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二、心(アルマ)――奔放な踊り子

二、アルマ――奔放な踊り子



 クリスティアン――もとい、ディオンの朝は早い。昨日は酒も入り疲れもあり、八時頃といつもより遅かったのだが、今日は平常どおり午前六時起床だった。屋敷の庭を軽く走りこみ、浴室で汗を流す。その後、七時に朝食。しばし新聞を読んだり読書をして休憩を挟んでから、踊りの練習を始める。そこまでは、いつもと同じだった。はりきって付いてきた少女、エスメラルダにペースを狂わされるまで、の話だ。

「おい、ちょっと待て……そこは左じゃない、右回りだろう」

「あら、そうだった? だって左な気分だったんだもの。それでもいいでしょう?」

「いいでしょう? じゃねえっ! 大体なんでそんなに適当なんだ! お前の師は、そんなに滅茶苦茶な教え方をしたのか!?」

 先ほどから、とにかく基本の踊りを合わせてみるべく練習を始めたのはいいのだが、エスメラルダのステップはいつも違い、まるで統一されていなかったのである。

「ディオンったら、そんなに青筋立てたら、倒れちゃうわよ?」

「誰のせいだ、誰の! 昨日の踊りはどういうことだ! あれと同じように踊ってみろ、と言って……」

「ええと……こうだったかしら?」

 淡い紅色をした唇に人差し指を当てて考え込み、それからまた新たな踊りを見せられる。その繰り返しにいいかげんディオンが発狂しそうになった頃、エスメラルダがあっさりと言った。

「先生には付いてないの。言ったでしょう? 見て覚えただけだって」

「――見て、覚えた……?」

 それが言葉通りの意味だったことに気づいたディオンは、ついに座り込んでしまった。

(やっぱり俺、とんでもなく馬鹿な間違いを犯したのかも)

 つい昨日の自分に蹴りを入れたくなる。が、『ドン・クリスティアン』として振舞ったあの決断は、おそらくもうルロンサの街を駆け巡っているだろう。今更訂正するなどという情けない真似は、余計に勘弁だった。

「踊りは得意なの。物心付いた時から、色々やらされたわ」

「へーえ、踊りは得意、ねえ」

 既に呆れ顔で、ディオンは振り向きもせず片手をひらひらと振る。まさかこの自分が、ただ踊り好きなだけの少女をパートナーとして選んでしまったとは。

(って、ちょっと待てよ……?)

「お前、本当にただ見て、真似をしてセビジャーナスを覚えたのか? でもあれは、単なる踊り好きな人間がたかだかひと月で習得できるような技術じゃなかったぞ。そんなもん、花娘なんてやりながらどうやって――」

 立ち上がり、目の色を変えて問い詰めようとした。ディオンの言葉が止まる。花娘、の単語にみるみるエスメラルダが肩を落としたからだった。

 長い黒髪をゆるりと払いのけ、しょんぼりした顔つきをする。そんな少女の華奢な体も、細い首もその下の鎖骨の線も、なんとなく目で追ってから気づいた。

(身売り、なんてよっぽどの事情がなきゃしない。しかもこいつには異国の血が入ってる。両親はいたようだが、それも今はどうしたのか……)

 聞かれたくないところに踏み込まれるのは、ディオンにとって一番不快なことだ。それがわかるから、これ以上話を続けられなくなった。「ああ、くそっ」と呻いて、考えること自体を放棄したディオンは、おもむろに練習室を後にする。

「ま、待ってディオン! どこ行くの?」

「休憩、シエスタだシエスタ。俺はもう疲れた。とりあえず寝る」

 日中暑いルロンサの気候に合わせて、昔から人々には長い昼休息の時間がある。シエスタと呼ばれるそれには実のところまだ少し早かったのだが、この場を逃げ出す方便にしたのだ。本当に昼寝でもして、面倒を後回しにしたい魂胆もあった。

「ああ、そうよね。良い練習には良い休息も大事だわ」

 うんうん、と何やら勝手に納得してくれたエスメラルダにほっとする。ところが通り過ぎざま腕を絡められて、ディオンは眉をひそめた。

「なぜ、付いてくる……?」

「だってパートナーでしょう? 休むなら私も一緒に」

「ってまさか、一緒に昼寝するとか言うんじゃないだろうな」

「そうだけど?」

 何の疑問も持たない子供のような顔をして、エスメラルダは小首を傾げる。ひきつるディオンの頬と、その脳裏に閃いたあらぬ想像などは、まるで理解していない表情だ。

(こいつ……慣れてるのか、それともわざと嫌がらせでもしてるのか、どっちなんだ?)

 頬をひくつかせている間にも、エスメラルダは鼻歌まで歌いながら廊下を歩いていく。本当にディオンの寝室にまで付いてきて、信じられないことに寝台にまで寝転ぶ少女。

「おやすみなさい、ディオン」

 瞬いた緑の瞳に見上げられ、あっけにとられている間にエスメラルダはすうすう寝息を立てだした。こうやって自分の反応を見ているのだろうか。それともあえて身を呈し、そういう関係になればパートナーとしても優遇されるとでも? 

