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一、喜び(アレグリアス)――太陽がくれた娘

『太陽と海のカンテ――それは、魂と魂の呼び合う声。運命に結び付けられた者たちの歌。ほとばしる情熱と、狂おしい恋の炎。 太陽は海に還り、海は太陽を抱きしめる。二つの心が歌い、一つとなって踊る時、まごうことなき神の祝福が降り注ぐのだ』

――守護聖人ルロンサの言、五章より


       ***


 一、喜び(アレグリアス)――太陽がくれた娘


 その日、ルロンサの街は続々とつめかける人々で大賑わいだった。

 年に一度の春祭り――フェリア・デ・プリマベーラ。四日間、飲めや歌えや踊れや、と開催される祝祭のちょうどひと月前。既に連日、本番かと見紛うほどの賑やかさで準備式典や行事が繰り広げられていた。そのために、地元の人々も観光客も押し寄せているのだ。

 色鮮やかな花飾りで彩られた巨大な入場門をくぐると、そこはもう祝祭フェリア会場。老若男女が練り歩き、通り沿いに並んだ屋台を覗いたり、仮設小屋で休息を取ったり、はたまた陽気にギターを奏で、歌ったりしている。

 男たちは丈の短い上着に、ぴったりとしたズボン。つば広の帽子を被っているのが特徴だ。原色を好むルロンサ――いや、トレスタ国の人々らしく、年寄りでさえも鮮やかな色彩を身に着ける。そして女たちは、フリルが何段にも入ったドレスの華やかさを競い合う。女性らしい可憐なデザインはしかし、ただ美しく見せるためだけのものではなく……、

「きゃあっ、バイラオールの出番よ!」

「クリスティアンだわ! 女神も魅了するドン・クリスティアン!」

 通りの突き当たり、一番目立つ場所に設けられた舞台前。満員の人だかりから、女性たちが黄色い声を上げた。盛大な拍手と大歓声が沸き起こり、舞台上には一人の青年が進み出る。彼こそがバイラオール――ここルロンサ発祥の情熱的な舞踊、フラメンコの男性の踊り手だった。街の名ともなった守護聖人ルロンサの記念式典、という名目で今日も開催される舞台後半、取りを務めるために登場したのである。

 靴音を響かせ、手拍子を打ち鳴らし、艶やかに舞うフラメンコ。女性の踊り手バイラオーラたちが主役のように一見思われがちだが、男性のバイラオールたちもただ彼女らの相手役を務めるだけの存在ではない。

ソロで踊ることを許される人気と実力共に上位の踊り手。まさにその内で最高と称えられる座にいるのが、二十五歳のクリスティアン=ルセロ。肩まで伸びた美しい黒の巻き毛を後ろで一つに束ねた彼は、小麦色の精悍かつ端正な顔に甘い笑みをのせる。それだけでご婦人方は、気絶寸前の熱狂ぶりだ。

「クリスティアン! こっち見て!」

「私よ、私に振り向いて~!」

「ちょっとどいてよ! 見えないじゃない!」

 押し合いは一般客だけでなく、舞台裏に集うバイラオーラたちの間でも始まる。正式な舞台衣装でもあるトラジェ・デ・フェリア(フラメンコ・ドレス)の美しさも台無しだった。そんな凄まじい声援は、かき鳴らされたギターの音色であっというまに静まった。舞台の始まりである。

 フラメンコ――それは、三つの要素から成る芸術。一つ目はカンテ(歌)。二つ目はトケ(ギター演奏)。そして三つ目が、バイレ(踊り)だ。どれが欠けても成り立たない。けれどやはり一番は、美しい歌と演奏で舞い踊る、踊り手の存在だろう。

 舞台中央でポーズを取り、やや俯き気味に待つクリスティアン。赤の上着に黒のズボンは今流行の、闘牛士マタドール風に仕立てられた衣装だ。型はシンプルでありながら金糸の刺繍が美しい。彼の隙のない美貌と均整の取れた体格を引き立てるものだった。

 曲種はアレグリアス。『喜び』の意味を持つ明るく陽気な曲に乗せ、クリスティアンは顔を上げた。トケに合わせ、軽やかに靴音を立て、ステップを踏み始める。

「オーレ!」

「ビエン!」

 調子を取り、褒め称えるハレオ(合いの手)を聞きながら、どんどんステップは速くなっていく。ギターはより情熱的に激しく、歌は盛り上がり高揚し、クリスティアンの踊りは高度ながら楽しいものに変わっていく。

 明るく陽気なアレグリアスは、空と海の紺碧が美しく、爽やかなオレンジのような太陽が輝くルロンサにぴったりの曲調だ。リズムに合わせ、また先導しながら、クリスティアンは見事に踊り終えた。

 下っ端の踊り手ならば一曲だけで出番を終えるところだが、舞台の花でもある彼はまだ去らない。いや、去ることを許さないのだ、観客たちの大歓声が――。

 最初は女性たちに占有されていたように思われた熱狂が、今はその場の全員に広がっている。クリスティアンの人気は、ただその美貌と若さだけではないということの証明だろう。

 続く曲種は、先ほどのアレグリアスとは打って変わって、静かに始まるソレアだ。フラメンコの最も古い形とされる、『孤独』という意味を持つ深みと威厳のある曲である。

 笑顔で周囲を盛り上げ、踊り終えた一曲目と異なり、クリスティアンは笑わない。優美な眉を苦しげに寄せ、俯き、瞳も伏せがちにしながら踊る――人生の悲哀、嘆き、苦しみを表現するソレアならではの表現だった。

