てた俺への、神の祝福なのか……?)
「そう、このロザリオに誓って、あなたが誇れるパートナーになるわ。ディオン……私の愛しい人!」
散々連呼されてきた言葉が、なぜかこの瞬間にはより深い重みを持って聞こえた気がして。ディオンは微笑み、エスメラルダの首にロザリオを掛けてやった。
「楽しみにしておくよ、俺の、太陽の娘」
最後の呼びかけは、感激してロザリオにキスまでしたエスメラルダには聞こえなかったようだった。
喜びに頬を染めるそんな少女を、ディオンは優しく見つめていた。
「おいおい、これは何の旅支度だ? もしかしてこのまま二人、愛の逃避行……なーんて言うんじゃないよな?」
翌朝早く、例によって例のごとく勝手に入ってきたアロンソが目を瞠った。ドン・クリスティアン邸の裏門に用意されていたのが、まさに旅支度の済んだ馬車だったからである。
「朝っぱらからお前の冗談に付き合ってる暇はない。元々差し迫った日程なんだ。とっとと出発しないと間に合わない」
「出発ってどこへ?」
「……カルメリタ」
「カルメリタって、お前……?」
驚愕の込められたアロンソの言葉が、それ以上続くことはなかった。あわてて駆けてきた使用人の一人が、顔色を変えて告げたのだ。
「ご主人様、大変です! 東西の門に怪しい男どもが押しかけて、屋敷に侵入しようと」
「止めたのか?」
「ええ、なんとか今のところは。お早くご出発を!」
「わかった。行くぞ、エスメラルダ」
短く促し、強張った顔のエスメラルダを馬車に乗せる。「おい、ちょっと! 何がどうなってんだよ~」などと動揺していたアロンソの瞳が実は冷静であることにも、早朝からきちんと隊服を着込んでいることにも、ディオンは気づいていた。
「昔の師匠に会いに行くだけだ。面倒な輩が多くて、ここでは練習に集中できないからな。言っておくが、お前もその一人だぞ? アロンソ」
ポン、と肩を叩き、ディオンも馬車に乗り込む。扉を閉めた瞬間、ホセの声が届いた。
「侵入者です! 先ほど門を乗り越えた一名が、こちらへ――」
最後まで待たず、アロンソが素早く振り返るなり叫ぶ。
「第一班! 侵入者を生かして確保せよ!」
その指示を待っていたかのように、屋敷を囲む高い塀を越え、数人の男たちが飛び降りた。
「第二班は残りの男どもをくまなく捜索し、全員ひっ捕らえよ! 街での目撃証言を総合し、該当者はラハール人である可能性が高い。絶対に逃がすな!」
続いた命令で、塀の向こう側でも数名が走り出す音がする。屋敷を見張らせていたのだろう。
(何が遊びに、だ。この狸め。やっぱり最初から疑ってやがったな)
冷静、というよりも冷酷にすら近いアロンソの顔。完全に無表情だったそれが、二人の乗る馬車に向き直った瞬間、いつもの笑みに変わった。
「気をつけて行けよ。時間がないんだろ?」
「アロンソ――」
「この場は俺に任せろ。だが、一言だけ忠告しておく。現情勢下でラハール人をかくまった場合、下手をすれば国家反逆罪に問われる。単なる難民でもそうだ。それが万が一国家の要人であったなら――どうなるか、想像はつくよな?」
無言で目線を合わせたディオンに、アロンソがゆっくりと頷いた。
「じゃあねエスメラルダちゃん、くれぐれも気をつけて」
「アロンソさん……っ」
呼んだエスメラルダに片目を閉じると、アロンソがホセに向かって顎をしゃくった。指示を与えられ、御者が馬に合図をする。再び隊長の顔に戻ったアロンソの声が、遠ざかる馬車に届いた。
「第三班は私と共に邸内へ、ルセロ氏の保護だ! 国民的バイラオールを危険から死守するように!」
どうやら自分を逃がしてくれたらしいアロンソを小窓から見やると、ニヤリと笑った唇が動いた。「またな、アミーゴ」と。
カルメリタ――トレスタ南西部、山間の小さな街に着いたのは、その二日後。ルセロ家の別宅の一つである屋敷に落ち着いた更に二日後、ホセからの手紙が届けられた。二人が出発してまもなく書かれたものらしい。
「逮捕されたラハール人と見られる男たちの身元はまだ不明。一名のみ逃走し、ルロンサ、もしくはその近郊の街で潜伏中と見られる。治安警察が追跡調査中であり、周辺住民保護のため警備体制を強化。襲撃されかけたルセロ氏に怪我はなく、現在警察本部による特別な警護下にある――だとさ」
襲撃のあった日の夕刊だった。読み終えたディオンを、エスメラルダが心配そうに見上げてくる。
「まあ、これで多かれ少なかれ治安警察から目は付けられただろうが、アロンソがごまかしてくれるさ。心配するな」
