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それから数ヶ月が経った。
リズはきっぱりとコナリーに断り、相変らずロイドと二人暮しをしていた。
最近のリズのもっぱらの悩みは高等学校に進もうかどうしようかと言う事で、ハンナ先生の代わりに来たチャールズという教師にはそれを強く勧められているのだが、街の学校に行くとなれば荷馬車での通学でも時間がかかりすぎてしまう事が悩みの種だった。
―――それに、ただ勉強を教わるだけならロイに教えてもらえる。
リズが学校に通っていたのは、どちらかと言えば同世代の友人たちを作るのが目的だった。こんな場所でロイドと二人っきりで暮らしていたのでは人との付き合い方を忘れてしまうとロイドが懸念して、それまではリズの勉強は自分で見ていたのに学校へやったのがここに来て三年目の事だった。
リズの見るところでは、きっとロイドはとても頭が良いのだと思う。少なくとも、高等学校の勉強をリズに教えられる位には。それを、ロイドが渋っているのはひとえにそれをしてしまえばリズの交友関係がなくなってしまうと思っているからだ。
「できれば君を街へも行かせてやりたいと思っている。街には人も多いし、今まで以上に色々な人と触れ合う事ができるだろう」
自分自身は殆ど人と触れ合う事をしたがらないロイドはいかにももっともらしい顔でリズにこんな事を言った。
「それは分かるけど、やっぱり毎日街に通うのは大変なのよ」
リズはそんな言い訳をする。
「下宿と言う手もあるんだよ?」
「それは嫌」
こういう形で二人の意見はいつも平行線なのだ。
そんな悩みに終止符を打ったのが、リズの進学を勧めていたチャールズだった。彼は、週に一度だけ学校に通って残りは自宅学習という形でどうだろうか、という話を持ってきてくれたのだ。チャールズはそのために高等学校の方に掛け合って、それどころか月謝もそれに見合う分だけしか渡さなくて良いという事にしてくれた。
その日、来年から通うと高等学校に挨拶に行くためにリズとロイドは街へ出てきた。街は想像した以上に開けていて、ずっと田舎で静かに暮らしていた二人には、少し賑やか過ぎるくらいだった。
「なんだか自分がひどく惨めになった気分がするものね」
リズは自分の服を見下ろしながら溜息をつく。リズにとって余所行きであるそれは、この街ではとても野暮ったく田舎臭く見えたのだ。
「まったく、流行ってすぐ変わってしまって嫌になるわ」
ぶつぶつと言いながら顔をしかめるリズに、ロイドは苦笑して言う。
「じゃあ何か一着、学校用に買って行くかい?」
その言葉に、リズは更に顔をしかめてロイドの顔を見上げた。
「いいの。無理しないで。こんな所で服を買うようになったら、うちはすぐに破産しちゃうって事くらい、私だってちゃんと心得てるんだから」
「そこまで心配されるものでもないよ」
「でも、貯蓄しておけばその分美味しい物が食べられるでしょう?」
その言葉に、ロイドはたまらずに噴き出す。
「うちのお嬢さんは、どうやら色気よりも食い気のようだ」
リズはそんなロイドを軽く睨みつけてぷいと顔を逸らした。
だが、そうやってへそを曲げたのも束の間で、すぐにまたロイドに寄り添って歩き出す。
道の両側には村にはない珍しい店やお洒落な店が連なっている。それでも、ここは小さな街なのだそうだから、都市や、さらに王都などに行けばどんなに立派な物なのかと想像さえできない。
「不思議ね、こんな物、人間が作っちゃうなんて」
感慨深そうにリズは呟いた。ロイドは目深に被った帽子の下からリズを見下ろして言う。
「こういう物を作れてしまうから、人はきっとどんどん傲慢になって行くんだよ。あまり、良い傾向じゃないと思うな」
「なんか、屈折してる」
からかうように笑ったリズの表情は、たまたま受け取った街の一角で配っているビラを目にして凍りつく。不審に思ったロイドはそれを手にして、やはり顔を曇らせた。
ビラには活版印刷の黒々とした文字で『王家を許すな』『国民よ、今こそ立ち上がれ』『搾取の時代は終わる』などと言う文字が大きく書き出されている。
「こんな街まで、反王政運動は向かってきているのね」
