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その国の多くを焦土と化し、たくさんの騎士の命を無惨に奪って行った戦争の本当の原因は、今もあまり判然としていない。
国民の多くは侵略された国を守るためと信じたかもしれない。
貴族達の多くはそれぞれの利害を計算した上で、その戦争を正当化したかもしれない。
そういうものに誤魔化されて、その戦争の本当の理由はその戦いの渦中にいた騎士達にだけしか分かっていなかった。
そうして、その騎士達は、当時その本当の理由に己の戦う理由を見つけ、忠誠という自己陶酔に酔いしれて、自ら命を賭す事を否まなかった。例え、家族や恋人のあるものであろうと。
たった一人の姫君のために、そうして幾ばくの血が流されただろう。
そうしてその戦争はまた、その姫君の死と父親である王の死をもって、国を失うことなく幕を引いた。
その幕引きを行った者を、忠誠心に酔いしれたある者は裏切り者と言い罵った。また、戦争に疲弊したある者は真の英雄だと言って褒め称えた。
そんな周囲の声の全てを受け容れるでも拒絶するでもなく、男は静かに城を去って行った。
そして、王座は亡き王の弟がしばらくの間預かり、時が来たら姫君の遺した一人の娘に継がれる事が、戦後の混乱した中で早急に決められた。
やがて、十数年の時が流れた。
風の渡る音が金の穂を揺らす畑に駆けた。
その音にハッとして、いつの間にか物思いにふけっていたロイドは顔を上げた。途端、目に眩しく入ってくる、遠くまで臨める青空と小麦畑の金色の対比に微かに目を眇めた。秋の日の光に自らが手をかけて育てた実りが輝いているのはとても幸福な事だと思う。それを改めて噛み締めながら、腰掛けていた樽から立ち上がった。こんな風に油を売っていては、夕飯の仕度が遅れてまた文句を言われてしまう。
農具を納屋に戻してから井戸に行って手を洗う。ついでにそこに置いたままにしているカップに水を注ぐと、水面に青空が映った。それを口に当てて喉を潤してから、やはり側の柵にかけたままにしてある手ぬぐいで手を拭いて、家の中に入って行った。
家はこじんまりとしてはいるが、綺麗に片付いていてそこそこ住みやすいと思う。畑からの収穫と、庭で飼っている鶏の卵とを売って、尚且つ内職などをすれば食うには困らないだけの収入を得る事ができる。それどころか、ロイドの場合はパイプを吸ったり酒を楽しんだりするような事もないので、僅かに貯蓄が出来るほどだ。それで年に何度かは少し贅沢な食べ物を買ったり、少し上等の衣類を買ったりする。
そんな生活を始めて十数年になった。始めは何もかもが初めてのことで上手く行かない事もあったが、周囲の助けを借りながら、段々とやり方を工夫してこうして生活を出来るようになって行った。時の経つのは早かったように思う。慣れない事だらけでがむしゃらにやっていたせいか、ものを考える暇もなかった。それが、近頃はこうして余裕が出来てきたために、よくこうして気が付けば物思いにふける事が多くなってきた。もしくは、そろそろ年のせいかもしれないけれど。
ふと我に返って見れば、ここに来た当時は黒々としていた髪にも白い物が混じるようになってきており、若々しかった顔にも刻んできた年月相応に皺が刻まれ始めている。だが、その灰色の瞳の奥には、いまだ過去の苦悩と痛みが燻り続けている事を、ロイドは自覚していた。そして、それが一生自分には逃れられないものだと言う事も。
ロイドは一つ溜息を着くと、壁にかけてあるエプロンを手にとってキッチンに入って行った。
「ただいまー」
明るい声と共に、玄関から勢い良く家の中に飛び込んできた少女は、上着を脱いだり鞄を置いたりする暇を惜しんでキッチンに直行した。
「良い匂い。今日のお夕飯は何?」
本人はまとまらなくて困ると顔をしかめるふわふわとした長い金の巻き毛を揺らして、瑞々しい緑の瞳を輝かせながら狭いキッチンの中に入って来て体を割り込ませるようにして鍋の中を覗き込むので、ロイドは溜息を付いた。
「リズ。もう出来るから、皿とスプーンを用意して待っていなさい」
諭すような声にリズと呼ばれた少女は少し不満そうに瞳を上げてロイドを見た。
「お説教の前にする事があるでしょ?」
「君がマナーを守らない以上、私が君にお帰りのキスをしてあげるいわれもないと思うけどね」
澄ました声でそう言って、ロイドは鍋つかみでその取っ手を持って鍋を持ち上げる。
「ほら、テーブルまで運ぶからどきなさい。それから、上着と鞄を自分の部屋に置いてくる事」
「……はあい」
