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リズは大抵小型の荷馬車を運転して学校まで行く。小さかった頃はロイドが運転して学校の側まで送って行ってくれたのだが、リズがそれを運転できるようになると買い物や何かまでリズに押し付けて、自分はめっきり村に出てくる事はなくなってしまった。ロイドは特に愛想がないというわけではないのだが、どちらかと言うと人との関わりを避けるようなところがあるので、もしかしたら一種の人間嫌いなのかもしれないとリズは思っている。

荷馬車が走るのは畑の側のあぜ道で、過ぎ去る風景は大抵単調なものだった。晴れた日は広がる青空と大きな白い雲、それに季節ごとに色づく畑の作物。リズはそんな光景が嫌いではなかったけれど、村の子供の中にはそんな風に時間をかけて学校に通うリズに呆れや感心の目を向ける友人も多い。「よくあんな遠くから通ってこれるわね」としばしば言われた。

流石に嵐の迫っている日や雪の積もる日は学校を休んだりするけれど、それ以外はリズはきちんと学校に通っていた。

「おはよう」

荷馬車を学校の外に止めて校舎に入っていくと、教室がざわめいていた。小さな村の学校だから学年分けなどはされていない。一年生も最上級生も同じ教室で学ぶのだ。その中で、リズは最上級生にあたる。これ以上の勉強をしようと思えば、試験を受けてもっと離れた街の方にある大きな学校に通わなければならないだろう。リズはその必要はないと思うのだが、ロイドがそのことについて悩んでいるのをリズは知っていた。

「どうしたの?」

席に着きながら同じ最上級学年の隣の席の友人に声を掛けると、褐色の髪の少女は挨拶をした後、眉をひそめて言った。

「ハンナ先生がね、辞めさせられるかもって」

「ええ?どうして?」

「先生、もう二十八歳でしょう?なのに結婚もしていないし。それで先生のお母さんがとうとうお見合いをして家に入りなさいって怒り出しちゃったらしいの」

小さな村ではある家で起こった小さな事件が噂になってすぐに駆け巡る。どんなにその家庭のプライベートな事であっても口さがない村人たちはお構いなしに広めていく。そして、大抵の場合、子供はそ知らぬ顔でこっそりと大人たちの噂話に耳を傾けているのだ。

教室の中の興奮の具合からいって、おそらくそんな争いが繰り広げられたのは昨晩の事なのだろう、とリズは思った。

「それで、今日はきっと自習だって。ハンナ先生は大喧嘩して、とても来れる状態じゃないって」

そう言いながら、少女はくるくるとした瞳を好奇心に輝かせてリズを見つめる。

「ねえ、ハンナ先生、今日リズの家に行くんじゃない?」

「まさか。先生が来るのはいつも週末よ。そうでなきゃ、乗っけてくれる幌馬車もないし、それに次の日が休みでなきゃあんなはるばる来れないわよ」

リズはそう言いながらも、嫌な予感に胸の中がもやもやとした。

ハンナならやりかねない。大人しそうに見えるけれど、実は情熱的な人なのだから。

初めて先生としてこの学校に赴任してきたハンナには当時、結婚を前提とした恋人がいた。それなのに、リズを送って来たロイドに恋してしまってからはきっぱりとその恋人と別れてしまって、それから四年間ほどずっとロイドを思い続けているのだから。

「そうかなあ」

友人の方も含みのある口調でそう言った。だが、リズが顔をしかめると慌てて口調を変えて言う。

「それはそうと、今日はうちに寄ってってね。コナリーがリズに会いたいって」

それを聞いて、リズは顔を曇らせた。

「牛乳が切れてるからお店には顔を出すと思うけど。……コナリー、帰って来ているの?」

「ええ。昨日から高等学校は休暇に入ったんですって」

「そう」

それを聞くと、リズは憂鬱な気分で友人に悟られないように密かに溜息を付いた。

この少女の兄が自分に恋をしているというのは村中の噂になっている事で、自分でも知ってはいる。でも、リズにとってその気持ちは気の重い物以外の何ものでもなかった。

―――ハンナ先生にしても、私にしても、大変な事には変わりないな。

リズは高等学校に向かう前のコナリーに言われた事を思い出しながらそんな事を考えていた。人はいつまでもずっと同じではいられないらしい。居心地の良い場所や関係は、時と共にその形を変えていってしまう。

