3
人々の声が耳元で錯綜する。悲鳴、うめき声、叫び声、気合を入れる声、様々な声が。
ロイドはそんな中を少しぬかるむ足元を気にする余裕もなく、泥を跳ね飛ばしながら駆けていた。視界の先には敵方の紋章を記した旗がひらめいている。赤と金とをあしらった獅子を象った豪華なものだ。だが、そんなものに注目している者など誰もいない。皆、目の前の事態に対処する事で精一杯なのだ。
泥だか血だか分からないものが盛んに跳ね飛ぶ。そんなものにも気をとられている余裕はない。砲弾の音と、火薬の匂い、それに色々なものが焼ける匂いが生々しく鼻につく。ざ、と音がして空を振り仰げば、大量の矢が降ってくる。咄嗟に手に持った大剣でそれを薙ぎ払って避けたが、その隣では避けきれずに矢を受けた部下たちの叫び声が聞こえた。思わず振り返ろうとしたロイドに、別方向から厳しい声が飛ぶ。
「見るな、ロイド」
声の主は同胞の一人でジェラードと言う男だった。
「気を散らせば、お前までやられる」
既に戦況は酷いものだった。ジェラードにしてもロイドにしても、乗っていた馬はとっくに矢を受けて暴れ出したために下りざるを得ず、歩兵と同じような状況で戦っていた。
「他に目を配るな。ただ、斬れ。斬れ。……姫君の御為に」
ジェラードは低く唱えるように最後の言葉を言って、ロイドを軽く追い越して敵陣に斬り込んで行く。
その背を追おうとしたロイドは、背後から手をつかまれて振り返った。
そこには、部下の一人である、まだ十六の若さの青年が、砲弾で受けたであろう火傷で顔半分をただれさせたまま、涙を浮かべていた。
「連隊長、助けてください」
ロイドはそのあまりの痛ましさに思わず足を止める。少年はロイドに縋るように抱きついてきて、泣き崩れる。
「痛いです。死にたくないです。助けてください……」
「しっかりしろ。大丈夫だ」
「恐いです。僕は、まだ」
段々と震える声が小さくなって行く、掴んだ手から力が抜ける。よく見れば、体に無数の矢が刺さっており、とても助かる見込みはないように見えた。
「ロイド、何をしている」
同胞たちの叱責が飛ぶ。同時に、ロイドはぐい、と体を引かれて立ち上がらされた。
「コイツはもうダメだ。放っておけ。看取ってやる余裕はない」
同胞の一人の声がして、その手が青年の胸についていたバッジを掴む。
「お前の勇姿は姫君にちゃんとお伝えしておく」
そう言って、同胞はそれを腰に下げている袋に入れる。じゃらりと重い音がして、その中にどんなにたくさん同じものが入っているかを物語っていた。
同胞はそのまま走り去った。ロイドは目の前の青年を見る。青年は、恐怖と痛みで狂ったように泣き叫んでいる。このまま死ぬまで悶え苦しむ事になるのだろう。ロイドは眉間に深い皺を作って軽く瞑目した。
「……すまない」
苦々しく口の中で呟くと、大剣を深くその青年の胸に突き立てた。青年の目が大きく見開かれ、喉から嫌な音を出してどろりと血液が口から流れ出る。ロイドはその瞼を指で閉じてやると、後ろも見ずに駆け出した。
そうしているうちに、いつの間にかロイドは王城の階段を駆け上っていた。息席を切らして、一刻も早くと。
目指す扉の奥にいる人に、できれば会いたくなかった。だけど、そう言っている余裕はない。
大きな音を立てて扉を開けると、煌びやかなシャンデリアがまぶしく輝く目もくらむような豪華な部屋の中で、それに見劣りする事のない、美しい女性が嫣然と微笑んでいた。
「良く来たわね、ロイド」
その姿は、まるで一つの絵画のようだった。国中の者がその人以上に美しいものなどないと賞賛する、圧倒的な美貌の持ち主。美の女神のヴェヌスも斯くや、と謳われた絶世の美女。透き通るような輝く白い肌を持ち、少し重たげな瞼の下には透き通った青い瞳が物憂げにきらめく。金色の髪は、シャンデリアの輝きに負けないほどに艶やかな光沢を放っていた。
ロイドは警戒するように身を硬くして後ずさる。
それにもかかわらず、目の前の女性は距離を詰めるようにロイドの方に近寄ってくる。
「何故、逃げるの?」