ぽんぽん、と軽く頭を叩き、励ましてやった。それでも浮かない表情のエスメラルダに、飲み物の用意を頼んだ。台所へ向かった背中を見送って、ディオンは再度紙面に目をやる。
(アロンソの奴、こっちを報せたかったんだな)
ラハール情勢悪化と増えた難民の対処問題、と書かれた先ほどの部分より、倍以上は大きく掲載されている記事だ。
西方大陸の大国二つのうち、温厚政策を取るセリジアとは対照的に、好戦的で有名な軍事大国レスディア。ラハールの国境まで出兵し、紛争を引き起こしているこの国が、新たな手に出たという内容だった。
「ほうほう、ラハール国王に正式な文書通達、レスディア休戦協定申し入れか。未だ行方不明中の王女捜索に全面協力を約束、とな。こりゃあ実質上の脅迫も同じじゃろうて。武力で無理なら王女の保護を縦に、というわけかのう」
いきなり横から記事を奪い取られ、驚くディオンの前で内容を読み上げてみせたのは背の低い老人。小麦色を超えて褐色に近いほど日に焼け、深い皺が刻まれた口元が、おどけた風に緩む。
「あいかわらず人を驚かすのが好きですね、ロドリゴ先生」
「なんじゃ、怖い顔をして。王女の話で、何もお前の大切なエスメラルダ嬢のことは言うておらんよ」
「た……っ、そ、そんなんじゃないって昨日も」
「いんや、わしにはすぐにわかるさ。お前さんはあの娘に惹かれておる。一番大切な相手には素直になれない性格は、変わっておらんのう。ディオニシオよ」
幼い日のように笑われて、ディオンは憮然として黙り込んだ。ちょうどそこへ、冷たい飲み物を持ったエスメラルダが戻ってくる。
「あら、おはようございます先生! 昨夜は遅くまでとっても楽しかったですわ」
「そうじゃろうそうじゃろう、わしの指先の技術は素晴らしいからな。まだまだ若いもんには負けんわ。どうじゃ? ディオンなどよりわしと、今夜も熱~く過ごしてみんか?」
「誤解を招くような言い方はやめてください、先生」
冷めた声で遮るディオンにキョトンとして、エスメラルダがロドリゴに微笑む。
「ええ、ぜひまたお付き合いさせてくださいな。とっても面白くて病み付きになりそうですもの、例のパルチス(すごろく)!」
昨夜、遅くまで三人でやった昔ながらの遊びを、エスメラルダは気に入ったらしい。本題に対する答えはくれず、いらぬことばかりするロドリゴにディオンはいらついていたのだが。
「しかし、初めてにしちゃ飲み込みが早かったぞ? 本当にやったことないのかね」
「ああ……ええと、似たような遊びはやったことありましたから」
わずかに視線を逸らすと、エスメラルダは飲み終えたグラスを片付けに行ってしまう。
(やったことがあるのは、どこで、だ? やはりお前は――)
ラニ。あの時聞いて以来、忘れられない言葉。ラハール語で、『姫』という意味の単語だ。こんな呼び名が許される人間が、他に存在するとは思えない。
(しかし、いくら何でも一国の王女ともあろう人間が、単身で遠方のトレスタへ逃れられるのか? しかも、花娘をやっていたなんて)
そう簡単に納得できるわけがないのが普通の反応だろう。それなのに、否定するには難しいような材料ばかりが、どんどん揃っていくのだ。
「なーにを苦悩しとる、あれこれ考えすぎるのがお前の悪い癖じゃぞ?」
気づけば眉間に皺を寄せ、思考にふけてっていたらしい。そんなディオンの眉間を冗談めかして指で弾いたロドリゴが、おもむろに耳元へ顔を寄せた。
「なあに、男と女に言葉はいらんのが古からの道理じゃ。悩んどらんで、さっさと押し倒してしまえ。お前のことじゃ、まだ手を出しておらんのじゃろう?」
「……っ、師匠っ!」
真っ赤になったディオンを見て、ロドリゴはふぉっふぉ、と楽しげに笑った。
「久しぶりじゃの、その呼ばれ方は」
「余計なことは結構ですっ! 早く例の――『太陽と海のカンテ』の曲を弾いて下さい!」
「どうしようかのう~、可愛い弟子がめでたく一線を越えられたら、考えてやってもいいがの」
「いいかげんに……!」
「何の一線?」
突然問われ、ディオンは飛びのかんばかりに驚いた。戻ってきたエスメラルダが、純真そのものの眼差しで見上げていたのだ。
「な、何でもない! 練習するぞ練習!」
「変なディオンね、真っ赤になって。じゃあ着替えてくるから、先に行って待っていてくれる?」
「ああ」
なんとか余裕を取り戻して了承したのに、ロドリゴがまたにんまりと近づいてくる。
「ほれほれ、着替え中を襲っちまえば脱がせる手間が省けるぞ?」などと囁かれ、ディオンは絶句した。
(クソ、完全に楽しんでやがる。このエロ師匠め……!)