「リズ、僕のお嫁さんになってくれないか?僕が高等学校を卒業したら。考えておいてよ」

当惑して何も答えられずにいたリズにそんな言葉を残して、コナリーは去って行ったのだ。



幸い、その日はコナリーとは二人きりで会う機会はなかった。その事に安心しながら、リズは帰りの荷馬車を走らせていた。久々に帰って来たコナリーの周囲には家族や親類や友人たちが集まっていて、リズが行くと少々からかわれたものの、誰もコナリーとリズを二人きりにしてやろうと言うような事を言い出さなかったのが幸いだった。コナリーは何度も何か問いた気な瞳でリズを見つめていたが、リズは極力それに気付かない振りをして早々に店を出てきてしまったのだ。

―――だけど、どちらにしてもはっきりさせなければいけないのよね。

確かに、コナリーは優しいしそれなりに見た目も良くて旦那様にするにはもってこいの人材だろう。学校にも、リズを羨む者は多かった。だから逆に、リズは困ってしまうのだ。どうやって断ればいいのか見当もつかない。

―――別に、コナリーを嫌いなわけじゃないんだけど。

リズにはずっと昔からこの人と決めた人がいる。相手にされなくても、ずっとそう思ってきた。

でも、だからと言ってそう言う事を理由に断れはしない事を、リズはよく理解していた。村から離れた場所でひっそりと二人きりで暮らしているのに、リズがそんな事を言えばロイドに対して良くない噂が立つのは目に見えている。村人たちのロイドに対する扱いは即座に冷たいものになるのだろう。こんな場所で暮らしている以上、村の人達から見捨てられれば暮らしは一気に難しくなるのは目に見えている。それが恐ろしくて、リズは本当の事が言えない。

そんな事を考え込んでいたリズは、ふと視界に入った人物を見て驚愕した。荷馬車で行く道の先に一人の女性が歩いている。その姿は、リズによく見覚えのあるものだった。

「ハンナ先生」

リズは大きな声で叫んで荷馬車の速度を上げた。ハンナはハッと顔を上げてリズの姿を認めるとなんとも言えない複雑な顔をした。

「リズ。今帰り?」

追いついたリズに対するハンナの開口一番の言葉はそれだった。例えば寒そうにショールの前を合わせた指先が小刻みに震えていることや、唇が真っ青になっている事、それに目の周りが泣き腫らしたように真っ赤になっている事、そういうものを一生懸命悟らせないように、教師としての威厳を保った話し方をしているように見えた。

「はい。帰りにモーリスさんの所に頼まれた粉を届けてから」

「そういえば、リズはお使いをしているのよね?偉いわ」

「いえ、ちゃんとお駄賃を貰っているので」

リズは学校帰りに自分たちの家のように村から遠く離れた場所に住む人々の家を回って用事や買い物を請け負ったり、村の郵便局からの手紙を届けたりしている。始めは、時々リズの家の少し離れた場所に住んでいる老人の頼まれごとを聞いてやっていただけなのだが、それがお駄賃を渡されて定期的に来て欲しいと言われ、それがどこからか広まって他の家々からも声を掛けられるようになったのだ。

「それでも、偉いわ。みんな助かっているでしょう。ここいらの子供たちはみんな便利な街や都会に出て行ってしまうから」

リズは愛想笑いをしつつ、ハンナから目を逸らして、少しその視線を泳がせた。内心で、思うことがあったのだ。

―――本当は、嫌なんだけど。

きっとハンナはリズから声を掛けなければ絶対に荷馬車に乗せてくれとは頼んで来ないだろう。そしてリズは、本当はハンナをあまり家へは連れて行きたくない。ハンナはリズから見たらよっぽど色っぽいし大人っぽい。それが、ロイドと話すとなるとまるで学校の先生である事を忘れたようにうっとりとしたとろけるような視線で、可愛らしい声で話す。それがリズにはこの上なく不快だった。普段のハンナは好きだけど、ロイドといる時のハンナはとても癪に障る。

だけど今のハンナは見ているだけで痛々しい。まるで今にもぽっきりと折れてしまいそうな様子で、よろよろと長い畦道を歩いているのだ。こんなに長い道のりを歩いてきたのだから、きっともう足も痛くてくたくただろう。それなのに、まだ家までの距離の半分にも達していない。でも、意志の強い先生はきっと諦めたりしないのだろう。そして、ここで見捨てていってしまえば、後に罪悪感で苦しむのはきっとリズなのだ。リズは諦めてとうとう口を開いた。