 意地悪な気分になったディオンは寝台の隣に横たわり、じっと寝顔を見つめる。

「……おい」

 見守ること数秒、それでも目を開けないエスメラルダの額を小突く。何度か繰り返しても、エスメラルダはぴくりともしなかった。

「本当に眠ってやがる……何て女だ」

 こんな風で、よく花娘なんて務まったものだと呆れる。一番ため息を誘うのは、そんな少女にこうも振り回されている自分に対して、なのだが。

 大きく開け放った窓からは、心地の良い風が入ってくる。紺碧の海が遠く見え、きらきら日差しを反射している光景は、シエスタにふさわしいのどかさを持ってディオンの瞼を重くする。

(まあ、いいか――考えるのも、何もかも全部、後回しで)

 混乱の極みにあると、ついには全てどうでもよくなるものらしい。規則正しい寝息を立てながら、気持ちよさげに眠るエスメラルダを隣で眺めながら、あくびを一つ。閉じられた瞼の下、今は見えない緑色の瞳。それだけは手放しで褒めてやってもいいな、と正直に思い浮かべる。自分の、深い闇のような目とはまるで異なる清純な輝き。いつしかそれを窓の外に広がる海とも重ねながら、ディオンもまた、眠りに落ちていった。



「ほーう、これはこれは」

 ディオンを目覚めさせたのは、どこか楽しげな男の低音だった。ホセでもない、無遠慮な声音に瞼を開き、起き上がろうとする。が、ちょうど胸から腹の辺りに乗っている重みに邪魔をされた。怪訝な顔で下を見やったディオンは、一瞬我が目を疑った。

 エスメラルダがしっかりと自分の胸にしがみつき、眠っていたのだ。平然とした顔を装いつつ、あわてて少女の体を離す。それでもまだ起きず、ううん、と身じろぎしたエスメラルダは寝返りを打った。ドレスは着たままだが、この状態が普通どう見えるのかは、起きたてのディオンにだってわかる。

「可愛い子じゃないか。にしても、そこまで若いのは初めてだよな。意外や意外、数々の浮き名を流したドン・クリスティアンは少女趣味であったと。報告書に書いとこーっと」

 ふざけた言葉と共に手を叩いたのは背の高い男。短いくせ毛と同じ黒一色の隊服姿をしている。性格をそのまま現したにやついた表情の彼に、ディオンは答えた。

「勝手に入ってくるなと何度言ったらわかるんだ、アロンソ。その耳はふしあなか? ルロンサ治安警察第五隊、隊長殿の名が聞いて呆れるな」

「お、ちゃーんと昇進したの気づいてくれてたんだ、さすがアミーゴ

「何がアミーゴだ。気色の悪いことを」

「つれないねえ、幼馴染のくせに」

 まだ言い募ってくる男――アロンソは、唯一屋敷に出入りすることを許されている。だからホセも姿を見せないのだ。言葉通り二十年来の幼馴染で、ふざけた言動とは裏腹に信用が置ける相手だから。ではあるのだが、性格と思考回路に少々――どころではない問題ありなところが困る人物だった。

「しっかしマジで可愛い子ちゃんだな。うわぁ、ほっぺたなんてマシュマロみてえ。ちょっと触っていいか?」

 最近新発売されたばかりで大人気の菓子に例え、歓声を上げるアロンソ。無遠慮に伸ばされた手を、ディオンはあわてて横から掴んだ。

「やめろこら、お前のふざけた性格が移ったらどうする」

「なんだそれ。ってかお前、目がマジだな。これはやっぱ本気で――? かーっ、珍しいこともあるもんだ! 春なのに雪でも降ったらどうしてくれる!」

「うるさいぞアロンソ。つばを飛ばすな。お前が真面目に仕事で来る、なんていう珍しさに比べれば大したことじゃないだろう。さっさと用件を言え用件を」

「あれ? バレてた? いやぁ、真面目に来たつもりが他でもないお前の寝台に女が、しかもこーんな可愛い子ちゃんがいるもんだからさ。ついうっかり」

「何がうっかりだ。それがお前の本性だろうが」

 自分と同じくらい長身で、実のところ鍛えた体つきをしているアロンソが、てへ、といたずらっぽい笑いを浮かべたところで、ディオンはキレた。

「大体お前はなあ……!」といつもの鬱憤が爆発しそうになったところで、アロンソとディオンは同時に言葉を止めた。

「ん……ディオン……?」

 長いまつげが瞬いて、その下から澄んだ緑色の瞳が現れる。無垢な寝起きの顔にうっすらと広がりかけた微笑は、そばに立つアロンソの存在に気づいたことで固まった。

「あ……私」

「ああ、こいつなら大丈夫だ。唯一、俺のことも知ってる部外者だから」

「おい、それは安心できるのかできないのか微妙過ぎる表現じゃねえのか?」

 半眼でつっこんでくる部外者は放っておいて、ディオンはエスメラルダを起こしてやった。いつまでも寝台に寝転んでいたら、アロンソが何をしでかすかわかったものではないのだ。そんなディオンの態度にまたにやつきながらも、アロンソはエスメラルダに敬礼してみせた。

「はじめまして、お嬢さん。ルロンサ治安警察第五隊隊長の――」

「幼馴染のアロンソだ」

 格好をつけた挨拶をばっさり区切り、ディオンが言う。エスメラルダもやっと、ほっとしたように笑みを浮かべた。

「よろしく、アロンソさん。私は……」

「今度こいつのパートナーを務めることになったエスメラルダ、だろ? ホセから聞いたよ。来る前から噂で散々聞いてはいたけど、こんなに可愛い子だったなんてなぁ。ああ、つくづくもったいない……こんな奴やめて、俺に乗り換えない?」

