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 最初彼は、幻を見ているのだと思った。

 ただでさえ朝からの霧雨で、墓標のある丘一帯は淡く霞んでいる。そんな中に、亡き人を偲んでいるちょうどこの時に、彼女に良く似た人間の姿を見れば彼でなくとも我が目を疑っただろう。

 だが幻には歩く力があるらしく、徐々にこちらに近づいて来る。顔がしっかり見える程間近に来た時、ようやく彼は正体を理解して内心苦笑した。


――何の為に、人を遣って調べさせたのか。


 歳は十を越えたぐらいの、漆黒の髪の少年だった。

 身形は決して良くはなく、庶民特有の何度も水を通して擦り切れた服を着ている。それでも明らかに年長の自分を見上げて来る目はきりりと澄んで、顔立ちも清廉としている。雰囲気全てが、驚く程亡き恋人葉山によく似ていた。

 不意の邂逅かいこうに、彼――楠王くすおうはまだ行動を躊躇ためらって立ち尽くしていた。少年の方は全く驚く様子もなく、事も無げに無言の呪縛を破る。


「あんた、姉ちゃんの知り合いか?」


 楠王はゆっくりと頷く。


「其方は、葉山の弟なのか」


「誰だ、それ。うちの姉ちゃんはそんな名前じゃねえよ。里崚りりょうってんだぞ」


「……里崚……そうだったのか……」


 少年は疑いと非難を込めた眼差しで自称姉の知人を一瞥し、さっさと目の前を横切って墓の前にひざまづいた。手にしていた傘を墓に立て掛け、供え物を先客である花束の脇に並べる。

 無言で両手を合わせると、瞑目めいもくして俯いた。祈り終えた後、再び楠王に向き合う。毅然とした所作に、普段どんな相手でも剛胆である筈の彼が――目に見えてたじろいだ。


「済まなかった――私はその、彼女の名前を……通称でしか知らなかったもので」


 葉山の遺体をここに埋葬する時、彼は同時に家族にも知らせて簡素ながら葬儀を行った。事件の解明に追われており、身分も手伝って公にその時自らが出向く事は叶わなかった。使いの者にも口止めしているから、恐らくは遺族は姉の死の理由を知らない。それでも。

 もし出会ったら、必ず――謝ろうと思っていた。

たとえ真相を話せなくとも。

 今日会ったばかりの子供に頭を下げる男を、少年は怪訝そうに見ている。


「……ま、お客ならしょうがないよね。色街っていうのは、そういう所なんだろ?」


 侮蔑というよりは、ただ単純なる問いかけに聞こえた。淡々としている。


「聞いて――?」


「姉ちゃんから、食べ物とか折々に送ってもらってた時にさ。手紙が必ず付いていて。書いてあったよ、お客の中に好きになった人がいるって。あんただろ?」


 楠王はすぐには答える事が出来なかった。


「身分の高いお人だから、余程のことをしない限り、叶わないだろうとも書いてあったけど。……でも、嬉しそうだったよ」


 再び視線を墓に戻して、少年は立ち上がった。


「姉ちゃん、近々身請けされてその人の所に行くって言ってた。自分はずるい……とか、よくわからない事書いてあったけど。何かやったのかな。あんたは意味わかる?」


「……いや」


 本当にわからなかった。狡猾だったのは自分の方ではないか。


「身請けしようとしたのは……確かに私だが」


 答えるのには勇気が要った。つよい眼差しに責められるのが恐かったのではない。何気ない言葉の後ろに、少年の姉に対する愛情と悲嘆が見え隠れするからだ。


「姉ちゃんが亡くなってから、食べ物や着る物なんかを送ってくれたのはあんたか」


「――ああ」


「時間あるか? もしあるのなら、家に来なよ。貴族様が、お忍びにしてもそんなずぶ濡れで帰ったらお供の人に心配されるだろ。風邪も引くだろうしな」


 言うが早いが、きびすを返して歩き出す。考えあぐねて動けないでいる楠王に、首だけ振り返って問いかけた。


「どうすんだ、来るのか、来ないのか」


「あ、ああ。――行くよ」


 彼は離れた場所に静かに止まっている馬車に向かって目配せをした。

 心配も何も、「自分がどうあっても声を掛けるまで放っておけ」と命じてある供の者達は、さぞかし馬車の中でやきもきしているに違いない。宥め役の鷹信も連れてきていない事だし。