「陛下、私は……」
白いほっそりとした手がロイドの手の上に重ねられる。愕然として見上げた相手の瞳の中に、気圧されるほどの熱っぽさを感じてロイドは動揺した。
「ロイド、私はあなたを……」
桃色の唇が言葉を紡ぐのを、ロイドは絶望的な気持ちで見つめていた。
その日、ロイドは久々に嫌な夢を見た。昔は決まって見ていた過去の夢だったが、忙しく生活するうちにいつしか見なくなっていたものだ。多分、昨夜のハンナとの事が影響を与えたのだろう。ロイドは朝日の差した自らの部屋で、薄っすらと冷や汗さえかいていることに自嘲しながら半身を起こした。大きく溜息をついて、昨夜の事を考える。
馬の後ろに乗せて送って行く間、ハンナはずっと無言だった。だが、村の側で下ろした時に、挨拶をしたその目の中に何か暗いものを感じて、ロイドは戦慄したのだ。それを見なかった事にして去ってしまう事はできなかった。かつてそれをして、後悔した事があったのだから。
案の定、去ったふりをして隠れているとハンナは村に入った後に家には入らず、納屋から縄を持って来て家の裏手にある大きな木にそれを括りつけ、それに首をかけようとした。そこで飛んで行って、取り乱した風のハンナをなだめたりすかしたりしているうちに家の者が気付いて家から出てきて、ハンナを押さえ込んで家に引きずり込み、ロイドに頭を何度も下げながら謝った。騒ぎを大きくしてしまった事は悔やまれるが、その分これから家の者がハンナが自殺などしないように注意して見張っていてくれるだろうと思うと、何か肩の荷が下りたような気もした。
「リズ、今日は多分、学校は自習だ」
着替えて階下に下りて行くとリズが寝間着のまま、眠そうに目をしばたかせて歯を磨いていた。その後姿にそう声を掛けると、リズは驚いた顔でロイドを見る。そのまま口を開こうとしたのを、ロイドは即座に遮った。
「お話は口を濯いでから」
その言葉に、リズは慌てて口を濯ぎに外の井戸まで駆けて行く。そうして、しばしの後、今度は慌てて駆け戻ってきた。
「どうして?」
「ハンナ先生は具合が良くないらしい」
その言葉に、リズはちょっと複雑そうな顔をした。
「ところでリズ、今日は誰かにお使いを頼まれているかい?」
「え……?ううん。今週末までにって頼まれているものはあるけど、特に今日を指定している物はないわ」
リズが言うと、ロイドは頷く。
「ならば、今日は学校はお休みと言う事にしないかい?」
リズは益々驚いた顔でロイドを見つめた。ロイドはちょっとやそっとではこんな事を言わない、とても真面目な性格だと言う事を知っている。
「どうしたの?ロイ」
「嫌かい?」
「とんでもない」
例えばきっと、ロイドにはロイドで事情があるのだろう。昨日の今日だから、内容は大体予想できる。きっと、何かリズの耳に入れたくないことがあるのだ。そう分かっていても、一日中家にいられることが嬉しくて、リズは即座にそう答えた。ロイドは微かに笑って頷いてからリズの寝巻きを指して言う。
「なら早く着替えておいで。朝食にしよう」
「うん」
リズは勢い良く頷いて階段を駆け上った。
学校に行かないとはいえ、勉強はきちんとしなければならない。リズはテーブルの上で本と石盤を広げて書き取りを行っていた。仕事の合間合間にロイドがそれを見に来ては、こうして間違いを正してくれる。そうやって午前は過ぎて行き、リズの提案で青空の下でサンドイッチと紅茶の昼食を摂った。
「ロイ、今日は新聞が読めないわね」
何とはなしにリズが言うと、ロイドは少し苦笑する。
「毎日読んでいると気が滅入るからね。時には読まないでいる方が気が楽かもしれない」
その言葉に、リズは顔をしかめた。こんな田舎で暮らしていては気が付かないけれど、それ程までに、社会の情勢はまた不安な方向に変化して来ているのだろう。
「また、戦争が起こるかしら?」
ポツリと不安そうにリズは言った。強い風が吹き抜けて、リズの金色の髪を攫って大きくなびかせる。見渡す麦の穂が大きく揺れる。
「例え起こっても、流石にこちらまで火の粉は飛んでこないだろう」
