98 枕辺に立つ、和田の人々
十一月二十五日 昨夜、実朝は和田義盛以下の和田一族が甲冑姿で枕許に群参する夢を見た。その姿は戦いに疲れた落ち武者のようだった。女、子供、赤子も混ざっている。夢のただならぬ様にうなされ、深夜目覚めたという。実朝の驚きは格別のものであった。朝になって僧の退耕行勇(栄西の弟子、寿福寺二代目当主、五十三才)にその旨を伝えさせ、仏事をするようお願いさせた。
建保四年(1216年) 実朝二十五才
一月十五日 昨日まで、江の島は海中のただ中にあったが、昨日の強い地震の後、江の島と片瀬の浜との間の海砂が隆起して道のようになった。それで、江の島の神社に参拝する人々に船の煩いがなくなった。その奇跡をみようと、各地から人々が押し寄せた。
幕府は三浦義村を出させて調べさせる。帰ってきた義村は「海のただ中の島と本土が廊下のように一本で繋がっておりました。これはなにかの予兆かも知れませんので供養すべきです」と報告した。
三月二十四日 京都の飛脚が到来する。十四日の夜、実朝室の父、坊門信清が京都の西の郊外、嵯峨で亡くなった事が伝えられた。享年五十七才である。実朝室はそれを聞いて悲しんだ。実朝はそれを聞いて室をお茶に誘い、庭にまだ散り残る桜を見て「人もいつかは、あの桜の花びらのように散るのが定めですよ。亡くなられたのは残念ですが、戦に倒れるのでなく、花が散る美しい季節に洛西で平穏に亡くなられたのは、幸せな事だったと、私は思いますよ。西行法師は、死ぬならば桜の咲き誇る季節に死にたいという歌を残していますね、その時節に亡くなられたというのはお父様には何よりの事だったではありませんか」と、室をなぐさめた。室は実朝の優しい気持ちに、沢山の涙を流した。
三月二十五日 実朝室は喪に服するために牛車で二階堂行光の山荘に入った。鎌倉に於ける葬儀も、そこで行われた。
五月十三日 これまで政所別当は北条時房、源親広(広元長男)、北条義時、清原清定(京より下った有能な文筆官僚)の四人であったが、次の九人となった。清原清定、広元、仲章、義時、賴重、大内惟信(京方の武士)、親広、時房、中原師俊、行光である。この改変の後ろには義時の力を減じたいという実朝の意志が見える。