ぽつりとリズが呟く。
その声に、大声で演説する男の声が重なった。良く見れば、その周囲を多くの人が取り巻いてその演説に熱心に耳を傾けている。中には、手を振り上げて演説する男に同意する者もあった。
「女王様は大丈夫かしら?」
「君が、心配する事じゃないよ。……嫌な物を見てしまったな。さあ、早く挨拶をして帰ろう。帰りに何か美味しい物でも買ってね」
ロイドは足を速めながら、リズをそう言って促す。
リズはもう一度気遣わしげにその演説の方を振り返った。丁度その時、演説者が顔を上げてリズとロイドの方を見た。その目に何かが閃いたとリズが思った瞬間、リズは強い力でロイドに手を引かれてしまって、その場を後にしたのだった。
その翌日、リズは村に行く途中の道で立派な馬車が自分の家の方角に向かって行くのにすれ違った。思わず振り返ってまじまじと見てしまったほど、それはこの田舎には似つかわしくないほど豪華な馬車だった。
その日、学校でリズは一日中不安で一杯だった。勉強もまるで身に入らない。気が付けばつい、来る途中で見かけた馬車の事を考えてしまうのだった。
―――あの馬車は、ロイに会いに誰かが乗って来たものじゃないかな?
そう考えるのには、理由があった。リズもロイドも、普段はそれを忘れたように暮らしているけれど、ロイドは実は昔、王都で任務に当たっていた騎士だからだ。王国騎士団の団長以上は、大概家柄の良い者が任命されるようになっている。当然、貴族などが多く、そういった者達には城に出入りする権限が与えられる事もあった。ロイドは正にそれで、亡き国王や姫君などに可愛がられて頻繁に城に出入りできる立場の者だったらしい。リズは本人から聞いたわけではないのだけど、それらの事を噂や本などの知識で知っていた。
ロイドは当時有名で、王都で知らぬ者はいないと言われた英雄だった。その武功は優れており、難しい戦場をいくつも勝ち抜いてきたと言う。リズはまだロイドと知り合う前に、凱旋行進をするその姿を遠目に一度だけ見た事があるけれど、紙吹雪や歓声が飛ぶ中、ぴくりとも表情を動かさずにいるロイドの黒い髪の下から覗く灰色の瞳が鋭くて、とても恐ろしく思った事を良く覚えている。当時、王都の娘の中には憧れる者が多かったらしいが、生憎リズには、甲冑を着て大剣を担いだロイドには何か禍々しい恐ろしさしか感じなかった。
そんなロイドだから、本当なら今も王都にいて、今ならば王国騎士団長にでもなっていてもおかしくない筈なのに、戦争が終わってすぐに王都を出て、こうしてリズと一緒に田舎暮らしを始めた。退職金で広い麦畑と小さな家を買って、とても慎ましやかに。リズにとってはそれはとても幸せな事だったが時として不安になることがあった。本当にロイドは今のままで良いのだろうか?本当に満足しているのだろうか?と。
リズは目を伏せて、初めてロイドと言葉を交わした時の事を思い出す。
戸棚の中に隠れていたリズを発見したロイドは手を差し伸べて言ったのだ。
「君の事は、私が守ってあげよう。……一緒においで」
それまで抱いていたイメージとは全く違った、とても優しい深い灰色の瞳は、けれどもその中にとても苦しそうな痛みを同居させていた。リズは手を伸ばしながら、吸い込まれそうなその瞳に見入っていた。
そうして、リズとロイドは城から抜け出したのだ。
「リズ?リズ・クロフォード」
不意に名前を呼ばれてリズは弾かれたように顔を上げる。視線の先に、呆れたようなチャールズ教師の視線があった。
「久しぶりだね。ロイド」
質素な家には不似合いな高価な身なりをした男はそう言って笑って見せた。ロイドはにこりともしないで、テーブルを挟んでその男の座る席の正面に腰掛けている。
「昨日、アントン君が街で君を見かけたと言って電信を打ってきてね。まさかと思って来てみれば、本当に、なあ」
始めに「僕はもう、身分にはこだわらない平等主義者だから」と断って、昔はロイドに敬語を使っていた男は、馴れ馴れしくそんな口調で話す。男、かつての同胞で……と言ってもロイドより地位は下であったが、そして今は反王政運動の指導者の一人として有名であるマルコムはロイドの顔を見つめる。ロイドは相変らず無表情で対面していた。