 深い感情の底に沈みこみ、訴えかけてくるような踊りに、客たちまでもいつしか切なげな顔になっていた。

「なんて素敵なソレアなの……ああ、私までなんだか泣いてしまいそう」

「今日のクリスティアンは、『夜』のほうなのねきっと」

「何それ、どういうことですか?」

 まだ年若いバイラオーラが、先輩に訊ねる。聞かれたほうは得意げに向き直った。

「あら、知らないの? クリスティアンには『昼』と『夜』の顔があるのよ。それは単純に時間だけで言ってるんじゃなくて、一週間『昼』のままの時もあれば、数ヶ月続く時もあるの。要するに、時々『夜』の彼が表に出てくるってわけ」

「よく意味がわからないんですけど……」

「私にだってわからないわよ。ただ、そうなんだから仕方がないでしょう? 今日の彼は『夜』のほう――アレグリアスも十分すばらしかったけれど、ソレアで特に魅せる時は十中八九『夜』なのは間違いないの!」

 はあ、とわかったようなわからなかったような顔で頷く後輩バイラオーラ。かしましいお喋りは、すぐに激しい靴音で遮られた。トケは止み、踊り手の足だけでリズムを表現するエスコビージャが始まったのだ。

「ああもう、『昼』でも『夜』でも何でもいいわ! やっぱりクリスティアンは最高よ!」

 一人の意見は、女たち――いや、その場の観客全員の思考を代表していた、かもしれない。ただ一人――そんな喧騒を遠くから睨みつけていた人物を除いては。

麗しのドン・クリスティアン、魅惑のドン・クリスティアン、そして女泣かせのドン・クリスティアン。数々の異名を誇る彼のファンとは明らかに様子の異なる、細身の中年男だ。

「ふん、何がドン・クリスティアンだ。今にその化けの皮を剥いでやるからな」

 身に着けた上等な衣服には到底似合わない、どす黒い感情が込められた呟き。それだけを熱気の中に残し、男の乗った豪華な馬車は走り去るのだった。



 三曲をソロで踊ったクリスティアンは、式典の最後を飾るセビジャーナス前には舞台を下りていた。女性同士、また大勢でも踊れるセビジャーナスだが、やはり盛り上がるのは男女ペアのもの。けれど、クリスティアンの姿はない。

 フェリア会場を抜けた先に広がる、酒と食事を気軽に楽しめる居酒屋バルの連なる通り。中でも一番派手で大きな店の奥、木製の椅子に腰掛け、女性たちに囲まれている一人の青年がいる。既に先ほどの舞台衣装から普段着に着替えているが、小麦色の肌に黒の巻き毛、そして男性にしては艶めいた印象を放つ黒い瞳が注目を集める。そう、彼こそがドン・クリスティアン。舞台後の姿だった。

「ねーえ、クリスティアン~今夜はあたしと一緒に来て? 前にも約束したじゃない」

「ダメよ、クリスティアンは私と先約があるの! ね? 熱~い夜を過ごすって言ったわよね?」

 両脇の女から同時に迫られ、彼は微笑む。鼻の下を伸ばしたりはせず、あくまで爽やかな笑い方だ。

「これは困ったな。二人の望みには応えたいけど、僕の体は一つしかないし……じゃあ一人一時間ずつ、っていうのはどうだい?」

「やだぁ~クリスティアンったらもう!」

 彼をぐるりと取り囲む総勢十人ほどの女たちが一斉に笑う。ここで誰か一人を選ぶほど愚かではないけれど、潔癖に全員を拒絶するような、面白みもない男ではないことを皆知っているのだ。

 時を図ったように、馴染みの店主が数々の小皿料理を運んでくる。タパスと呼ばれる、この地方独特の軽食だ。酒のつまみとして、また簡単な食事として皆に好まれている。

小イカの揚げ物、魚の酢漬け、チョリソのワイン煮込み、魚介類のパイ――等々。店主自慢のタパスに女性たちも舌鼓を打ち、マンサニーリャ(辛口のシェリー酒)で乾杯をする。

普段ならその辺りで自然といがみ合いも緩和されるところだが、今夜の女たちはしつこかった。クリスティアンがはっきりと相手を決めないことで、あきらめきれなくなったらしい。小さな言い争いから、双方髪まで引っ張り合う大喧嘩が勃発した。

「お、おい、君たち……!」

 あわてたクリスティアンの制止は、興奮しきった女たちの耳には入らない。

「あたしが前から約束してたんだってば!」

「あんたの勝手な勘違いでしょ!? クリスティアンは私のものよっ!」

 ついに飛び出した禁断の発言に、面白がっていた周囲の女たちまでが加わった。皆、ドレスを翻し、髪はぐちゃぐちゃに乱れ、大変な有様だ。

「なーに言ってんの! クリスティアンは誰のものでもないのよ!」

「そうよそうよ、彼の選択には誰も文句を付けられない。その代わり、クリスティアンは誰にも独占できない。自由だからこそのドン・クリスティアンなんだからっ!」

 ぎゃあぎゃあわめき出す女たちのそばで、当のクリスティアンはほったらかし状態。唖然としていた彼が頭を掻き、やけくそのようにマンサニーリャのお代わりを注文した、その時だった。

 バターン、とすごい音がして入り口の木戸が開く。ケンカに注目していたその場の全員が振り向く。と、そこに立っていたのは簡素な白黒の水玉模様のドレスを着た、細身の少女だった。背中まで波打つ豊かな黒髪は美しいが、顔立ちにはまだあどけなさが残っている。ぱっと開いた、大きな二重瞼が印象的な少女の登場に、クリスティアンも傾けようとしていたグラスを止める。

