起
本編を読まなくても、恐らく大丈夫に作ってあると思いますが、気になる場合は「柳里の華」をご覧頂けるとよりわかりやすいです。
雨は、降り続く。
霧の様に細かい滴が触れる全てのものを潤し、細い川を成して流れてゆく。
季節の変わり目に必ずある、大地に豊穣を約束する恵み。湿った空気は、秋を迎えつつある全ての景色を白く霞ませていた。
男が一人、その木々の間に佇んでいる。
どうやら彼が立っているのは小高い丘らしかった。隆起を成したその場所から、雨曇りの今日でさえ辺り一面は難なく見渡す事が出来る。
眼前には広々とした田畑が遠く広がっていて、晴れていれば未だ青い稲穂が鮮やかに臨めただろう。
しかし男は景観など気に留める様子もなく、この場所に来た時から自身の足元を見つめたままだった。
其処には一見見にはわかりにくい程の小さな縦長の石が置かれていた。周囲には色とりどりの美しい花々が、石に寄り添うかの様に敷き詰められている。
雨滴が次々と彼の頬を伝い、顎から首へと滴り落ちた。
もう何刻の間そうしていたものか。身を覆う雨具を持たない身体も髪も既に濡れきって、それでも彼は場を立ち去ろうとしない。茫と霞んだこの憂愁の世界で、そうする事が己の今出来る唯一の償いであるかの様に。
――あれからもう、一年か。
彼の中では何一つとして色褪せた記憶は無かった。あまりにも鮮烈な記憶は思い出には向かず、またそうしてはならない充分な理由があった。今でも脳裏に簡単に蘇る。だから敢えて、この一年の間彼は悔恨と哀惜の念に責め苛まれて来た。
石は墓石。
遡る事一年前、彼は愛していた女性を喪った。原因は彼のせいではないと誰しもが言う。あれは防ぎようがないものだったと。だが、それが慰めににならないのは自身が一番よくわかっていた。
救う事が出来た。出来たはず、だったから。
「……おまえの本当の名前は何と言ったのだろうな、葉山」
彼は足元の石の下、土の奥深くに眠るかつての恋人の名前を――当時そう呼ばれていた名前を――呼んだ。それしか彼は、彼女の事を知らなかった。
「ようやくここに帰って来れたな」
生まれがこの付近だったという事も、彼女が亡くなってから初めて知った。しかも本人から直接ではなく、彼女が勤めていた店の女将から聞いたのだった。思えば自分についてほとんど語ろうとはしない女だった。あの世界にいた者は誰もがそうである事を彼はわかっていたから、聞こうともしなかった。
――ここなら静かに眠れるだろう。
自分の手に掲げて来た花束を、地に咲く花達を慮って少し離れた場所に置く。しゃがんで手を伸ばした。かつてかの人にそうした様に、優しく石肌を撫でる。いかにも高価そうな衣服が泥に汚れるのも構わず、その場に膝をついて、目線を下げて。
雨に濡れた墓石は冷たい。もの言わぬ冷たさが、彼と彼女を、過去と現在を隔てる壁を思わせた。
※※※※
「皓慧様は今、王宮におられるのか」
時は間もなく夕四刻に差しかかろうかという頃、午前中降り続いた雨も雲と共に去り、西宮の一角朧月殿には陽の傾きが長い影を落としている。己が仕える主の問いに、侍女荷葉は何に対してか腹立たしげに即答した。
「郊外へお出かけだそうでございます。ここの所外においであそばしてばかりとの事で、夜にはお戻りになる様ですが」
主――王后玲彰は侍女の様子を不思議そうに見やって、お茶の代わりを促した。
「そうか。私もあまり長居できないから、もし明日までに戻らなかったら、来ていたと伝えてくれ」
「今晩お泊まりになられるのでしょう?」
「一応な」
花のごとき薄く凝った意匠の茶器に、静かに茶を満たすと荷葉はわざとらしく溜息をついた。
「陛下もよくよく時機を逃されるお方です事。せっかく玲彰様が久方振りにお帰りになりましたのに」
「あちらもお忙しい御身なのだから、いた仕方なかろう」
さらりと返って来た答えに、彼女は更に嘆かわしげに首を横に振った。
「貴方様がその様におっとりと構えていらっしゃるから、陛下がしたい放題なのではありませんか? もう少し、正夫人としての気概を持って頂きませんと」
乳姉妹の嘆息ぶりにも、玲彰はゆっくりと瞬きをしただけで動じなかった。
「もしかして、荷葉は怒っているのか?」
「怒ってなどおりません。ただ、悔しいのでございます」
「悔しい?」
荷葉はきっと主人に向き直った。
「本来ならば王后と言うものは、女ばかりの西宮を統率管理する権限を与えられているもの。側妾でさえも、貴女様がその気におなりあそばしさえすれば、手のひらで転がす事が出来ますのに」
