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「実はその……一つお聞きしたい事がございます」
胸から下を掛け布で隠した姿で、玲彰は半身を起こし夫の顔を覗き込んだ。
「何だ?」
寝台に身体を縦に起こして肩肘を付いた姿勢で、楠王は彼女の姿を賞賛の眼差しで見つめる。汗に湿って寝乱れた髪が褐色に輝く滝となって、しなやかな身体の曲線に流れていた。
美しいのは間違いないのだが、こんな時でさえも、女特有の生生しさがあまりないのは歓迎すべきなのか、悲しむべきなのか。
それは未だにわからない。
「今、西宮で──皓慧様の外出先について、ある噂が広まっています」
「外出先? 何でそんな。今までもあちこち出かけているだろうに」
玲彰は少し躊躇いを見せた後、思い切った様に正面から夫を見つめた。嫌な予感に彼は眉をひそめる。
「それで、どんな噂なんだ」
「国王陛下にはご落胤が外にあり、援助なさっているのではないかという噂です」
「はあ?」
全くの予想外な内容に、思わず間の抜けた声を上げてしまった。一体どこがどうなったら、そんな話になるのだろうか。
「本当ですか」
あくまで真剣な玲彰の顔に、ふと悪戯心が沸き起こる。起き上がり、その白い顎に指をかけて顔を寄せた。
「……もしそうだとしたら、其方どう思う」
夫が妻にする態度としては身勝手な話だが、嫉妬の面では玲彰は普通の女とはかけ離れている。実は今まで、悋気という点では彼ばかりが振り回されて来た。一度でいいから、立場を逆転させてみたい──ちょっとした冒険を試みてみる。
「即刻王宮にお迎えすべきです」
全くの変化なし。即答だった。
「もし母親の身分が低いというのなら、私の養子にしてはいかがでしょう。皓慧様の跡継ぎになりうる御子です、まさかこのままにはしておきますまい」
楠王は憮然としてそっぽを向いた。横たわり、目を閉じて大人気なくふて寝を決め込む。
顔を背けた夫に覆いかぶさる様に顔を覗き込んで玲彰は続けた。
「それで、御子は男女どちらですか」
「……やっぱり、そんな辺りは変わらないな……」
溜息混じりに呟いて、ふと自嘲する。
今まで女の嫉妬には散々手を焼いて来たし、どんなに寵愛した相手でもそういった態度は鬱陶しいの一言に尽きた。これはその報いなのかもしれない。
いっその事、本当に隠し子でもいれば良かったのかもしれないとさえ思ってしまう。
「皓慧様。国事に関わる重大事項ですから、もう少し真剣に聞いていただかないと」
──ああ、ほら。雲行きが怪しくなってきた。
「嘘、だよ」
仕方なく誤解を解く事にする。
「え?」
「落胤なんかいないさ。噂は全くの出任せ。──確かに子供に援助をしてはいたけどな。私の子じゃない」
渋々真相を告げようと目を開けた彼は、妻の顔を見て驚いた。
呆然、というのはこういう表情を言うのだろうが。それがこの顔に浮かぶとは思わなかった。
「そ──それでは、一体──誰の」
「……何で其方が慌てているんだ?」
玲彰は困惑しているらしく、拳を額に当てて考え込んでいる。
「そ、そうですね──てっきり、そうだとばかり思って準備してきたもので。まさか違うとは」
「準備って、もしかすると……心のか?」
「はあ、そんな所です」
楠王は破顔した。
一体、この女はどこまで不器用で融通が利かないのだろう。
──不器用。
「そうか、そうだったのか」
「皓慧様?」
さっきから不機嫌になったり急に機嫌良くなったりと、めまぐるしく表情を変える夫に玲彰は首を傾げた。
どうにも自分の感情の整理も付かず、とりあえず追いやって話を進める。
「それでその、お世話しているという子供は……一体どういうご関係なのですか」
「ん? ああ、子供か」
妻の肩に顎を乗せながら、機嫌良く楠王は答えた。
「皐乃街で亡くなった、葉山の弟だ」
返答までには、一瞬の間があった。
「然様ですか。確かに、身寄りがいても訝しくはありませんが。では、後見されるおつもりなのですね」
「ああ。いずれは王宮に引き取り、どこぞの貴族の養子にでもして侍従官にさせてやりたいと思ってな」
柔らかい呟きが彼女の肩肌を震わせる。
玲彰は自分が困惑している事に気づいていた。
これは「嫉妬」と呼ばれるものなのだろうか?