 だが今は、もう少しだけ――亡き人の面影を偲んでいたかった。

 少年の姿は、早くもぼんやりと遠ざかりつつある。慌てて楠王は後を追った。


※※※※


 丘を下って元来た方角とは別の道に入りしばらく歩くと、やがて田畑に囲まれた小さな集落に辿り着いた。

 近くを流れる川から水路を引いてあるなど、小規模ながら整備されたむら。収穫を迎えてたわわに実る農作物と、取り囲む豊かな自然の緑。霧雨に閉じ込められ、ひっそりと静まり返っている。


「ここが俺達の家だ。むさ苦しい場所だけど、雨除け位にはなる」


 集落の外れにある小さな茅葺かやぶきの家の前に立ち、少年は引き戸を開けた。

 かびと土埃の匂いに混じって、何とも生臭い蒸気が漂っている。正面の突き当たりにある雨戸が開けてあるにも関わらず、建物の中は暗かった。


「大兄ちゃん! おかえりっ」


 ぱたぱたと忙しない足音が聞こえて、薄暗闇の奥から背の低い影がこちらに向かって来る。鈴の音にも似た声は少女のものに思えた。


「ただいま」


「小兄ちゃんがお隣の小母さんからくろきびを貰ってきたって。今、火を起こしてるよ」


 少年は家の右側に顔を巡らせて「焦がさない様に気をつけろよ」と声を掛けた。

 暗闇に目が慣れて初めて、楠王は家の中にかまどがある事に気づいた。生臭い匂いはどうやら、もう一人の少年が秬を蒸しているかららしい。そこから一際強い臭気が上がっている。

 土を固めて床にした細長い空間は土間にしても狭く、すぐ隣に畳敷きの居間がある。ぐるりと見渡しただけで様子が全て観察出来てしまう、二間程度の家だった。隣の間は板戸で仕切られていたが、少しだけ開いた隙間から年季の入った簡素な寝台が見えた。