「クリスティアン=ルセロ!」

 少女は凛と澄んだ声で叫んだ。いきなり呼び捨てにされたのに、なぜか不快感を伴わない呼び方だった。大切な探し物を見つけたかのような、嬉しげな声音。

「……何かご用かな? お嬢さん(セニョリータ)」

 気取った微笑には、彼特有の色気が漂う。思わずつかみ合いをやめた女たちが、今度は新たな嫉妬を瞳に宿した。しかし、当の『お嬢さん』はというと――、

「やっと会えたわ、私の愛しいミ・カリニョ!」

 まさに恋人に再会できたかのような熱烈な言葉で呼びかけ、椅子に座っていたクリスティアンの首に両腕を回し、そのまま抱きついたのである。椅子が壁際になかったら、二人で床に転がってしまいそうなほどの勢いだった。

 さすがのクリスティアンすら、驚愕に目を瞠る。しかしそこは『ドン・クリスティアン』――無粋に押しのけるような真似はしない。少女を支えたまま、さりげなく距離を取って微笑みかけた。

「これはこれは……素敵な挨拶をありがとう。僕の記憶違いだったらすまない。だが、君にはたった今初めて出会った気がするのだが――」

「ええ、そうよ。こうして面と向かうのは初めて」

 平然と微笑み返した少女が言う。ひきつりそうな頬をなんとか抑制し、クリスティアンは笑みを維持した。

「じゃあ、君はええと……初めて会った僕を『愛しいカリニョ』と?」

 こくり、と少女は頷く。ちなみに、満面の笑顔はまぶしいほど明るかった。

 カリニョ――単語だけで言うならば、トレスタ語で『甘い』という意味だ。それを象徴するもの、つまりは恋人や夫婦の間柄での呼び名に使われる。

「だってあなたは私のカリニョだもの!」

 きらきらと輝く瞳は、綺麗な緑色をしていた。小麦色のクリスティアンの肌とは違い、滑らかな白い色の頬。黒髪だけはトレスタ人と同じだが、あとは全て異国の血を示す特徴である。途端にその場に満ちる敵意と、女たちの囁き。両方ともまるで気にもしない笑顔で、少女は言った。

「クリスティアン=ルセロ、私とセビジャーナスを踊ってちょうだい!」と――。

 目を剥く女たち。口笛を吹く店の男たち。黒い瞳を見開くクリスティアン。

「そのためだったら、私何でもするわ。あなたと踊りたいの。だからお願い、愛しいクリスティアン!」

 しばらく固まっていた彼は、ゆっくりと頬に笑みを刻んでいく。それはいつもとは少し違う、やけに意地の悪い微笑に見えた。

 濃い緑の双眸にじっと見つめられ、一瞬でその表情は消える。また優しい微笑みに戻ったクリスティアンは、少女の腕を取って立たせた。

「ばっかじゃないのあんた、クリスティアンはパートナーなんて取らないの!」

「そうよ、セビジャーナスは踊らない。それが彼のやり方なのよ。そんなことも知らないの?」

 嘲笑う女たちの言葉に、少女は目をぱちくりとさせる。

「子供はさっさとお家に帰りなさい。ここは大人たちの遊び場よ」

 盛り上がった胸元を誇示するようなドレスを着た一人が、そう言って笑う。

「わ、私はもう十七よ! 子供じゃないわ」

「もう? まだ、の間違いでしょう? ねえ、クリスティア――」

「いいだろう」

 ふいに聞こえた返答に、女たちは動揺を隠せなかった。皆が一様に信じられないと顔に表し、ざわめきが大きくなる。その中で、クリスティアンはニヤリと笑った。

「俺がセビジャーナスを踊るかどうか。それは全て、君の技術次第だ。可愛いお嬢さん?」

 俺、と自分を呼んだ彼に、誰も気づいた者はいなかった。それよりも衝撃のほうが大きかったのだ。当のクリスティアン自身が少女の手を取り、出て行ってしまったのだから。我に返った女たちは蒼白になり、次々に悲鳴を上げる。

「な、何なのあの子、一体何なのよっ!?」

「どうしてドン・クリスティアンがあんな子供と――」

「あたしたちはどうなるのよ~!」

 さっきまで喧嘩していた女たちが今度は手を取り合い、共に悔しさを分かち合う。クリスティアンが残していったマンサニーリャをひそかに飲み干した店主が、無表情で淡々と呟いた。

「また、一騒動かな……」

 ひげの中からのくぐもった言葉はしかし、女たちの耳にしっかり届いていた。彼の言う『騒動』――それはそのまま、美貌と実力共に頂点に立つバイラオール、ドン・クリスティアンの別の異名。『女たらしのクリスティアン』が目覚めたことを意味するから、であった。



 そうして、居酒屋通りからあっという間に噂は駆け巡った。あのクリスティアンに新たな恋のお相手誕生、しかもそれはたったの十七歳の、異国風の少女だというものだ。

 噂には尾ひれがつき、店で既に抱擁を済ませただけでなく、皆の前で熱い口付けを交わしていたとか、今度こそクリスティアンも本気であるらしいとか、とにかくものすごい話題が広がる。女たちは泣き、男たちは笑い、双方違う意味の嫉妬をする。