「先生、乗りますか?」

ハンナは少し戸惑ったようなふりをしたけれど、瞳の中に安堵の色が浮かんだのをリズは見逃しはしなかった。

「悪くない?」

「いいです」

リズは言って狭い席を詰めて半分を空ける。小さかった頃はロイドの隣によくこうして座ったものだった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

おずおずといった様子でハンナが乗り込んでくるのに、リズは内心で大きく溜息を付いた。


リズが家に帰ると、キッチンで料理をしていたロイドは顔を上げて不思議そうにリズを見た。

「どうしたんだい?君にしては元気がない……」

言いかけたロイドの言葉が止まったのはリズの背後から入ってきた人物に目を止めたからだ。ロイドは驚いた様子で慌てて玄関に出てくる。

「どうなさったんですか?突然」

穏やかに言いながらも、瞳は鋭くその姿を観察していた。そして、その纏う尋常でない雰囲気に内心で溜息を付いた。

―――これは、面倒な事になったな。

この女性の自分に寄せる気持ちに気が付かない程に鈍いわけではなかったが、リズの学校の先生であるから然るべき一線は絶対に越えてこないものと甘く見ていたのが祟ったようだった。彼女の瞳は何か強い決意のようなものと、それにも勝る熱っぽい物を含んでロイドの顔を見つめている。自分よりも十も年の下の女性だという事も忘れて、ロイドは一瞬怯みそうになってしまった。

家の中には先ほどまで調理していたものの匂いが湯気と共に立ち込めている。今日はリズの好きなトマトベースの味付けのシチューだから、喜んで飛びついてくるだろうと思っていたのだが、リズはいかにも神妙な顔をしてロイドとハンナの様子を窺っていた。

「お話がありますの」

口調だけは慎ましくハンナはそう言ったが、その瞳がちらりとリズを見る。それで、ハンナがリズを遠ざけて欲しいと思っていることが分かった。ロイドは重い気持ちになりながらもリズに向かって声をかけた。

「リズ、悪いが夕飯まではもう少しかかりそうだ。部屋に行って勉強でもしていなさい。後で呼びに行くから」

リズは不満そうな色を瞳に浮かべてそれに反抗した。

「でもロイ、今日はただでさえ帰りが遅くなったのよ。もうお腹が……」

「リズ」

やや強くロイドが言うと、リズは唇を噛んで押し黙った。その瞳は恨みがましそうにロイドを見上げている。

「すぐ終わる?」

「多分ね」

リズは大きく溜息をついて、早足にそこを駆け抜け、階段を上がっていく。扉の閉まる音を確認してから、ロイドは改めてハンナに向かった。

「上がられますか?」

「いえ、ここで結構です」

扉を背にして玄関に立ち尽くしたままで、ハンナは思いつめたような瞳でロイドを見上げた。その妙に熱っぽい視線に、ロイドは逃げ出したい衝動に駆られる。次に出てくる言葉は多分、予想できる。それは、歓迎できる類のものではなかった。

ハンナのほっそりとした手が伸び、ロイドの手を思いの外強い力で握り締める。それを合図としたように、その唇から言葉が堰を切ったように溢れ出した。

「お願いがあります、私と結婚してください」

ロイドはそのあまりに直接的な言葉にぎょっとしたが、ハンナの口は止まらなかった。

「ずっとあなたの事を想っていました。結婚するのならあなたと、と決めていました。でも、母が、この年になっても結婚しないのなら結婚相手は勝手に決めてしまうと」

「先生」

「私は、見ず知らずの人と結婚なんてしたくありません。するのなら、四年前にマシューとしていました。それをしなかったのは、あなたと出会ったからです」

「落ち着いてください」

ロイドは何とかなだめようとそう口にするが、ハンナは逆に激しい口調で言い募る。

「気付いていなかったなんて言わせません。あなたは、そんなに鈍感な人じゃないはずです」

見上げた瞳の中に溢れるような激情を見出して、知らず、ロイドは半歩後ろに下がっていた。それにも関わらず、ハンナは身を乗り出して距離を縮めてくる。いつもは後ろで一まとめにしている小麦色の髪は、今日は全ておろしていて、緩やかなウェーブのかかった髪が肩の下まで波打っていた。それが普段よりもこの女を更に女らしく見せる。