ロイドは安心させるようにそう言った。
「そうかしら?前の戦争では首都ではなく周辺の村々から焼かれて行ったって聞くけど」
「あれは、他国との戦争だったかね。その国に近い場所から戦場になった。だけど、今度もし起こるとしたら……」
そこまで言いかけて、ロイドは自分の不穏当な発言に気付き言葉を途切る。
「とにかく、君の心配するような事にはならないよ」
その言葉に、リズは何かを噛み締めるように口を結んだ。
「それはそうと」
ロイドは話を逸らすように明るい声で言う。
「コナリーが帰ってきているそうだね」
「うん」
リズはいやな話題が出たものだと内心で顔をしかめながらおざなりに返事をする。
「もう、会ったのかい?」
「うん」
「返事は、したの?」
その質問に、リズは驚いて顔を上げた。ロイドにはコナリーに言われた事を一切話していない。それなのに、何故知っているのだろう。
ロイドは苦笑してリズの疑問に答える。
「コナリーから手紙があったんだよ。僕に許しを請うためのね」
「そんな、私はまだ返事をしたわけじゃないって言うのに」
リズは苛立たしそうにそう呟いた。ロイドは軽く眉を上げて言う。
「どうして?コナリーは良い夫になるべくして生まれたような男じゃないか。優しいし、良く気が尽くし、頭もいいし、今に出世するよ」
「ロイは私がコナリーと結婚すれば良いと思ってるの?」
リズが逆に聞き帰すと、ロイドは少し困ったように唸った。
「そうだな、リズに落ち着くべき場所ができるのは良いことだと思うな。無理強いはしないが」
その言葉に、リズは唇を噛む。
結局、ロイドは自分をその程度にしか思っていないのだと言う事がとても悔しかった。十数年間も一緒に暮らしているのに、こうしてすぐに手放せてしまう程度の存在なのだ。
自分は、初めて手を差し伸べられたあの瞬間から、絶対にこの人とずっと一緒にいようと決めていたというのに。
「ここじゃ、駄目なの?」
「え?」
「落ち着くべき場所」
言うと、ロイドは困った顔をした。
「いずれはここを出て行かなくてはいけないと思うね。もっとも、リズが養子をとってここで暮らして行きたいというのなら別だが」
「ロイのお嫁さんになってここで暮らすのは?」
ロイドはその言葉に内心でぎょっとしてリズを見下ろす。リズは思いの外真剣な瞳でロイドを見つめていた。
―――全く、昨日といい今日といい……。
ロイドは溜息をついて軽くリズの頭に手のひらを乗せた。
「君は、私の娘だよ」
「そんなに年が離れているわけじゃないわ」
リズは不貞腐れたように呟いた。
「離れているよ。君はまだ、とても若い」
「ロイはいつも自分ひとりだけが大人で何でも分かっているって言うような顔をするものね。私だって、思ってるより子供じゃないのよ」
ロイドはそれには答えず、ただ疲れたように苦笑して立ち上がった。
「さあ、リズ。そろそろ仕事を始めよう」
「……そうやってすぐ、子ども扱いして誤魔化すんだから」
リズは怒ったように言ってキッとロイドを睨みつける。
「私、本当にもうそんなに子供じゃないのよ。ロイが何かをとても怖がっている事も、それがもしかしたらあの戦争で何かあったんじゃないかって事も気付いてるわ」
目を見開くロイドにリズは強い口調で続ける。
「私だって、あの戦争は体験しているわ。聞いた事くらいあるんだから、黒髪の英雄の話くらい……」
その言葉はロイドの意外なほどに冷たい瞳にあって続きを失った。リズは恐れるように、それでいて魅入られたように今までに見たことのない瞳を見つめる。
「リズ、そう簡単に先の戦争を語ってはいけないよ。体験したといっても君はまだ幼かったし、本当の戦場に出たわけではないのだから。君はあの戦争の真実を知っているわけではない」
その声は言って聞かせるような静かな口調だった。だがその中に、突き放すような冷たい怒りの色を感じてリズは身を竦ませた。
ロイドはそれだけ言うと、リズから瞳を逸らして歩き出す。
リズはしばらく、ただそこに座っていた。
―――あの戦争の真実は、何だったのだろう?