「乗り換え……?」

「気にするなエスメラルダ。馬鹿を相手にしてたら日が暮れるぞ」

「あ、ひっでえ。残念でした、もう日は暮れてますー」

 子供の時とまるで変わらない冗談の応酬に、ディオンは苦笑しながら部屋を出ようとした。すれ違いざまにアロンソに手渡されたものを見て、その足が止まる。

「どうかしたの? ディオン」

「いや、別に。部屋に戻って着替えでもしていてくれ、ホセに呼びに行かせる」

「着替え?」

「ああ、夕食がてら外出する」

「本当? わかった、すぐに着替えるわ! じゃあまたね、アロンソさん」

 たちまち嬉しそうな笑顔になって、駆けていく。エスメラルダの後ろ姿を見送ってから、ディオンはアロンソに向き直った。あいかわらずにやけた顔だが、その目は笑っていない。

「で、ご感想は?」

 アロンソに尋ねられ、ディオンの眉間に皺が寄る。目で追うのは、彼の差し出した新聞――ディオンも既に読んだものと同じ、今日の朝刊だ。

「感想も何も……レアンドロ=コルティスがルロンサにも闘牛場を作ったって話だろ? 元々それでのし上がった成金男爵だ。別に今更珍しくもないだろうが」

「普通の闘牛場なら俺もわざわざ来やしないさ。なんと観客席の中央に、円形の舞台が作られてるそうだ」

「舞台って、まさか――」

「そ。フラメンコが踊れるあの舞台。何でも、踊りと闘牛が一緒に楽しめる、とかいう斬新な趣向なんだと」

「はあ? なんだそれは。趣味の悪い」

「だろ? しかも悪いことに、既に踊り子たちを誘い始めてる。今は若手の未熟な踊り手が中心だが、いずれは有能な人材を集めて舞踏団を新設するんだとか、これを機にフラメンコ界にも自分の名を轟かせてみせるとかなんとか、意気込んでるそうだ」

「へえ……ついに、本格的に対抗し始めたってわけか」

 何に、とは言わずともアロンソには伝わったようだった。壁際に無造作に置かれた数々の額や金のトロフィー。ほとんどクリスティアンに与えられたものばかりだが、古いものの台座には別の名が刻まれている。

「ベアトリス=ラバカ。ルロンサの女神とも謳われた美しきバイラオーラ。彼女を取られた恨みはその息子の代にまで持ち越すくらいに大きいってわけだな」

 アロンソはあくまでも冗談めかした調子で同意を求めてくる。かの美しきバイラオーラは現在、数ある別宅のどこかで悠々自適の豪遊生活を送る、ディオンの母その人だった。

「取られた、か。ほとんど一方的な思い込みだろうがな」

 乾いた笑いでディオンは一蹴した。目線を落とすのは同じ新聞の、今度は一面に大きく掲載された記事。次のルロンサ下院議会選挙の速報――地元の名家ルセロ家からまたも出馬する、父エスタバンの優勢を伝える内容が載っている。

「対抗だか復讐だか知らんが……当の夫妻間に愛情なんてとっくに存在しないって、わかってやってるのかね」

 呆れ顔で呟くと、さすがのアロンソも苦笑する。かつてルロンサを騒がせた熱愛の主人公たちも、いまやそれぞれに別の愛人を囲い、好き放題やっていることは周知の事実なのだから。

「とにかく、一応気をつけとけよな。今までもねちねちお前に絡んできてるんだ。レアンドロの目的は、どんな手を使ってもお前をつぶすことなんだろうから」

 結局、この忠告のために足を運んでくれたのだろう友人に、ディオンも笑顔を見せる。

「わかったから、さっさと戻れよ。お前も一応隊長様なんだから忙しいんだろうが。そうそう、読んだぞ。例の取り締まりの件」

「ああ、ラハール王国な。『南方の神秘』だか何だか知らんが、レスディアもいいかげんあんな小国あきらめりゃいいのに。紛争続きでこっちにも飛び火して困る」

「リノ・アルバからルロンサにも難民が流れてきてるんだろう? しかしいちいち南方人を探し回るなんて面倒だな」

 南方大陸での遠い火種が海を越えてきたという穏やかでない情勢に、ディオンは嘆息した。アロンソは頷き、不服そうに唇をとがらせる。

「まったく、フェリアの警備だけでも色々大変なのに、人使い荒いんだよな。そういうわけだから俺は一人寂しく仕事に戻るけど、お前はせいぜいデートを楽しめ。くれぐれも成金男爵にはご用心、だぜ?」

ポン、と背中を叩かれ、憮然とする。それでも決して自分の本名を呼ばず、代わりのように友と呼ぶアロンソの言葉に嘘はない。本当に心配してくれていることがわかっているから、目の前に上げられた左手を、右手で強く叩き返した。了解、の合図だった。



 トレスタ。それは北に山脈、南に海、そして東西をセリジアとレスディアという二つの大国に囲まれた王国である。過去幾度か戦争のたびに属国化されかけたのをうまく免れ、今もなんとか独立国として生き残っている。

その理由をある者はただの幸運だとし、またある者は歴代の王の有能さゆえだとした。両方とも否定はできない。しかし、当のトレスタ人たちのひそかな見解は別にあった。ここ西方大陸で広く信じられているソラノ神。その愛と教えを忘れ侵攻を進めた国々にお怒りになり、信仰深いトレスタの民を守られたのだ、と。

更にそれが曲解を生み、首都リノ・アルバから遥か南方のマルビナ海に面したここルロンサでは、ソラノ神よりも自分たちに近い、街の守護聖人ルロンサのおかげだとされている。かつては荒れ狂い、漁などできない難所であったというマルビナ海を彼が祈りによって鎮めたという伝説に始まり、貧しい人々に常に施し、ソラノ神に愛される聖人であった彼には様々な言い伝えがある。