リズは渋々と言った様子でキッチンを出て、二階に登る階段を歩き出す。二階にある一室がリズの部屋になっているのだ。
部屋に入ってコートを掛け、机の上に鞄を置くと、リズはちらりと鏡台の鏡を見た。そうして、ふわふわと広がる金髪を少し苛立たしそうに両手で押さえつける。そこにいるのは代わり映えのない、見慣れた十六歳の少女の顔だ。少し大きめの緑の瞳が印象的で、自分ではそこそこ可愛い顔立ちなのではないかと思うが、幼いその面影には色気などはまったくと言って良いほど見当たらない。それが、目下の悩みなのだ。
―――どう考えても、ロイには釣り合わないわよね。
同居している男は自分よりも二十と少しも年上だ。しかもここ十数年も一緒に暮らしているのだから、あちらはリズの事を娘か、よくて妹程度にしか思っていないだろう。先ほどの扱いを見ても、とても女の人として扱ってくれているようには思えない。まあ、それはリズの行いのせいもあるのかもしれないのだけど。
「リズ、冷めてしまうから早く下りて来なさい」
階下からそんな声がするのでリズは慌てて返事をして部屋を出る。
階段を下りかけたところで、本当はリズが用意するはずだった皿とスプーンは既に用意され、ロイドがそれに鍋の中身を盛り付けているのが見える。
「ごめん、ロイ」
階段の中ほどでリズが声を掛けると、顔を上げたロイドは少し渋い顔をして空になった鍋をキッチンに戻しながら言う。
「君は少し行動がのんびりしすぎているね。頭は良いのだけど。……そんな事で学校ではやっていけているのかい?」
「勿論よ。今日もハンナ先生に誉められたんだから」
言ってしまってすぐにリズは後悔した。リズの学校の教師であるハンナはとても優しくて綺麗でリズ個人的には大好きなのだが、困った事にロイドに思いを寄せているようなのだ。それは、リズ自身も見ていて分かるし、村でも噂になっている。大体、でなければ村からかなり離れたところにあるこの家にわざわざハンナが時々食べ物などを差し入れてくれたりするのはちょっと説明が付かない。リズは毎日村の学校に通っているのだから、預け物があればリズに届けさせたらいいのに、ハンナはわざわざ自分でこの家までやってくるのだから。
実際、そんなハンナの行動に眉を潜める村の人達も多い。そこまで露骨にするのは慎みがなさすぎるのではないかと。だが、ロイドは殆ど家で過ごし、大概リズに買い物を頼んでしまって自らは出てこないので、自分から出向かなければロイドに会えないことも事実なのだ。
「ハンナ先生か。……この間の塩漬け肉を有難う御座いましたと言っておいてくれたかい?」
ロイドはまるでリズの懸念などおかまいなしに、至って冷静にそう言う。その顔からは、他に何らかの感情は読み取れない。それが安心でもあり、逆に不安でもあり、複雑な顔でリズは返事をした。
「うん。ロイがハンス何とかって詩人の人に傾倒しているなんて話をしちゃったから、今度はその人の詩集を持って行きます、って言ってたわ」
「それは、嬉しいね」
そう言って、ロイドは少しだけ口元を綻ばせた。それで、リズは少し不機嫌になる。
不貞腐れたように黙り込んでしまい、ただ黙々とスプーンを動かし始めたリズにロイドは悟られないようにほんの微かに苦笑した。
リズとロイドは十数年前、戦争が終わったその年に唐突にこの土地に住み着いた。
始め近隣の村の者達は、突然そこに住み着いたよそ者に警戒心をあらわに見ていたが、彼らに害がないと知ると段々と興味を持ち始め、その農耕の手際の悪さややり方を何も知らないのに呆れ驚いて、段々と手を貸すようになった。
ロイドは当時誰が見てもいかにも軍人然としていたから、最終的に周囲は、先の戦争で嫌気が差し、退役して土地を買って隠居した変わり者だろうという推測のまま、口数の少ないロイドの事を認識するようになった。
当時まだ五歳だったリズの存在は、彼らにも不安を抱かせ、親戚の子供にしても戦災孤児をひきとったにしても、まだ二十七の男が一人でこの少女を育てるのは無理ではないかと村人の何人かが自分が引き取ろうかと申し出たが、当のリズがロイドにとても懐いていて頑として譲らなかった事と、ロイド自身、あまりリズを手放すのに積極的ではなかったこともあって、結局村の者達は不安に思いながらもそのままにしておいた。
だが、今では村の者達はその判断はきっと正しかったと思っているだろう。ロイドはリズをこの年になるまで立派に育て上げた。リズは村に行ってもそこいらの子供たちよりもよっぽど礼儀正しい事でも気立てがいい事でも知られているのだ。