ロイドは仕事の手を動かしながらいつしかまた、そんなもの思いにふけっていた。
リズに戦争の真実云々と言ったが、実際の原因を聞けばリズでさえ馬鹿らしいと呆れてしまうのではないか。そんな理由で数多くの犠牲を出した戦争だったと言っていい。
戦争の原因は、姫君の婚姻問題だったのだ。
この国は、それまで周囲の国とは友好的な外交関係を結んできた。なるべく、波風を立てないようにと時には大国にへつらって、そうして何とかやってきた国だ。
それなのに、それまでの努力がたった一人の姫君の我が侭で無駄になったのだ。
事の始まりは隣国の皇太子が姫君に結婚を申し入れてきた事だった。親善パーティーで目にかかった姫君が忘れられず、どうしても、との事だった。その国は皇太子がほぼ実権を握っているようなもので、そんな相手にこうして恩を売る形で姻戚関係が結べる事はとても良い事だと思われた。
それなのに、姫君はこの話を一蹴したのだ。
国王は美しい姫君に甘い男だった。おまけに世襲の国王故に政治感覚はあまりなく、お世辞にも優れた王であるとは言えなかった。周囲の反対を押し切って、強引にその申し出を断ってしまった。
それでもよもや、戦争に発展するとまで誰が考えたであろうか?
だが、それ程までに、姫君の美しさはとびぬけたものだった。人の心を掴んで酔わせるような、そんな蠱惑的な美しさがあった。
力ずくでも、手に入れてみせよう。隣国の皇太子はそう考えたのだろう。二度の警告と三度の脅迫を経た後、隣国は大軍を引き連れて攻め入ってきた。
王国騎士団を始めとする国王軍は、死力を尽くしてこれに立ち向かった。その時の合言葉は「麗しき御姫君のために」だった。
姫君はその美しさのため、もはや騎士や兵士たちの間で神格化され、騎士達はその姫君をお守りするためならば、と命を賭して戦った。騎士全員が姫君に狂おしいばかりの恋をしていたのだ。
今考えるのなら、それは熱狂というようなものだった。国全体を覆った狂気のような物。
勇ましく死ねば、身につけたバッジを誰か同胞が姫君の手に届けてくれる。姫君はそれを受け取ると、その者達の死を悼んではらはらと涙を流すらしい、という噂がどこからともなく流れ、死に行く者達は皆、誰かにバッジを託した。
仕事をやり終えて戻ってくると、テーブルで本を広げていたリズが顔を上げ、伺うようにロイドの顔を見てくるのが分かった。それに気付かない振りをして通り過ぎ、キッチンに入ると心細そうな声が追いかけてくる。
「ねえ、ロイ」
ロイドはエプロンをつけながら素っ気無く返事をする。リズはそれで益々気後れしたように少し押し黙ったが、決心を決めたように立ち上がると、ロイドの前まで歩いて行って項垂れたまま言う。
「ごめんなさい。もう二度とあんな事言わないわ。だから、もう許して」
今にも泣き出しそうなその声に、ロイドは大きく溜息をつく。
そして、その手をリズの頭の上に乗せた。
「私もコナリーの話を持ち出したのは悪かったと思っているよ。リズがまだここにいたいと思っているのなら、それは全く構わないんだ」
リズはその言葉におずおずと顔を上げる。ロイドの瞳には先ほどの冷たい光はもうどこにも見当たらず、それがリズを安堵させた。
「さあ、リズ。たまには夕飯を一緒に作ろうか。……手伝ってくれるだろう?」
「うん」
リズは微笑んで頷いた。
だが、その笑顔の下でまだ燻る気持ちがあったのは事実だった。
―――ロイのあの言い方は、いつかは私に出て行けって言っているんだ。
まだいてもいい、だけど、いつかは……。
リズは内心のそんな暗い気持ちをロイドには悟らせないように意識して明るく振舞った。
先ほどの険悪さを忘れたように、家の中はまた、いつものような穏やかさを取り戻したのだった。