 特に音楽と芸術を愛し、多大な祝福を与えたルロンサ。その彼自身も舞ったのが、情熱の踊りフラメンコであるというのだ。

「へえ~、聖人自ら踊られたなんて、素晴らしいわね!」

 馬車で走りながら、退屈しのぎのつもりでなんとはなしに語ってやった話に、エスメラルダは両手を合わせて微笑んだ。

「素晴らしい、かな……はは」

 子供のような純粋な反応に、笑うしかできなかった。外出時なため髪を束ね、『クリスティアン』の仮面を被ってはいる。けれど、ひきつる頬はどうしようもできない。

(しかしこんな子供でも知ってる話、こいつは知らないのか? どんな田舎で育ってきたんだ)

 ひそかに呆れているディオンには気づかず、エスメラルダは一層興奮したような顔で強く頷き返した。

「素晴らしいわよ! ああ、だから私もフラメンコに惹かれたのかもしれない……今まで踊っていたのとはまるで違うもの」

「え?」

 問い返そうとした時、馬車が突如がくんと揺れ、止まった。怪訝な顔になったディオンに、御者が告げる。

「何だって? レアンドロの――?」

 黒地に金で描かれた、交差する二つの剣のモチーフ。クリスティアンが常に使用している(つまりディオンも乗っている)白の箱馬車とは対照的な、けしずみのような黒は、例の成金男爵レアンドロ=コルティスが好む色だ。無茶な御し方で彼の馬車が通りを堂々と横切ったために、ディオンたちが止められた格好だった。

 そのまま過ぎ去るのかと思いきや、少し先で黒馬車は止まり、従者が開けた扉からレアンドロ自身が降り立った。口ひげをたくわえた細身の顔が、にんまりとゆがんだ笑みを湛えている。仕方なくディオンも外に出て、会釈した。

「これはこれは、ルセロ子爵ではないですか。奇遇ですな」

「どうも、コルティス男爵。しかし何度も申し上げておりますが、僕には襲爵する気はありませんので、そう呼んでいただく必要は……」

「ああ、そうでしたかな。いやいや、襲爵どころか国王陛下からの名誉叙爵さえあるのではと噂される名バイラオール殿ですから、つい口を突いて出てしまうのです」

 金時計の鎖をわざとらしく弄びながら、レアンドロが続ける。

「先日の舞台、拝見いたしましたよ。いやはや、まったく素晴らしかった。私が女性ならば、あなたに恋焦がれていたことでしょう」

(何が恋焦がれて、だ。気色悪い。何度訂正しても嫌味ったらしく爵位付きで呼びやがって)

 心中で吐き捨てつつ、ディオンは軽く肩をすくめる。もちろん単なる社交辞令――であるどころか、本心は正反対だということなど明白だ。それでも片腕を胸の前で折り曲げ、「光栄です」と上品にお辞儀してやると、レアンドロは面白くなさそうに口角だけを引き上げた。

「あの……どなた?」

不機嫌そうな視線が、待ちきれず扉を開けたらしいエスメラルダのほうへ移ったことでその意味合いを変える。

しまった、とディオンが思うよりも前に降り立ったエスメラルダは、日差しの下にその姿を晒してしまった。外出用の淡い水色のドレスに、結い上げた長い髪。華奢でバランスの良い肢体。若く清楚で、可憐なその容姿を。舐めるように上から下まで観察した後、レアンドロはにんまりと笑う。

「これは……なんとも愛らしいお嬢さんだ。ご紹介、してはくださらないのですかな?」

 嫌らしい笑い方は、そのまま彼の本性と好みが表れたものだ。ごてごて飾り立てた金、そして美しい女には何よりも目がない。

(面倒なことになったな、くそ――)

 まさに昨日のアロンソの忠告が現実になったのだ。舌打ちしたい思いだったが、礼儀がどうのと詰め寄られるのも厄介だった。仕方なく、ディオンも微笑を浮かべる。

「ああ、今度僕のパートナーを務めることになった、エスメラルダ嬢ですよ。エスメラルダ、こちらはコルティス男爵。いまやこのルロンサで知らぬ者なしと名高い、実業家でいらっしゃるのだよ」

 精一杯の嫌味を込め、紹介する。さりげなくエスメラルダの肩を抱くのも忘れなかった。それほど、レアンドロの視線は不躾で遠慮がなかったのだ。

「まあ、そうなの。じゃあ、あなたのお友達ね、クリスティアン」

「とっ……」

 思わず頓狂な声を上げそうになった。よりによって、『お友達』とは。

「あら、どうしたの? だって、あなたもこのルロンサで知らぬ者なしと名高い、最高のバイラオールですもの。有名人同士、とっても気が合うと思ったのだけど」

 素直で純真な意見に、さすがのレアンドロも声を立てて笑った。細い目を更に細め、頷く仕草が余計に不吉な予感を生む。そしてそれは、直後に的中したのである。

「では大切な友人として、ドン・クリスティアンを夕食にご招待いたしましょう。もちろん彼の大切なパートナーである貴女も、ご一緒してくださいますね? エスメラルダ嬢」

「もちろんですわ、コルティス男爵!」

 素敵な夜になりそうね――嬉しげに囁かれたディオンは、ずるずると馬車の椅子から滑り落ちていく錯覚を感じたのだった。



 案内されたのは、最高級のレスタウランテ――ルロンサでも五つの指に入る味と価格を誇る店だった。ドン・クリスティアンとして何度か訪れたことはあるディオンだが、この夜ほど料理がまずく感じたことはなかった。