それは、昔と同じもう一つの呼び名だった。昔、喘息持ちだったディオンが静養に訪れるたびに、遊び相手をしてくれたロドリゴ。別宅の管理人を任されたただの老人が、実はその昔、母の舞台の伴奏まで務めていたトケ(ギター)奏者であったことを知ったのは、十になるかならないかの頃だっただろうか。
当時、母から叩き込まれるフラメンコの稽古が嫌で嫌で仕方がなかったディオンに、本当のバイレ(踊り)とはどんなものかを教えてくれた恩人。『太陽と海のカンテ』をやると心に決めた時、トケ奏者は彼しかいないと思った。いや、もう一度踊ってみたかったのかもしれない。あの頃のように、新しい発見と純粋な情熱にあふれたフラメンコを。
「弾いてやってもいいぞ? 例の曲」
選択を間違えただろうか、と頭を抱えかけたディオンの耳に届いた朗報。伝説のトケ奏者であった老師匠は、真剣な瞳でディオンをまっすぐ見つめていた。
「ただし、これをやるならお前に一つの覚悟が必要じゃ」
「覚悟……?」
しっかりと頷いてみせたロドリゴ。彼が耳元で告げた言葉に、ディオンは今度こそ何も返すことはできなかった。
『太陽と海のカンテ』――それは聖人ルロンサが踊ったものであると語り継がれている曲だ。過去幾度か、誰もが認める実力を持った踊り手たちが踊った歴史はあるらしいが、ディオンさえもまだ見たことはない。
ルロンサによって残された楽譜がどこかに存在するのだとか、教会の司祭たちが代々保管しているのだとか、いやはや王室秘蔵の国宝となっているのだとか。いずれも、噂の範疇を出ない話ばかり。だが、確かに踊られた事実があることで、その例えようもない素晴らしさだけが後世にまで伝えられ続けているのだった。ならば、なぜディオンがロドリゴに演奏を頼んだのか、というと――、
「わしの先祖は、海を越えてこのトレスタにやってきた。自分たちの技や芸を披露し、諸国を放浪するマラ族だったんじゃ。このカルメリタには、わしのようにマラ族の子孫が多く住んでおる。放浪民の子と蔑む古い人間はまだまだおるが、わしらにはそんな奴らに負けないもんが一つある」
「負けないもの?」
屋敷の中、広々としたレッスン室。練習を始める前にと、ギターを抱えたまま話し出したロドリゴ。首を傾げて訊ねたエスメラルダに、老師匠はニッと歯を見せて笑った。
「音楽と舞踏。それこそまさしく、マラ族の才じゃ。美しく弾き鳴らし、踊ること。少なくともこれだけは、他に劣ることはない」
「音楽と、舞踏……」
「そもそもフラメンコ自体、マラ族が伝えた舞踏から生まれた踊りだからな。彼らの踊りと、ここトレスタ各地にあったものとが混ざり合ってできた。それを聖人ルロンサが踊ったことで、もともとトレスタ発祥の文化であるかのように語られているだけだ」
ロドリゴの話に、ディオンも付け加える。それは踊り手ならば誰もが知っている歴史で、真実だからだ。
「そうだったの……とても素敵な話だわ」
「そうじゃろう。そうやって受け入れることのできる者だけが、本物の音を聞く資格があるんじゃよ」
感激したように答えたエスメラルダに、ロドリゴは満足げに微笑む。実に、トケ奏者として演奏するのは二十年ぶりという。しかし、常に弾き続けてきた実力と技術は、一音を奏でた瞬間に伝わった。衰えなどまるで感じられない、最高の音。脳裏に、鮮やかな記憶が蘇った。
『わしらマラ族の子孫にのみ伝えられてきた財産、それこそがこの曲じゃ』
かつて、静養に来ていたディオンに、ロドリゴが教えてくれたこと。それまではただの屋敷の管理人だと思っていたし、単なる話しやすいじいさんだとしか見ていなかった。そんな認識は、ディオンがまたも喘息の発作に襲われ、やっと小康状態になってぐったりしていた早朝に一変した。
