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99 陳和卿の事

 六月八日 晴 陳和卿ちんわけいと言う宋人が鎌倉にやって来た。和卿は平家によって焼失された東大寺を新造する重源ちょうげん(1121年生。法然に学び、四国、熊野各地で修業の後、宋を三度訪れた。焼失に際して後白河法皇に再建を進言した事もあって、東大寺勧進職に任命された)に従い、大仏の鋳造と大仏殿の再建に携わった人である。勧進職とは早い話が総合プロデューサーのような仕事と言って良いだろう。事業推進取締役、今日の言葉に移し替えればそんな感じである。

 東大寺再建には、新興の鎌倉幕府の援助はもとより、あらゆる御家人、庶民、歌人の西行までが助力した。西行は砂金の提供を願うため、奥州藤原氏を訪ねる。その旅の途上、鎌倉に立ち寄り、源頼朝と一晩、面談する機会ができたわけなのである。ちなみに栄西は、重源のあとの勧進職だ。東大寺建立の時頼朝は和卿を宿所に招いたが和卿は参上しなかった。

「この方は多くの人命を奪われたので罪が重い。私が面識を得ることは差し障りのあることです」と言ったという。和卿は僧であったから、そのような失礼は見過ごされたが、もし御家人であったなら、頼朝は許さなかったのではないかという行為であった。一説には頼朝は和卿の振る舞いに感動して、甲冑、鞍、馬、金銀などを贈ったともいう。また、東大寺再建の功績で五カ所の荘園を賜ったとも言う。和卿の実像は本当はどうであったのかは判然としない。


 その陳和卿が広元を訪ねて来た。広元は古くから頼朝の文官であったから、、和卿と言う僧が訪ねて来たと告げられると「ああ、東大寺を建造したあの陳和卿ちんわけいだな」と思いあたった。面会すると和卿は、「頼朝将軍は多くの人の命を奪い、罪深い方でありましたが、現将軍は、数々の争乱はあるとは言え、自ら意図してそのようになさっていない仏の心にかなっている方でございます。そうであるのは実朝様は尊い方の再来だからです。それで将軍にお目にかかりたいとやってまいりました。」と、言った。

 

 六月十五日 晴  実朝は陳和卿を御所に招いて対面する。和卿は三度深々と床に頭をつけて礼をしたあと、号涙した。実朝はその有様の異常さにたじたじとした。しばらく後、やっと泣きやんで、和卿はこう言う。「あなた様は、昔、宋朝医王山の長老でらおられました。その時に私は門弟として列していました」実朝は、その言葉の意外さに驚いた。かって見た夢にそっくりだからだ。「自分が僧である夢を見たことがあるように思います」と、呟くように言った。 実朝はふくよかな顔にかすかに笑みを浮かべて和卿を見つめた。和卿は思う。なんと深い目をなさっているのだろう。清らかな泉のような目だ。それに上品な物腰といったら・・・。この方は歌の道の達人でいらっしゃると言う。何か普通の人と違うようなところがある。和卿は言う。「そのお言葉を有り難く思います。私は工人でありますが、宋では造船の仕事もしておりました。船の材を用意して頂ければ渡海の船を造る事ができます。作り上げた船で、前生の古里にお連れしたく、やってまいりました」

 実朝は、このごろすっかり血なまぐさい鎌倉にも義時にもほとほと嫌気がさしていたから、この話を興味深く思った。栄西殿が言うように鎌倉を救うものは、仏の道かも知れない。師は言っていた本当の仏教が伝わっていないと。宋に行って真実の仏法を学ぼうかと、とんでもない考えが浮かぶ。


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