 幸い、あれやこれやの商談に多忙であるらしいレアンドロは食事中も秘書になにやら指示を出したり、店の料理人と挨拶を交わしたりに追われていたため、ゆっくり会話をしなくて済んだことはよかった。が、嫌でも向き合わなくてはいけなくなったのは、食後のコーヒーの時間だった。

 酒を勧めるレアンドロにやんわりと断りの文句を述べ、これまたまずい(本来ならば美味のはずの)コーヒーを口に運ぶ。その最中、いよいよレアンドロが口火を切ったのだ。

「それで、ドン・クリスティアン。エスメラルダ嬢のご実家はどちらなのですかな?」と。

「ルロンサ一の名家、ルセロ伯爵家のご子息と踊られる方だ。さぞかし名門のご令嬢なのでしょう」

 嫌味な笑みと弁舌に、やはり来たか、とディオンは眉根を寄せた。すぐに笑みを取り戻し、何と答えるべきか考えていたら、卵黄のプリンをほおばっていたエスメラルダがあっさりと言ってのけたのだ。

「あら、男爵はご存知ないのですね。私、花娘だったんです」

「花娘――?」

 噂を知らぬはずがないのに、レアンドロはわざとらしく驚いた顔をする。同情と憐憫、それから好奇の混ざり合った目だ。それでもエスメラルダはいつものようにふんわりと微笑み、誇らしげに頷いた。

「でも、クリスティアンが私を買ってくれたの。救ってくれたんです! だから、今は違うんですよ?」

「エスメラルダ――」

「そうかそうか……悪いことを聞いたね。じゃあ、クリスティアンは君にとっての恩人でもあるわけだ」

 いつのまにか、レアンドロの口調も砕けている。意地の悪い笑い方に気づかないのか、エスメラルダは嬉しそうに続ける。

「それだけじゃないわ。彼はね、私の愛しいミ・カリニョ。今の私の、世界の全て。彼と踊ることが、私の幸せなの」

(世界の、全て――だと?)

 あまりに一途で純粋な感情表現に、レアンドロさえも黙ってしまった。あんぐりと開かれていた口は、しばらくして楽しげな笑みを刻む。

「なんと……それほどまでに慕われるとは、男として羨ましいですな。あなたがたの踊りを、私も楽しみにしていますよ」

「こちらこそ、フェリアでお会いできるのを楽しみにしています。コルティス男爵」

 握手を交わした二人を、エスメラルダはにこにこして見つめていた。


「ホセ! カラヒージョだ、早く!」

 苛立ちをぶつけるように、帰るなりディオンは叫んだ。上着を寝台に投げた仕草を、エスメラルダは驚いたように見ている。

「――ホセ!」

「そう仰るかと思い、用意させておりました」

 所望したカラヒージョ――焦げ茶色の液体が揺れるグラスをすぐに手渡され、ディオンは少しだけ表情を緩めた。ふう、と息を吐き、鬱陶しげに髪のリボンを解く。

「まあ、それなあに?」

 興味深げにグラスを覗き込んできたエスメラルダに、ディオンは眉をひそめた。

「カラヒージョだ。砂糖入りの熱した蒸留酒に、濃いコーヒーを入れた……もしかして、知らないのか?」

「ええ、初めて見たわ。でもコーヒーならさっきも飲んだじゃない? 眠れなくならない?」

エスメラルダの単純な疑問に鼻を鳴らし、顔をしかめて、カラヒージョを喉に流し込む。強い蒸留酒とコーヒーの芳香が口の中に広がり、体が熱くなる。けれどいつもと違って、苛立ちは静まらなかった。

「コーヒーで眠れなくなるお子様は、さっさと部屋に戻るんだな。俺は疲れた」

 片手をひらひら振って告げると、エスメラルダは表情を翳らせる。

「……もう寝ちゃうの?」

「ああ」

 寝る気など毛頭ないのだが、手っ取り早く一人になるために肯定した。エスメラルダは見るからにしょんぼりとした様子で、まだディオンのそばに立っている。

「――何だよ」

「えっと、あの……私、ここで寝ちゃだめ?」

「はあ?」

 上目遣いに尋ねられ、グラスを口に運ぶ手を止めた。どういうつもりか目で問いかけた、ディオンの意図は伝わらなかったらしい。エスメラルダはただじっと答えを待っている。

 先ほどのレアンドロとの無為な時間といい、それに伴うディオンの苛立ちといい、元はといえばこの訳のわからない少女によってもたらされたものなのだ。再度湧き上がった暗い感情に押され、ディオンはカラヒージョのグラスを置いた。手の甲で口元を拭い、唇を舐める。

「ディオン?」

 距離をずいと詰められ、顎をすくわれてもなお、エスメラルダは動揺を見せない。余計に意地悪な気分になった。

「男と女が同じ部屋で眠る。その意味、まさかわからないわけじゃないだろう?」

 吐息の触れる近さで、ニヤリと笑って尋ねる。右手はエスメラルダの顎を捕らえ、左手は豊かな黒い髪に添えた。目だけで示した先は寝台。先ほどはシエスタとして共に眠った。そんな不覚は、もう自分に許すつもりはなかった。

(逃げない……? こいつ、本当にどういうつもりなんだ)

 純真な瞳と発想、態度。そんなものに振り回されてはいても、目前にいるのは花娘だった少女だ。とぼけるふりをするのも、いいかげんにしてもらおう――そう決意したディオンが、顔を近づけようとした。その瞬間、