「かつての英雄がこんな片田舎で隠棲しているとは、誰も思わないだろう」
「かつての王国第二騎士団第三連隊第五隊長が今では反王政運動の指導者として上り詰めているのよりは意外ではないさ」
ロイドはそう、静かに返すと、厳しくマルコムを見据えた。
「私はもう、過去の物とはきっぱり手を切った。今更何の用だ?」
「そのくらい、予想がついているから君はそうやって不機嫌になっているんだろう?」
マルコムはそう言って肩を竦めた。
「本当に、君は頭が固いな。君が城を出た時もそう思ったけれど。……あれは、君が責任を負うべき問題じゃなかった。君の判断は正しかったのだよ。そうして私たちは、あの魔女の思想的支配から逃れられた。そうじゃないかい?」
鼻にかかったような声で滔々と、そんな風に話すマルコムを、ロイドは静かに見つめ返す。
「お前の言っている事が正しいか正しくないかは別としても、どちらにしろ俺はお前のやっている事に協力するつもりはないよ」
「相変らず、頑固者だな」
マルコムは溜息をついてそう言って、パイプに火をつけて、煙を思い切り吸い込んでから言った。
「言っておくが、君の朋友だったジェラードも、とうとう我々に協力してくれるようになったのだよ?」
その言葉に、ロイドは意外そうな顔をする。
「ジェラードが?」
ジェラードは騎士団時代、ロイドと最も仲の良かった同胞で、戦場でも共に戦う事が多かった。いつもどこか人を小ばかにした様な態度を取るくせのある男で、そのために上司に目をつけられているような男ではあったが、性根はとても真面目な男だという事をロイドは知っていた。真面目で繊細だからこそ、そうして世の中を、自分を皮肉って茶化していなければやって行けないのだ。
その真面目さ故に、絶対に王家を裏切るような事はジェラードには出来ないものだとばかり思っていたのだが。
―――なるほど、やはり人はどんどん変わって行くものだな。
新聞などでかつての同胞たちの消息を見る限り、身分に固執しない者達はどんどんと騎士団を辞めてしまっているという有様だ。そして、その多くがこの反王政運動に流れている。
「どうだい?少しは心を動かされたかい?」
マルコムの言葉に、ロイドは首を振る。
「残念だけど、どちらにしろもう私には関係のない話だ」
マルコムは、盛大に顔をしかめた。
「当時の英雄の君が入ってくれれば国民の支持もこちらに多く傾くのだよ。私たちを助けると思って……それに、あの戦争の幕引きをしたのも君じゃないか。王家の醜さは、君が一番知っているだろう?」
「帰ってくれ、マルコム」
ロイドは有無を言わせない調子で強く言った。
「私はもう、そういう一切から手を引いたんだ。政治上のごたごたした事には巻き込まれたくない。それから、お前が持って来た土産と言うものも全部持って帰ってくれ。うちには無用な物ばかりだ」
王都で買って来た、珍しい物、高価なもの。そういうものでロイドを懐柔する事ができると考えたのであろうか?
男はロイドの態度に少し怯んだ様子で、それから体勢を立て直そうとするかのようにごほんと一つ咳払いをした。
「今日のところは一端引き上げよう。だけど、諦めはしない」
そう言って、目の前に置かれた紅茶のカップを手にとってぐい、と飲み干す。
「ご馳走様」
そう言ってから、手を叩いてドアの外に待機していた従僕を呼びつけ、馬車の仕度をさせる。
部屋の隅に置いた土産物を、そ知らぬ振りで帰ろうとしたらロイドに再び釘を刺されてしまったため、それも運ばせた。
「では、また」
軽くそう挨拶をして、マルコムは家を出る。ロイドは座ったまま軽く頷いて、見送りに立ちはしなかった。
その事に内心で不満を感じながら、マルコムは用意させた馬車に乗り込もうとした。その時、みすぼらしい荷馬車が家に向かって近づいてくるのが見えた。マルコムは不思議に思ってそれを観察する。
―――こんな人里はなれた家に、訪ねて来る者があるのだろうか。
そうしているうちに、荷馬車は家に到着し、運転主は当惑したように荷馬車置き場を占領しているマルコムの馬車を見上げた。その姿に、マルコムは驚きを隠し得なかった。
―――娘?