心が波立ってはいるが不快というほどでもない。ただ混沌とした感情が胸を満たしている。
「聞けばふた親は既に病で亡くしているそうだ。彼の下には更に弟妹が一人ずついて、葉山が仕送り出来なくなった今、親が残した畑を細々と耕したり近所の手伝いをしたりして暮らしを立てているとか……子供の稼ぎでは、とても家族を養えるものではないだろう」
「そうですね。また苦界に身を沈める子供を作ってしまう事にもなりかねません。援助はすべきでしょう。ただ」
「ただ?」
「王宮に引き取らずとも、せめて王都に働き口を世話する方が筋かと私は思います。ここに置けば、いずれは姉の死の理由を知るでしょう。そうなればきっと──」
己の想像力でなく、一般的な知識から出す結論に彼女は目を伏せた。
此処でもまた、霧に包まれた世界は何も映し出さない。
「悲しみが増すのではありませんか」
楠王は顔を上げ、何も言わず妻を鋭い眼差しで一瞥した。
「……知られても良い、と私は思っているのだが」
見られた方は、常にない暗い表情に内心の驚きを押し隠して答える。
「本人の為にならないのでは、と申し上げているのです」
「そうだな……」
彼はまた玲彰の肩に身体を預けた。
「私がただ、楽になりたいだけなのかもしれない。──憎まれた方が、いっそすっきりすると思えるのだ」
世継ぎでもない。夫の愛した女性の血を引くにしても、西宮に引き取るでもない少年だという。
玲彰は胸のざわめきの理由を何とか解明しようとして気づいた──対処法がわからない、それを人は「混乱」と呼ぶのだと。
「憎まれたいのですか?」
問う声には、何の感情も籠っていない。
否、籠められなかった。
愛情を理解出来ない、憎しみも「相手を傷つけたいと願う負の感情」という言葉の意味以外に答えを知らない。
ただ、導き出されるのは誰しも進んで傷つけられたいとは思わないだろうという結論だった。なのに夫は願うという不思議。
妻のそんな心理など気づかない楠王は、問いかけを違う風に解釈したらしかった。
「くよくよといつまでも泣かれる位なら、憎まれた方が増しだ」
玲彰はもう何も言えずに、黙って楠王の背中を宥める様にさすっていた。愛する者の死に涙を流せる──自分にとっては、全く手の届かない感情。
「今日は其方、随分と優しいな」
笑い含みな囁きが聞こえた。楠王はいつの間にか再び妻の身体に腕を回している。
肌を撫でられる感覚に身を委ねながら、彼女はそうだろうかと内心首を傾げるのだった。
※※※※
「では陛下は、その少年を東宮に引き取ろうとなさっていたのですか?」
数日後朧月殿にて起居した折に荷葉にその事を話すと、例によって朝の茶を煎れながらも、彼女は眉をひそめて怪訝そうにしていた。
「ああ。とりあえず本人も『世話をしたい』という申し出には了承したそうだ。私も考えたのだが……聞けば、なかなか利発な少年だそうだ。『伝史賦』を諳んじる子供など、滅多にいないだろう」
「まさか、玲彰様。ご自分が養子になさるなんて仰ったのではありませんよね?」
「言った。実は今日、昼過ぎに屋敷に迎え入れる予定なんだ。今十歳だそうだから、成年の十六になるまでは家族ともども面倒を見ようと、おいおい話をするつもりでいる」
そんなわけで暫くは箕浦の実家で寝泊りするぞ、と言った主に侍女は溜息をついた。
「こちらに寄り付かないのはいつもの事ですから構いませんが。よく侯爵様が許可なさいましたね」