「……寂しいの」

 エスメラルダが、かすかな声でそう言ったのだ。

「一人きりで眠るのは嫌なの。一人で眠ると、夢を見るから――」

「夢……?」

 思わず、問いを返していた。今まで見せてきた明るく華やいだ顔ではない、暗く苦しげなエスメラルダの顔。そこに宿るのは、確かな絶望と孤独の色だったのだ。

「真っ暗な海の底に、いつまでもいつまでも沈んでいくの。私は――『私』であるだけではいられない。逃げることもできず、もがくことさえ許されない。苦しくて、みじめで……だから、一人は嫌。嫌なの……」

 エメラルドの瞳からあふれた透明な涙の滴が、白い頬を伝ってゆく。その訴えは、ディオンが心の奥に抱えている闇とひどく似ていた。似すぎているくらいに。

「――わかったよ」

 ため息と共に、ディオンはそう答えた。答えて、しまったのだった。

       

『ディオン』

 優しい声が、そう呼んでいる。振り向くと、駆けてくるのは長く黒い髪の少女だ。つい最近も、似た少女を目にした気がする。けれど、今ディオンの目の前にたどり着いた少女の瞳は、自分と同じ黒だった。

『大好きよ、ディオン』

 少女は微笑み、自分に飛びついてくる。なのに、ディオンは知っているのだ。彼女の言葉の意味と、自身の心に宿る感情には、大きなずれがあることを。

 多くの時を共に過ごし、共に踊った彼女は、ディオンを無邪気に慕った。誰よりも近い存在として、兄代わりの存在として。

 そのことに気が付いたのは、皮肉にも彼女と共に最高の踊りをした直後。想いを告げる決心は、空しく消えた。いや、かき消されてしまったのだ。見知らぬ男と彼女の幸せそうな笑顔に。

『最高のバイラオールになってね、ディオン』

 別れ際に送られた一言、それこそが、自分がこんなくだらない役回りを演じることになるきっかけ、だったのかもしれない。

          

「ディオン」

 肩を揺り動かされる感覚と、優しい声。懐かしいあの声音とよく似た、澄んだ呼びかけに、ディオンは重い瞼を持ち上げた。長椅子で眠ったからか、体全体がなんとなく痛み、だるさが抜けない。

「おはよう、ディオン! 今日もとってもいいお天気よ。早く起きて顔を洗って、朝食にしましょう」

 カーテンを勢いよく開けたのは、言わずもがなエスメラルダだ。昨夜の寂しげな顔などなかったかのような明るい笑顔が、日差しと共にディオンを迎える。

(ああ……久しぶりに見たな)

 記憶の中に残る面影が見せる夢。最近見ていなかったのに、と頭を抱えた。まだ夢の名残りが消えず、余計に体も重く感じる。

「ディオン、ほら見て!」

 まだ鈍く痛む頭を押さえていたディオンの前に、エスメラルダが張り切って差し出したもの――それは大皿に盛り付けられた、黄色いぐちゃぐちゃの物体だった。

「何だこれは。食べ残しか? 何の残骸だ」

 湯気を立てているところが、かろうじて何かの料理であったと思わせる。正直な返答に、エスメラルダは心外だといわんばかりに目を剥いた。

「まあ、失礼ね。トルティージャよ! 野菜入り卵の厚焼き……ルロンサではよく朝食に食べるってホセに教えてもらったのに。違った?」

 ルロンサどころか、トレスタ共和国では非常に有名な一品だ。じゃがいもや玉ねぎ、にんじんなどの野菜を細かく刻んだものを入れた、卵の厚焼き。本来ならば円形のそれを、ケーキのように切り分けて食べる。確かにそれが、トルティージャであるならば、だが。

「ほら、とてもおいしいわよ」と、フォークで突き刺した黄色い切れ端を勧められる。ディオンの頬がまたひきつっていることに、当のエスメラルダはまるで気が付いていない様子だった。

「早朝から厨房を貸してくれと仰られ、大変熱心に作っておられましたよ。焼き上げる前までは、お手伝いしてさしあげたのですが」

 助け舟を出すように、エスメラルダの背後に控えていたホセが言う。更にその後ろには、困った顔の料理人。

「初めてのわりには上手にできたと思うわ。ねえ、食べてみて?」

「パンとスープ、それにサラダは私どもでご用意し、今日はテラスに運ばせました。よろしければ、お二人でご朝食を」

 深々と頭を下げるホセと料理人、そしてわくわくした顔でトルティージャ――の残骸にしか見えないそれを勧めるエスメラルダ。そしてディオンは、ため息を一つ。

「まったく、何の拷問なんだか」

 エスメラルダの手からフォークを奪い取り、仕方なく口に運ぶ。しかめ面は、咀嚼するうちにほぐれていった。

「……うまい」

「ほら、やっぱり!」

 両手を叩いて喜び、はりきってディオンの背中を押すエスメラルダ。案内されたのは広いテラスだ。いつも一人で寝酒を飲むぐらいにしか使わない白テーブルと椅子が、今日は小さな食卓に早変わりしていた。

 赤と白の格子模様のテーブルクロスが敷かれ、二人分のサラダとスープ、それから籠に盛られたパン。その中央に、先ほどのトルティージャ、であるらしい皿が置かれる。

 時刻はちょうど朝の七時。普段のディオンならばとっくに起きている時間だが、今朝はまだあくびが漏れる。

(当然だな、明け方まで寝付けなかったんだから)

 あれだけ同情を誘うような言い方をしておいて、エスメラルダは寝台に入った途端に眠ってしまった。広い寝台の真ん中で寝入られては、どうしようもない。長椅子で二杯目のカラヒージョを飲んでいたディオンは、まんじりともしないままその穏やかな寝顔を見ていたのだ。寝覚めも悪く、本当ならば朝食など取りたい気分ではない。 けれど嬉しげなエスメラルダの手前、食べないでいる勇気も出なかった。それに、見た目は最悪にしろ、エスメラルダお手製のトルティージャもどきは、とても温かい味がしたから。

