10
リズとロイドは言葉少なに城を後にして、ゆっくりと馬を走らせていた。ロイドの体温を背中に感じているとなんだか泣きたくなって、その顔を見られないようにリズは軽く顔を俯けた。
お互いに、口数は少なく、ただ馬の振動に揺られていた。
ふと、周囲が明るくなって行くのを感じる。日が昇り始めたのかと何気なくロイドごしに後ろを振り返ったリズは息を呑んだ。そのリズの様子にロイドも倣ってそれを振り返る。
暁の日が圧倒されるほどの赤さで燃えていた。その光を全身に受けて、聳え立つ城は真っ赤に染まっている。その不気味なほどの赤さは、まるで城全体が燃え上がっているかのような錯覚を覚えるほどだった。
ロイドはいつしか馬を止めてその光景に魅入っていた。
その光景は城の、そしてそこに住む王家の行く末を予兆するような不吉な何かを孕んでいるように見えた。まるで近いうちに本当にこの城がこのような炎に包まれてしまうと予言しているようだった。
「ロイ、行っていいよ」
昇る日にその顔も赤く照らされながら、息をする事も忘れたようにただ呆然と佇むロイドの横で、ぽつりとリズが呟いた。
ロイドが振り向くと、リズは視線を逸らして続ける。
「私のために我慢してるんでしょう?本当は、王女様の側にいてあげたいんでしょう?ロイは責任感が強いから、王家の最期を見届けたいんでしょう?」
きつく目を瞑って、リズは言う。それを言葉にするのは、とても気力がいった。
「私はもう、子供じゃないから一人でも大丈夫。でも、王女様は昔から一人だったの。だからせめて、ロイがそばにいてあげて」
ロイドはじっとリズを見つめた。
同じく日に照らされて、リズの黄金の髪の色は見たこともない程神々しく輝いていた。その白い肌も、伏せられた睫毛も、隅々まで輝いていて、何かこの世の物ではないようだった。それは、内から出てくる美しさだ。以前周囲の者殆どを魅了した女のような禍々しさはどこにもない。そして、その女に対した時のような一種の恐れのようなものも生まれてはこなかった。
そこにあったのはただ……愛おしさだ。
ロイドが黙って見つめていると、リズはようやく目を開いてロイドと視線を合わせる。そうして無理矢理に微笑んだ。
「だけどね、約束して。全てが終わったら絶対にあの家に戻って来て。私はロイがどう思っていたってロイのお嫁さんになるつもりだから、ずっとあそこで一人で待ってるんだから。帰ってきて私を貰ってよ」
「……すまない、リズ」
低くそう言って、ロイドの大きな手がリズの頬に優しく触れる。
「私は君の良い父親になれなかったな。……一人で帰れるかい?」
「ええ。勿論だわ」
額にロイドの唇が触れる。
「ありがとう」
リズはその言葉を、またきつく瞳を閉じて聞いていた。遠ざかるロイドの背中は見ていたくなかった。
背中の方でロイドの足音が去って行くのを感じながら、リズは小さく呟いた。
「王女様、ロイをお返ししました」
両手をきつくにぎりしめ、そうしてリズは馬に鞭をあてた。
母親のドレスの中に隠されて城に入り、戸棚の中に隠されてからはずっと狭い闇の中で息を殺していた。そばを通るたくさんの会話に耳をすませていると、幼心にも分かる恐ろしい情報や会話がたくさん聞こえてきた。だが、それでも堪えて、母の言いつけを守っていた。
王女をひきとりたいと願っているおかしな男の噂はたくさんの人がしていた。みんなが変わり者だと呆れた声で噂をしていたけど、その人は毎日必死で城に通い詰めていたらしい。
戸棚が唐突に開いて男が姿を現した時、真っ先にその噂の主だと思い浮かんだ。黒い髪も灰色の瞳も噂の通りだったし、なによりとても悲しそうな目をしていたから。とても疲れたような、絶望的な瞳をしていて、いまにも壊れてしまうのではないかと思った。
それなのに、その男の人はリズと会話の後、信じられないくらい優しい声でリズを迎え入れてくれたのだ。
―――王女様の代わりに私をひきとろうと思ったのかもしれない。
リズは一瞬そう考えた。とても手に入れたい王女様が手に入らないから、リズで我慢しようとしているのかもしれない。だけど、それでも良かった。それで目の前の人の悲しみが少しでも癒されるのなら。その人が、自分を必要としてくれているのなら。そして、自分がいることでまだ生きようと思ってくれるのなら。