 まさに一夜のうちにルロンサの街中が盛り上がったそんな噂の張本人――クリスティアンは、少女を連れて自宅へたどり着いていた。表に待たせてあった彼専用の馬車で小一時間ほど走った、郊外の小高い丘の上。広大な海を臨める、白亜の豪邸だ。

嬉しそうにあれこれ一人で話を続けていた少女は、まだ冷めないらしい感激を瞳に宿らせたまま、クリスティアンの自室をうろうろ歩き回っている。

 既に召使は下がらせ、二人きり。背後には大きな寝台が控え、窓際に燃える蝋燭の明かりだけで部屋は薄暗い。それでもまるで緊張感のない少女が何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、クリスティアンにはわからなかった。

「――で?」

 ブラウスのボタンを上から二つほど外して緩め、髪を結んでいたリボンも解く。それだけで優男然としていた美貌に、やけに色気が増した。口元に笑みがないだけで、急に男っぽく――というより、野性味に近い印象まで放つクリスティアンに見つめられ、少女はキョトンとした。

「で、って? 何が?」

「何って……」

 それはこっちが聞きたい、とクリスティアンは口を開きかけるが、呼ぶにも名を覚えていないことに気づく。馬車の中で自己紹介されたような記憶もあるが、右から左の耳へ聞き流していたのだ。

「君、名前は?」

「さっき話したのに……全然聞いていなかったの? 人の話はちゃんと聞きなさいってご両親に教わらなかった?」

 ぷう、と膨れて責められ、クリスティアンの片頬が引きつる。皆の前では取り繕っていた微笑は、確かに意地の悪いものに変わっていた。

「両親ねえ……父には金の稼ぎ方を、母には異性を誘惑する方法を自然と教わったが、ろくに話したこともないからわからないな」

「まあ」

 困ったように、あるいは驚いたように少女は言った。中途半端な同情ならはねつけてやろうと思ったのに、変に拍子が外れた反応だ。

「それで、優しいご両親に人の話はちゃんと聞くように教わったらしい君は、僕の話を聞いていたのかな?」

 口調だけは優しく、クリスティアンは尋ねる。明らかな皮肉に気づかなかったのかどうなのか、少女はまたやわらかな笑みを浮かべた。

「エスメラルダ」

「あ?」

「私の名前よ。エスメラルダ、というの。よろしくね」

 片手を差し出され、思わず握手するはめになる。また、頬が引きつった。

 今夜はどうにも調子が狂う。額に垂れ落ちてきた髪を乱暴にかきあげ、クリスティアンが何か言い返そうとした、その刹那だった。

「それで、あなたの名前は何なの?」

 いきなり少女――エスメラルダがそう聞き返したのだ。

「名前って……今まで散々呼んでおいてもう忘れたのか?」

一体何を言っている、と眉間に皺を寄せたクリスティアンに、エスメラルダは首を左右に振った。

「表向きの名じゃなく、本当の名前よ。『あなた』は、一体誰なの?」

「お前――?」

 口元に残っていた笑み――呆れた表情は、瞬時に消えた。何を言っている?

 エスメラルダが、彼女の濃い緑の瞳が、瞬きもせずクリスティアンを――彼を見つめる。

「昼間、あなたのソレアを見たわ。さっきも話したけれど、私、あなたの舞台をずっと見てきた。ひと月の間、各地で踊るあなたを毎回欠かさず……そしたら、すぐにわかった」

 何をだ。そう問う代わりに、彼の瞳は剣呑な色を浮かべる。まるで警戒することなく、エスメラルダは微笑んだ。花が開くように、ふんわりと。

「あなた、『ドン・クリスティアン』とは別人だわ。いいえ、本当はもう一人が別人であなたがそうなのかもしれない。でも、とにかく二人が同一人物として活動していることは確かね」

「何が、言いたい……?」

 これは予想外だと、彼は問い返す。訊ねてはいても、頭の中では次にどうするべきかを考えていた。まさか、ここまで感付く人間がいるとは。

「どうしてそんな怖い顔をするの? 私はどちらが『クリスティアン』であるかなんてどうでもいい。ううん、あなたに――素晴らしいソレアを踊る、あなたに用があるの」

「俺に?」

 また呼称が戻っていた。気にする余裕はなかった。エスメラルダは微笑み、もう一度手を差し伸べてくる。

「あなたの踊りが好きなの。一目見て、この人だって思った。あなたと、一緒に踊りたいの。だから、お願い……」

 すがりつくように見つめる眼差しは真剣そのもの。嘘も偽りも演技も、何も感じられなかった。常日頃自分がやっていることなのだ。誰よりも相手のそれがよくわかる。

 一層困惑した彼に、エスメラルダは続ける。

「名前を教えて? あなた自身の、本当の名を――」

 まっすぐに、そのまま心に問いかけるような澄んだ声。彼はまた髪をかき乱し、ふっと笑った。まるで感情を読ませない、冷たい微笑だった。

「……っ」

 悲鳴を上げる前に、エスメラルダは寝台に沈んでいた。否、彼が突き飛ばすように沈めたのだ。そのまますぐに圧し掛かり、両手首を右手で、そして開きかけた口を左手で強く押さえる。見開いた緑――名前通りのエメラルドのような双眸を見下ろし、低く問う。

「名を知ってどうする? ドン・クリスティアンは別人だと、脅して金でもせしめるつもりか? それとも、俺自身に興味でもあるのか? 悪いが俺は、『クリスティアン』とは違って女に優しくもないし、好きでもない。どちらかと言えば、ぎゃあぎゃあうるさくて面倒で、大嫌いな連中だ。お前がそうやって騒ぐ気なら、このまま服を引き裂いて、二度と口が開けなくなるくらい可愛がってやってもいいんだぞ?」