「今日は、舞踏団の事務所へ行くぞ。俺――クリスティアンはソロで活動しているが、フェリアに出る踊り手たちは大抵どこかの舞踏団に所属してる。一応手続きができるか確認して、挨拶くらいはしておかないとな」

「もちろんだわ! ああ、今日も素敵な一日になりそうね」

(いっそ、舞踏団から断られでもしないだろうか)

 ディオンのひそかな期待を知らないエスメラルダは、幸せそうに微笑んだ。


 かつてクリスティアンが所属していた舞踏団『エル・ロサード』の事務所は、ルロンサの大通りの一角に堂々と建っている。クリスティアンが人気を集め、かなりの額で舞台を務めるようになって、懐が潤ったからだ。その分舞踏団を辞め、独立する際にはなかなか手放そうとしなかった。契約解消金という名で高額の手切れ金を払い、円満に収めたわけなのだが――。

「久しぶりだなあ、クリスティアン! おっと……今じゃ泣く子も黙るドン・クリスティアン様、お噂はかねがね聞いてますぜ」

 あっはっは、と豪快な笑い声で迎えたのは舞踏団の団長、カルロスだ。薔薇色、という団名には似ても似つかない巨体とごつい顔。握手を求めてきた手も分厚く、甲まで毛深い。

「こちらこそ、その節はどうも」

 精一杯の皮肉を込めたディオンの微笑などものともせず、カルロスは握った手をぶんぶん振ってふてぶてしく答える。

「いやいや、それもいい思い出さ。逃した魚は惜しい、なーんて今でも時々思うがね。しかし今日は直々にどうしたんだい? おっと、見ない顔だが、その嬢ちゃんは?」

 わざとらしく聞いてみせるものの、カルロスの口元は既に緩んでいる。興味津々の目つきを向けられたエスメラルダは、姿勢を正してお辞儀してみせた。

「エスメラルダといいます。はじめまして」

「ほう、随分と可愛らしいお相手で。ただの友人、なんてわけはないし、こりゃやっぱりドン・クリスティアンの新しい恋――」

「パートナーですよ、今度のフェリアの」

 最初の単語を強調して答える。と、カルロスが破顔した。

「冗談だ。聞いたよ、あのドン・クリスティアンがよりにもよってセビジャーナスを踊るんだってな。こんだけ街中を駆け巡ってる噂を知らない奴はいないさ。しかし……」

 言葉の続きを、ディオンは固唾を呑んで待つ。が、期待はあっさりと裏切られたのだ。カルロスのほうから立ち上がり、エスメラルダに握手を求める、という形で。

「こんなに若くて可愛いバイラオーラだとはな! 噂じゃまったくの新人らしいが、フェリアは本来無礼講だ。細かいことはこの俺様が言わせないさ。何なら、名前だけはうちの所属にしてやってもいいぞ? もちろん希望なら、名前だけじゃなくてもいい。どうだね? お嬢さん(セニョリータ)」

「ありがとうございます! カルロスさん」

 一抹の期待とは裏腹にどんどん進んでいく状況。これではフェリアどころかこのままずっとパートナーをやらされるのでは、とあせったディオンが止めに入りかけた瞬間、エスメラルダの笑顔が曇った。

「でも、舞踏団に入ることはできないの。だから今度のフェリアだけでいいんです。それで、十分……」

 カルロスが怪訝な顔つきをするのと、事務所の扉が叩かれるのとは同時だった。

(フェリアだけで十分?)

 確かにそういう約束だった。けれど、まるでそれが済めば悔いはないような言い方に、ディオンも首を傾げる。その間にも、カルロスは訪れた客の応対をしていた。

「はあ、それはもう。へい、もう近日中に用意いたしますんで」などと言いながら、カルロスがひたすらペコペコ頭を下げているのが扉越しに見える。しばらくその調子で会話をした後、訪問者は帰ったようだった。

「……もしかして、また事務所の賃貸料延滞してるんじゃないでしょうね」

 半眼で訊ねると、カルロスはごまかすように頭を掻いた。

「いやまあ、ちょっと色々入用でな」

 言葉を濁すことからして、博打好きで金遣いも荒いところも相変わらずらしい。

「わかっていても罪を犯してしまう――人間とは罪深いものだな、クリスティアン。だが幸いなことに、神は悔い改めれば許して下さる。それに我々には守護聖人ルロンサ様の祝福があるじゃないか!」

 壁にかけられた十字架――はりつけになったソラノ神像を見やり、カルロスは大げさに拝む真似をした。こんな男でも、この街の住民のほとんどがそうであるように、信仰深い人間だとディオンは知っていた。

(ルロンサ様の祝福、ねえ)

 カルロスの机に置かれた聖ルロンサ像を見やり、ディオンは軽く息を吐く。

「まあ、神の御前に正しい人間は一人もいないと聖典でも明言されているくらいですからね。いつの世でも道を逸れるのが人間ってもんですよ」

「その通り。それが人間の罪であるからこそ、汝の隣人を、汝を愛するがごとく愛せよ、とソラノ神は仰られている……そうだったよなあ? クリスティアン」

 にんまり、とこちらを向いたカルロスの顔は、我が意を得たり、と物語っていた。

 

 事務所を出たディオンは、馬車に乗り込むなり頭を抱えた。

(クソ、あの食わせおやじめ。結局こういう魂胆だったんだな)