学校に通い始めた時も、始めは、余所者と言う事で子供たちに疎外されていたが、今ではすっかり受け容れられて馴染んでいる。
「ロイ、どうしたの?」
食事の後、テーブルに本を出して学校で教わった事の復習をしていたリズは、前に座って今日リズが村から買って帰って来た新聞を読んでいるロイドにそう問いかけた。ロイドが問うようにリズを見ると、リズは自分の眉間を指差して言う。
「ここに皺が寄ってる。……何か不安な記事でもあったの?」
ロイドは少し苦笑して、それから新聞をたたむ。
「なんでもないよ」
「嘘つき」
即座にそう切りかえりしたリズは本を閉じてロイドを見つめる。
「すぐそうやって誤魔化すんだから。新聞、見せて」
「君には知る必要のないことだ」
「世の中のことに関心を持つことは必要な事だわ」
そう言って少し止める風のロイドの手から新聞紙を素早く奪い取ってしまう。ロイドは微かに瞳に暗い物を浮かべて溜息を付いた。
リズが目を通したそれの第一面に載っていたのは王都で起こっている反王政運動についてで、その新聞社が反体制側なのか妙に王族について批判的なことが書かれている。二面にも、三年前から叔父の跡を継いで政治の指揮を取っているいまだ御年十七歳の女王についての批判や貴族の不正疑惑、スキャンダルなどの記事が連ねられていた。
―――成る程。
リズは心の中で大きく溜息を付いた。
ロイドは元はと言えば王家に仕えていた騎士だったらしい。それで、どちらかと言えば王家に愛着を持っている。だから、こうして王家が批判されている事に不安を感じているのだろう。
「女王様ってどんな人かしら?私よりまだ一つ年上なだけなのよね」
リズは同情を込めてそう言いながら、一応のお愛想で三面以降の物価の高騰や税率の引き上げ、失業率の更なる増加などの記事を眺めていた。
「そう考えると、なんだか可哀相ね。その御年でこんなたくさんの物を背負わなきゃならないのだから」
「それでも、王家に生まれてしまった以上、それは彼女の義務だ」
てっきり同意するとばかり思っていた意見に対してロイドが厳しい言葉を発したので、リズは驚いて顔を上げる。ロイドはいつの間にか作った湯気の立つホットミルクをリズの前に置きながら続けた。
「まだ若かろうが、女であろうが、そう言う事には関係なく、彼女には国民全員の命がかかっているんだ。スキャンダルを繰り返したり、上手く国を治められないのならそうして叩かれるのは無理がない」
「そういうもの?」
リズは少し首を傾げてカップに手を伸ばした。口をつけたミルクは熱すぎもせずぬるすぎもせず、丁度良い温度だった。甘い温もりが口に広がり、ほっと胸が温まる。
「そういうものだ。……わかったら、さっさと勉強に戻りなさい」
「うん」
リズはまだ釈然としない顔をしながらも、新聞を置いて再び本を開く。文字に目を落とした時、ロイドが静かに席を立って、皿を洗い始めたかちゃかちゃという音が耳に届いた。暖炉には火が灯っていて暖かい。それが、時々はぜる音がする。静かな中のそうした生活の音に心が安らぐのを感じながら、リズはいつの間にかテーブルに突っ伏して瞳を閉じていた。
まどろみの中にロイドの大きい背中と暖かい体温を感じる。
―――ああ、またやってしまったんだ。
揺れる背中の上で、リズは寝ぼけながら考える。こうしてきっと、朝目覚めたらば自分はベッドの上なのだろう。そうしてキッチンに降りて行ったらロイドに渋い顔でお説教を食らうのだ。もう良い年なのだから、こんな所で眠ってしまってはいけないのだと。
―――でも、いいや。
目の前に暖かい背中があって、安心できるから。もう少しこのままでいたいから。リズはそのまままた、眠りに沈んで行った。
ロイドはベッドにリズを下ろした後、しばらくその寝顔を眺めていた。安らかな寝顔はどこまでも幼くて、つい侮ってしまいそうになるけれど、きっと彼女は自分が思っている以上に大人になりかけているのだろう。いつの間にか、新聞も読めるようになって、自分の嘘も見抜くようになってしまった。
―――別に隠すつもりもなかったのだが。
咄嗟にあんな嘘をついてしまったのは、自分に後ろめたい思いがあるからかもしれない。リズの言うとおり、世の中の事には関心を持っていないといけないのに、それでもあの記事をリズの目から隠したかったのは、戦争の不安が生々しくロイドの胸に迫って来たからだ。過去自分が経験したものの記憶は今でもロイドの胸の中で痛みを振り撒きながら息づいている。
ロイドは不器用な手つきで優しくリズの髪を撫でつけるようにすると、その額に軽く唇を落とす。
「お休み」
微かに呟いて、部屋を後にした。