 春の夜更け。空気はやわらかく過ごしやすいはずなのに、この部屋だけは凍えているような――それほどに、彼の口調は冷たく、静かだった。物騒な言葉にエスメラルダは怖がり、泣き出しでもする、のかと思いきや。彼女は美しい瞳を瞬かせ、ゆっくりと彼の手の下で首を横に振ったのだ。

 少しだけ押さえる力を緩めると、エスメラルダは答えた。

「あなたは、そんな人じゃない」

 落ち着いた声音できっぱりと言われ、また調子が狂う。その隙を突いたようにそっと起き上がり、いつのまにか拘束から逃れたエスメラルダが言ったのだ。

「深い孤独を心に抱えた、優しい人。あなたの踊りを見ていればわかるわ。もう一人がアレグリアスならば、あなたはソレア。どれだけ似せていても、両者はまるで違うものだもの。当然よ、二人は違う人間なんだから……」

 それでね、とエスメラルダは再び微笑む。もう一度、先ほどのように片手を差し伸べて。

「私は、あなたが――あなたの踊りが大好きなの。だからひと月待って、今夜やっと会いに来たのよ。私はエスメラルダ。あなたは……?」

 自分より頭一つ以上背も低く、まだ十七にしかならない少女。それなのに、優しい声に全てを見透かされている。軽く頭を振り、彼は嘆息した。あきらめたように、顔を上げる。

「ディオニシオ――ディオン、でいい」

 本当の名を誰かに告げたのは、実に七年ぶりのことだった。



(なんで言っちまったんだ、俺は)

 翌朝、クリスティアン――と名乗り続けていた青年、ディオンは頭を抱えていた。

 朝食の席に着いた少女がにこにこと自分を見ている。向かい側から、澄んだ緑色の双眸で。

「そう、双子なの。それなら見分けが付かないくらいに似ていてもおかしくないわよね」

 うんうん、と納得している顔はまさに十七歳の子供そのもの。なのに、不思議と昨夜は心を動かされた。いや、ぴったりと閉じ続けていた扉をそっと開かれた、とでも言うべきか。

「でも、やっぱりおかしいわ。黙って立っているだけならともかく、踊っているあなたには確かな人格も感情も見えるのに。もう一人とは全く違うはずなのに」

 同一人物だと何年も周囲を騙し通せていることが不思議だ。そう続けるエスメラルダの反応にこそ、ディオンは首を傾げたかった。

(どうして、こんな小娘にバレたんだ?)

 全て完璧に似せてきたはずだった。踊り方、表情、仕草、視線、何もかも。それは舞台上だけじゃなく、舞台が終わった後の行動でさえも徹底してきた。なぜならこれこそが、ディオンの『仕事』であるから――。

 双子の兄、クリスティアンの身代わりとして舞台に立つこと。周囲を欺くこと。一人のバイラオールとして立派に活動できる実力を持ち、なおかつ双子という特別なつながりがある自分にしか果たせない一級の仕事。不平不満は山ほどあるにしろ、十八になった頃から務めてきた役割は、誰にも見抜けない完璧なものだという自負があった。それなのに、たかだかひと月ほど舞台を見ただけのエスメラルダに気づかれてしまったとは。

「……屈辱だぜ」

 思わず呟き、頭をがりがり掻いたのは、エスメラルダに対する苛立ちからだけではない。守り通してきた真実を、ぺらぺらと(あくまで普段のディオンの性格から考えて、だが)明かしてしまった自分にも、腹が立っていたからだった。

呟きは届かなかったらしく、エスメラルダは優しく微笑んだ。すっと差し出されたのは、剥かれたゆで卵。

「はい、ディオンの分」

 引きつった頬が、奇妙にゆがんだ。なぜ、と自身に問うまでもなく、それが不思議なくすぐったさのせいだと気づく。何しろ本当の名で呼ばれるのは久々すぎて、自分じゃないような感覚までするほどだ。

「……はい、じゃなくてさ」

 口調を整えるのも笑顔を作るのも既に無意味だったから、仏頂面のままで切り出した。つい受け取ってしまった卵を、あわてて皿に押しのける。

「っていうかお前――なんで一緒に食卓に着いてんだよ?」

「なんでって、お腹がすいたから。朝ごはんはちゃんと食べないと、一日元気に過ごせないもの!」

「いや、そういう意味じゃなく……」

 ここで、もう一度頭を抱えるディオン。周囲を見渡し、ここが見慣れた自分の部屋――『ドン・クリスティアン』邸宅の敷地内に設けられた彼専用の屋敷にある食堂――であることを確かめた。未だかつて、極めて少数の世話係以外、他人は足を踏み入れたことさえない場所だ。

「もしかして、本気でここに居座るつもり……じゃないよな?」

「ああ、またその話。もちろん本気よ。言ったでしょう? パートナーにしてちょうだいって」

 パートナー、と口の中でディオンは繰り返した。それはどういう意味だっただろうか。ついついそんな現実逃避までしたくなる、非常に不本意な状況である。

「あなたも了承してくれたじゃない。ね、何から始めればいい? ああ、踊りの練習をするには食べ過ぎちゃいけないわね。やっぱりデザートはやめて……」

「いやいやいや、ちょっと待て。俺は了承なんてしてない。それは断じてしてないぞ」

 昨夜、本名を教えた。自分がクリスティアンの双子の弟であり、時折身代わりを務めていることも。なぜ話してしまったのかは今もって自身で答えが出ていない重要な問題ではあるが、それは後回しだ。

