96 桜の咲く頃
二月四日 実朝は酒の飲み過ぎで体調が優れない。二所詣でから帰った昨日、夜宴席があった。その時
したたか酒を飲んでしまった。今日、栄西和尚が加持祈祷にきたが茫然としている実朝を見て、自分の寺である寿福寺から抹茶と自著でお茶の功徳を説いた「喫茶養生記」を持ってこさせた。
「御所様には、大分飲み過ごされたご様子でございますね。飲み過ぎで体調が優れない時にはお茶が一番でございますよ。お茶は中国の皇帝様なども、日常、用いている大変身体によい飲み物でございます。それと、この書は、拙僧が書いたお茶の効用を説いた本でございます。お読みになっていただければ嬉しうございます」と言って、法事の後、実朝に手渡された。「ああ、お茶ね、以前も栄西殿に勧められた事があったね・・・あれから、お茶の事は忘れていました、早速飲んでみますよ。ところで栄西殿、和田の乱はずっしりと私の心の重しとなっているのですよ。鎌倉では以前の争乱を忘れた頃に、新たな争乱が起きるようです。いつまでも鎌倉に平穏が訪れて来ることがありません。私がこのように体調を崩しているのは、酒ばかりによるばかりではなく、そのような暗い気持ちがあるからなのだと私は思うのです」
「・・・愚僧が考えますに、武士のこの時代は、中国の律令制度と違う時代の夜明けだと思います。たしかに多くの歪みがあるでしょうが、新しい世を、鎌倉は作っていかねばならないのでしょうな。この手本は、世界のどこにもございません。吾を律する、これは私が座禅で行っていることですが、これがなんらかのこれからの世の救済の基となるように思うのです」
二月十日 晴 実朝室の兄、坊門忠信(実朝より五才上、二十八才)が京都から使者を寄こして蹴鞠の書の他に和歌集などももたらした。室にも、身につける雅な装身具が贈られてきて、室はわざわざ実朝にそれを、嬉しそうに示した。
「漆細工の螺鈿の櫛と文箱ですか、大変美しいですね、良く似合いますよ」実朝は、品物を見せる室にそう言いながらにっこり微笑んだ。庭には、桜が花をつけ始めている。あたたかな風がその花を揺らしている。桜の木の横には天まで高まって行くように塔状に山茶花の赤い花が幾百も花をつけている。
「今度の争乱には本当に驚きました。平家の悲劇は伝え聞いていましたが、それが目の前でおこるのですもの」「そうなのだ、これが鎌倉なのですよ。平穏な京都に育ったあなたには恐ろしい事だったでしょうね。血なまぐさい戦いは武士の常なのですよ」