先の言葉の後、ロドリゴが一度だけ弾いてくれた伝説の曲。あれがかの有名な『太陽と海のカンテ』だったなんて、その時は思いもしなかった。けれど、確かな感動が自分の中に眠っていた踊り手としての情熱を呼び覚まし、ロドリゴを師として踊りを再開した。あの日から、ディオンはバイラオールとしての道を本格的に歩み始めたのだ。
「オレ!」
手を上げ、最後のシエレ(締め)をしたところで演奏は終わった。弾き終えたロドリゴが、ふう、と長い息を吐き出す。厳しかった皺だらけの顔が、途端にいつもの茶目っ気を取り戻した。
「まだまだじゃのう、ディオン」
「……やっぱりだめですか」
「いや、出来としては上々と言えるじゃろう。さすがは有名バイラオール、わしの説明だけでよくこれだけ踊れるもんじゃ。嬢ちゃんのほうも、フラメンコ初心者とは思えんくらいによく付いてきておる。しかし、今のままでは真の『太陽と海のカンテ』ではないのじゃ」
ギターを足元に置き、向かい合ったままだった二人のほうへロドリゴは歩み寄った。それぞれの肩に手を乗せ、静かな瞳を向けると、
「本当のフラメンコには、アイレがある。今のお前さんたちには、それが感じられないんじゃよ」
「アイレ……?」
「古いトレスタ語で、『空気』という意味の言葉だ。俺たちの世界では、フラメンコ独特の空気、雰囲気、気合――究極的には、踊り手の魂そのものを指す」
エスメラルダに説明してやりながら、ディオンは改めて感心していた。
(老いてもやはり伝説のトケ奏者、目も耳も感性も確かだ。単なるエロ師匠じゃないってことか)
天性の舞踊の才能を持ったエスメラルダと、バイラオールとして認められた自分。二人の踊りは、表面的にはすばらしく高水準のものに見えるだろう。だが、所詮は付け焼刃。特に、男女ペアで踊るセビジャーナスであるがゆえの問題――。
「正確に言うなら、二人それぞれが持つアイレがまだ溶け合っていないのじゃよ。近づきつつあるのは見て取れるが、まだまだ。こんなものでは、『太陽と海のカンテ』は踊れん。もっと、お互いの魂をぶつけあい、なりふり構わず求め合うぐらいでないと」
実に、魂の底から呼び合う歌声。それこそがこの曲に込められた叫びであり、真実のアイレであるのだろう。
「ディオン……」
不安げに見つめてくるエスメラルダの視線を受け止め、ディオンはがりがりと頭を掻いた。苛立った時の癖だった。
(クソ、フェリアまで時間もないってのに、どうしろと言うんだ)
「まあ、わしから言えることは一つだけじゃの」
「何です?」
真剣なディオンの問いに、ロドリゴは頷く。
「簡単じゃ。溶け合っておらんアイレは、溶け合わせればよい。ほれほれ、今からでもさっさと寝室へ行って、身も心もとろーり溶け合ってくれば……」
「師匠っ!!」
苛立ちをあらわに叫んだディオン。確実に意味がわかっていない顔のエスメラルダ。二人の背中を叩きながら、ロドリゴは楽しげに笑い声を上げた。
「冗談じゃよ。まあ硬くならず、あまり頭を使いすぎんことじゃ。お前たちにできることなど、一つしかなかろう」
「一つ……?」
訝しげに聞くと、返されたのは呆気に取られるくらい簡単な答えだった。
「それはバイレ(踊り)。踊って踊って踊り続けるしかない。今夜は、踊り明かすんじゃ!」
壁際に置いてあったつば広の帽子。黒いそれはディオンに。同色の美しい扇子はエスメラルダに投げてよこされる。
「共に踊ろう(バーモス・ア・バイラール)、恋人たちよ!」