それくらい、その人は悲しい目をしていたのだ。リズの心を刺してしょうがない目をしていたのだ。そして、とっても優しい声をしていたのだ。
だから、リズは手を伸ばした。
王都で起きた民衆の暴動は激しいものだったと新聞は報道した。王家派、反王政派共に沢山の血が流れ、死者の数も多数に上った。大砲なども多く使われ、美しかった王都は数日にして瓦礫の山となったらしい。多数の犠牲の上に勝利したのは反王政派で、彼らがこの国の政権を握る事になるだろうと報じていた。王女の処刑は広場で行われ、多くの観衆の前で首を切られたという記事もあった。
だが、それも遠くはなれた王都でのこと。片田舎の麦畑の真ん中の小さな家に住むリズにはさして影響があるわけではない。新聞を置いて、リズは苦笑して立ち上がった。
今日は天気が良いから洗濯物を干さなくては。
革命と呼ばれたその暴動から既に三ヶ月ほどが経っているが、リズはここで一人で暮らしていた。週に一度の学校のために街に出ると、便利なのだから奨学金を申請してそちらの寮で暮らせば良いなどと薦めてくれる大人たちもいるのだが、断っている。料理はいまだ上手くできないが、洗濯や掃除、それに農作業なども頑張ってこなしている。畑には麦の新しい芽が風に吹かれていた。
驚いた事にロイドは、過去の退職金だろうか、多額の資産を街の銀行に積み立ててあり、それは全てリズの名義になっていた。リズが一人で暮らしていると聞きつけた弁護士は、もしロイドに何かあったときのために自分が後見人となってリズの生活が不自由をしないようにと依頼されていたと語った。
洗濯物を干すために庭に張ったロープに風に吹かれながら布をかけていく。このロープは、ロイドが張ったものだから少し背伸びをしなければ届かない。だけど、リズはとうていそれを張り替える気にはなれなかった。スカートが風を孕み大きくはためく。
風に煽られてうまくとめられない洗濯物にリズが悪戦苦闘している時だった。いつの間にか忍び寄った背の高い影がリズの手からそれを取り上げ、素早くロープにとめたのは。リズは驚いて顔を上げ、その視線の先に待ち望んだ顔を見つけて大きく目を見開いた。
「……私、まだ起きていなかったかしら」
呆然とそう呟くと、相手は軽く苦笑した。
「だったら井戸に行って顔を洗ってきたらどうだい?」
その言葉に、リズはどさりと洗濯物を落とすと、首を振る。
「ううん、確かめるにはもっと良い方法があるからいい」
そう言った次の瞬間には、リズはロイドに思い切り抱きついていた。
「おかえり」
声がかすれて上手くそう言えたのか分からない。ただ、相手はそんなリズを優しく抱きしめてくれた。
「ただいま。遅くなって悪かったね」
「うん、すごく待ったわ。死ぬほど心配したんだから。すごい、後悔したんだから」
涙声で恨み言を並べると、ロイドは苦笑する。
リズはかまわず続けた。
「ロイ、約束、覚えてる?」
そう問いかけると、ロイドははぐらかすようにこんな事を言った。
「君はまだまだ手がかかるからね。王都で死にそうになったんだけど、君の事が気になって死ねなかった。君はおっちょこちょいだし、お寝坊だし、料理は上手いとは言えないし、その上、私が帰らなければ結婚しないと言い張っている」
優しくリズの手をはがしながら、リズの瞳を覗き込んでロイドは続けた。
「王女様が君に礼を言っておいてくれ、と言っていた」
何の、とは聞かなくても分かった。王女様だって、どんなに立派に見えたって、覚悟をしていたって、リズと同じ年頃の女の子なのだ。恐ろしくないはずがない。寂しくない、はずがない。ロイドが引き返してきた時、どんなにか嬉しかっただろう。
―――でも、やはり王女様は立派な人だ。
そのロイドを道連れにする事なく、最後にはちゃんと帰してくれたのだから。
「……そう」
その人が、既にこの世にいないことを思って、リズは目を伏せた。それでも、感謝の念は尽きる事がない。
「ロイ、傷が増えたね」
ロイドの手や顔には以前にはなかった傷や火傷の跡が生々しく残っている。だが、リズの言葉にロイドはどこか清々しい顔で首を振った。
「いや、傷は癒されたよ」
ざあ、と音がしてひときわ大きな風が地を渡った。ロイドは目を細めて眩しそうにその光景を見つめたのだった。