ロイドを訪ねて来るにしてはあまりにも意外な者の姿にマルコムは不審を感じる。
そうしているうちに、娘の方が声を掛けてきた。
「あの、どちら様ですか?うちにご用ですか?」
―――うち?
リズの言葉に、疑念を深くしながらマルコムは注意深く尋ねる。
「お嬢さんはここのご息女ですか?」
「え……はい」
不審気な顔をしたリズに、マルコムは堪えきれずにさらに問いかける。
「この家の主と、一緒に暮らしている?」
「はい」
マルコムの様子が尋常じゃないのに気付いたのか、リズの顔が段々と警戒の色を帯びてくる。
「あの、私、失礼します」
そう言うが早いか、荷馬車を飛び降りてそそくさと家の中に駆け込もうとする。その手を、マルコムは強く掴んで引きとめた。
「待ちたまえ。君は、いくつになる?」
「なんですか?放してください」
リズは腕を振り払おうと腕を大きく動かしながら、強い言葉で言う。
その声は、存外大きかった。少なくとも、家の中にいたロイドに何か不審を感じさせる程度には。
扉を開けて外の様子を窺ったロイドは、目の前の光景に背筋がすっと寒くなるのを感じた。顔色が変わり、自身で思った以上に厳しい声がその口から出た。
「何をしているんだ」
駆け寄ってマルコムの手を引き離し、背後にリズを庇うようにする。リズの安堵したような顔と、マルコムの恨めしそうな顔が目に入った。
「リズ、何故君が。……いや、そんな事よりも、先に家に入っていなさい」
ロイドは自制した静かな声でマルコムを見据えたままそう言う。リズは無言で言われたとおりにした。
「娘と暮らしているのか?」
マルコムの声は何かを勘繰るような調子だった。
「一人ではいささか寂しかったので戦争孤児を引き取った。それだけだよ」
「それが、何故娘なんだ。しかも、あの年齢は……」
マルコムは挑発的な視線を目の前で見下ろすロイドに向けた。その瞳の中には何か言い知れない興奮が渦巻いていた。
「王女と同じ年頃ではないか?」
「偶然の一致だ」
ロイドは至って冷静にそう切り替えした。だが、マルコムにはそれで納得した様子は無い。
「王女を奪還して城へお連れしたのは君だったね。……まさか、君は王女を」
「王女は、きちんと城へお入りになられただろう」
マルコムは食い入るようにリズの消えた家の扉を見つめる。だが、それの開く気配はどこにもない。そして、目の前には頑として譲らないロイドが立ちはだかっている。
「……今日のところは引く、と言ったな」
しばらく睨み合いを続けた後、溜息をついてマルコムはそう言った。それから、背後に控えていた馬車に改めて向かう。その間、もう一度名残惜しげに扉を振り返った。
「また来るよ、ロイド」
そう言って去って行った馬車を、ロイドは険しい顔で見送った。
ロイドが家に入ると、リズが叱責されるのを待つように項垂れて立っていた。ロイドは少しの間黙ってそんなリズを見下ろす。
「どうしたんだい?こんなに早く帰って来るなんて、聞いていなかったけど」
ようやくそう問いかけると、リズは肩を竦ませて言う。
「学校に行く途中であの馬車を見て、心配でずっと考えていたら勉強に身が入らなくて、とうとうチャールズ先生に今日はもう帰りなさいって言われてしまったの」
そう告白したリズを、ロイドはなんとも言えない顔で途方に暮れたように見つめた。
それから、しばしの後、ぽつりと呟くように言う。
「それは、心配をかけたね。すまない事をした。……悪いが少し休ませて貰って良いかな?なんだか頭痛がするんだ」
リズの頭に手を置いてそう言うと、リズは意外そうに目を見開いてロイドを見上げた。
「怒らないの?」
「私にも原因がある以上、怒れないな」