「もう遅いから泊まっていけとは言った。だが、パートナーになるだなんて俺は――」

「でも、ちゃんと言ってくれたわ! あの居酒屋で、みんなの前で! 私の踊りを見て、考えてくれるって」

「それは……」

 そうだ、自分は疲れていたのだ。先ほどの問題に対する答えを見つけた気がして、ディオンは一人頷いた。また例によって例のごとく、身勝手極まりない理由であの馬鹿兄――本物のクリスティアンは言った。

『あ、えーっとお、またちょっと旅に出てくることになったからさ。ちょちょいっといつもの仕事よろしく頼むね』

 ふざけた笑顔と口調が鮮やかに脳裏に蘇ってくる。小さな地方のフィエスタ(祭り)であろうが、大事なフェリア(年中行事としての祝祭)であろうが、彼の態度と心構えに違いはない。それよりも大切なことが、ドン・クリスティアンには存在するからだ。

曰く、素敵な女性たちと愛を語り合うこと――彼には舞台よりそちらが優先事項なのである。今頃トレスタのどの街にいるのか、はたまた国境さえも越えているかもしれない。そんな兄の身代わりを務め続けるディオンの苦労も知らずに――。

「疲れてたとこにちょうどよく新顔の女が現れたから、適当に話合わせて退場してやれって思っただけだ。うまくごまかして追い出すつもりで……」

「それでも、ちゃんと家に入れてくれたわ」

 ぐっと、ディオンは言葉につまる。そもそも、店を出たところで放り出してしまわなかった自分にも非があるのだ。そしてまた思考は最初の疑問に戻る――なぜ、と。

「あなたは優しい人よ、ディオン」

 朝の爽やかな日差し、翻る白いカーテン、そして、目の前の少女の笑顔。一人きりで過ごすことが当たり前のディオンにとって、見慣れない光景に過ぎるもの。演技をする必要がない、ということは同時に、素の自分を晒さなくてはいけない、ということで、

「……参ったな」

 完全にどうすればいいかわからなかった。この厄介な小娘と、そして目の前の白い卵も――。

(ああ、面倒くせえ!)

 頭の中で叫んで、ディオンは立ち上がった。乱暴な動作で、椅子が後ろに倒れそうになる。なんとか留まった椅子をまた蹴り倒しそうな勢いで、ディオンは食卓を離れた。

「どうしたの? ディオン」

「だから……っ!」

 気安く呼ぶな、と言いかけて、その名を教えたのが他でもない自分であることをまた思い出した。

 きらきらと、純粋な瞳がディオンを見上げる。『仮面』を外した顔を見られていることで、ものすごく落ち着かない気分だった。だからといって一度外したものをまた被るわけにもいかないし、余計に疲れるだけだ。バレてしまったものは仕方がない。

 どうするべきか考えていたその時、視界に入ったもの――それは、エスメラルダが身に着けている、簡素なフラメンコ・ドレスだった。

「そっか。そうだよな」

 思わず笑った。一瞬とはいえ声を出して笑ったのもまた、思い出せないほど久しぶりなことだった。当のエスメラルダは、キョトンとして見つめ返してくる。

「わかったよ。やればいいんだろ? パートナー」

「……っ、本当!? 本当にいいの?」

 嬉しそうに両手を合わせるエスメラルダに頷き、ディオンは言った。

「ただし、お前の踊りが俺の認める水準であれば、の話だぞ」

 とてもそうであるようには思えない。いや、そんなはずがない。たかだか十七の小娘が、まがりなりにもトレスタ国一とも称えられる当代人気のバイラオール――の身代わりも務められるほどの自分が認める踊りを踊れるわけがない。

 意地の悪い笑顔は、再びエスメラルダに抱きつかれたことで引きつった。

「ありがとう、ディオン!」

「だから……ま、いいや。付いてきな。あっちに俺専用の練習室がある」

 いくら嫌そうな顔をしても変わらずに名を呼び、善人そのものの微笑みを見せる。そんなエスメラルダとの奇妙な関係も、これで終わりにできる。ディオンはそう信じていた。少なくとも、この時までは。


「さて、何を踊る?」

 練習室の壁際で、腕組みをして訊ねた。やたらと褒め称えていたソレアを自分も選ぶのか、それとも本来のクリスティアンが得意なアレグリアスか。更に高度なブレリアかシギリージャか。どれも、曲名ではなくフラメンコに共通する曲調――パロを指した名前だ。当然知っていて然るべき全てを意味して、ディオンは訊ねたのである。が、

「何をって、セビジャーナスよ。それしか踊れないもの」

「……はあ!?」

 たっぷり数十秒は黙っていただろうか。その後、ディオンは驚愕の声を漏らした。

 いや、確かにそれを踊りたいとは言っていた。とはいえ、まさかそれ『しか』踊れないとは――。

「俺を馬鹿にするのもいいかげんにしてくれ。さあ、遊びは終わりだ、お嬢さん。優しいご両親が心配する前に、お家に帰りな」

 呆れ顔で両肩を押すと、エスメラルダは逆に驚いたように首を振った。

「い、嫌よ帰るなんて! どうして? セビジャーナスが踊りたいんだから、それしか踊れなくてもいいじゃない。まだ他の曲調は覚えてないの。ひと月しかなかったから……」

「おい、ちょっと待て」

 何がいけないのか、と言い募る純真そのもののエスメラルダの顔。ディオンは片手を額に当てて、思いついた可能性をひとまず言及することにした。

「まさか、とは思うが……お前、フラメンコ自体始めたばかりだとか……?」

「ええ、そうよ」

 にっこりとエスメラルダは笑った。そのなんとも純真で明るい笑顔を見ながら、ディオンはすっかり脱力していた。そして、今まで思いつかなかった疑問の数々が頭に浮かぶ。

「……お前、家は? どこから来た?」

 そうだ。たかだか十七の子供が、自分のような男のもとに押しかけ、パートナーになってほしいと頼み込む。それは普通の行動と言えるだろうか?