「だが、その気にならないのだからどうしようもないな」
茶器を両手に包み込む様に持ちながら、如何にも興味なさそうに彼女は呟いた。
「西宮は皓慧様が管理なさっている。今のところ第二の地位――后妃が出てはおらぬが、いずれ御子を成せば誰かがそうなろう。管理はその者にさせれば済む事だ」
「では玲彰様は、他の誰が陛下の御子をお産みになられても全くお気になさらないと?」
「私が産めなければ、そうするしかあるまい」
己が石女なのか、それとも夫に問題があるのか――検査してみなければはっきりと断定する事は出来ない。しかし確率から言って夫に分が悪いとしても、こともあろうに一国の主。世継ぎが「出来ない」では済まされないのである。
彼女も貴族の娘であるからには、それがわからぬほど愚かではないつもりだった。
「――そうですか」
荷葉の顔にはどこか挑戦的な表情が浮かんでいた。
「ならば、お耳に入れてもよろしゅうございますね」
何が、と問い返す声はない。ただ向けられた視線を肯定と受け取り――いつもの事だったので――彼女は構わず続けた。
「ここの所の陛下は、度重なるご外出の上に、ある場所にいくばくかの品物をお運びあそばしています。口さがない者達は申しております――今度の相手は、子供を連れているらしいと」
「子供?」
「いつもなら、お気に入りの女人には着物や宝飾品などをお贈りになるのに、今回は子供用の衣服や本が多いのだそうで」
「なるほど、それならば合点がいくな」
「だから、でございますよ。いくら女人の気を引きたいとしても、子供の為の物資が多すぎる。まるで、子供を囲っているかと思える程です」
玲彰は少しばかり考える素振りを見せてから問い返した。
「本当にそうだとしたら?」
「玲彰様! 何をおっしゃいます!」
「いや、囲うではなくて。ただ単に、故あって子供に援助しているとしたら? その可能性だって捨てられまい」
荷葉は一瞬言葉を失った後、まじまじと主を見つめ、次いで深々とため息をつくという連続技をやってのけた。
「何かおかしな事でも言っただろうか」
玲彰の不思議そうな顔に馬鹿にされたという認識は見られない。
「……お言葉ながら、玲彰様は疑うと言う事をしなさ過ぎます」
他人を疑うとは、畢竟その人の情報から主観を以て可能性を推測する事だ。研究するのと大差ないのでは――と荷葉などは思うのだが、主人の認識は少し違うらしかった。
「ではその故とは何故ですか、という話になるのですよ。援助する必要のある子供とはどんな縁の者か。下世話な話ではありますが、陛下は過去に市井で好き放題に花を散らした御方。清らかな理由を考える方が難しいというものです」
「……驚いたな」
「そうでしょうとも」
「お前は随分と多弁だったのだな。こんなに長く話すのを見た事がない」
荷葉は脱力の余り言葉を失った。
「荷葉?」
「……後生ですから玲彰様。もう少し危機感を持って下さいませ」
袖で顔を覆って彼女は涙声を出し始めた。実は嘘泣きなのだが、鈍い主人にはこれ位しないと通じないのである。
「危機感などないが……だが、そうだな」
玲彰は少し考える素振りを見せた。
「もし、皓慧様に隠し子がいるというのなら……それは確かに捨ておけまい。世継になる可能性があるのだからな」
荷葉は勢い良く顔を上げた。
「おわかり頂けましたかっ」
ああ、と主人は白い面を縦に振る。
「私は全く研究馬鹿だから、そう言った配慮には疎い。礼を言うよ、荷葉。其方の話、考えておこう」
そう言うと彼女は茶器を静かに茶卓に置いて、立ち上がった。
「文人の間で本を読んで来る。夕飼が出来たらそちらに運んでくれ」
「はい……かしこまりました」
「ああ、それと」
扉より出ていきざま、首だけを僅かに後ろに巡らせる。
「今の話は私が直接皓慧様に真偽の程を確かめる。だからそれまで、箝口令を敷いてくれ。せめて、不確実な内にこれ以上広まるのは避けたい」
「……かしこまりました」
侍女の返事に一つ頷いて、玲彰はしなやかな動作で扉より出ていった。
――あれでも以前より、大分わかりやすくなったと思うのだけど……。
明からさまに取り乱したり、悋気を見せて欲しいわけではないが、せめてもう少し感情を表に出せないものかと荷葉は思う。
感情を押し殺しているのに慣れたのか、本当に何も感じないのか。恐らくは後者に近いと長年の経験から読めてしまうから性質が悪い。
――陛下が玲彰様のああいう所を受け入れて下さると、もう少し問題は少なかったかもしれない。
だが果たして、世の中にそんな自虐的な男がいるものだろうか?