リズがホッとしたのを見てから、ロイドは階段を上がって自らの部屋に進んだ。リズに言った事はあながち方便ではなく、実際にひどく疲労を感じていた。
ロイドは暗い森の中で馬を駆っていた。身を切るような冷たい風が辺りに吹き荒れていたが、手綱を握る腕の中には、温かく柔らかい存在があった。
「私の子供は、まだハミルトンの別荘にいてよ。あなた、あの子を育てなさいな。そうしていつか、母親を見殺しにした男として憎まれれば良いんだわ。……それが、私の復讐よ」
そんな言葉を遺して、挑発的に熱っぽい瞳を潤ませて、その女性は駆けつけたロイドの目の前で毒を呷った。白い喉が大きく波打つように動き、シャンデリアのきらめきの下で、純白のドレスを纏った更に白い体が痙攣するように大きく跳ねた後、崩れるように倒れこむのを、ロイドはただ止める術もなく見ていた。
復讐なら、甘んじて受けるつもりだった。どこで誤ったのか、それさえもう定かではないが、確かにロイドはどこかで道を見誤ってしまったのだ。そして、それが最悪の結果を呼んだ。もしかしたら、戦場で死んで行った朋友たちも、同胞たちも、部下たちも、自分が殺したも同然かもしれない。その罰を、自分は受けなくてはならないのだから。
―――だが、だからと言ってこの子を巻き込むのは筋違いだ。
ロイドは手の中に小さな子供を抱えながらそう、強く思っていた。曇りのない聡明な瞳をした少女は、子供ゆえの高い体温を全てロイドに預け、信頼しきった瞳でただ黙していた。生まれた時から大人たちの事情で母親から引き離され、孤独に育った少女。それを不満に思うでもなく、ただ諾々とそれを受け容れる姿は、どこか痛ましさを感じさせる。
―――この子は、守らなくてはいけない。
これ以上、大人たちの政治のあれこれに利用され、傷つけられる前に。
この暗いものは自分たちが負っていけば良いもので、手の中の少女に託されるものではない。
直系の王家の血を引くただ一人の少女。
この存在は、あらゆる大人たちが虎視眈々と、自分の利益のために利用しようと狙う存在そのものだ。だが、この少女にそんなものを背負うほどの罪も咎もない筈だ。
―――姫君を、このまま自分の領内に匿い、それを楯にとって元老院を説得する。
決心は、固まっていた。この少女をこのまま王城に帰してしまえば、そのままきっと少女自身の不幸に繋がる。それを避けるためなら、親族の者には申し訳ないが、自分が一人王家に対立するのもやむを得ないと思った。
だが、馬で抜けた森を出たところ、丁度その姫君が住んでいた領地を抜けたそこには、予期しない大群の国王軍が控えていた。
―――誰にも知らせていなかったはずなのに、何故。
呆然とするロイドの前に、男が一人進み出る。
「姫君の救助、ご苦労だった」
存外冷淡に言ったその男は、ロイドの上司に当たる男だった。
「ここからは、我々が姫君を王都までお連れする。お前は、もう休んで良い」
「待て。それには及ばない」
ロイドの反論は軽く左右の部下に手を上げた上司の仕草でかき消された。数人の兵士がロイドを囲み、抵抗する少女を無理矢理に押さえつけて伴ってきた馬車に封じ込めてしまう。
「どういうつもりですか?」
怒りを押し殺して低く睨んだロイドに、上司は冷ややかな瞳を向ける。それは、どこか敵意さえ含んでいた。
「王都では英雄が囚われの姫君を救いに行ったという噂で持ちきりだ。ただでさえ、先だっての事件でお前の名声は益々高まっているのに、この期に及んで勝手にそんな行動を取られては、何か含むところがあると思われて当然だとは思わないか?」
驚愕に目を見開くロイドに、上司はいかにも不快そうな一瞥を投げかけて身を翻す。
「これ以上お前の名声が大きくなる事を、王家はお望みではない。お前はもう、優秀な軍人でも王家の誇るべき英雄でもなく、ただの危険分子に成り代わっているんだよ」