(泊めちまったの、まずかったかな)

 出会ったのが酒場で、周囲にいたのが遊び慣れているような女ばかりだったことで、ついつい失念していた。あの場にいた女たちには、心配するようなご立派なご両親なんていやしないということを。

(くそ、親に怒鳴り込まれたりしたら面倒なことになるぞ)

 それでもディオンが考えたのは、保身――いや、身代わりの本元、クリスティアンの立場を守ることだった。それも契約の条件であるし、いつものディオンなら言われなくても気をつけている類の問題なのだが。

 クリスティアンにまとわりついてくる女たちには、二種類ある。遊んでいい女と、ダメな女。最低軽薄なあの兄も、そこのところはよくわきまえているのだ。

「おい、聞いてるのか、エスメラルダ。家はどこで、親は何を――」

 どうやら先の質問を聞き逃したらしい少女は、練習室の大きな窓に向いて立っている。ディオンが更に詰め寄ろうとした、その時だった。

 爽やかな陽光を浴びながら、エスメラルダがふわりと両腕を上げた。貸してやったトラジェ・デ・フェリア――練習着代わりの赤いドレスの裾が、優しく揺れる。

「エ……」

 名前を呼びかけたディオンは、そのまま固まる。音楽もない、歌もない。それでも、エスメラルダは一人両手を打ち鳴らし始めた。リズムでわかる。セビジャーナスだ。

 とっさに声が出なかったのは、不意を付かれたからだけではなかった。予想もしない光景が、目の前で繰り広げられ始めたからだった。

 下ろしたままの波打つ長い黒髪、白く滑らかな頬、大きな緑色の瞳。華奢な体つきも何もかも、先ほどまで話していた十七歳の少女でしかない、はずが――、

(これは……嘘、だろ?)

 当代きってのバイラオール、クリスティアン。彼と等しい実力と技術を兼ね備えたディオンが、驚愕に目を瞠る。少女のセビジャーナスはやわらかく美しく、それでいて力強く、彼の胸に飛び込み、あっという間に広がっていったのだ。

 両腕を交代に上下させる、手首を反す、手のひらを打ち合わせる。足を踏み鳴らす、回転する、もう一度向き直る。単純で単調であるようでいて、セビジャーナスの動きは踊り手の実力がはっきりと現れるものだ。フラメンコを始めた初心者が習う基本でもあるからこそ、美しく見せるためには複雑な動きよりも一層の技量が必要とされる。そんなセビジャーナスをエスメラルダは可憐に、情熱的に舞い、ディオンを引き込んだ。

 さながら、一輪の赤い薔薇。それも咲き始めたばかりの瑞々しい花が、やわらかな花びらが、目前で開かれていくような錯覚を覚える。ディオンは我知らず頭を小さく振り、片手で額を押さえた。

(馬鹿な――こいつは、ただの子供だ。『彼女』とは違う)

 一瞬、本当にわずかな時間脳裏で重なりかけた面影を引き剥がそうとしていたディオンは息を呑んだ。踊り終えたエスメラルダが、目の前で自分を見上げていたのだ。

「どうだった? ディオン」

 その台詞までが、同じ抑揚と感情を持って自分に迫ってきた気がした。苦しい感傷に引きずられるように、ディオンは首を振っていたのだ、縦に――。エスメラルダが、ぱあっと顔を綻ばせる。

「よかった……認めてくれたのね! ありがとう! ありがとう、ディオン!」

 私の愛しいミ・カリニョ、と再び呼んだエスメラルダが思い切り背伸びをし、首にしがみついてくる。よろめきかけて壁に押しやられたディオンは、自然とそんな少女を両手で抱きとめるはめになった。

「よろしくね、パートナーさん!」

 頬へのキスまで受けてしまってから、ディオンは我に返ったのだ。

(言ってない……そんなことは、承諾したんじゃないぞ……!)

 まさに彼がそう口走ろうとした、その瞬間だった。

「お待ち下さい、ご主人様は今、練習中で――!」

 屋敷の使用人が必死に叫ぶ声と同時に、高らかな靴音と野太い怒声が扉の外で響いたのだ。明らかにガラの悪い人相と服装の男二人が、練習室に押し入ってくる。

「いたぞ、捕まえろ!」

「手こずらせやがって……とっとと来い!」

 彼らが手をかけたのは、エスメラルダの肩だった。細い腕を力ずくで引かれ、エスメラルダが小さく悲鳴を上げる。

 嬉しそうな笑顔は瞬時にかき消され、苦痛にゆがみ、ディオンの腕の中で華奢な体が震える。

助けて。無言でありながらも体全体からそう訴えられた。これで厄介事から逃れられると胸を撫で下ろすべき瞬間を、ディオンは自身の無意識の行動で台無しにしていた。男たちを押しのけ、エスメラルダをもう一度引き寄せる、という形で――。

(俺は何をやっている?)