「皓慧様が世話をして風聞になるよりは、と父上もお考えになったらしい。あの子供達は事件の被害者だからな」
「陛下の『配慮』のせいで姉を亡くしたのですものね。確かに不憫ではあります……」
一年前に西宮内を震撼させた宮女毒殺事件は、荷葉達侍女にとっても忘れられないものであった。故に言葉につい棘が含まれてしまう。
国王陛下の身代わりになって毒を呷ったその女性は、当時彼がたまたま寵愛していた者の一人だった。
毒が入っていた器を間違えて口にしたと、公式には発表されている。
事態を憂慮した楠王は、犯人が研医殿にいると踏んでおびき出す為に世間と隔絶された場所──遊女達が棲まう、かの街へ足を運んだ。
少年の姉、葉山はその遊女の一人だった。
王に気に入られたが為に刺客に目を付けられ、挙句口封じの目的で殺されたのである。
「遊興の場を移しただけで、結果としてまた被害者を増やしたのでしょう。全く、陛下が何をお考えになっているのか見当も付きませんが。侯爵様のご懸念は尤もだと思いますわ」
玲彰はしばし考える様子を見せた。次いで彼女に視線を向ける。
「荷葉は陛下が嫌いなのだな」
「棲む世界が違えば、価値観も妾などには理解出来ないだけの事です」
本来ならば主は彼の寵愛を受ける后。貴人でしかも夫である。無礼だとお咎めを受けても訝しくはないのに、荷葉は容赦なかった。
「私も、あの時は何も出来なかったのだが」
「元々はお命を狙われていると知っていてぶらりと出かける陛下に問題があるのです。今回の事もそうでしょう。子供の許へ通えば、いずれはその子も命を脅かされるかもしれませんし。玲彰様は最善を尽くされています」
「命の危険か……そうだな」
主人への贔屓が幾分含まれているとはいえ、荷葉の言葉は民の言葉に近い。詳しい事情を知らぬ者は、楠王を陰で非難しているのを知っている。政治手腕はともかく、女が絡むと厄介な王だと。
「その子供はやはり、侍従官の勉強をおさせになるのですか?」
「とりあえずは部屋を与えて、色々な知識を習得させるつもりだ。本人の希望も聞くが、能力に拠っては研医殿で働かせたいとも考えている」
※※※※
里岑。それが少年の名前だった。
漆黒の瞳を初めて見る世界に見開いて、呆然と声もない。
「此処が今日から、其方達の住まう家だ」
昼一刻頃に少年の家に遣いを出して、王都の中心部に近い侯爵邸まで連れて来る様命じた玲彰は、邸にて初めて彼と対面した。子供ながら立ち居振る舞いは落ち着いていて、凛とした雰囲気を纏っている子供だった。
その里岑自体は、彼女の姿を目にするなり驚きに固まってしまっていたのだが。
「あ、あんた……人間、だよな」
「一応そうだが」
気を悪くするでもなく平然と答えて、玲彰は邸の中へと少年達を案内する。
「綺麗な人だね。物語に出てくるお姫様みたい」
「ばか、本当のお姫様なんだぞ。こうしゃく様の娘さんだってさ」
下の弟は八歳、妹は五歳だという。顔立ちは里岑によく似ていた。二人は兄の両脇からその手を握って寄り添い、彼を挟んで会話しているのが背後から聞こえる。
里岑自体は何も言わない。邸の入り口での驚き以降、仏頂面で黙々と歩いているだけだった。
華美を是としない箕浦の家風ではあったが、歴史の長い旧家の為邸内は重厚且つ格調高い設えとなっている。それなりに部屋数も多い。
客人向けの棟は木造ながらも天井が高く、部屋の扉が廊下の両脇に並んでいた。
「……一体、どこまで続くんだ」
廊下をしばらく歩いた頃、少年が低く呟いた。