「お願いです。私、きっとリズの良い母親にもなれると思います。私たちは学校ではとても気が合いますし、リズもきっとどこの誰ともしらないような人よりは気心知れている私のほうが良いんじゃないかしら?それに、学校に通うにも……」

「先生、お気持ちは嬉しいのですが」

ロイドは少し語調を強めてそう言った。ハッとした様にハンナが見つめるのに内心で苦い思いを感じながら噛んで含めるように言う。

「私は、誰かと結婚するつもりはありません。それに、あなたはまだ若い、私のような中年ではなくもっと将来有望なお相手がいるはずです」

見上げるハンナの瞳を見返すことはどうしても出来なかった。視線を逸らすようにしてそう言うと、ハンナの手が突然体に絡まってきた。

ロイドは一瞬、身を硬くする。ハンナはそのままロイドの胸に額を当てるようにして体に回した手に力を込める。

「お願いします。私をあなたのそばに置いてください」

そう呟く掠れた声に、ロイドは背筋を鳥肌のような物が駆け抜けるのを感じて眉間に皺を寄せた。ハンナの激情に触発されて、思い出したくもない過去が次々と脳裏に蘇る。こういうもの……熱のこもった視線だとか、媚を含んだ声とか、持て余す程の激情だとかは、二度と係わり合いになりたくないものだと心底思っていたのに。そういうものは、きっと良い結果を生まないと知っている。

ロイドは一度目を伏せると、それから出来る限り穏やかに聞こえるように口を開く。

「先生、申し訳ありませんが私はあなたの想いには答えられません。お母上の薦められる相手と結婚される事をお薦めします」

「嫌です、私は」

「先生」

もはや駄々っ子のように逃れまいとして絡み付いてくる腕を引き離そうとするけれど、細いその腕のどこにそんな力が隠れているのかと思うほどそれはびくともしない。その執念が、恐ろしくなる。

「私はこの四年、ずっとあなたの事を想って来たのです。そう簡単には引き下がれません」

「先生、そろそろリズに夕飯を食べさせなければならないので帰って頂けませんか?」

「嫌です」

押し問答のような会話が続く。宥めてもすかしても、ハンナは離れようとはしない。ほとほとそれに困り果てながらも、ロイドは心の中の冷静な部分で、こんな見苦しい姿を見せてまで執着する程の原動力はどこから来ているのだろう、などと考えていた。

その時、ぎしりと床の軋む音が聞こえた。ロイドが何気なくそちらを振り返ると、階段の中ほどで身をかがめているリズの姿が薄暗い電灯の陰に見えた。ロイドが顔を強張らせるのと、リズが慌てて逃げようとするのとは同時だった。

「リズ」

思わずロイドはそう、声を荒げて呼んでしまった。体にしがみ付いていたハンナの手がハッとした様に緩まる。そして、ロイドの視線の先を追ったハンナは即座に赤面した。教え子にこんな場面を見られてしまった事で突然わが身を振り返る事が出来たのか、女の顔から段々と教師の顔を取り戻していく。ロイドの体から自ら手を引いて、取り繕うように姿勢を正した。

「……あの、ごめんなさい」

呼び止められた事で部屋に逃げ込む事も出来なくなったリズは、おずおずとそう言って二人の大人を見上げた。ロイドは渋い顔でリズを見下ろしているし、ハンナは決まりが悪そうに目を逸らした。

「言いつけを守れないのは悪い子のする事だと言わなかったかい?」

「言われました」

項垂れるリズに、ロイドは続ける。

「ハンナ先生に謝りなさい」

「はい。ごめんなさい、ハンナ先生」

リズがそう言うのをハンナは複雑な顔をしながら首を振る。

「いいえ。今のは、私が長話をしすぎたせいね」

そう言って、ハンナは目を逸らして大きく息をつく。一度、未練がましくロイドの顔を見るが、その表情に何も望みがないと悟ったのか、ようやく扉に手をかけた。

「見苦しい真似を……申し訳ありませんでした」

「お送りします」

「結構です」

「しかし、ここからは歩いて村に行くのは遠いですよ。馬で行けば案外早く着くものですから」

ロイドは言って返事を待たずにリズを振り返る。

「先に夕飯を食べていなさい」

リズが何かを言いかけるのを見なかったふりをして、ハンナに「畜舎にいます」と声を掛けてからロイドはそのままそこを出た。



リズは皿とスプーンを用意してテーブルに半身を投げ出しながら椅子に座り、足をぶらぶらと揺らしていた。その視線の先には常に時計の針がある。ハンナとロイドが出て行ってからもう一時間も経っているのだ。