「突っ立っていないで、上がったら」


 初めて間近に見る農民の暮らしに呆然としていた楠王は、少年の冷ややかな声音にふと我に返る。

 慌ててくつを脱いで居間に足を載せた。


「失礼致します」


 彼の背後から戸を開けて、水色の官服の青年が両手に大きな木箱を抱えて入って来た。


「こちらに置いてよろしいでしょうか」


 ああ、と楠王は頷く。青年の後からもう一人同じ格好をした男が現れ、同様に木箱を置いて行く。二つの木箱は土間を塞ぐ程の大きさがあった。


「ご苦労だった。車で待っていてくれ」


 二人は彼に向かって一礼し、静かに出て行く。


「何だよ、それ」


 首を室内に戻すと、不愉快そうな少年の視線にぶつかった。


「お前の姉さんへの供物だと思ってくれ。雨では墓に置くわけにも行くまい。勿体無い事をすれば、姉さんも悲しむだろうからな」


 少年は答えなかった。ただ与えると言えば激昂するであろう事は、如何な楠王でも予想がつく。


──ただでさえ、あの矜持高い葉山の弟なのだ。


 彼は構わず部屋の中を歩いて、寝台が覗く隣へと向かった。


「おい、ちょっと待てよ。そっちは」


「……やはり血は争えないな。私が送った本はどうだった?」


 部屋に近づくにつれ、寝台の脇に積み上げられた本が目に入った。そう近づかずとも、擦り切れた背表紙や表紙が読み込まれたものである事がわかる。

 少年は先に部屋に入って、ほどなく手拭を何枚も持って出て来た。

 楠王に内の一枚を差し出す。


「あれは姉ちゃんが置いていったものだ。近くの町からたまに本売りの行商がやってくる。……あんたからもらったやつも、面白そうだったから寝る前に少しずつ読んだよ」


「……本を、見せてもらってもいいか」


「別に構わないけど。散らかさないでくれよ」


 楠王は頭と身体を一通り拭いた後、手拭を首に掛けたまま部屋の板戸を引き開けた。

 居間の半分の大きさだろうか。隅に寝台が縦に置かれ、布団が敷かれている。ちょうど足元に当たる場所にあった本の一番上のものを、手に取った。


「これは……『伝史賦でんしふ』ではないか。里崚ならともかく、本当に其方が?」


 伝史賦は二百年程前に書かれたと言われる、史学者の研究書だ。教養高きを求められる太夫に上り詰めた葉山ならば、読んでいても訝しくはない。

 だが、研医殿でも専門家しか読まない様な難書である。こんな子供が読めるとはとても思えなかった。


「──荼王とおうの御世は旱潦かんろう甚だ多し、疫痢にて民ことごとく病む──」


 朗々と読み上げる高い声。

 楠王が振り返ると少年は薄く笑った。


「王、是を憂いてあまねく臣を調遣ちょうけんすれども、勢い留まるを知らず……だろ」


「其方……」


「史賦は結構好きだ。昔の文化や出来事が面白いよ」


 驚嘆に目をみはる彼には目を遣らず、少年は竈の火を見守る弟に向かって「莫迦、火はもう少し小さくしろって!」と叫んだ。


※※※※


 その日朧月殿に遅まきながらようやく灯火が上がった夜更け、楠王は二週間振りの妻との逢瀬に間に合う事が出来た。外出より戻った時に報せを受け、王宮で滞っていた政務を片付けたその足で、すぐさま殿に向かう。

 出迎えた彼女は僅かに驚いた様子を見せた。

 

「どうなさったのですか。随分と……お疲れになっていらっしゃるご様子」


 彼はそれには答えず、部屋に入るとすぐさま妻を抱き締めた。


「皓慧様?」


「……しばらく、このままでいさせてくれ」


 自身の首筋に凭れ掛かる夫の頭。その先にある表情は見えない。だがこれも観察出来るようになった賜物か、玲彰は何とはなしに彼の背中に腕を回して慰める様にゆっくりと軽く叩いた。

 妻の仕草に、思わず彼の口から言葉がこぼれる。


「会いたかった」


 耳元に低く響く声。玲彰は目を見開いた。

 この――身体を通り抜ける、気が遠くなりそうな震えは何なのだろう。

 理性をかき集めて出された声は、思ったよりも穏やかだった。


「ここの所、働き詰めと伺いましたが。良く休めていないのではありませんか」


 楠王は苦笑する。


「全く、仕事なんてつくづく真剣にやるものではないと思ったよ。隅々まで片付けたと安心すれば、また山の様にやって来ると来た。近頃では私の執務机は書類で常に埋もれている。おかげで毎夜、熟睡して朝まで気づかない」


「来月の、予算についての諮問会しもんかいに向けて各府も動き始めているのですね」


 彼は妻から身を剥がすと、部屋の奥にある寝台に腰掛けてぼやいた。


「おまけに今年から法改正を行う事もあるしな。加えて研医殿の人員編成案だ。箕浦候も笑ってばかりいないでもう少し手を貸して欲しいものだ。鷹信もだが」


「父にそう、伝えておきます」


 生真面目に玲彰がそう答えると、また苦笑を浮かべる。


「……まあそれはいいとして」


 不意に表情を改めて、右手を妻に向かって伸ばした。


「こっちへ来てくれ」


 それは以前、まだ楠王が彼女のもとへ通い通しだった頃と同じ様な誘い文句。

 違うのは、命令形でなくなった事だった。

 些細な駆け引きに気づく玲彰ではなかったが、素直に近寄るとそのまま腕を取られ寝台に引きずり込まれた。

 最初の内、優しかった口付けはすぐさま深く激しくなっていく。


「貴方は……疲れを癒さなければ……」


 合間にようやく彼女は呟く。それすらもまた塞がれ黙らされた。


「だから今、そうしているじゃないか」


 唇を離して笑い、楠王は妻の首筋に顔を埋めた。耳たぶから頬、鼻筋に戻って、そこから下へと。片手で服を脱がしながら、滑らかな肌を愛おしむ様に口付け、指で愛撫する。

 身体はそれほど無感動ではないと、荒くなってゆく吐息に反応を確かめる。


「──皓慧様」


 もはや言葉は必要ないのかもしれない。けれどどうしても言いたくなって、虚ろな瞳のまま彼女は搾り出す様に囁いた。


「私も……多分お会いしたかったのだと、思います」


 楠王の動きが一瞬止まった。

 直後、更に激しく貪欲なそれに変わる。

 甘い言葉など、当たり前に他の女からは聞いていた。

 それでも自分に関心を示さなかった妻からは、決して与えられる事はないと諦めていたのだ。

 渇望を自覚して、己がどれだけこの言葉を欲していたのか気づく。

 火の点いた衝動に疲れももの思いも全て忘れて、我を失いその白い肌を求めた。最後にはお互いの熱だけが残る、今はそれだけでいいと思いながら──



脚注:旱潦→日照りと水害の事を言います。

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