 面倒に自分から足をつっこもうとしている。普段のディオンならば考えられないことだ。けれど、頭より先に体が動いていた。

引き止めてしまった手前、仕方がない。男たちに内心の動揺を気づかせぬよう、いつもの『クリスティアン』の仮面を被った。できるだけ堂々と悠然と、声を出す。

「これはこれは紳士殿セニョール、我がルセロ邸にどのようなご用件でしょうか? 招かれざるお客人も淑女なら大歓迎だが、生憎僕にはご立派な体格の紳士と踊る趣味はなくてね。それでもせっかくお越しいただいたのだから、お茶ぐらいはご馳走しましょう。ホセ、紳士方にとっておきの茶葉を用意してくれたまえ」

 抱いていたエスメラルダをさりげなく男たちから遠ざけるように背後へ回し、使用人に言いつける。そんなディオンが、微笑を浮かべつつも険しい目をしていることに気づき、男たちはあわてたように離れた。

「はい、ご主人様。ガルディア産の良い茶葉が入っております」

「ああ、ガルディア産は素晴らしい。舌どころか全身が痺れるほどに刺激的な味だからな」

 ホセとディオンのやりとりに加え、一足遅れて駆けつけた屋敷の用心棒――強面で屈強な男三人を見やって、侵入者たちは顔色を変える。ちなみにガルディアというのは茶葉の産地ではなく、ルロンサの治安警察ガルディア・シビルを指した暗喩だ。脳よりも体のほうが発達しているような彼らにも、それは伝わったようだった。

「と、とんでもねえ。俺たちはすぐお暇しますんで……」

「ええ、ええ。この小娘だけ連れて帰れればすぐに。いやはや、こちらも厳しい商売でねえ。花娘一人でも逃げ出されちゃ、食いっぱぐれなんですよ」

 最後の一文に、ディオンは眉をひそめた。花娘。それも若い娘の外見を花に例えた暗喩で、実際のところは身売りをする少女を意味する単語である。

(花娘……こんな、苦労一つしてなさそうな娘が?)

 驚くディオンに、男たちはへこへこ頭を下げながら説明する。数日前に逃げ出した娘が、かのドン・クリスティアン邸に身を寄せている者と同一人物であるらしいと、昨夜街中を駆け巡った噂話で推量したのだと。大枚を損するところだった、と礼まで言ってまたエスメラルダの腕を引こうとする。

「ほら、戻るぞ!」

「よろしいですねえ? ドン・クリスティアン」

 にやにやと笑いながら、男たちが確認を取る。国民の憧れであるクリスティアンが、まさかこんな花娘一人に執着はしないだろう。そういうあてつけも込められた目線だった。

 身代わり役とはいえ確かにディオン自身、そんな執着などしたことも、する必要もなかった。女との必要最低限の付き合いすら煩わしく、できるならば避けて通りたいと考えていたくらいだ。なのに――。

「……ッ、クリスティアン!」

 今にも引き離されそうだったエスメラルダが、一瞬の逡巡の後、そう呼んだ。こんな風に連れ戻されそうになりながらも、ディオンが身代わりであることが知られないように、気を遣ったのだとわかる。輝くような笑みを見せ、喜んだ様子が頭に浮かぶ。

引きずられかけ、揺れ動いた赤いドレスの裾が、鮮やかな花びらのように見える。自分でも信じられない、というように軽く首を左右に振りながら、それでもディオンは動いていた。細い手首を掴んで、再び少女を引き止めていたのだ。

「ドン・クリスティアン?」

 男たちと、屋敷の者たち双方に窺われた。ディオンはすぐさま余裕に満ちた表情を取り戻し、あたかもそれすら余興の一環であるかのように言ってみせる。

「申し訳ないが――彼女は、僕と約束済みだ。ひと月後の春祭り(フェリア・デ・プリマベーラ)で、セビジャーナスを踊ることをね」

「クリスティアン!」

 今にも泣き出しそうだったエスメラルダの瞳が輝く。ホセは目を丸くし、男たちは唖然とした。

「し、しかし、この娘は……」

「知っている。花娘だと言うんだろう? ならば話は簡単だ。僕のためだけに咲いてくれるように、彼女を手折らせてもらいたい」

 愕然とする周囲の空気を余裕の笑みで治めながら、その実ディオンの頭も混乱に満ちていた。

(ええい、もう、自棄だ――!)

 男たちの言い値で、その場で小切手を切り、ディオンはエスメラルダの手を取った。

「これで、もう用はないはずだな? ガルディアの茶が飲みたければいつでもご馳走するが……」

 ディオンの瞳が剣呑になったのを見て取り、男たちは用心棒に付き従われながら退散していく。やっちまった――ともう一人の自分が頭を抱えていたけれど、ディオンは笑っていた。可笑しくてたまらない、というように顔をゆがめて、ひとしきり笑う。

「ディオン様……よろしいので?」

 事情を知る自分仕えのホセが問う。珍しく本名で呼んでくることからして、彼も驚愕から抜け出せないでいるのだろう。他者のそんな反応に、むしろ落ち着いて頷くことができた。

(どうせ偽者の人生なんだ。少しは楽しんで、何が悪い?)

 開き直ったディオンに、感極まったエスメラルダが抱きつく。

祝祭フェリアまでひと月しかない。厳しくしごくから、覚悟しておけよ」

「……任せておいて、ディオン!」

 飛びついた少女の体を受け止めて、ディオンは楽しげに嘆息するのだった。

       


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