玲彰は夫に関心が無いのではない。「見ようとしても見えない」のだ。それがどれ程残酷な事か、嫁していない荷葉でも容易に想像がつく。
関心がないのなら、楠王も諦めがつこう。そうではないから、玲彰は己のわかる範囲で――非常に間違った範囲で――努力するのだ。
――でもまあ、最近のお二人のご様子からして、いつのまにやらよりを戻されたのは間違いない。つくづく男女の仲とはわからぬものだこと。
王は結局、持てる者特有の身勝手さゆえに、主と四年前上手くいかなかったのだと思う。何となれば、荷葉は二人のやりとりを間近に見ているのだから。時を経て少しは大人になったとでも言うのだろうか。
「荷葉様。ちょっとよろしいでしょうか」
廊下に控えた侍女の声で我に返る。
いずれにしても当人にしかわからない事、周囲は見守るしかないのだ。侍女頭でもある荷葉に物思いに耽る時間はそうはない。彼女は埒もない推測を振り払って、己のすべき仕事をこなす為に立ち上がり部屋を後にした。
※※※※
――いつからだろう、こんな風になったのは。
文人の間は書物や資料ばかりの読書室である。朧月殿にあってはほとんどをこの部屋で過ごす彼女は、いつもなら凪いだ海のごとき静かであるはずの心が、揺れている事に気づいて少なからず動揺していた。
原因はわかっている。自分は確かに夫の隠し子説に衝撃を受けているのだ。その理由もわからぬままに。
――皓慧様が「見える」様になってしまったからか。
不確かな白い世界に、ただ一人鮮やかに佇む他者。それは異物だったけれども、未知の領域として彼女の好奇心を誘う。なので最近は会う度にいろんな発見をするのだ――こんな時には、この人はこんな態度を取るのだ、などと。
発見は楽しいものばかりではなかった。特に今の様に、己の中に馴染みのない奇妙な感覚を呼び起こされる時には。
――皓慧様に隠し子がいてもおかしくはない。今まで見つからなかった方が不自然だったのかもしれぬ。
夫には、結婚前から沢山の側室がいた。それだけではない、一夜限りのものや短期間の付き合いの女性を含めれば、その数はとても数えられるものではなかっただろう。彼女は相手の女達に嫉妬した事は皆無だった。する必要はなかった。夫というものがどういうものかわからなかったからだ。ただ王の妻は世継ぎを作らなければならないとは、知識としてわかっていた。
相手を独占したいと願うゆえの嫉妬は、相手を欲さない事には始まらない。見えない相手を欲する様な、玲彰は漠然とした思考を持ち合わせてはいなかった。
――何だろう……この感覚は。
いたたまれない様な、それでいて焦りにも似たもの。胸の辺りに重くのしかかる。
――皓慧様のお子を、私はどう思うのだろうか。
愛するなんて高等な業が、自分に無理なのはさすがにわかっている。それは今までの人生で実証済みだ。
たとえ、己の血を分けた子でも。
愛されない子供が不幸だという話はよく聞く。では世継ぎである子供はどうなるのだろうか。自分以外の場合はきっと、生母が愛情を注いでいるだろうが、もし――
これもまたかつてない事だったが、答えの出ない問いに彼女は途方に暮れた。埒もない思考を追い払って、机の上に積み上げられた書物を手に取ろうとする。ふと下敷きになっていた書類に目を留めた。
「……夜まで、『これ』でも考えるか」
坂ノ内の几帳面な字が隙間なく並んだ、研医殿の人員体制についての報告書。尾上の事件があって以来、各局内は慢性の人手不足状態となっているのだ。
本を読んだ方が、気が紛れる様な気もするが――
少し迷った後、玲彰は報告書に目を通す事に決めた。どうせ逃げるのなら、少しでも実際的な方を選ぼうと。
己が逃避していると理解できる事に、そうしてまた戸惑いながら。