「もうじきだ。そこで右に曲がると見えてくる」
答えながら玲彰が廊下の丁字に分かれた場所で右を選ぶと、更に並ぶ扉が視界に飛び込んで来た。内一番手前で足を止める。
鈍く光る把手に手を掛け、扉を開けた。
「うわあ……!」
声を上げたのは妹の方だった。兄の手を離して、室内へと駆け出していく。
「おい! 待てよ」
「ねえねえすごいよ! このお部屋、家よりも広い! 兄ちゃん達も早くおいでよ」
「本当だ。すげえなあ!」
弟も次いで中に飛び込んで行く。室内を走り回る子供達に玲彰は声を掛けた。
「此処は其方達の部屋だ。好きに使うといい」
「わあ、お姫様ありがとう! ほらほら、これ寝台だよね? 布団、すごく柔らかい」
「でも三つもあるぞ。もしかして、一人ひとりにくれるのか?」
玲彰が「そうだ」と答えると、また歓声が上がった。
ふと背後を振り返る。里岑は扉近くから動かずにいたのだ。
「里岑?」
「……やめろよ、お前ら」
弟妹達と違い、彼は全く嬉しそうな顔をしていなかった。それどころか。
唇を噛み締めて、両手を拳に握り締めている。
「え? どうしたの大兄ちゃん、そんな所に突っ立って」
「やめろって、言っているんだよ!」
悲鳴の様な怒鳴り声に、室内が一瞬にして静まり返った。
里岑はずかずかと室内に足を踏み入れる。二人の腕をそれぞれ引っ張って、扉へと踵を返した。
「痛い! 嫌だあ。何すんだよ!」
「兄ちゃん、離して!」
「煩い! いいから帰るんだ」
嫌だ、と泣き喚く子供達を彼は睨み付けた。今にも泣き出しそうな瞳で。次いで玲彰の方をそのまま見る。
「やっぱりこの話は受けられない。俺達は今まで通り暮らして行くから」
「それは困る」
まるで困った様に見えない表情で、玲彰は言った。
「くれぐれもよろしくと、皓慧様から頼まれている。今日も直に此処に様子を見に来られるのだ。──何かもし、気に入らない事でもあるなら言ってくれ。改善しよう」
「俺達は!」
開いたままの戸口に向かったまま、里岑は震える背中越しに声を荒げた。
「……俺達は、施しを受ける為に此処に来たわけじゃない」
知りたかったんだ、と力なく呟いた。
「姉ちゃんが惚れたお人はどんな世界に棲む人だったのか。姉ちゃんが何を思っていたのか、相手を知ればわかるかもしれないと思った。生活の事もあったから、働き口も世話してもらえるんだと期待してた」
「ならば此処で働けば良かろう」
「世界が違い過ぎる。──結局あんた達貴族は、自分勝手に奪うか与えるかしか出来ないんだ。相手がどれだけ惨めになるか、わかりもしないで」
──棲む世界が違えば、価値観も妾などには理解出来ないだけの事です。
里岑と荷葉の言葉が、玲彰の記憶で重なった。
「……そんな理由か」
「何だって!?」
玲彰は彼に歩み寄ると、まっすぐ瞳を覗き込んだ。
ものごころ付いた時から彼女を外界と遮断する白い世界は、少年の輪郭をもぼかしてしまう。
「世界が違って当たり前──惨めでも、その中で生きていこうとは思わないか」
この小さな者は、最早冷えた拒絶を武器にしようと言うのか。
他人が「見える」はずなのに。
里岑は怪訝そうに彼女を見上げたまま絶句している。鬼気迫る様子に圧されているらしかった。
「失礼致します、粛瑛お嬢様」
少年の背後、廊下に侍女が現れた。
「国王陛下がお見えでございます」
彼女が「通せ」と言わない内に、侍女の横から当の本人が苦笑を浮かべながら部屋に入って来た。