 カルロスの真意は、神の御心などからは程遠い、とてつもなく俗世的な嘆願だったのだ。

 ――延滞している賃貸料をディオンが払ってやる代わりに、エスメラルダのフェリアへの出演を支援・保障する。

 先ほど、ディオンはカルロスとそういう契約を交わして来たのである。

(要するに、体のいい協力料だってことか)

「ねえディオン、どこか具合でも悪いの?」

 心配そうなエスメラルダの声が、向かい側から聞こえた。ちなみにカルロスとの契約は、エスメラルダにはわからないよう別室で行ったものだ。恩を着せて申し訳ないと思わせるとか、何もかもなかったことにさせるとか、手段はあるはずなのに、そうする気にはなれなかった。それができなかった自分が一番わからなかったのだ。

「いや、別に。何でもないんだ」

「そう、よかった……!」

 心からほっとしたような笑顔に、ディオンは言葉を失う。エスメラルダのこういうところに、いつも調子を狂わされるのだ。

(いや、もうあれこれ考えるのはやめよう。フェリアだけだ。今回の舞台だけでいいとエスメラルダも言ったんだから)

 だが、なぜ? そこまで考えた時、エスメラルダが窓の外を指差して叫んだ。

「待って! ねえ、止めて!」

 いきなりのことに驚き、とりあえず馬車を止めさせる。エスメラルダの指し示したのは、街頭にできた人だかりだった。

「あれは何? なんだかすごく楽しそう」

「ああ、あれは……募金を集ってるんだ。『神の家』の子供たちだよ。ああやって飛び入りでみんな踊って、最後に楽しんだ分だけ金を……っておい、エスメラルダ!」

 止める暇もなく、少女は馬車から降りていた。

「誰でも参加していいんですって!」

 人だかりの誰かに確かめた後、エスメラルダは嬉しそうに振り返って手招きをする。呆気にとられていると、焦れたように一人で駆けていってしまう。

「おいおい……嘘だろ」

 まだ十かそこらの、可愛らしい男女の二人組。それを中心に幼い子供たちが輪をなし、セビジャーナスを踊っている。トケ(ギター)奏者も歌い手も、『神の家』――つまり教会主催の孤児院で暮らす子供たちが務めているようだった。

 老若男女が入り乱れ、その周りを囲み、陽気に踊る。その輪に飛び込んだエスメラルダは、良くも悪くも非常に目立った。

 子供たちの歌と演奏に合わせて、エスメラルダも手拍子を打つ。背筋をぴんと伸ばし、顎を逸らして、顔には喜びの光が輝く。そう、踊ることが楽しくて、大好きでたまらない。そんな感情がそのままあふれ出ているのだ。自由で気楽な、気取らないセビジャーナス。その中にあると、余計に彼女自身が内に秘める純粋な情熱がこぼれ出てくるように見える。

(これは、まさに……太陽の踊りだ)

 光り輝き、周囲までもまぶしく照らす。エスメラルダの動き一つ一つ、揺れる髪の一筋一筋さえにも、皆が目を奪われていく。微笑み、彼女だけを見つめ続けてしまうほどに。

「ムイ・ビエン!」

 ビエン(良い)よりも更に上の褒め言葉、踊り手への掛け声が何度も発せられる。軽やかに、楽しげに踊り終えたエスメラルダは、待っていたディオンのもとへ駆けてくる。輝く太陽に魅せられていた時間が過ぎ、ディオンが我に返ったのは、エスメラルダが胸に飛び込んできてからだった。

「見ていてくれた? 私の愛しいミ・カリニョ!」

 少し息を弾ませ、頬を紅潮させたエスメラルダ。緑の瞳は澄んでいて、鏡のようにディオン自身の表情を映し出していた。クリスティアンの仮面を被ることも忘れた、素のままの顔を――。

「あれ……クリスティアン!?」

「そうよ、ドン・クリスティアンだわ!」

「ってことはあの子が、例の?」

 エスメラルダに向けられていた視線が、今度はディオンに集中する。黄色い声とざわめきが一気に大きくなった。

 その騒ぎに紛れ、耳元で囁かれた言葉に、ディオンは目を剥く。

「は? 何だって俺が……」

「ね? お願い! 今の私は一文無しだってこと、忘れてたの」

 申し訳なさそうな顔で言ってのけてから、エスメラルダは子供たちを見やる。裏返しにした帽子を持って、逆に困っているような顔の彼ら。一様に、すがるような目でディオンを見上げている。もちろん、自分たちを取り囲む人々も期待に満ちた目で待っていた。震える息を吐き出し、ディオンはあきらめたように微笑を浮かべた。

「『神の家』に祝福を――子供たちに、主の御手が置かれますように」

 教会で聞きかじっただけの言い回しはしかし、今この場では予想した以上の結果となって返ってきた。どっと観衆が沸く。割れんばかりの拍手が送られ、口々に皆が叫んだ。それもそのはず、ディオンがたった今帽子の中に投げ込んだのは、書き込んだばかりの小切手であったのだから。

「ああ、ドン・クリスティアン……そして太陽の娘! あなた方に、永遠の祝福を!」

 子供たちに付き添っていたシスターたちが感極まったように叫び、皆が同じ言葉を繰り返す。大合唱の中、ディオンは笑顔で手を振るしかなかった。

(太陽の娘、だと? ああ、そうさ。こいつはとんでもなく厄介で、面倒臭い『聖女』には違いないぜ)

 泣きたくなったディオンの頬に、エスメラルダがキスをした。


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