―――馬で行くって言ってたから、そろそろ帰って来るはずよね。

荷馬車を引いていなければ、馬は結構速く走れるのだから。それに、ロイドは馬を乗りこなすのが上手い。

―――馬は揺れるから、ゆっくり話す暇なんてないわよね。

リズはそう自分に言い聞かせながら、不安になる心をなだめていた。間違っても、ハンナの娘になるなんて真っ平御免だ。それどころか、リズはロイドさえ父親とは思っていないのだから。

話を聞いていたのは実は始めからで、部屋に入ったふりをしてドアを閉めてその実、そこに留まったままでいて、二人が話し始めた頃に足音を忍ばせて階段の所に戻り、耳をそばだてていたのだ。そんなはしたない真似をしたとなればロイドに怒られるのも仕方がないと思うし、軽蔑されるかもしれないと不安になったが、それでもそうせずにはいられなかった。実を言うと、最悪の事態になった場合……その最悪の事態というのは、万が一ハンナとロイドが結婚するような事にでもなる、という事だが、リズは何かしら理由をつけて二人の会話を止めてやろうと意気込んでいたのだ。そんな事にならなかったのは、幸いだったけれど、お陰でロイドが一生独身主義者を貫く決意なのかもしれないと言う事を考えてそれはそれで憂鬱になった。

不意に、ドアの外で風の音ではない物音を聞いた。次いで、馬を繋ぐ音と足音が微かに聞こえる。

―――帰って来た。

リズは弾かれたように体を起こして立ち上がった。難儀をしている髪の毛が広がるのも気にせずに、床を蹴って駆け出すのと扉が開いてロイドが姿を現すのは同時だった。

ロイドは家に入った瞬間、突進してきたリズに軽く驚いた顔をしたが、何とかそれを受け止めた。

「どうしたんだい?」

尋ねても返事はない。その上、ロイドの腰に手を回して顔を伏せてロイドから見えないようにしてしまった。

「一人で待っているのが恐かった?もう十六になるのに」

穏やかな声に少し混じるからかいの色。

「そんなんじゃないわ」

くぐもった声で言いながらリズは、ロイドの外套からロイド以外の匂いのしない事にホッと胸を撫で下ろした。

「じゃあどうしたんだい?」

ロイドは言いながら、優しくリズの腕を引き剥がす。

「外套を脱がせてもらえませんか?お嬢さん」

リズはそこで渋々腕を放した。

「おや、まだ食べていないのかい?」

外套を壁に掛けながら、空のままテーブルの上に用意された皿に目をやり、ロイドは声を上げる。

「うん」

「どうして?お腹が減っただろう」

「だけど、ロイを待っていたの」

リズがそう言うと、ロイドは軽く大きな手でリズの頭をぽんぽん、と叩いた後、キッチンに向かう。

「そうか、じゃあ、温めなおそう」

やがて鍋から再び湯気が立ち上り、部屋の中にはまた、良い匂いが立ち込め始めた。

「ねえ、ロイ」

皿にシチューを盛るロイドを頬杖ついたまま見上げてリズは言う。

「ハンナ先生は、どうしたの?」

ロイドは軽くリズを睨みつけた。

「そうやって、人の事情に立ち入ろうとする物じゃないよ。それから、盗み聞きなんてみっともない真似は絶対にしない事」

「盗み聞きは謝るけど、ハンナ先生の事は人の事情ばっかりじゃないでしょう?もしロイと結婚するのだったら私にだって関わってくるわ」

言い訳がましく言うリズに、鍋を置いて席につきながらロイドは言う。

「ならば君の心配は不要だよ。私はハンナ先生と結婚するつもりはないからね」

その言葉だけで、リズには充分だった。

「なら、いいの」

リズは次の瞬間にはにっこりと微笑んで、スプーンを手に取っていた。ロイドはそんなリズを少し複雑な瞳で一瞬見たものの、次の瞬間にはリズと同じようにスプーンを手に取っていた。

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