高々と叫んだロドリゴの声に、二人は目を見合わせた。
山の向こうに夕日が沈んだ頃、ロドリゴと二人はカルメリタの中心にある広場へ来ていた。そこで、小さな祭が行われているという。とはいっても、さすがにマラ族の末裔が多いこの街では、常に何かの催しが開かれ、人々が踊り明かすことが多いのだが。
「今夜は、秘密の夜。要するに、仮面を付けて踊る夜らしい」
言ったのはディオン。しかし両目の部分だけが隠れる、派手な羽根付きの黒い仮面と先ほどの帽子で、彼――ドン・クリスティアンだと判別できる人間はいないだろう。対するエスメラルダのほうも、同じ仮面と大きな扇子で顔の造作はよくわからない。
「気取った名なんて付けておるが、結局は無礼講で楽しもうという祭じゃ。じゃあ、わしはわしで楽しんでくるから、お前たちも二人でよろしくやるといい」
「よろしくって……」
呆れ顔で呟くディオンの声など、既に背中を向けたロドリゴには届いていないようだった。色とりどりのフラメンコドレス(トラジェ・デ・フェリア)をまとった女性たちのほうへ嬉々として向かっていってしまう。
(今は完全にエロ師匠のほうだな)
軽くため息を吐いてから、ディオンも開き直ることにした。もちろん、極めて紳士的でまともなやり方で、だが。
「では、お手を拝借――お姫様」
最後の言葉に少しだけ複雑な思いが秘められていたことに気づいたのか否か、エスメラルダは差し伸べた手をそっと取った。
「踊りましょうか、王子様」
いつどこで覚えたのか、粋な返しをする少女。彼女が果たして本物の姫なのかそうでないのか。よぎる不安も何もかも、仮面の中に留めることにする。
気楽な調子でかき鳴らされるトケ(ギター)、形式も振りも関係なくあちらこちらで生まれるバイレ(踊り)の輪。その中に足を踏み入れたディオンとエスメラルダの頬にも、いつしか自然な笑みが広がっていく。
(そうだ、考えるな。心で感じるんだ。そして――)
湧き上がる想いを、熱を、そのまま相手に伝える。自身の心の全てを踊りにのせて、表現するんだ。
両手を顔の横で打ち鳴らす。左右の足を踏み出す。また戻して、回転する。何度も繰り返される基本の振りには、気ままなトケ演奏によっていくつもの遊びが生まれる。ある者は回転を増やし、ある者は腕や手首の動きで魅せる。またある者は、とにかく恋しい相手と強く抱きしめ合う。ふるまわれるマンサニーリャやレブヒートなどの酒の酔いも手伝い、みんなが自由で開放的だ。
(ああ……こんなに何も考えずに踊るのは、本当に久しぶりだ)
隠し切れずに込み上げる感動と歓喜は、仮面越しにもエスメラルダに伝わったらしい。同じ心が、濃い緑の双眸にもあふれている。
「ああ、ディオン……ディオン!」
言葉にならない喜びを伝えるかのように、エスメラルダが飛びついてきた。何度も呼ばれる名前。他の誰でもない、自分自身の――。
「私、あなたが好き。まるで、心の奥――いいえ、魂の奥底から体中が叫んでるみたい。大好きよ、ディオン……!」
「エスメラルダ……」
これほど熱く、そしてまっすぐな告白を聞いたのは、生まれて初めてだった。
固く閉ざされていたディオンの心深くまで、熱く溶かして染み込んで来るような言葉。強く揺さぶられた感情のままに、腕の中の体を強く抱きしめる。
(震えてる……?)
密着したエスメラルダの細い体は、かすかに震えていた。訳を尋ねる前に、エスメラルダが腕を伸ばして体を離す。
「踊りましょう、ディオン。もっと、ずっと、溶け合うように朝まで!」
ある意味ひどく官能的なその誘いは、至極健康的に、本当に朝日が昇るまで実行されたのだった。