引き上げていく軍隊を、ロイドはただ唇を噛んで見送った。
―――馬鹿げている。
姫君が死に、降伏のしるしに王が処刑された後、城内にはもう既に政治の権力を巡る暗き思惑が動き始めている。その一端として、戦時中の英雄であり、民衆の人気の高いロイドは警戒されていたというわけだ。もしやもしたら、これから力をつけて王家に対抗しうる権力を作るつもりではないかと。
そして、その懸念を裏づけするようにロイドは誰にも断りもなしに、一人姫君の救出に向かったのだ。
―――だが、彼らの懸念はあながち間違いでもなかった。
彼らの思うように権力への欲求からではなくとも、ロイドに王家に敵対する覚悟ができていたのは確かだ。
あの少女を守るために……。
―――こうなってしまった以上、城に直訴しに行くしかない。
ロイドは内心で自分の無力さや迂闊さに対する怒りと、なにかやるせない理不尽さが渦巻く中にも、どこか諦めの倦怠感が襲ってくるのを感じていた。
きっと、元老院も貴族たちも、あの姫君をロイドが引き取る事を許しはしないと分かっていたから。例えそれが、あの少女の母親、亡き姫君の遺言だったとしても。
ベッドの上に座ってすっかりと過去の回想に浸ってしまっていたロイドが気がつくと、窓から差し込む光はいつの間にやら宵のそれになっていた。迫り来る藍の色と残りわずかなオレンジが空の端の方で溶け合っており、その傍らには早々に白い宵の星が瞬き始めていた。振り返ると、部屋の時計はいつのまにか夕刻を指している。
ロイドは慌てて立ち上がる。普段はとうに夕食の準備に取りかかっている時分だ。
足早に階段を下りていくと、何か少し焦げ臭い匂いが鼻についた。階段から顔を出してみると、なんと、キッチンでリズが鍋を相手に悪戦苦闘をしている。
「リズ?」
声を掛けてみるものの、調理の火の音で耳に届く前にそれは掻き消されてしまうのだろう、聞こえた様子はない。それで、無言で歩いていくと、残すところあと三歩ほどと言うところでようやくリズはランプの明かりを遮った気配に気が付いて顔を上げた。
「ああ、びっくりした。ロイ、もう具合は良いの?」
大仰に驚いたようにしながら、リズはそう言った。
「ああ。ゆっくり休ませて貰った。ありがとう」
ロイドは言って、リズの手元の鍋に目を移す。僅かに、眉間が曇った。
「聞いても良いかい?……それは、何だい?」
鍋の中には茶色く焦げたものが固まりになっている。何か、色々な物を煮詰めた形跡だけは残っているといった様子だが、何を煮詰めたのかは定かではなくなっていた。
「元は、お魚と野菜だったものなんだけど」
リズが気まずい様子でそう言うのに、ロイドは大きく溜息をついた。
「これは、この年になるまで教えようとしなかった私の責任だな」
それから、軽くそれを指にとって口に含む。
「ただ、まあ、食べられない事もないけれど」
言われてリズはロイドの真似をしてそれを口に含む。途端、大げさに顔をしかめた。
「私、今、ロイドがどんなに料理が上手か分かったわ」
しかめっつらしくそう言うリズに、ロイドは思わず笑い出した。
「少し手を加えれば食べられるようになるだろう。さあ、皿を用意しておいてくれ」
ロイドは言って、リズに代わってキッチンに入る。
「今度から、料理の特訓もしなければいけないな」
言うと、振り返ったリズは、嫌な顔をしながらも、渋々頷いた。
それを見て、知らず微笑が浮かんでくるのを感じながら、ロイドは先程思い出していた苦い感情を思った。
―――今は、この子を守る事だけが私の仕事だ。
今更のように確信し、そして昼間のマルコムの様子を思い出して嫌な予感にふと眉をひそめるのだった。




